三章 王都攻防 (1)
王都ティリスの住民は、既に街区から家財もろとも王宮の中に避難していた。もちろん全員が入りきれるものではないため、早々に他の街へと逃げて行った者も多い。
王宮の中庭や兵舎、教練場などあらゆる場所が人で埋まっている。
日頃から正規軍人による厳しい教練を受けている少年たちは、義勇兵として志願し、市街地を囲む城壁の守りに加わっていた。と言っても、生半可な腕で矢を浪費するわけにはいかないので、煮立てた海水や熱砂を注ぐための準備、それに伝令としての仕事が主になる。アトッサはと言うと、やはり弓矢を携えて城壁の上に立っていた。
「初めて市門をくぐった時は気付かなんだが」
眼下に広がる密集した建物の平らな屋根を眺め、彼女は感心したつぶやきを洩らす。
「この街は防衛戦を考えて造られておるのだな。エデッサとは大違いじゃ」
エデッサの場合、湖に浮かぶ城に立てこもることだけは出来ても、市街地は実に無防備だ。しかしこの街は違う。
頑丈な市壁が岬の端から端まで続き、完全に陸路を遮断している。
おまけに、上から見て分かったことだが、主な街路は直線ではなく、微妙に曲がっていた。見通しがきかないので、よそ者にとっては伏兵の予想も立てられず、またどこへ向かっているのかもわかりにくい、厄介な町並みである。
箱形の建物は屋上に必ず胸壁がついており、その陰から敵に矢を射かけることができる。密集しているので、身軽な者ならば屋根から屋根へと逃げられるし、広い通りには要所要所で板を渡してある。そこを越えた後で板を外してしまえば、上がってきた敵の追撃を振り切ることができるわけだ。ティリスで育った者は、幼い頃に屋根伝いの鬼ごっこをして遊ぶため、自然と街の構造を知り尽くしている。
「もともとこの街は、帝国の辺境にあたりますから」
アトッサの独白に答えたのは、彼女の身辺警護を命じられたダスターンだった。高地からアトッサについて来た二人は、バールの体調がすぐれず夫ハムゼが看病しているため、やむを得ず側を離れている。
「海の民や、砂漠に住む小部族との争いが多かった割には、配備される兵力が少なく……この街にまで攻め込まれたことも幾度かあったと聞きます。それゆえ、街の自衛意識が高いのですよ。それよりアトッサ様、王宮にお戻り下さい」
「まだ申すか」
うんざり顔になったアトッサに、ダスターンもまた、負けじとばかりの渋面を見せる。
「いくらでも申します。あなたが」と、そこだけ遠慮がちに言い、「戻られなければ、私もここから動けませぬ」
オローセスの遠縁、という仮の立場に、ダスターンもどう振る舞ったものか戸惑っているようだ。相手が女王だと知っているだけに、元から身分肩書に弱い節のある彼は、なんともやりにくそうである。アトッサは面白そうに口元を歪め、肩を竦めた。
「いずれにせよ、もう王宮まで戻っている余裕はなさそうだぞ。そら、来よった」
その言葉が終わるか終わらないか。遠く角笛の響きが聞こえた。矢の届かぬ距離に布陣していた反乱軍が、動き始めたのだ。
掲げられた槍の穂先が陽光にきらめき、人馬の足音がざわめきのように近付いてくる。城壁の上では弓兵がいっせいに矢をつがえた。少年兵たちが、矢の補給や市街地に伏せている兵士への連絡に走り回り、熱湯や熱砂の準備が着々と進んで行く。
寄せ手は様々に声を張り上げ、戦意を高めている。悪王を斃せ、正義は我らにあり、と。反して守る側からは、余計な声は上がらない。ただ沈黙し、最初の一撃を打ち込む合図を待っている。
アトッサが弓を構える横で、ダスターンもまた、えびらから矢を抜いてつがえた。
城壁で指揮をとるのは、近衛隊長アスラー。いつもの厳しい顔つきをさらに険しくし、寄せ手を睨みつけている。真一文字に引き結ばれたその唇がついに開き、一声発した。
「撃て!」
次の瞬間、真夏の夕立のごとく矢が反乱軍めがけて降り注ぐ。その落ちる先を見定める間もなく、射手たちは次々に矢を放った。
打ち寄せる人波の中に、ぽつぽつと虫が食ったような穴があくが、じきにそれも後続に埋められていく。楯をかざし、運を頼りに城壁に駆け寄る歩兵たち。
「気持ちの良い光景ではないな」
アトッサは胸がむかつくのを堪えてつぶやいた。平和な高地に育ち、実戦は初めてなのだ。足元にたかる虫を潰すかのように、高みから黙々と矢を放ち続ける射手。同胞が倒れようとも、傷を受けようとも、痛みを感じないかのように執拗な攻撃を続ける歩兵。その両方が、まるで人でない何かのような気にさせられる。
「ですから、お戻り下さいと申し上げたのです」
横でダスターンが言った。間近に迫った敵を一人でも多く確実に仕留めることに集中しているため、その言葉にも横顔にも、まったく感情がない。
早くも城壁の一部では、梯子が立て掛けられていた。兵や少年たちが突き棒を使って、胸壁の陰からそれを押し戻し、ひっくり返していく。どこか一ヶ所でも登られてしまえば、そこを突破口にして壁を落とされてしまう。守る側も必死だ。
アトッサは目の端でその光景をとらえながら、続けて矢をつがえた。何も考えず、狙いを定める相手を人だとは思わず、ただ『的』として矢を放つ。
(後で夢に見そうだな)
そんな考えがちらと胸をよぎったが、それも無事にこの戦いを乗り切れたらの事だ、とすぐに思い直した。
だんだんと、壁に立て掛けられる梯子の数が増えて行く。今はまだ、登りつめられる前に倒せているが、登ってくる歩兵の頭がじわじわと近づいていることに気付くと、背筋が寒くなった。豪雨の中に立ち尽くし、川の水位が上がってくるのを、なす術もなく見つめている心境だ。
突然なにもかも投げ出し、身を翻して逃げ出したい衝動が襲ってくる。アトッサはそれをぐっと堪え、なるほどこれが兵士の胸に去来する思いか、などと頭の片隅で無理に理性を働かせた。
攻撃はいつまでも果てなく続くかに思われたが、日が高くなって暑さに兵の消耗が激しくなると、反乱軍はいったん兵を退き、休息をとった。
とは言え、守り側はおちおち休んでいられない。この隙に矢を補充し、傷ついた者を下がらせて新たな兵を配置しなければならないし、気を抜けば奇襲をかけられる恐れもある。アトッサは汗だくになって胸壁にもたれ、ずるずると座り込んだ。
「今のうちに下りますよ、アトッサ様」
ダスターンが傍らに膝をつき、よろしいですね、と半ば命令のように言う。その背後に交替の弓兵がいるのを確かめ、アトッサは素直にうなずいた。喉はカラカラで、口の中までヒリヒリする。ここで無理に頑張っても足手まといなだけだ。
城壁から下り、水を飲ませてもらうと、日陰で体を休める。同じような兵の姿がそこかしこに見られた。
「……どのぐらいかな」
ぽつりとつぶやいたアトッサに、ダスターンが小首を傾げる。アトッサは空を仰ぎ、言葉を続けた。
「どのぐらい、持ちこたえれば良いだろう」
ダスターンは何やら言いたそうな顔をしたが、あえてそれは言葉にせず、少し考えてから真面目に答えた。
「早くても、エンリル様は今頃ようやくラガエを発たれた頃でしょう。ラウシール殿の力を借りたとしても、全軍を率いて戻るとなれば、二十日はかかるのではないかと」
「二十日!」
アトッサは絶望的な声を上げた。しばしそのまま絶句し、ゆるゆると首を振る。
「……私はどうも戦には疎いのだが、二十日というのは……」
「ずっとこの調子ということはありませんよ、ご安心あれ」
ダスターンはつい失笑し、急いで表情を取り繕った。
「こんな攻撃を繰り返しても、そうたやすく市壁が陥落することはないと、奴らも承知している筈。おそらく無理な攻撃で我々を忙しくしておき、その隙に坑道を掘って地下から壁を崩す算段でしょう。それを許してしまいさえしなければ、二十日どころか二ヶ月でも籠城できます」
「そうか」
アトッサは思わずほっと息をつき、照れたように苦笑した。
「始まったばかりでこれでは……」
やれやれ、と自分に呆れたように首を振る。その横顔を眺め、ダスターンも少し温かみのある微笑を浮かべたのだった。
戦況に進展のないまま、四日が過ぎた。もちろんその間、休みなく攻撃が続けられたわけではない。攻撃側も士気の問題などがあり、まったく戦闘がない日もあった。
また、ダスターンが言った通り、じきに反乱軍は日干しレンガを積み上げて目隠しの壁を造り始めた。その陰で、城壁に迫る坑道を掘ろうというのだ。工兵を矢から守るのと、どこから掘っているかを守備側に悟らせないための、擬装の壁である。長期戦を覚悟しているのは明らかだ。
相変わらず攻撃をしては来るが、大抵、適当なところで引き上げて行く。同じことの繰り返しに守備側の気もやや緩み、この調子でいけば援軍が来るまで余裕をもって守り続けられるだろう、などと楽観的な雰囲気にさえなりはじめていた。
城壁の内側で地面に耳をつけ、地下工事の音を捉えようとしている者たちも、まだ何も聞き付けることがない。坑道掘りにもてこずっているようだ。
包囲五日目。
「また来おったか」
城壁で、もう随分と慣れた様子のアトッサがつぶやく。「あなたも」と横でダスターンがぼやいた。アトッサはちらっと渋面を作ったが、すぐに真剣な面持ちに戻った。
「どうも気に食わぬな」
「何がです」
二人は矢を抜き、弓につがえながら、互いを見ずに会話を続ける。
「あの壁も、我らを騙す手のひとつに思える」
「坑道を掘っていると見せかけて、さらに別の策を進めている、と?」
「……そのような気がする。気がするだけだが」
ビィンと弓弦が震える。喉元を射貫かれた兵が倒れ、後続の者は岩や穴を避けるようにその体を迂回して行く。
「それに、あれも気に食わぬのだ」
アトッサは言って、城壁の真下辺りに視線を向けた。
既にそこには、かなりの数の死体があった。一日の戦闘の後で、反乱軍の者が身内の遺骸を探したりするのは守備側も認めていたが、すべての死体が誰かに探してもらえるほど幸運でもない。
反乱軍にしても、兵の一人一人まで埋葬しているほど暇と余力があるわけではないのだ。異臭を放ち始めている死体まですべてを片付けるのは、どちらかが降参した後になるだろう。それまでに、どれほどの死体が積み上げられることか。
「異世へ行けぬ悪霊どもが、我らに災いをなすやも知れぬ」
「とは言え、我らが外に出て葬儀を執り行うわけには参りませぬよ」
ダスターンも渋面で応じた。
ティリスは乾燥した気候であるから、即座に死体と疫病が結び付くわけではない。だが数十人、数百人の死体となると、話は別だ。
「それはそうだが」
言いかけた矢先、目の前にぬうっと梯子の先が立ち上がり、ガツンと壁にぶつかった。
アトッサは女王らしからぬ悪態をつき、ダスターンも弓を置いて梯子を押し戻すのに手を貸す。すぐに突き棒を持った兵が駆けつけ、その先端を梯子の最上段に当てて、ぐいと押しやった。だがその為に胸壁から身を乗り出してしまい、
「ぐあっ!」
登ってきた兵の捨て身の攻撃に喉から顎を切り裂かれ、大きくのけぞって倒れた。その手から突き棒が離れ、壁の外へ落ちて行く。
アトッサは咄嗟に顔を背けたものの、真横で倒れた兵の血飛沫を避けきることはできなかった。どう、と重い音を立てたその体を、彼女はためらうように一瞥したが、こときれているのを確かめるにはそれで足りた。アトッサはすぐに外に向き直り、新たな矢をつがえた。
青褐色の瞳が揺らぎ、次々と涙がこぼれ出す。悲しいわけでも、悔しいわけでもなかった。倒れた男のことは名前すら知らなかったし、アトッサにとっては他国人だ。ただ、目の前で人が死んだ、それも呆気なく一瞬で――という、その事実に打ちのめされて、どうしようもなく。
涙が頬を流れ落ちるに任せ、戦いを続けるアトッサの姿に、ダスターンはただ目を伏せただけで、何も言わなかった。
結局その日の戦闘もいつものように、反乱軍側が兵を引き、あまり長く続きもしなかった。ダスターンとアトッサは兵の遺体を二人がかりで運び、城壁から降ろした。
市街地の一角に遺体の身元を確認するための場所が設けられており、親族が死を確認した遺体は、次々に墓地へ埋められていた。遺体を岩山に運んで儀式を行い、日と風に晒すような贅沢は、今は許されていない。
もうかなりの数、墓標が並んでいる。それを見てもやはり、アトッサは何も言わなかった。顔や髪についた血と汗と埃とを、同じく汚れた手の甲でぐいと拭い、しっかりとした足取りで、王宮に戻って行く。
後ろに従うダスターンもやはり無言だったが、その顔にはどこか称賛に似た色が浮かんでいた。
アトッサに対する評価が、ダスターンの中でどう改まったのか。その夜更けになって、いきなり市壁へ向かうと言い出したアトッサに、彼は文句ひとつ言わず、お供します、とだけ応じた。
あっさり許可されて、アトッサの方が拍子抜けした顔になる。そんな表情はまだあどけなく思われて、ダスターンはふと笑みをこぼしたが、その感想までは洩らさなかった。
「何か気掛かりでも?」
代わりに彼は問うた。再び矢をいっぱいに入れたえびらを背負い、弓を手に取る。アトッサも武器をとり、軽くうなずいて歩きだした。
夜の市街地はそこかしこで松明が焚かれ、警戒が続けられていた。
大通りのところどころが干し草の山に塞がれているのは、いざとなったら火をつけて、敵の進攻を食い止めるためだ。大通りを騎兵の大隊で駆け抜けられたのでは、抵抗するにも時間稼ぎすらできない。敵を少人数に分散させて狭い路地に誘い込み、勝手知ったる庭で各個撃破して戦力をそぐのである。
「どうも敵の動きがおかしい。長期戦のつもりだろうとアスラー殿もそなたも言うが、ぐずぐずしておれば、いずれエンリル王の兵が戻ってきてしまう。それまでにこの王都とオローセス殿とを手中に収めておらねば、彼奴らには停戦交渉に使える手駒さえないのだ。どこかの時点で思いもよらぬ奇襲をかけるであろうよ」
「しかし、奇襲をかけようにもこの王都は岬の突端です。海側はまだ、遠巻きに封鎖線を引いているだけ。となれば正面から攻める以外にどんな手が? 空を飛ぶか地を潜るかせぬ限り、どこから来ても歩哨に気付かれますよ」
「歩哨の目とて、暗闇の中を見通せるわけではあるまい」
すれちがう哨戒の兵に時折うなずきを返し、アトッサは迷わず市壁へと向かった。二人は塔の狭い階段を上り、壁の上に出る。雲が多く、月もあまり明るくない。松明の炎だけでは、照らし出される範囲などたかが知れている。
胸壁から身を乗り出し、アトッサは険しい目で左右を見回した。ダスターンも一応は首を巡らせたが、敵陣には何の動きも見えない。
――と。
「何だあれは」
低い呻きがアトッサの喉から洩れ、ダスターンもはっとなってその視線を追った。
城壁の下、黒い塊となって折り重なっている死体が。
「馬鹿な……」
もぞもぞと動いている。ダスターンは昼間の会話を思い出し、青ざめた。が、それもわずかな間であった。
「死体に紛れて夜を待っていたのか!」
くそ、と唸り、彼は反射的に矢をつがえた。だがこの暗闇では、狙って当てることは難しい。すぐに彼は剣に持ち替え、走りだした。
「アトッサ様は皆に知らせを!」
「馬鹿者、一人で防ぎきれるか!」
アトッサは言い返し、あまり扱い慣れない短剣を抜いて、後から走りだす。胸壁に取り付けられた警鐘を通りすがりにこれでもかと鳴らし、
「敵だ! 暗がりに目をこらせ、眼下に倒れおるは死人だけではないぞ!」
大声で触れながら、最初に見付けた侵入者めがけて走る。
闇に隠れ、彼らは楔や鉤爪、短刀などを駆使して城壁をよじ登っていたのだ。一人二人ならば、見張りから離れている限り気付かれない。それに歩哨も敵陣の動きには目を光らせているが、真下の死体が動き出すとは思わない。
二人が現場に駆けつけた時には、既に先頭の一人が登攀を終えていた。後続のために頑丈な縄を降ろしていた男は、二人に気付くと剣を抜いた。
「この……ッ!」
ダスターンが鋭い突きを繰り出し、相手が避ける。そのままダスターンは相手に反撃させず、後ろへ後ろへと追いやった。
「アトッサ様、今のうちに縄を!」
「承知した!」
敵の相手をダスターンに任せ、アトッサは結び付けられた縄をほどこうと屈み込んだ。もちろん簡単には解けず、すぐに彼女は方針を変えて短剣を縄に突き立てた。ぞりぞりと刃が縄に食い込むのが、やけに遅く感じられる。ようやくぶつりと切れると、つかまっていた者がいたのだろう、一瞬で縄は壁の外へ消え、ドサリと何かが落ちる音がした。
その間もダスターンは敵とわたりあっている。相手の方が上手と見え、いくつか傷を受けていた。アトッサはほかの縄がないことを確かめると、立ち上がるなり敵めがけて短剣を投げ付けた。
「うわッ!?」
咄嗟に男は身をかわしたが、その結果ダスターンにがら空きの脇腹を向けてしまった。
ダスターンはフッと息を吐くと同時に、深く踏み込んで男の体に剣を柄まで埋め込んだ。間近で男の顔が驚愕と後悔に歪む。一瞬だけ目が合ったが、すぐにダスターンは剣を引き抜いて身を離し、死に際の反撃を避けた。
どう、と男が倒れる。アトッサはほっと息をついて肩の力を抜き、ダスターンに一歩近づいた。
「無事か、ダスターン」
「おかげさまで」
言いながらダスターンは顔を上げてにこりとしかけ、刹那、愕然と目を見開いた。その意味に気付いたアトッサが後ろを振り返るより早く、ダスターンが彼女の手首をつかみ、強引に体の位置を交換する。
そこからの光景は、アトッサの目に、やけにゆっくりと焼き付いた。
下からよじ登ってきたばかりの兵が、登攀に使った楔をそのまま振りかざして襲いかかってきた。黒い楔の先端が、ダスターンの肩口に食いつく。ダスターンは痛みに歯を食いしばったが、怯むことなく、そのまま剣を振り切った。だが剣の先は革の鎧に弾かれ、身体に食い込むことなく、ダスターンの手から落ちていく。
「ダスターン!」
アトッサの叫び。紫色の閃光が弾け、敵の体はいきなり見えない手に突き飛ばされたように、城壁から投げ出されていた。
落ちて行く悲鳴を無視し、アトッサはダスターンに駆け寄る。彼は痛みにうずくまり、何か悪態をついていた。その手が、鎖骨から生えた棘のような楔をつかみ、一気に引き抜く。堪えきれず両膝をついたダスターンを、アトッサの腕が支えた。
「これしきの傷……」
喘ぎながらダスターンは唸り、胸壁の様子を見ようと目を上げた。アトッサもちらっと背後を振り返り、もうあちこちで白兵戦が繰り広げられているのを見て取ると、首を振った。
「これではじきに、城門の巻き上げ機を制圧されてしまうだろう。いずれにせよ、そなたはこれ以上の戦いは無理だ。王宮へ戻らねば」
「……そのようですね」
傷口を手で押さえたまま、ダスターンは悔しそうに唸る。その目からぽたぽたっと涙が落ちたが、アトッサは慈悲深く気付かないふりをした。
「行くぞ」
よろめくダスターンに肩を貸し、アトッサは一番近い階段へ向かって歩きだす。
運よくこちらの方にはそれ以上の敵が回って来ず、二人はなんとか階段にたどり着き、城壁から降りた。
兵が慌ただしく走り回り、悪態だか号令だかわからない怒声が飛び交う中を歩きながら、二人は共に無言だった。
王宮までの道程を半ばほどまで来た時、ついに城門がぎりぎりと開かれる音が聞こえた。夜中に起こされたことを怒っているかのようなその音に、二人は足を止める。
「……私を置いて行って下さっても、良いのですよ。このぐらいの傷なら、一人で歩いて戻れます。少なくとも、彼奴らよりは先に着けるでしょう」
気掛かりそうなアトッサの表情を読み、ダスターンが言った。冗談めかして言ってはいるが、その口元は笑みを浮かべようという意図に反して、苦痛に歪んでいる。
アトッサは改めて相手をじっくり観察し、「駄目だ」と首を振った。決定的な傷を負う前に、既に何箇所かやられている。傷そのものがたいしたことはなくても、じわじわと流れ続ける血が、予想外に体力を奪うかも知れない。
「道端でのたれ死なれたりすれば、アスラー殿に合わせる顔がない。まさか彼奴らとて、今夜中に王宮まで迫ることは出来まい。私の出番はまだ明日も明後日も充分にあるということだ。そなたが寝込んでいる間にな」
言葉尻でにやりとし、アトッサは再び歩き始めた。ダスターンもずるずると足を動かしながら、憮然とした声を出す。
「そうして名誉を独り占めされるわけですね。いいですとも、存分に活躍なさって下さい。私はその戦女神を助けたのだ、と自慢させて頂きますから」
「ははは、それは確かにその通りだな。楽しみにしておれ、そなたが大いに面目を施せるよう、たっぷりと勲を立てて見せよう」
ダスターンを励ますように、アトッサは威勢よくそう言った。
と、その時、背後から明るい炎の光が射した。大通りを塞ぐ干し草の壁が、あちこちで燃え上がったのだ。
暗い空に白煙がのぼっていく。風に乗って届いたいがらっぽい匂いに、アトッサは顔をしかめた。初めてこの街に来た時、まぶたをかすめた幻影が、今はっきりと脳裏によみがえる。
(次はあの王宮から煙が上がるのか)
アトッサは唇を噛み、重い足を機械的に動かし続けた。




