二章 呪われた子 (4)
一度は焼け落ちたタフタンだが、クシュナウーズの指揮で早くも新しい建物が立ち並び、大勢の兵が忙しく働いていた。村の復興に加え、軍船の改造と新規建造に大忙しだ。村の住民も大工仕事にかりだされ、おかげで仕事にあぶれる者はいない。
「なんだか前より、規模を大きくするつもりに見えるんですけど……」
カゼスが周囲を見回して言うと、クシュナウーズが「ああ」と振り返った。
「今までは素通りされるだけの漁村だったけどな、この機会にまともな兵站として利用できるようにするってんでよ。ここからなら三日月の島や北方からの略奪船に対抗できるし、補給基地にもなる。平和になったら交易の拠点にするつもりらしいぜ。あの坊やも計算ができるようになってきたってことかね」
「坊やって……」
もちろんエンリルのことだ。相変わらずこの人は、とカゼスは苦笑した。だが確かに、エンリルが経済方面の才覚をもあらわし始めているのは、素人のカゼスにも感じられていた。復興の活気にあふれる港を眺め、カゼスは口元をほころばせる。
「早くそんな日が来るといいですね」
商売が活発になって、住民も豊かになって。今と同じぐらいの活気に、喜びと明るさが加わる。そんな日が早く訪れたらいいのに。
「そうだな」
クシュナウーズも相槌を打ち、それからちょっと考えて、言いにくそうに切り出した。
「なぁ、お嬢ちゃんよ」
「はい」
なんでしょうか、と振り向いたカゼスに、クシュナウーズは目をそらして続ける。
「領主館に帰んな」
「……はい?」
「ここまで白兵戦向けの奴らを連れて来てくれたのは、ありがてえんだけどよ。お嬢ちゃんは戦線に加わらねえ方がいいぞ。血腥いのは苦手だろ」
明後日の方を向いて、頭を掻きながらそんなことを言う。カゼスは束の間ぽかんとし、次いで悔しくなって顔をしかめた。
「いまさら私だけ、安全で清潔な場所に引っ込んでるわけにはいかないでしょう」
ここまで戦争にかかわっていながら、流血の事態だけは見ないふりなど、できるわけがない。それとも、また恐怖で暴走するかも、と考えられたのだろうか。
「負傷者の手当ぐらいできます。……いえ、やらせてください」
カゼスが決意をこめて言うと、クシュナウーズは軽く目を瞑り、小さなため息をついたが、拒否はせずうなずいた。
「言ったからには、後でうだうだすんじゃねえぞ」
ヴァラシュがウィンダフラナの軍勢と共に、ヒルカニア目指してアルベーラを発つと、その情報を受けてか、間もなくタフタン沖にも船団が姿を現した。
「ヴァルディア王もさぞかしたくさん、犬を飼ってるんだろうよ」
クシュナウーズは旗艦の甲板で、苦笑気味にそんな冗談を飛ばす。アーロンが横で盾の手入れをしながら、お互い様だ、とあっさりいなした。彼が手にしている武具は、軽量の楯と短槍、それに剣だ。陣を組んで平地で戦うわけではないので、大きな楯や長槍は邪魔になる。大楯には楯持ち専門の兵を用意した。
タフタンに上陸させないために、アラナ谷とティリスの両船団は、二重の円弧を描くように陣を構えていた。
船首の衝角で敵船に穴を空けるのに、正面衝突したのでは相討ちになるだけだ。それゆえ普通は敵船のそばを通り抜け、それに応じて向きを変えられる前に、船尾に衝角を打ち込もうとする。となるとつまり、守りをかためるなら船首を外に向けて円状に並んでいれば、通り抜けられないわけだ。
旗艦を含めてほとんどは三段までの櫂しか持たない船で、守備力よりもその機動力が重視されていた。
太陽が中天にかかる頃、ついにアルハン軍がいっせいに櫂を下ろし、白く波を砕きながら押し寄せてきた。ティリス軍の陣形を見て、守りに入っていると見たのだろう。
先に射程距離にアルハン船を捉え、いっせいにティリス軍から矢が放たれた。だが五段櫂船のような大型を中心としたアルハン軍船は、装甲も厚い上に、矢を防ぐ楯を縁に並べているため、目に見えるほどの効果はない。
やがてアルハン側の弓でも矢が届く距離になると、報復とばかりにティリス軍めがけて矢が放たれた。が、より早くティリス軍は敵の船へと自ら突き進み始めていた。
守りを崩すつもりでいたアルハン側は、ティリス軍の攻撃に驚き、うろたえた。その隙に、早くも一隻めの船が獲物に牙を立てる。
「よっしゃあ! 食らい尽くせ!」
クシュナウーズが嬉しそうに声を上げる。周囲の兵も、わっと歓声を上げた。打ち込まれた渡り桟橋を通って、ティリス兵がどっとなだれ込むのが見える。瞬く間にアルハンの鈍重な船は、一隻、また一隻とティリスの快速船に食いつかれ、拿捕されていく。
船縁からばらばらと人間が落ちて行く。カゼスは遠目にそれを見て、唇をぎゅっと引き結んだ。クシュナウーズが来るなと言った意味を、ようやく理解した。逃げ場のない海上での白兵戦は、陸での戦いよりもはるかに凄惨だ。
青ざめているカゼスにはお構いなく、戦線はどんどん近づいてくる。ティリス船の牙を振り切って外側の陣を突破した船が、旗艦のある内側の弧めがけて進んで来たのだ。
「構え!」
クシュナウーズの号令で、弓兵が船縁からざっと鏃を上げる。続く声で、驟雨のごとくザアッといっせいに矢が飛んだ。じきに敵からの矢も届き始め、カツンカツンとそこいらに矢が刺さり、時に射貫かれた兵のくぐもった叫びが上がった。
船は激しく揺れ、いまにも裂けそうな音を立てて走る。旗艦の横をすりぬけようとしたアルハン船に、船首と船腹の桟橋が容赦なく食らいついた。
敵もその頃にはティリス側のやり口を理解していたため、すぐに弓兵の狙いが桟橋に集中する。はやって桟橋を渡ろうとした兵が、数歩もゆかず射貫かれて海に落ちた。
「楯持ち、前へ! 弓隊、援護しろ!」
アーロンの声。大楯を構えた兵が走り出て、桟橋の前に立つ。弓兵は敵の弓兵を狙い撃ちにし、その隙にアーロンたちが桟橋を前進していく。
矢の威力が失せる至近距離まで迫ると、アーロンは大楯の陰から出て一気に残りの距離を駆け抜けた。こうなると弓兵は逃げるしかない。矢の雨が途切れ、兵がわあっと雪崩をうって敵船に乗り込んでいく。
ほとんど勝負にならない、一方的な殺戮だった。アルハン側の数少ない白兵戦力は真っ先にティリス兵の標的となり、倒されてゆく。残りはせいぜい短剣しか持たない、弓兵や水夫たちばかり。
アーロンは雑魚を軽くあしらうように倒しながら、指揮官を探していた。彼自身もそうだが、装備の良さで指揮官はすぐに見分けられる。と、相手も目的は同じだったらしく、ひとりだけまともな兜や胸当てを着けた男と、まともに目が合った。
雄叫びを上げ、指揮官は槍を構えて突進する。アーロンは身を沈めながらそれを難無くかわし、喉元めがけて素早く槍を突き出した。
反射的に指揮官は楯を引き上げ、喉を庇う。と、アーロンはそれを見透かしていたように、一瞬早く槍を半回転させ、相手の足を甲板に縫い止めた。そのまま彼は、相手に声を上げる暇さえ与えず、槍を引き抜きざま石突きで顎を砕く。
よろめいた指揮官の腹にアーロンの槍が深く刺さり、勝負がついた。重い音を響かせて指揮官が倒れると、まだ生き残っていたアルハン兵たちは次々に武器を捨て、投降した。
武器を集め、敵兵を捕縛するのは海軍の兵たちに任せ、アーロンたち陸軍の精鋭はひとまず旗艦に戻って、船が新しい獲物に食いつくのに備えた。
「さっそく次が来たぜ!」
クシュナウーズが新たな標的を定め、針路の指示をだす。渡り桟橋が巻き上げ機で引き上げられ、櫂が一糸乱れぬ動きを始める。
行く手を見るクシュナウーズやアーロンの顔は、戦の緊張と興奮とで、いっそ楽しげにすら見えた。
カゼスは辛うじて甲板に残ってはいたが、隅に座り込んで立ち上がれず、また何をすることも出来ずにいた。血の匂いと人の熱気に当てられて、気分が悪い。それだけでなく、一度この戦に手出しをすれば、どこまで力を使ってしまうか想像もつかなくて、誰の意識からも消えてしまうよう、まやかしをかけるほか、どうしようもなかった。
(私ときたら、なんて浅はかだったんだ)
怪我人の手当ぐらいできる?
手当どころか、無傷の状態に戻すことさえできる。当人の体力はそれだけ損なわれるが、さしあたり戦い続けるのに支障はない。となれば、再生工場のように兵士を次々とまた殺戮の現場に送り出すことになるだけだ。
では、適当なところで治療を止める? それこそ最低の欺瞞ではないか。
考え出すとますます気分が悪くなって、カゼスはまやかしの陰に逃げ込んだまま、ひとり身を竦ませた。ヴァラシュの指示で戦術の一端を担っている時は、深く考えずにすんでいた。言われた通り、風を吹かせたり、幻影を作ったりするだけで良かった。
今は違う。その気があればいくらでも介入できるし、極端な話、自分ひとりの力でこの戦闘を終結させることさえ可能だ。実際にそれだけの能力が自分にはあるのだから。しかしそれは、神を騙るに等しい所業――人である身に許されることではない。
そうしてカゼスがひとり、やりきれない思いに涙をこぼしている間に、戦闘は終息に近づいていった。結果はもちろん、アルハン側の大敗。多数の船が拿捕され、あるいは沈められて、波間には船の破片や兵士や武具が、所狭しと漂っていた。
あたりが静かになってきたのを感じ取り、カゼスはまやかしを解いて顔を上げた。旗艦の甲板でも、戦闘が行われていたようだ。そこかしこが血で赤黒く光り、何人かのアルハン兵が物言わぬ骸となって横たわっていた。
「そこにいたのか」
クシュナウーズに声をかけられ、カゼスはどきりとして振り向いた。クシュナウーズは続けて何か言いかけたが、カゼスが唇まで蒼白になっているのを見てとり、口をつぐむ。それから無表情になって目をそらし、淡々と終結を告げた。
「敵の生き残りは逃げて行きやがったよ。ここの戦いは終わりだ。あとはお嬢ちゃんの出番じゃねえのか」
「あ……」
はい、とも答えられず、カゼスは吐息のようなかすれ声を洩らして、よろよろと立ち上がった。クシュナウーズの後ろからアーロンが気遣わしげなまなざしを向け、足早にやってくる。カゼスはなんとか足を踏み出したが、膝から力が抜け、がくんと体勢を崩した。
咄嗟にアーロンが手を出し、カゼスの腕をつかむ。が、彼は次の瞬間、後悔に顔を歪めた。彼の手は血に汚れていたから。
カゼスがどうにかしゃんと立つと、アーロンは唇を噛んで、手を離した。お互い、何も言わない。カゼスは涙を拭い、周囲をあらためて見渡した。アーロンもクシュナウーズも、どの兵士も、傷を負い、血に汚れ、心身ともに疲れていた。
苦痛のうめき声。敵船の戦利品を漁る兵たちの、貪欲にぎらつく目。まだ息のあるアルハン兵を海に蹴落とし、ざまを見ろとばかりの笑みを浮かべる兵。そしてまた別の場所では、傷ついたティリス兵が瀕死のアルハン兵に水を飲ませてやっている光景もある。
混沌とした戦場。
カゼスはその中を一歩一歩踏みしめるようにして船首に行き、軽く目を閉じて両手をもたげた。『力』のうねりを感じ、その流れに精神の手を伸ばす。
(もっと早くに、何とかしているべきだったんだろうか)
こんな惨状になる前に、介入して勝敗を決めていれば。あるいはいっそ、戦う気を失わせるような細工をしていれば。
(……きっと、違うんだろうな)
よそ者の手で無理やり勝負をつけ、あるいは和平に持ち込んでも、じきに当事者間の諍いは再燃する。神でもないのに、世界を管理することなど出来るわけがないのだ。ましてや、遠からずこの地を去ると分かっている者など、端から問題外だろう。
カゼスはゆっくりと『力』の流れを変え、辺りに広げていった。
死んだ者は生き返らず、斬り落とされた体の一部が再生することもない。だが、兵たちの傷口から滴る血は止まり、死に瀕していた者も新たな力を得て目を開いた。肉体にも心にも、目に見えない命の水が注ぎ込まれているかのよう。
清浄な流れに洗われたように、戦の燠に似た熱狂は冷め、静穏が心を満たしてゆく。
やがてその不思議な気配が消えた後も、誰ひとりとして、ふたたび槍を手にしようとはしなかった。我が身に降りかかった奇蹟のような経験に、呆然とする。
静まり返った戦場に、晴れた空から光のかけらのような雨が降り始めた。血を洗うように、死者を悼むかのように。
ぱらぱらと降り続ける雨に打たれ、ようやくクシュナウーズが声を上げた。
「さあ、後片付けだ! ぐずぐずするな、血が乾いたら何もかも張り付いちまうぞ!」
その声で我に返ったように、誰もが動き始めた。海水を汲み上げて甲板を洗う者、祈りの言葉をつぶやいて死体を海に投げ落とす者、折れた櫂を取り替える者。
カゼスは放心したように船首に立っていたが、ふと人の気配で振り向いた。クシュナウーズが数歩離れた場所から、こちらを睨んでいた。
「……あんなことが出来るなら、最初からやってりゃ良かったんじゃねえのか」
唸るように言われ、カゼスは目をしばたたかせた。
「あんなこと?」
「戦意喪失の魔法、ってか」
忌々しげにクシュナウーズは言い、舌打ちした。カゼスはゆるゆると首を振る。
「そんなのじゃありませんよ。多分……『力』と一緒に、私の心まで広がってしまった、それだけだと思います」
そう否定してから、彼女はクシュナウーズにまっすぐな視線を返した。
「もし本当に、戦意喪失の魔法なんてものが使えたとして、あなたならどうしていましたか。最初から使っていましたか」
「…………」
クシュナウーズはしばらく沈黙し、ややあっていつもの表情に戻ると、ちょっと頭を掻いた。
「悪かった、ちっと八つ当たりしちまったな」
それだけ言い、彼は帰港の指揮を取るべく歩み去った。その背を見送り、カゼスはふっと小さなため息をつく。彼の気持ちも分かるような気がした。
(私がこんな風な反応を見せるって予想していたから、来るなって言ったんだろうな)
自分がひどく傲慢で残酷なことをしたと気付き、カゼスはうなだれた。相手がクシュナウーズだから『八つ当たり』などと言ってくれたが、責められても仕方のないことだ。命がけで戦って勝利を手にしたのに、こんな態度を取られて気分の良かろうはずがない。
(だけど、だからって)
大勝利で実に素晴らしい、などと嘘をついても白々しすぎる。
鬱々と考え込んでいたカゼスは、目の前に人が立ったことにも気付かず、ぽんと肩を叩かれてびくっと竦んだ。
「どうした、また考え事か?」
苦笑の中に気遣いの気配がまじる声。アーロンだった。
「あ……いえ、大したことじゃありませんから。例によって、考えてもしょうがない事をぐるぐる考えていただけで」
カゼスも苦笑を浮かべ、つとめて明るい声を出す。アーロンに優しい微笑を向けられ、カゼスは途端に恥ずかしくなって赤面した。
「本当に進歩がないですね、私は……。ほかにやる事はないのか、って思うんですけど」
もごもごと弁解するように言い、あっと気が付く。ほかにやる事は、あるのだ。そもそもカゼスはエンリルから、アルハン側の動きに対処するよう命じられていたわけで。
「そうだった、行かなくちゃ」
慌ててカゼスは風を呼ぶ。ここから一直線にアルハンの王都レムノスを目指せば、今日の内に着くだろう。アルハンでどのような動きが出ているかを探り出せたら、エンリルも反乱軍に対処する術を選びやすくなる。
それに、もし運よくアルハンの顧問官と接触できれば、ラームティンやクティルにどんな細工をしたのかを聞き出せるかも知れない。
(うだうだ考えてる場合じゃなかった)
ふわり、とカゼスの体が浮き上がる。と、アーロンがその手をとらえた。
少し浮かんだ状態のまま、カゼスは目をぱちくりさせてアーロンを見下ろす。手をつかんだ当人も、自分の行動にばつが悪いのか、曖昧な表情をしていた。
アーロンは、何かもっとほかに言いたいことがあるのにそれが分からない、というような風情で、ためらいがちに言った。
「……あまり無茶はするなよ」
「大丈夫」
カゼスはふと微笑み、アーロンの手を軽くぽんと叩いた。例の術を施した手だ。
「一緒にいますよ」
ごく自然にそう口に出し、それからカゼスは猛烈な勢いで真っ赤になった。
「って、何言ってるんでしょうね私は、心配されてるのは私の方なんだから、私なんか一緒、いっ……、その、いるとかなんとかって問題じゃ」
あわあわと早口にまくしたてるカゼス。アーロンは思わず失笑し、急いで真面目そうな表情を取り繕ってうなずいた。
「そうだったな」
少し茶化すような声音。カゼスは、ううっと拗ねたような恨めしげな顔になる。その頬に軽く手を触れ、アーロンは小さく、愛している、とささやいて手を離した。
その言葉がカゼスの胸に広がるより早く、強い風が彼女を抱き上げ、空の高みへと運び去った。
見る間に青空の向こうに消えて行く姿を見送り、アーロンは陽射しに少し目を細める。背後でわざとらしいため息が聞こえるまで、彼はずっとそうしていた。
「……はぁ……まったく、ところ構わずいちゃいちゃすんじゃねえよ」
目のやり場に困る、などと、ため息の主、つまりクシュナウーズが文句をつけた。アーロンは振り向かなかった。どうせ相手がにやにや笑っているのは、見なくても分かる。
顔を下ろして海原を見るともなく眺め、アーロンは口の中で何事かつぶやいた。クシュナウーズが白々しく、なんだって、と聞き返す。
「独り言だ」
素っ気なくアーロンはそれをいなしたが、クシュナウーズは食い下がった。
「そうか? 俺には、何やら祝儀が要りそうな言葉が聞こえたんだがね」
こんな美味しい獲物を簡単に離せるか、とばかり、愉快げに目を輝かせている。性質が悪い。アーロンはちらりと背後の男を見やり、やれやれとため息をついた。
「おぬしに祝って貰わずとも結構」
「まーたまた、冷たい事を言うもんじゃねえよ」
とうとうクシュナウーズは、肩に腕を回して顔を覗き込んできた。こういう仕草は、彼がカワードと同類であることを思い出させる。つまり、無遠慮な中年男、という種族。
「お嬢ちゃんと結婚すんなら、早い内だぜ。もたもたしてっと、あいつに目をつけてる男に先を越されるぞ」
「たとえばおぬしに、か?」
冷ややかに言い返し、アーロンはじろりと相手を睨みつける。それから、言い返したことが肯定につながると気付き、顔をしかめてクシュナウーズを振り払った。心なしか、頬が紅潮しているように見える。
クシュナウーズは逆らわずに離れたものの、にやにや笑いはいっそう露骨になった。
「ま、おまえさんだったらお嬢ちゃんも幸せかもな。んで? 式はどうすんだ。もちろん公にはできねえだろ?」
「うるさい、余計なお世話だ」
苦々しくアーロンは唸る。当然クシュナウーズは喜ぶばかり。
「ああそうか、そうだよな、まだ求婚の言葉も決まってなさそうだもんなぁ」
「クシュナウーズ!」
とうとうアーロンは我慢の限界に達し、クシュナウーズにつかみかかる。だが小柄で身軽なクシュナウーズは指一本触れさせず、ひょいひょい身を躱しながら尚更げらげら笑うばかり。
この上まだ茶化す気配を見せたクシュナウーズに、アーロンは不吉なまなざしを向け、じわりと手を剣の柄に伸ばした。さすがにクシュナウーズも笑いをひきつらせる。
「……いい度胸だ」
アーロンは暗い声で言うと、すらっと剣を抜いた。
「ちょ、ちょっと待て、おい、それは洒落にならねえぞ? 落ち着け、な。花婿が味方を殺して投獄されちゃ……」
「その余計な口、二度と叩けぬようにしてくれる!」
つい先刻までたっぷりと血を吸っていた剣が、ふたたび唸りを上げた。クシュナウーズはわざとらしい悲鳴を上げながら、甲板を逃げ回る。
かなり真剣に追いかけっこをしている指揮官ふたりを眺め、ティリス兵たちは呆気に取られていたのだった。




