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帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
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二章 呪われた子 (3)



 アラナ谷のアルハン側に広がる丘陵地帯を越えると、あまり広くはない平野部と川を一本挟んで、鬱蒼とした森が行く手を遮っている。アルハン側はエラードよりも更に湿潤な気候なので、この辺りから明らかに植生が変わってきているのだ。

 カゼスはリトルだけを連れて、ひとり偵察に急いでいた。姿を消し、風に乗って北西へ飛び続ける。点在する農家の集落や、羊の群れがもこもこと動いている牧草地、なだらかな丘を飛び越えて行くのは、状況と目的を忘れられさえすれば、快適この上なかった。

 森はかなり広い上に、エラードのこの辺りにはあまり魅力的な産物もないため、陸路よりは海路で直接アラナ谷まで行くのが主な交易路だ。それゆえ、大部隊が森を抜けてくることはあまり考えられなかった。が、

「だからこその奇襲だし、囮ということもある、か」

 出掛けにヴァラシュから言われたことを思い出し、カゼスは独りごちた。

 森から無視出来ない規模の軍勢が現れれば、谷の守備力を迎撃に回さなければならない。となると海からの敵をタフタン沖で撃退するのに失敗した時、そのままアルハン軍は谷を遡ってアルベーラの領主館まで押し寄せてしまう。

「人手が足りないなぁ」

 どこもかしこもぬかりなく守るには、兵の数が少ない。アルハンがよそにも兵力を回していれば別だが、全兵力が叩きこまれたら、一度として負けられない瀬戸際の戦いを強いられるだろう。

 ふう、とカゼスはため息をつき、丘の上に降り立った。黄昏の中に黒々と横たわるヒルカニアの森を眺め、かすかに秋の気配を乗せた風に頬をなぶられて首を竦める。

 厳しい面持ちで行く手を見つめるカゼスの横で、リトルが何を思ったか、微妙に首を傾げるような角度になって言った。

〈そうしていると、まさにラウシール様という印象ですね。このデニスに落ちたばかりの頃は、到底考えられなかったことですが〉

 がくりと脱力し、カゼスは半眼になってリトルを振り向く。

〈また厭味かい、勘弁してくれよ〉

〈厭味? 私は事実を述べているだけです。今では誰もがあなたを『偉大なる青き魔術師』と認めている。あなたもそれに相応しくなったということです〉

 貫禄がついたとでも言いたいのだろうか、それとも態度がでかくなったとか? 態度についてはリトルに言われたかないよな、などとカゼスは憮然とする。それから何か言い返そうとして、唐突にリトルが言わんとするところを察した。

〈……つまり、私の方が周囲に合わせているようだ、ってことかい〉

〈推測ですが〉リトルは空中で角度をまっすぐに戻して答えた。〈あなたがこの惑星の力場に適応していくのと、容貌の変化、それに周囲の認知度が、一致した推移を見せているように思われて仕方がないんですよ。卵が先か鶏が先か……。ですが、あなたの女性化が始まった時期を考えると、あなた自身の感情、あるいは周囲からの感情や認識が、身体的な変化を促しているのではないか、と〉

 最後まで聞かずにカゼスは赤面して耳をふさいだ。精神波なので、そんなことをしても無駄なのだが。

〈ちょっ……それじゃ何か? 私が、その、つまり〉

〈アーロン氏のご希望に応じるべく女性化した、とも考えられますね〉

〈ばっ、だ、何が、ご希望ッ〉

 真っ赤になってじたばたするカゼスに、リトルはやれやれと呆れた気配を送ってよこした。聞こえよがしに、合成ボイスでため息をつく。

〈だとすれば、ミネルバでのあなたが、容姿も能力も平々凡々の十人並みで誰の記憶にも残らない程度の存在だったのも、わかるということなんですよ〉

〈……なんかすごく傷つく言い草だと感じるのは、私の被害妄想が悪化したせいかな〉

〈ご心配なく。事実とは往々にして残酷なものです〉

 冷たくいなされて、カゼスはその場にしゃがみこんでしまった。が、それで少し気分が沈んで落ち着くと、リトルの言う『事実』が確かに納得できた。

「ああ」

 声に出して嘆息し、前に流れ落ちる青い髪をかきあげる。軽く唇を噛み、顔をしかめた彼女の目には、辛辣な色が浮かんでいた。

〈私がいかに適応力のある生物か、ってことだね。私が無害であるようにと願う周囲の感情を、無意識に受け取ってその通りの存在になっていた、ってわけだ〉

〈あるいは、そうでなければ生命が脅かされると本能的に察知したか、ですね。何にせよあなたは、周囲の状況に合わせて変化する能力に優れている……と、まあ、まだ推測ですが。もしかしたら魔術力場とのかかわりの方が大きいのかも知れませんし、相手によって変わるのは性別だけかも知れません〉

〈もうその話はいいって……〉

 また赤くなりかけ、カゼスは拗ねたように遮った。そしてふと目を上げ、

「――!」

 はっと息を飲んで弾かれたように立ち上がった。

 森の中に、篝火が灯っている。暗くなっていく世界の中で、そこだけ黄金をばらまいたように光が集まっていた。

 やはり来たか。

 カゼスは一見美しいその光景を、厳しい目で睨んで立ち尽くす。リトルが周辺をさっと飛び回って調べ、すぐに正確な状況を報告してくれた。

〈純戦力としての兵数はざっと二千。まだ森を抜けてはいないようですね。輜重隊の列が伸びてないところからして急いでいないのでしょうし、こうも堂々と篝火を焚くからには、隠密を最重要と考えているのでもない。つまりこちらは本命の奇襲部隊ではなく、谷の戦力を分散させるための囮でしょう〉

 指揮官がどうしようもなく馬鹿なんだったら別ですが、と付け足してリトルが締めくくると、カゼスはよしとうなずいた。

〈じゃ、すぐに戻って参謀殿に報告しよう。あの人だけのんびりさせとくのも癪だしね〉


 実のところヴァラシュは、館に残ってさぼっていたわけではなかった。

 カゼスが『跳躍』で戻ったのはちょうど夕食時だったが、ヴァラシュは食堂にいなかった。報告する前に夕食をとらせて貰おう、とカゼスは思っていたのだが、のんびりしているはずの相手が食事もまだとなると、気が引ける。

 結局、片手でつまめるような料理を盛った皿を手土産に、カゼスはヴァラシュの部屋へ向かった。給仕のような姿のラウシール様を見て、すれ違う衛兵や召使は目を丸くしたが、カゼスは彼らの視線にまったく頓着しなかった。

「ヴァラシュ殿、いいですか」

 コンコンと入り口の壁をノックする。どうぞ、と柔らかい声が応じる前に、何やらがさごそと物音がした。まさか女の人を連れ込んでるんじゃないだろうな、などとカゼスは疑いながら、カーテンをくぐって中に入る。

 ヴァラシュは机に向かって地図と睨めっこしており、窓のカーテンが揺れているほかは、人の気配もなかった。

「誰かいたんですか?」

 カゼスが問うと、ヴァラシュは白々しくおどけた笑みを見せた。

「おや、光輝溢るるラウシール様が、私の身辺にまで気を遣って下さるとは、実に恐縮。しかも私と食事を共にしたいと仰せられる」

「……別に、あなたと食べたくて持って来たわけじゃないんですけど」

 疲れる人だ、と苦笑しながらカゼスは机の空いた場所に皿を置く。ヴァラシュは別の椅子を引っ張ってきてカゼスにすすめ、葡萄酒の盃を用意した。

「ご親切に」

 軽い驚きと皮肉を込めて、カゼスは礼を言った。ヴァラシュがこうも親切にしてくれるということは、何か裏があるに違いないと思ったのだ。が、返って来たのは意外に素直な言葉だった。

「食事を運んで頂いた御礼ですよ」

 カゼスは目をぱちくりさせ、まじまじと相手を見つめた。疲れてるのかな、などと失敬にも心配する。カゼスが盃に口をつけると、ヴァラシュも料理に手を伸ばして、それで、と報告を促した。

 ヒルカニアの森にいた軍勢のことを、リトルの観察をまじえて知らせると、ヴァラシュは案の定といった風情であっさりとうなずいた。

 思わずカゼスは、分かってたんなら偵察に行かせなくたっていいじゃないか、などと苦笑まじりに考えてしまう。もちろん実際に見て確かめねばならないのは当然なのだが、ヴァラシュの態度を見ていると、世界は彼の思惑通りに動かされているだけではないのか、と疑ってしまうのだ。

「クシュナウーズ殿の方は?」

 カゼスはヴァラシュの手元に広げられた地図を覗き込み、問うた。地道に飛んで行ったカゼスと違い、クシュナウーズの方はイシルの力で一気にタフタン沖まで出たのだから、往復にかかる時間だけは、はるかに短いはずだ。……便利か不便かはさておき。

「ちょうど今からだ」

 滴の音と共に声が割り込み、カゼスとヴァラシュは揃って入り口の方を振り向いた。やはりそこには、全身ずぶ濡れのクシュナウーズが立っていた。床を濡らされて、ヴァラシュは迷惑そうに眉をひそめる。

「元帥閣下にはそれらしい身なりをして頂きとうござるな」

「文句はあの水竜ジジイに言えよ。すぐそこの池から放り出されたんだ、しょうがねえだろうが」

 クシュナウーズはぴしゃぴしゃと足跡をつけながら入ってきて、カゼスの前に立つ。察したカゼスが服を乾かしてやると、彼は満足そうに破顔した。

「いやー、まったくお嬢ちゃんは便利だねえ」

「お役に立ちましたら何より」

 乾燥機じゃないんだけど、とカゼスは苦笑しながら答える。ヴァラシュはそんなやりとりを無視して、素っ気なく「それで?」と問うた。当然ながら、椅子も用意しなければ葡萄酒をすすめもしない。

 クシュナウーズは気にした風もなく机に近づき、勝手に皿から一品つまんで口に放りこんだ。小麦粉の生地を薄く焼いて肉や野菜、干し葡萄などを巻いたものだ。ほとんど丸呑みのような勢いで喉へ送り込み、また新しいものに手を伸ばす。その合間に彼は言った。

「まだ遠いが、結構な数が来てやがる。タフタンに攻め込むのは確実だろうな。とは言っても、今度はアルハンの海軍がほとんどで、雇われ海賊どもは少ない。だから、ちょいとタフタンに寄って、こっちの船に細工をしておくように指示を出してたんだ」

 ごくん。ふたつめも瞬く間に消える。カゼスは思わず、あと何秒で皿が空になるかを数え始めてしまった。その視線が皿に向いているのに気付き、クシュナウーズは申し訳なさそうな顔を作って肩を竦めた。

「悪ィな、後でまた厨房からかっぱらって来てやるよ」

「あ、いえ、そんなつもりじゃ」

 慌ててカゼスは手を振り、そんなに物欲しそうに見えたかな、と赤面した。ごまかすように急いで「細工って?」と話を戻す。

「ああ、その件なんだがな」

 クシュナウーズはもがもが言い、みっつめを飲み込んで、にやっとした。

「お嬢ちゃん、何百人もいっぺんに、てのは無理でも、数十人程度なら、ラガエからここまで何回かにわけて連れて来られるよな?」

「……そりゃ、まあ。『跳躍』しなくてもこっちと向こうに円陣を描いておけば、十人ぐらいずつ小分けにして運べますけど……」

 円陣を利用する転移なら、跳躍よりは場が安定しているため、初めての人間でもさほどつらい思いをしなくてもいい。だが、そんなことをちまちまやっている余裕があるのだろうか?

 小首を傾げたカゼスに、クシュナウーズはよしよしとうなずいた。

「タフタンでやらせてる改造は、海賊式のやり方をもっと素早く安全にするためのもんでな。まず先に楔のついた渡し板を用意して、そいつを船の舳先や縁に取り付けるんだ。こう、左右どっちにも動くようにして。敵の船に近付いたら板を下ろして打ち込み、そこから兵士を送り込むわけだ」

 得意げになクシュナウーズの説明を聞いて、カゼスはぽんと手を打った。

「そのために漕手や弓兵だけでなく、精鋭の兵士を船に乗せるんですね」

「そういうこった。ま、アルハンだけじゃねえが、たいてい軍船にゃ白兵戦用の兵力なんぞ少ししか乗せてねえからな。予想外の人数がなだれ込みゃ、大騒ぎになるぜ」

 クシュナウーズはにやりとして応じた。船の戦は衝角で相手の船体に穴を空けて沈めるか、火矢を併用した弓攻撃で乗り手を殲滅して拿捕するか、といったものが主流だ。今、彼が言ったような戦法は、海賊が鉤つきロープで乗り移ったりする以外には見られない。

 拿捕する最終段階になって兵が乗り込んだり、衝角が刺さったままになった状態で白兵戦になだれ込むことは、確かにある。それゆえ少数の兵士も同乗しているが、その数を増やすよりは、漕手と櫂の数、すなわち船の大きさの方が重要視されていた。大きければそれだけ、大掛かりな飛び道具も載せられるし、装甲も頑丈にできるからだ。

「そういうことなら、少数の兵力でも効果がありそうですね」

 なるほど、とカゼスは感心してうなずく。得意満面になったクシュナウーズに、横からヴァラシュが突っ込みをいれた。

「私もおぬしに以前、同じことを言ったように記憶しているのだがな」

「そうだったか?」

 クシュナウーズは白々しくとぼけ、まあ細かいことは気にするなよ、とヴァラシュの肩を叩いた。ヴァラシュは冷ややかな目をちらりと向けたものの、いちいち取り合わず、さっさと話を先に進めた。

「ではラウシール殿には続いて海軍の手助けをお願いしましょう。ヒルカニアからの方は私とウィンダフラナ卿の手勢で片付けられますのでね。アルダシール卿には万一に備えタフタンの防衛に当たって頂き、ウタナ卿がアルベーラを守備する、と。クシュナウーズ、おぬしはタフタン沖でアルハン軍を蹴散らしたら、後をアルダシール殿にお任せしてティリス海軍を率い、ファシスに回ってマデュエス王の残党討伐に向かうように」

「休む間もなし、かよ」

 もう勝ったものと仮定しての指示が出され、クシュナウーズは苦笑いした。

「んじゃあ、ラガエから回す兵は選りすぐりでなきゃいけねえな。アーロンの奴でも引っ張り出すか」

 海軍だけでなく陸軍の精鋭を乗せてファシスに回れば、残党を片付けつつラガエへ帰還できる。効率的なルートと言えば確かにそうだ。が。

「けどよ、タフタン沖で負けたらどうする?」

 意地悪くクシュナウーズは、もうひとつの可能性を訊いた。ヴァラシュは振り返り、ごく当たり前のことのように平然と答える。

「その時はおぬし、もはや指示など必要なかろうよ」

 カゼスとクシュナウーズは揃ってひきつり、しばらく凍りついた。もちろんこの男のことだ、思うように戦況が運ばなかった場合のことも、百通り考え百通りの対策を打っているだろう。だが、少なくともクシュナウーズには、勝つ以外に未来はない。負けたら用済み。戦死していなければ、責任を取らせてクビ……と、そういうことだ。

 ややあってクシュナウーズは、深いため息をついた。

「……悪かった、訊いた俺が馬鹿だった」

「なに、謝罪には及ばぬよ。そのような事、とうに承知しているとも」

 そう言ったヴァラシュの笑顔は、いっそ清々しいほどだった。


 いったんタフタンに行って転移陣を用意し、それからカゼスはラガエに戻って、アーロンに計画を伝えた。

「しかし、俺はエンリル様からラガエの守りを任されているのでな……」

 さすがにアーロンは迷う気配を見せた。いくらヴァラシュの方が自分より命令系統の上にいるとは言っても、頂点であるエンリル直々に頼まれたのだから、簡単にラガエを空けるわけにはいかない。スクラとサルカシュの二将がおり、また連れ出す兵数が全体の一割にも満たないと分かっていても、だ。

 とは言えアーロン自身、危険度の低いラガエにとどまって、よそからの知らせを待つだけというのは、うんざりするような任務と感じてもいた。

 全土に目を向ければ確かに敵の手は伸びていよう。だが、ラガエにまで敵が肉薄するとしたら、それはアラナ谷も、ティリス本国すらも、敵の手に奪われた後のこと。ぼんやり留守番をしていることに何の意味があろう。

 そんな彼の内心には気付かず、カゼスはうーんと唸った。

「そう……ですよね。でも、じゃあ、ほかに腕の立つ人は……」

 どう対処して良いか分からず、曖昧にもごもご言う。と、アーロンはヴァラシュからの命令書を机に置いて、顔を上げた。

「いや、俺が行こう。ラガエの留守はイスファンドに任せ、ほかに腕の立つ者を選りすぐれば良い。おぬしが直接タフタンに我々を送ってくれるのならば、こちらの動きが敵に知れることもなかろう。俺はまだここにいるというごまかしが効く」

「良かった」

 思わずホッと破顔したカゼスに、アーロンもわずかな笑みを浮かべる。

「おぬしもタフタンに向かうのだな」

 はい、とカゼスは応じて、遅ればせながら自分が無意識に喜んだと気付かされ、ぱっと赤面した。アーロンはカゼスの頬に手を伸ばし、そっと仰向かせる。

 カゼスは一瞬どきりとしたが、アーロンの表情を見て、意外な思いにとらわれた。その隙に、唇を重ねられる。それは今までに何度か交わしたような、優しく軽い口づけとは少し違っていた。激しくはなかったが、まるで何かを惜しむかのようにさえ感じられて。

 しばらくそうしてから、アーロンはカゼスを抱きしめた。包み込むよりもしっかりと、けれど決して強すぎはしない程度に。戸惑いと恥ずかしさとでカゼスが声も出せずにいると、彼は何度か青い髪を愛撫し、ささやくように言った。

「俺も、叶うならば常におぬしと共にいたい。だが……出会ったばかりの頃、おぬしは言っていたな。いずれ自分はデニスから去る身だ、と」

「―――!」

 カゼスは息を飲み、ぎくりと体をこわばらせた。彼は忘れてはいなかったのだ。むしろ忘れていたのは、自分の方。

 いつまでも共にいられるわけではない、ということを――。

「それは、遠くない未来のことなのか、あるいは何十年も先のことなのか、おぬしは知っているのか?」

「いいえ」答えた声が震えた。「でも……そう遠くない未来でしょう。私が力を貸したのは、エンリル王がデニス統一を成すまで、と……そう、伝えられていましたから」

「……そうか」

 アーロンはつぶやき、あとは無言で、ただカゼスの頭や肩を撫でている。

(帰れるんだろうか)

 カゼスは不安に駆られ、逃げ出したくなった。時空を渡ることは、今ではもうさほど難しいことではなかった。教え込まれた概念や呪文に縛られる事なく、自由に『力』の流れを扱えるようになった今となっては。だから、それは何ら問題ではない。

 だが、この居心地の良い温もりから離れられるのだろうか。いつまでも甘えて、ずるずると居残ることになりはすまいか。

 エンリルがデニス統一を果たせば、自分は帰るのだと決めてはいた。そうせねばならない事もわかっている。単に歴史上そうなっていたから、というだけでなく、このままデニスに留まれば、いずれリトルに消される事態になるだろうから。リトルが手を下す必要を認めずとも、未来のどこかの時点で気付いた禁制新種管理委員会の手が回るだろう。

 それは分かっている。分かっているけれど。

(い……)

 嫌だ、という言葉が意識で形作られる前に、カゼスはそっとアーロンから身を離した。

 つらい、悲しい、そう感じるだけの内に。離れたくない、という思いが自分の中で確かなものにならないように。

 ぎゅっと唇を噛みしめ、我が身をきつく抱くようにして、泣き出しそうなのを堪える。その姿を見て、アーロンは少し寂しいような、それでいて愛しそうな微笑を浮かべた。

 彼はしばらく、ただじっと黙っていた。自分の思いをどう伝えたものか悩んでいる風情で、爪先を見つめたまま。

 ようやく彼は顔を上げると、短いひとことを口にのぼせた。

「大丈夫だ」

 驚きに目を瞬いたカゼスに、アーロンは小さく、だが確信を込めてうなずきを返す。

「いずれ離れ離れになるとしても……」

 すっと手を上げ、指先で自分の胸を指し、それからカゼスの胸元に軽く触れた。まるで魂を分け与えようとするかのように。

「思いは共にある」

 カゼスは絶句し、彼を見つめたまま立ち尽くした。短い言葉の向こうにある思いをぼんやりながらも感じ取り、圧倒されてしまったのだ。単なる気障な口説き文句でも、勢いだけの言葉でもない、深い理解と真摯な思いがあってこその言葉だとわかるから。

 アーロンは、行くな、とも、行かせない、とも言わなかった。ましてや、カゼスの思いを疑うようなことも。

 自分のなすべき事をなそうとするカゼスの姿勢、自分に甘えや感情のままの振る舞いを許すまいとする姿勢を、理解してくれたのだ。理解し、是認した上で、そばにいると言ってくれた。支えになる、と。

 大丈夫――。

 その一言がこれほど深い安堵を与えてくれるものだと、今この瞬間まで知らなかった。

 おずおずと彼女は、自分に触れているアーロンの手を取り、ぎゅっと握りしめた。

「私には、もったいないです」

 カゼスはうつむいたまま言った。声が震え、涙がこぼれる。

「こんなことを言ってもらえるなんて……」

 デニスの男が平均してどうなのかは知らない。だが、いずれ去ると分かっている相手に対し、ここまで言ってくれるような者が大勢いるとは思えなかった。決して自分のものにはならないのに。普通の女のように、妻となり、子を産み、生涯夫に従うような、そんな望みはまったくないのに。

 カゼスはアーロンの手を離し、涙を拭ってごまかし笑いを浮かべた。

「いまさらですけど、本当のところどうして私なんかを?」

「あれこれ言うたところで、結局は理屈ではないさ」

 アーロンも苦笑し、肩を竦める。

「いずれにせよ俺は、おぬしと共にいられることが幸せだと思う。もちろん、思いだけでなく……」

 そこで彼は珍しく茶目っ気を出して、カゼスをぎゅっと抱き締めた。

「こうして実際にそばにいられるなら、それに越したことはないのだがな」

 途端にカゼスは真っ赤になって、手をじたばたさせてしまった。

「あ、あああの、アーロン、その、そろそろ準備を、しないと」

「そう急がずとも良かろう」

 アーロンは意地悪く言ったが、もとより彼も雰囲気を変えることを目的にしていたので、軽い口づけを一回しただけで腕をほどいた。深刻な話をした後の気恥ずかしさが、冗談の気配に紛れて消える。

 カゼスは少し拗ねたような上目遣いでアーロンを睨んだが、すぐに照れ笑いになってちょっと頭を掻いたのだった。


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