二章 呪われた子 (5)
一方、少し時間をさかのぼって、ヒルカニアに布陣したウィンダフラナの軍。
彼らがヒルカニアに着く頃には、アルハン軍は森から出てパシス川を渡り、平野部に布陣していた。川を背にすることになるが、もともとあまり水量がなく渡河が容易なため、少し距離を空けてあれば危険はないとでも考えているようだった。
「見くびられたものだ」
アルハン軍の見える位置に布陣させ、ヴァラシュはふんと鼻を鳴らした。薄笑いがその口元に浮かんでいる。いかにも意地の悪い笑みだが、鼻唄でも歌いだしそうなほど楽しげである辺り、性質が悪い。
ウィンダフラナは、その横で顔をしかめた。
「エラード人などに負けはせぬ、という挑発でしょうね」
嫌な連中だ、と言わんばかりの口調に、ヴァラシュは馬鹿にしたような笑いを小さく洩らした。ウィンダフラナが眉を寄せて振り向くと、彼は笑みを浮かべたまま首を振った。
「いや、失敬。卿はそう取られましたか。さよう、確かにあれは挑発でしょう。我々を誘い込むための、見え透いた罠でござるよ」
「あっ……」
言われてウィンダフラナも気付き、絶句した。
いくらパシス川の水量がそう多くないと言っても、平地を行くようにはいかない。向こう岸で、川に足を鈍らされた敵軍を迎え撃つ方が有利なのは明白だ。それをわざわざ渡ってから対決を挑む、ということは。
「こちらが攻め込めば、じきに退却するでしょう――ますます不利になるというのに、なりふり構わず総崩れにね。そうしてこちらが調子に乗って追撃すれば、気が付いた時には奴らの用意した罠の中、というわけだ。馬鹿にするにもほどがある、その程度の子供だましも見破れぬと思うなど」
ヴァラシュは呆れたように両手を広げて見せ、余裕のまなざしを敵軍に向けた。ウィンダフラナはあえて何とも応じなかった。相手の布陣に漠然と裏を感じはしたものの、即座に看破できたわけではないのだ。
しばし考えて、彼は慎重に口を開いた。
「ならば、追撃の要らぬよう短時間に決着を……」
「急くこともありますまい」
あっさりとヴァラシュはそれを退けた。ウィンダフラナは困惑し、相手の言葉を待つ。ヴァラシュはおどけた風情で振り向き、肩を竦める。
「実際のところ、タフタンに上陸された、あるいはパシス川の河口あたりから別部隊が上陸してアラナ谷を襲った……としても、各地にはアルダシール卿、ウタナ卿の守りがござる。急いて仕留め損じてはかえって兵力の無駄というもの。ここはひとつ、囮に引っ掛かったふりをして、じっくり細工をさせて頂くとしましょう」
「しかし」
さっさと眼前の敵を片付けてアルベーラに戻るべきでは、とウィンダフラナは顔をしかめた。所詮ティリス人は、谷が脅威にさらされようとも構わないのだろうか。
疑わしげなウィンダフラナに、ヴァラシュは腹が立つほど優しげな苦笑を見せた。
「ご案じ召されるな。彼らは我々より数日早くここに陣を構え、罠を用意して待ち受けているのですよ。こちらも相応の対策を取らねばなりませぬ。それに……ついでと申してはなんですが、卿の悩みの種もひとつふたつ、減らして進ぜましょう」
「は?」
「私が女性以外に親切心を起こすのは、極めて稀なことですよ。まぁ、お任せあれ」
「は……ぁ……」
ウィンダフラナは呆気に取られ、生返事をする。相手をよく知っていれば、今の彼の微笑にとてつもなく嫌なものを感じ取ったであろうが、いかんせん、知り合って日も浅い。
「そこまで仰せられるなら。いずれにせよ一軍に二将は不要、卿に従いましょう」
指揮官が二人いても、軍を動かすにはかえって効率が悪いだけだ。悲しいかな、遠慮癖のついてしまっているウィンダフラナは、ヴァラシュに権限を譲ってしまった。
「かたじけない。ではご期待以上の成果をお目にかけましょう。そのためにも、まずはウィンダフラナ殿、あなたにはお飾りに徹して頂きたい」
「なっ……」
さすがにウィンダフラナは顔色を変えた。
「まさかヴァラシュ殿、私を指名されたのはそれが目的で……!」
指揮官をお飾りにしようと思うなら、ウタナやアルダシールでは無理だ。いくら作戦と言ってもまず承知すまいし、百歩譲って承諾したとしても、彼らほど有名かつ押し出しのよい将が『お飾り』など、敵が信じるわけがない。
だから、童顔で侮られやすい自分を選んだのか。
ウィンダフラナは怒りを込めてヴァラシュを睨みつけた。が、ヴァラシュの方はまったく平然としている。
「そういうことになりますね。それゆえ、ちょっとした親切で埋め合わせをさせて頂こうと言うのですよ。ご不満ですかな」
さらりと肯定され、ウィンダフラナは拍子抜けしてしまった。なだめすかしていいように利用しようとされたならば、自分は正当だと腹も立てられよう。だが相手がこれでは、自分のふるまいは正当どころか、頑是ない子供と同じのように思わされてしまう。
「不満でない、などと思われますか」
結局ウィンダフラナは、むっつりと不機嫌にぼやいた。ヴァラシュは愉快げに哄笑し、ごもっとも、などとうなずく始末。
「ではその不満とうまく付き合う術を学ばれることです。さすがにそこまでは、面倒見きれませんのでね」
(……こんな男の指揮で動かねばならぬとは……)
ティリスの将も気の毒に。ウィンダフラナはそう同情し、今は我が身も同じか、と嘆息したのだった。
それから五日間、ウィンダフラナの軍はアルハン軍の姿が見える辺りに陣を構え、攻めるでもなく、また誘うでもなく、不気味に沈黙を続けた。使者のやりとりもなければ、互いに出向いて罵り合うことすらない。
ウィンダフラナは自らお飾りのふりをするまでもなく、実際にヴァラシュから一切の作戦を聞かされないまま放置された。やるとなったら徹底しているようだ。ウィンダフラナは暇を持て余して陣をぶらぶらしながら、参謀閣下の天幕を見やった。
当のヴァラシュはというと、こちらもまるでやる気がなさそうな風情で、日がな一日書物など読んでいる。
どうやら夜中に一人ずつ千騎長や百騎長まで呼んで、個別に指示を出しているようだが、それも相手によって温度差があると見えて、待ちぼうけをくわされている兵士たちは、あるいは苛立ち、あるいはだらけ始めていた。
(無理もない。犬の躾でもあるまいに、何を問うても『待て』の一点張りではな)
やれやれ、とウィンダフラナはため息をついた。無能なお飾り指揮官を装い、彼も時々ヴァラシュに「なんとかならぬのか」などと、愚にもつかない質問をしてみたりするのだが、他の将兵が同様の質問をした時と、やはり返答は同じだった。
ぐるりを見回すと、無為な時間の効果がいやでも目についた。既にだらしのない格好になって、仲間と談笑している者。下手をするとこっそり賭博を行っている者もいる。そんな者を横目に睨んで、いまいましげに悪態をつく者。聞こえよがしに指揮官を腰抜け呼ばわりする者。さまざまだ。
どちらかが籠城しているとか、なんとかして互いに妥協を引き出そうと交渉を重ねているとか、あるいは何らかの細工を着々と進めているとかいった、理由があるならば良い。だがまったく無為に過ぎるだけの五日となれば、話は別だ。
勇んで矢のように進軍してきたウィンダフラナ配下の兵にとって、それは、危険なまでに長く緩慢な時間だった。長距離あるいは難所を進軍したわけでもないので、兵の疲労もとっくに解消している。
(ヴァラシュ殿は、どのような指示をだしているのだろう)
はあ、とウィンダフラナはため息をついた。見た限り、待機中にこれといった行動を起こすよう指示された部隊はないようだ。
怠けられる、と愚かしくも楽観的に喜んでいられる雑兵はまだいい。少し位が上の者になると、そうした兵に緊張感を持続させる役目があるため、のんびりどころか、ただ苛々する一方だ。そうして千騎長あたりまでしわ寄せが行くと、しまいには出撃させろと直訴に来るかもしれない。
(直訴ですめば良いが)
部下には自分よりも年配の武将もごろごろしている。指揮官の二人、ヴァラシュとウィンダフラナが共に年若く、またウィンダフラナに至ってはその上さらに珍しいほどの童顔とくれば、彼らの怒りは容易に爆発するだろう。そこまでヴァラシュは予測しているのだろうか。
髭も生え揃わぬひよっこが、とまで罵られたことのあるウィンダフラナとしては、事態を楽観視する気にはなれなかった。
(やっぱり、伸ばすべきかな)
憂鬱な顔で顎をさする。髭が薄いので、剃り跡さえほとんどわからない。
それから彼は天を仰いで、もう一度、深いため息をついたのだった。
そんな彼の気苦労も知らず――いや、知っていながら無視してか、ヴァラシュは相変わらずのんびりしていた。
他方アルハンの部隊は、いかに囮とは言えそろそろ何もせぬわけにもゆかぬ、と判断したらしく、性質の悪い挑発を始めた。これ見よがしに攻め寄せるような動きをしたり、数人の兵が大胆に近付いてきては口汚く罵りと嘲りを浴びせ、矢に頭をかすめられて笑いながら逃げ戻ったり。
こけにされた兵たちが苦々しく指揮官の天幕を睨むのも、一度や二度ではすまなくなってきた。
そうして、六日目がやってきた。
ウィンダフラナはついに我慢できなくなり、ヴァラシュの天幕に荒々しく踏み込んだ。
厳しい顔で入ってきた青年を振り返り、悠然と本を読んでいたヴァラシュは、社交的な笑みを見せる。当然それでウィンダフラナの気分が和むわけもない。
「ヴァラシュ殿、状況は解っておいででしょうね」
棘のある言い方をしたウィンダフラナに、ヴァラシュはすまして応じた。
「何を仰せられるやら。この状況を作り出したのは、ほかならぬ私自身ですぞ」
「……ならば、私の兵たちが卿を『女の腐ったようなティリス人』と罵っているのも、計算の内というわけですか」
「もっとほかにも聞き及んでおりますよ。エラードの方々は、罵詈雑言に関してはなかなか造詣が深いと見受けられますな」
ヴァラシュがにやりとしたので、ウィンダフラナは苦虫を噛み潰して唸った。
「笑い事ではござらぬ。卿の目論見が何かはともかく、私の配下はそれに付き合えるほど我慢強い者ばかりではないのですよ」
さらに言い募りかけた矢先、伝令兵が転がるような勢いで天幕に飛び込んできた。
「ウィンダフラナ様! 大変です、タバロス卿の部隊が進撃を開始しました!」
「な……!」
ウィンダフラナは息を呑み、きっとヴァラシュをねめつけた。予想されたことだ。抑えておけなかった自分も忌々しいが、この事態を招いた元凶にはもっと腹が立つ。
だがこの期に及んでもまだ、ヴァラシュは泰然としていた。余裕のある仕草で本を閉じ、立ち上がって腰を伸ばす。
「ふむ、およそ計算通りといったところですな」
彼は口元に笑みを閃かせ、傍らにいた従士に合図してから外へ出た。
「ヴァラシュ殿! 計算通りとは、まさか」
非難めいた声を上げ、ウィンダフラナも後を追う。
そこへ、従士が大きな鳥籠を運んできた。ヴァラシュが軽くうなずくと、少年は籠の留め具を外し、柳で編んだ籠はばらばらと崩れた。閉じ込められていた十羽余りの鳩は、追い立てられるまでもなく空へ飛び立つ。その飛ぶ先は、アルハン軍の向こう、鬱蒼とした森の中だ。満足げにそれを見送り、ヴァラシュはくるりと振り向いて陽気に言った。
「何をぼんやりしていらっしゃる。さあ、我々もあの後を追って駆けるのですよ」
いったいこの男は、何を考えているのだ?
ウィンダフラナは混乱した頭で、どうにかこの参謀をとっちめてやりたいと考えたが、今となってはそんな暇はないようだった。
命令を無視して突出した千騎長タバロスの部隊が、わあわあと雄叫びを上げているのが聞こえる。おそらくタバロスだけではないだろう。これ幸いと便乗した者もいるはずだ。何しろ戦闘がなければ、敵からの略奪品も手に入らないのだから。
「くそっ!」
温厚なウィンダフラナにしては珍しく悪態をつき、彼は自棄じみた声で残る配下に出撃の指令を出し……かけて、驚きに息を呑んだ。
命ずるまでもなく、大半の兵が武装に身を固めて整列を始めている。
「これは……」
先刻までのだらけきっていた空気など、その片鱗すら残っていない。彼がぽかんと口を開けたままヴァラシュを振り返ると、相手は、おやどうしました、と言わんばかりのおどけた表情を見せた。
「これが……あなたの与えた命令だったわけですか」
ウィンダフラナは呆然とつぶやく。それから軽く頭を振り、はるか前方で敵めがけて襲いかかろうとしているタバロスの部隊を見やった。
「では、あれも?」
「あれは命令ではございませぬよ。飛び出しそうな何人かには、待てとの指示以外は出しておりませんのでね。思惑通りには相違ござらんが」
ヴァラシュも前方に目をやり、そろそろか、とつぶやいた。ウィンダフラナは、その不吉な言葉の意味を質そうとして、あっ、と目をみはった。
最前線で見る間に陣形が崩れ、遠目にも分かるほどの大混乱が広がっていく。彼が絶句していると、横でヴァラシュが涼しげに「壮観、壮観」などと悠長なことを言った。
壮観――どころの話ではない。
落とし穴だ。正面から突っ込んで行ったタバロスの部隊は、次々と穴にはまっていた。たかが落とし穴ではあるが、騎馬の疾駆で突っ込めば、かなりの脅威となる。しかも、後続の者にその状況など分からない。どんどん押し寄せて、結果、将棋倒しになっていく。
ウィンダフラナが我に返るより早く、ヴァラシュは従う兵たちを振り返って、朗々とした声を張り上げた。
「功を急いた愚か者どもが、罠の在処を教えてくれよう! よって諸君らは迷うことはない。アルハンのモグラどもを存分に蹴散らすが良い!」
今こそヴァラシュの狙いが分かり、ウィンダフラナは愕然とした。
――悩みの種をひとつふたつ、減らして進ぜましょう……
(あれは……あれは、つまり)
作戦ついでに、ウィンダフラナを侮りないがしろにする部下を、捨て駒として始末してくれよう。そういう意味だったのだ。
恐れと称賛のどちらを向けるべきか自分でも決めかね、彼は隣に立つティリス人を見やった。彼が陥れたのは、友軍である。だがそれを責めるには、あまりに彼の態度は悪びれないものだし、タバロスたちの方にも非があるわけで。
(いや、今は目の前の戦いに集中せねば)
ウィンダフラナは頭を振り、余計な考えを追い払った。そして、深く息を吸って突撃の合図を叫ぶ。忠実に命令を守っていた兵たちが、わあっと歓声を上げた。
続いて、谷の軍勢は雪崩を打って走りだした。
優勢に立っていたはずのアルハン側に動揺が走る。こんな筈では、と。
アルハンの指揮官は、自分が囮であることを承知し、またそれに甘んじてもいる、要するに戦意の低い男だった。それゆえ落とし穴を掘るほど時間に余裕がありながら、決定的な打撃を与えるほどの細工はしていなかった。つまり、穴の底に油を流しておいて火を放つ、だとかいった類のことを。
彼は今、そのことを心底後悔していた。谷の軍勢は潰された先行部隊の兵士を格好の道しるべとし、彼らの救出など後回しにして押し寄せてくる。
落とし穴にかかった敵に矢の掃射、それでかたがつく。そう考えていたのに。
「急げッ! 弓隊、下がって後方から援護! 楯持ちは前へ、もたもたするな!」
予定外のことにうろたえる兵たちを叱咤し、陣を立て直す。だが兵の多くは、穴にはまった獲物を片付け、略奪する方に夢中だったため、反応は鈍かった。
谷の騎馬兵がアルハン軍に噛みついた時、ほとんどの場所ではまだ楯の壁ができておらず、瞬く間に陣を破られていった。逃げ惑う弓兵や軽装歩兵に、容赦なく馬上から刃が閃く。至るところで混戦となった。
どうにか楯と槍で騎馬兵の突進を食い止めたところも、周囲がそれでは、まともな反撃など出来はしない。じりじりと後退するのが精一杯だ。
最初から後方にいた兵はもちろん、戦況の変化に大慌てで前線から下がった弓兵も、多数が既に逃げ出していた。踏みとどまっている者も、援護が期待出来ない以上、後退を続けるしかない。そうしてアルハン軍はじわじわと、パシス川に追いやられていった。
「川を渡れ! 川さえ渡れば……!」
アルハン軍の指揮官は、殿をつとめて逃げる兵たちを急がせた。
落とし穴を掘った際の土を敵の目から隠すため、また退却を余儀なくされた時に時間を稼ぐために、パシス川を上流でせきとめさせてあるのだ。川を渡って合図の角笛を吹き鳴らせば、一気に堰が崩され、激流が敵を片付けるはず。
その望みが彼に、踏みとどまって指揮を続ける勇気を与えていた。
一方ヴァラシュは突撃には加わらず、当然のこととして状況を傍観していた。
「頃合いか」
アルハン軍がパシス川を渡って逃げ始めると、彼は小さくつぶやき、再び従士に命じて新たな籠の鳩を放った。今度の鳩は足に鮮やかな緋色の布を結び付けられており、遠目にもはっきりとそれがわかるようにされている。
それが空高く舞い上がると間もなく、まだ吹き鳴らされるはずのない角笛が、戦場に響き渡った。退却の指揮を続けていたアルハン指揮官は蒼白になって、不吉な地鳴りの迫り来る方――川の上流を振り向いた。
「そんな、まさか」
その顔がひきつる。目は見開かれ、口から絶望の叫びがほとばしる。
まさにその時だった。
白く吠え猛る怒涛がアルハン軍に襲いかかった。その巨大な顎の前に、逃げ惑う人馬はあまりにも無力で、瞬く間に食いつかれ、噛み砕かれ、呑み込まれてゆく。
わずか数呼吸ほどの間にすぎなかったが、その凄まじい流れは、アルハン軍の半数近くを押し流していた。
とは言え、元がさほど水量のない川である。堰き止められていた水が流れ去ってしまうと、あとはまた、簡単に渡れる程度の浅瀬になる。追撃する側にとっては、都合の良いことこの上ない。
川下に流されたアルハン兵の始末に一部隊を回し、ウィンダフラナは追撃を続けた。
が、それも長くはかからなかった。
ヒルカニアの森に向かっていたアルハン兵が、続々と投降し始めたのだ。
ウィンダフラナも彼らを全滅させる必要など感じなかったので、それを受け入れ、戦闘はすみやかに終息していった。
アルハン軍が逃走を諦めたわけは、じきに明らかになった。
何があったのかとさらに西へ進んだウィンダフラナは、地に倒れ臥した多くのアルハン兵を見出した。辺り一面に降り注いだ矢が、生い茂る夏草のように突き立っている。
「これは……」
ヴァラシュの用意した伏兵か。しかし、アルハン兵の後ろへ回るなど、自分たちが到着してからでは不可能だったはず。そう考えて森に目を凝らすと、弓や楯、槍の穂先のきらめきが目に入ったが、案の定、人影はなかった。ただ、紐で複雑につながれた弓が、わずかな人手で、一度に大量の矢を放つ仕掛けになっていたことだけは分かる。
「ウィンダフラナ様、タバロス殿の部隊、ほぼ救出終了しました」
「敵司令官の遺体を確認!」
伝令兵が次々としらせをもたらす。ウィンダフラナは軽くこめかみをおさえ、ヴァラシュの姿を探して陣の方に引き返して行った。
「ばらしてしまえば、至極簡単な話にすぎませぬよ」
日が落ちた後、天幕でヴァラシュは葡萄酒を片手にくすくす笑った。ウィンダフラナは胡散臭げな目を向け、疲れた様子で頭を振る。
「いったいどこまでが卿のたくらみなのです?」
「人聞きの悪い」
ヴァラシュは抗議したが、その実かなりご満悦らしかった。
「なに、早晩ヒルカニアにアルハン軍が来ることは予想しておりましたのでね。近隣に住民を装った部下を配置しておき、アルハン軍がやって来た時、内部に潜入させたのです。彼らを通じて工作部隊を丸ごと買収し、川を堰き止めた後は森の方に細工をさせた……と、それだけのことでござるよ」
そこまで言い、彼は肩を竦めた。
「さすがに、落とし穴ひとつひとつに旗を立てさせるわけにもゆきませぬので、穴の位置は血の気の多い方々に見付けて頂くことに相成りましたがね」
「…………」
ウィンダフラナは言うべき言葉が見付からず、ただ深いため息をつく。ヴァラシュはそれを面白そうに見やり、それにしても、と続けた。
「卿には私の親切など、要らぬお節介だったようですな」
残念そうな声音を装ってはいるが、怜悧な青い目には軽侮の色が浮かんでいる。ウィンダフラナはムッとしたが、何も言い返さず沈黙を続けた。
タバロスの処分について、ヴァラシュはウィンダフラナの甘さを揶揄したのだ。
命令に違反して突撃し、さらには甚大な被害を出したのだから、数十回の笞打ちと全財産没収、軍からの追放となってもおかしくはない。厳格な司令官ならば即刻打ち首にしているところだ。事実、ヴァラシュもそれを主張した。
にもかかわらずウィンダフラナは、タバロスを訓戒した後、わずか十回の笞打ちと一階級降格、それに罰金で許したのだ。罰金は戦死者の埋葬と遺族への支給金に充てられるだけあって、安くはなかったが、それでもやはり軽い罰には違いない。
ややあって、ウィンダフラナは相手に負けじとばかり皮肉な口調で答えた。
「いや、助かりましたよ。なにしろ私は、卿ほど他人を蹴落とす才に恵まれてはおりませぬのでね。卿がタバロスを奈落に突き落として下さったお陰で、私は寛大な上司として彼を救い上げることが出来ます。今後は良い部下としての働きを期待でき……」
相手を言い負かそうとしていたはずなのに、ウィンダフラナは途中でぎくりとして言葉を呑み込んだ。まさか、と嫌な予感を抱きつつヴァラシュを見ると。
「まさに八方丸く収まれり、これにて大団円。実にめでたい限りですな」
ははは、と屈託のない爽やかな笑い声を立て、参謀閣下は葡萄酒の杯を軽く上げた。予感的中、とウィンダフラナはがっくり頭を垂れる。
(やられた……)
完全に踊らされた。ヴァラシュはウィンダフラナが甘い措置をとることまで見越して、あえてタバロスを失敗に陥れたのだ。
彼を追放や死罪に処してしまえば、ウィンダフラナはまた新しい部下を教育し直さなければならない。だがヴァラシュが極端な厳罰を主張し、ウィンダフラナがそれを退けて妥当なところで手を打てば、恩を感じたタバロスは良い部下になるだろう。
(何もかもお見通し、か)
とは言え、こうも見事にはめられ、しかも癪に障ることながら確かに『大団円』となれば、ヴァラシュを恨むことも出来ない。ウィンダフラナは苦笑し、自分も杯に葡萄酒を注いで、乾杯の仕草をした。
「鬼才の参謀閣下に」
ほんのわずか皮肉っぽい言葉にも、ヴァラシュは悪びれず礼を言って、新たな杯を掲げたのだった。




