二章 呪われた子 (2)
一方その頃、ティリス王都は陸海ともに完全に封鎖されていた。
岬の首にあたる地帯にはラームティンとクティルの軍勢が布陣し、街道はもちろんそれ以外の土地にも監視の目を光らせている。
海上も、まだティリス港に攻撃をしかけるには至っていないものの、カッシュから出た船団が遠巻きにしており、物資の補給を断ってしまっている。
ゾピュロスの留守を預かるニーサのマルドニオスは、海上封鎖だけでも破ろうと船を出していたが、迂闊に攻めることもできず手をこまぬいていた。今ここで下手に刺激して王都に攻め込まれては、王都にいる少ない軍勢だけでは防ぎきれない。もし王都が陥落しようものなら、海上封鎖を突破したところで、意味がなくなってしまう。ともかくエンリルの兵が戻るまで、時間を稼ぐしかなかった。
「とんだ時に来合わせてしまったものですね」
申し訳ありません、とシーリーンがアトッサに言った。市街地の城壁に登り、すぐそこまで迫っている反乱軍の陣容を眺めて、アトッサは平然と首を振った。
「これも何かの巡り合わせであろう。起こってしまったことを嘆いたところでどうにもならぬ。今この状況に、居るべくして居合わせた、と考えた方がまだしも建設的というものだ」
そこまで言い、彼女は城壁の外に広がる焼け野原に目を向けた。反乱の知らせを受け、すぐにオローセスが籠城の準備をさせた結果だ。
刈り入れられるものは麦の穂一本残さず刈り入れ、王宮に運び込めないものはすべて焼き払った。近隣の住民には南へ逃げるか、よるべのない者は都と運命を共にする覚悟で王宮に来るよう呼びかけて。
アトッサの視線を追い、シーリーンも表情を翳らせる。
「ですが……やはりせめて、アトッサ様だけでも逃げて頂くべきでしたわ」
もちろん最初、誰もがアトッサを逃がそうとしたのだ。救援を求める急使と共に海路ニーサへ避難して下さい、と。
だが、彼女は頑としてそれを拒んだ。身ひとつで訪れた自分たちを、オローセスは嫌な顔ひとつせず匿ってくれた。その恩人を見捨てるなど出来ぬ相談だし、第一、下手に逃げようとすれば反乱軍に捕らえられ、さらに状況を悪化させてしまう。
アトッサ本人のみならず、バールとハムゼの二人までがそれに賛成したので、無理にも送り出すことが出来なかったのだ。
もっとも、逃げるように言われたのは、実のところアトッサだけではなかった。
「その言葉、そっくりそのままシーリーン殿にお返しするぞ」
アトッサはにやりとして言い返した。シーリーンは言葉に詰まり、目をそらす。
「……まあ、結局、頑固者ばかりが王宮に残っているということですわね」
ふっとため息をついて、シーリーンはごまかすように苦笑した。アトッサは、シーリーンと近衛隊長アスラーとのやりとりを思い出し、小さくふきだした。
「御身にもしものことがあれば、私はゾピュロス卿に生皮を剥がれてしまいます」
アスラーはいつもの無表情ながら珍しく深刻な声でそう言って、シーリーンを逃がそうとしたのだ。だがシーリーンは、オローセス様の側を離れません、いざとなったら先王陛下の盾となるぐらいの覚悟はあります、とまで言い切った。
てこでも動かぬ決意を察し、アスラーはため息をついてこう言ったのだ。
「では、陛下の盾となる前には一声かけて下さるよう、お願い申す。私がシーリーン殿より前に出ましょう。いずれ同じくこの首が飛ぶのであれば、ゾピュロス卿ではなく、敵の手にかかった方が名誉を守れましょうからな」
真面目くさった顔で言われたので、皮肉なんだか何なんだか、しばらく誰も分からなかった。その時の雰囲気が脳裏によみがえり、アトッサは胸壁にもたれてくっくっと肩を震わせる。シーリーンは赤くなってそれを見下ろし、何とも言えない顔をした。
彼の言葉がある種の称賛であると気が付いたのは、オローセスその人だった。
「さても頼もしきことよな。我が前には盾持つ乙女がおり、さらに乙女を守らんとする勇士も控えておるとは」
アトッサはその時のオローセスの言葉をつぶやくと、からかうような目をシーリーンに向け、おどけて肩を竦める。
「シーリーン殿が盾持つ乙女というなら、私は弓を取るとしよう。剣や槍はあまり得手ではないが、これならば扱えるゆえな。高地の弓は強いぞ」
そう言った彼女の背には、矢のぎっしり詰まったえびらが掛かっている。胸壁にもたせかけてある弓は、高地から道中の危険を予想して持参したものだ。ティリスの弓もかなりのものだが、それすら足元に及ばぬ精確さと射程距離をもっている。
「アトッサ様まで戦線に立たせるわけには参りません」
慌ててシーリーンは言ったが、当然、そんな言葉をまともに取り合うアトッサではなかった。相手の懸念を一笑に付してしまう。
「王宮の奥に隠れて震えておるだけならば、何のためにここに残ったのか分からぬではないか。まあ、確かにあまり早く腕前を披露する機会が訪れると、それも困るがな」
彼女がそう言った時、城門脇の小さな通用門が開き、数人の使者が街を出た。アトッサは油断なく弓を取り、矢を一本えびらから抜いた。使者が攻撃されて逃げ戻るようなことがあれば、援護せねばならないからだ。アトッサ以外にも十数人の弓兵が、城壁で待機している。
使者は王宮侍医のイスハークだった。護衛としてダスターンが付き添っている。彼らの姿が無事に反乱軍の陣に迎え入れられたのを見届けると、アトッサは息を吐いて弓を下ろした。
「せめて少しでも、時間を稼ぐことができれば良いのだが」
アトッサのつぶやきは、風にまかれて散り散りに消えた。
ラームティンとクティルの前に通されたイスハークは、彼らが話す前から敵意と戦意をみなぎらせていることに気付き、内心で眉をひそめた。もちろん表情にはそれをいっさい出さず、平然とした態度を装う。
「イスハーク殿か」
ラームティンが幾分か穏やかな口調で言った。イスハークは王族のみならず、王都に滞在している貴族をも診ていたので、ラームティンやクティルも幾度か世話になったことがあるのだ。
「どのような口上をたずさえて来られたにせよ、我らの意志は変わらぬぞ。まあ、それはそれとしてイスハーク殿には昔の恩もある、相応のもてなしは致すが」
「お二方とも、誰に槍を向けているか、理解しておいででしょうな?」
イスハークは懸念の表情を見せ、二人の貴族に問うような視線を投げた。
と、クティルが口髭を震わせて鼻を鳴らした。
「我らは世の理を則として、当然の要求をしておるに過ぎぬ」
「さようでござりまするか。しかし私の目には、お二方が忠誠の誓いをたやすく破られたように見えまするぞ。老いぼれの思い過ごしと仰せられるか?」
厳しく言い返したイスハークに、ラームティンとクティルは、痛いところを突かれたとばかり渋面になった。二人とも、エンリルに対しては公然と敵意を表明しているが、オローセスに対しては強い態度を取れずにいる。
「……オローセス様に対する忠節に、変わりはない」
むっつりとラームティンが唸る。いっそ堂々と、エンリルもオローセスも共に廃して自らが王になるとでも宣言すれば良かろうに、そう出来ないというのは彼らが大義名分を必要とする小心者であるがゆえか、それとも……
(やはりアルハンの顧問官めに操られておるがゆえに、斯様に噛み合わぬ言動を見せられるのじゃろうか?)
イスハークは二人を注意深く観察し、以前の姿と比べてみた。だがどうも、これは操られているのとは少し違うような気がする。
(かつてエンリル様を亡き者にせんとしていた頃、お二人には迷いなどなかった。じゃが今はどうだ。なんと優柔不断な、言い訳じみた態度を取られることよ)
むしろこの態度は、直接的な操作ではなくもっと間接的なものを示唆しているようだ。
「いったい誰がお二方を唆し、主君に背かせたのです?」
すなわち、二人の心情を都合よく刺激して、このような行動を取らせた何者かがいる。そうイスハークは読んだが、謀反人がそれを認めるはずもなかった。
「背いてはおらぬ、と言うておろう!」
ラームティンが苛立たしげに否定する。クティルがそれに言葉を添えた。
「我らは真実、オローセス様の復位を望んでおるのだ。資格を持たぬ者に王権を与え、気ままにさせておくわけにはゆかぬ」
「そうはおっしゃるが、まさにそれこそがオローセス様の望まれること。エンリル様に王位を譲り渡したのは、オローセス様ご自身なのですぞ」
イスハークも負けじと言い返す。だが相手はいっそう態度を硬化させた。
「ならばその過ちを、我らの手で正さねばならぬ」
「ナキサー卿がかつて、オローセス様の名誉を慮って、我らに黙したまま成し遂げんとしたことを、我らが受け継いだのだ。たとえ今は反逆者の汚名を着ようとも、我らが正しいことはいずれ明らかにされよう」
二人がそれぞれ確信をもって言い切ったので、さすがにイスハークも不安になった。いったい彼らは、何のことを言っているのだ?
と、護衛として控えていたダスターンが、我慢の限界に達して怒鳴った。
「黙れ、私欲の為に一度ならず二度までも主に背いた謀反人が! 何をもって貴様らの正義を語るつもりか!」
ラームティンの傍らに控えていた武将シャーヒーンが、ほとんど条件反射の素早さでサッと剣に手をかける。ラームティンはそれを手で制し、口元をわずかに歪めた。余裕と嘲笑、皮肉のいりまじった表情で、彼はダスターンに言った。
「目を眩まされた愚かな若造よ、ならば貴様にも真実を知らせてやろう。よく聞け」
不吉にそう前置きし、彼はゆっくりと、一語一語を強調して告げた。
「エンリルは、オローセス様の子ではない」
「――!」
イスハークが息を飲み、ダスターンは何か言いかけて口を開いたまま絶句した。その場に鉛のごとき沈黙が降り、時さえもしばし凍りつく。
「……は」
笑いに似た妙な吐息をもらし、ダスターンがそれを破った。
「何を馬鹿な。言うに事欠いて、そのような、根も葉もないことを」
ゆるゆると首を振って否定はしたものの、その声は動揺のあまり震えていた。
王たる者は、それにふさわしい血を引いていなければならない。たとえ実力があろうとも、正しい家柄の者でなければ、真に王たる資格はない。それは当然であり、疑いを差し挟む余地のない事実なのだ。
「あの方には強い皇族の力がある。お姿もオローセス様に生き写しではないか。誰がそのような嘘を信じるものか!」
余裕の笑いを装おうとしたダスターンに、クティルが冷ややかな問いを投げた。
「ならばなぜ、ナキサー卿が背いたと思うのだ?」
ダスターンが、ぐっ、と言葉に詰まると、クティルはイスハークに視線を移した。
「侍医殿はご存じだったようだな。さもありなん。あの日……ティリスが海の民の手に落ちた時、奥方と、生まれて間もない赤子はともに、剣に貫かれて亡くなった。オローセス様の御子は既に十八年前、異世へ逝かれたのだ。ティリスの王宮を守っていたナキサー卿は、そのことを知っていた。それゆえ、日に日にあの小僧が増長してゆくのが耐えられなかったのだ」
「まさに忠義と言うべきではないか?」ラームティンが続ける。「それをあの小僧は反逆者の汚名を着せたまま、真実もろとも葬り去った。許してなどおけるものか!」
「…………」
さすがにもう、ダスターンにもそれ以上抗弁する気力は残っていなかった。ややあってイスハークが、重々しく問うた。
「どうあっても、エンリル様を王位から追い落とすと言われるのじゃな? 血筋にとらわれることなく、彼の人の輝かしい実績を見んとする、その意志はないと?」
「何が輝かしいものか!」
クティルが吐き捨てるように言い、ラームティンが、さよう、とうなずいた。
「考えてもみられよ。彼の者が王座に近付き始めた頃から、ようよう平和になっておったティリスが再び戦続きになったではないか。マティスめが王宮に入り込んで乱を煽り、その次はマデュエスごとき柔弱の王に付け入られる始末。しかも此度の遠征ではアルハンの船団までも敵に回したというではないか。次はアルハンと戦うつもりか? このままではティリスは荒れ果てた不毛の地になってしまうわ。まさしく、あの者の血が呪われておる証というものよ」
滔々と述べられると、まるでそれが真実であるかのような錯覚をおぼえる。ダスターンは、ぐらつく心を立て直すのに非常な努力を要した。そうではない、彼らの言うことは間違っている。そう分かっているのに、いざどこがどう誤りなのか論じようとしても、うまく理性が働いてくれない。
イスハークのため息が、やけに虚ろに響いた。
「そこまで言われるのでしたら、致し方ありますまい。お二方の言い分は、オローセス様にそのままお伝え申し上げよう。……ほかに何かことづてがおありかな?」
「うむ。一日も早く正しき道に立ち戻り、我らの為にふたたび王権をふるわれんことを、切にお願い申し上げる。そうお伝え願いたい」
ラームティンがいかめしく応じ、使者を送り返すようシャーヒーンに命ずる。
暗い気分以外になんの収穫をも得られぬまま、使者の一行はとぼとぼと街へ歩きだした。道すがら、イスハークがシャーヒーンに問うた。
「お若いの。エンリル様のことは、あのお二人に従う者、皆が知っておるのかね?」
若いの、と言われてシャーヒーンは複雑な顔をした。確かにイスハークから見れば若造であろうが、少なくとも一般的に言う『若者』ではない年齢だ。何かそのことについて主張しておくべきだろうか、と彼は束の間考えたが、結局それは胸におさめておいた。
「一兵卒に至るまで、知らぬ者はないでしょう」
平坦な声で端的に答え、彼はふと城壁の上を見やった。弓兵の姿にまじって、若い娘の姿までが見て取れる。あれはなんだろう、まさか女まで兵力とするつもりなのだろうか、と、彼は眉をひそめた。
彼の視線には気付かず、イスハークは足元に目を落とした。
「まさか今頃になって、血筋を詮議する者があらわれようとはの……」
ぽつりとつぶやいた老医師に、シャーヒーンは問うまなざしを向けた。
「良識ある医師殿でも、不正と知りながら過ちを秘匿されることがおありでしたか」
皮肉というわけでもなく、ただ淡泊に言う。イスハークは立ち止まり、シャーヒーンを見上げた。
「おぬしも、ラームティン卿やクティル卿の言うことに賛成するか」
エンリルは王にふさわしくない。彼が王権を手にして以来、ティリスは悪い方にばかり向かって来た。そして、それはすべて悪しき血のもつ業である、と……。
深い問いかけに、シャーヒーンはしばし沈黙した。それから彼は感情の読めない表情で、私の主君は彼の方でござる、とだけ答えた。
自分は戦うだけで、政治的な判断は主に任せている。あるいは、私見はさておき立場上仕方がない――そういう意味だと理解できる返事ではなかった。イスハークはどうとも取れる意味深長なシャーヒーンの言葉に、やはり何とも応じられなかった。
反乱軍の陣から矢の届かない辺りまで来ると、シャーヒーンは立ち止まり、イスハークたちを見送った。そして、踵を返す前に、城壁の上から射られる心配がないことを確かめようとして、彼は思わず息を飲んだ。
「あれは……」
弓を手に毅然としてこちらを見下ろす金髪の少女――の、隣に立つ、緩く波打つ黒髪と柳のように優美な姿をした娘。
(誰だろう)
無意識にそんなことを考えてしまう。弓を持っていないということは、志願した市民兵というのではないだろう。遠目ではよくわからないが、衣服も上質のものに思えるし、少女に何か話しかけている物腰も上品だ。
と、二人が何事か言葉を交わしてこちらを見たために、シャーヒーンは自分が不躾に娘を見つめていたと気付いて、慌てて顔を下ろして街に背を向けた。
去って行くシャーヒーンの背中を眺め、アトッサは面白そうな顔をした。
「どうやらあの男、シーリーン殿を一目見て、虜になってしもうたようだぞ」
くすくすと笑いながら言い、弓を取って城壁から降りる階段へ向かう。シーリーンは後から歩きながら、まさか、と苦笑した。
「アトッサ様に見とれていたのかもしれませんよ」
「それこそ、まさか、というものだ」
アトッサは肩を竦めていなし、通りを王宮へ向かう使者の一行を急ぎ足に追いかけた。
「イスハーク殿、ご無事か」
老医師に追いつき、アトッサは声をかけた。気さくで奔放なこの少女は、既に王宮内の主だった面々と親しくなっている。どこかエンリルに似た気性のため、受け入れる方も馴染みやすかったのだろう。
イスハークは顔をほころばせ、軽くうなずいた。
「この通り、ぴんぴんしておりますよ。交渉の結果を考えると、喜ばしいことですわい」
耳や鼻を削ぎ落とされなくて助かりました、と苦笑まじりに言う。それを聞いてシーリーンは眉をひそめた。
「……やはり駄目でしたか」
「聞く耳もたぬという対応ですわい。それに、あちらは少々厄介な問題を持ち出してくれましてな。いずれここまで噂は届きましょうが、ひとまずは王宮に戻ってからお話し致しましょう」
交渉決裂の割には、イスハークの態度は飄然としている。だが、その横で暗い顔をしているダスターンを見れば、少々どころではない厄介事が持ち上がったのは明白だった。
彼らが連れ立って王宮に戻ると、オローセスは居ても立ってもおられぬといった様子で、自ら迎えに現れた。詳しい報告をと急かす国王代理に、イスハークは厳しい面持ちになって首を振った。
人払いをして、ごく内輪の面々ばかりを一室に集めると、ようやくイスハークは重い口を開いた。
「オローセス様。彼らはエンリル様が正統の血筋でないと主張しておりますぞ」
「―――!」
ぎょっとなり、皆がいっせいにオローセスを振り向く。先王の顔は一瞬で青ざめ、別人のようにこわばっていた。緊迫した空気の中、イスハークが淡々とラームティンたちの言い分を伝え、例の復位嘆願で報告を締めくくった。
「……ナキサーの怨霊か」
オローセスは小さくうめき、奥歯をぎっと噛みしめる。シャフラー尚書が小さな目を不安と動揺に見開き、ご説明を、とかすれ声で請うた。が、オローセスはしばらく沈黙し、険しい目でじっとテーブルの上を見つめていた。
「誰かがあの事を彼らに教えたのだな。そして唆した」
つぶやいたオローセスに、イスハークが「左様」とうなずく。
「両人とも、正義を行っていると信じておりますわい」
そこで、二人だけの間で話が進むのに我慢できなくなり、ダスターンが声を上げた。
「どういう事なのですか? どうかお教え下さい、なぜエンリル様がそのような非難を受けねばならぬのです。我々は、彼らの言うことが正しいと認めねばならないのですか」
出過ぎた物言いを咎めるようにアスラーが厳しい目を向けたが、動揺しているのはダスターンだけではなかった。シャフラーもまた、少年の言葉にしきりとうなずき、続いて問いかける。
「あの事、とはいったい何なのです? 敵の口から聞かされる前に、お聞かせ下さい」
「……確かに、じき、皆に知れような」
オローセスは苦渋に満ちた顔で唸り、ややあって深いため息をついた。
「左様、エンリルは余の実子ではない」
いっせいに息を飲む音がした。
そのまま、誰もが凍りついたように身じろぎひとつせず、続く言葉を待つ。どういうことか、と問いただせる者は、ここにはいなかった。
「海の民の襲撃で、このティリスに残っていた妻と、我が子エンリルは……共に死んだ。ナキサーがそれを目にし、二人の亡骸を破壊の魔手から守って余に引き合わせてくれたのだ。イスハークも知っておる。彼らの間違いではない」
一語一語を押し出すように、ゆっくりとオローセスは告げた。ラームティンたちの言い分を直に聞いていたダスターンは、愕然としながらも納得してしまった。それならば、彼らのあの態度も無理なからぬことだ、と。
諦めたようなため息が数人の口から漏れる。オローセスは彼らを見回し、また視線を落として言った。
「今のエンリルは、帝都レムノスが陥落する時、余が炎の中から救い出した赤子だ」
長い沈黙。誰もがこの事実を前に、理性を取り戻そうと必死になっていた。とりわけダスターンは、自分が従者として仕え、また心酔してもいた相手が、王の血筋ではなかったということに、かなりの衝撃を受けていた。
カゼスがここにいれば、それがどうした、と言い切っただろう。だが、たとえそう言ったとしても、ここにいる者が皆それに賛同することは、あり得なかったに違いない。血筋に対する認識が、それだけ違うということなのだ。
ダスターンはどうにか信じがたい現実を受け入れ、そして、はっと気付いた。
「……では、エンリル様はいったいどなたの御子なのです?」
肝心の事を、オローセスは言わなかった。どこの誰とも知れぬ赤子なのか。それとも、当時あの都にいた誰かの子なのか。
「あのお姿、皇族の証たる紫の瞳。どなたか高貴な方の血を受けておわすることは、疑いようがありませぬ。ならば」
言いかけてダスターンは口ごもり、曖昧に言葉を切った。
ならばオローセスの実子でなくとも、王位に相応しい血だと言えるのではないのか。それで彼ら反乱軍を納得させられはすまいか。
だがオローセスの表情は、そんなことを言えるようなものではなかった。厳しく感情を自制した、だが暗く深い悲しみに耐えていると分かる表情。
それを見ると、ダスターンの頭に上っていた血がさっと引き、かわって羞恥の念が込み上げた。興奮して無神経なことを口走った己が恨めしく、うつむいてしまう。
いたたまれない空気がその場の人々を石に変えてしまう前に、アトッサが声を上げた。
「ならば、いまさら血筋の正統性を取り沙汰する必要もあるまい。ティリスの民にとってエンリル王が良き王か否か、それだけが問題であろう? その点に関しては、私には明白じゃ。雲上の高みより見ていたのだからな」
そこで彼女は一同を見回し、自信に満ちた笑みを見せた。
「反乱軍の言い分など、分を弁えぬ要求をごまかすために体裁を繕っておるだけじゃ。彼らがどうあっても血筋をただすと言うならば、問い返してやるが良い。エンリル王を退かせたとして、では次にこの国を継ぐのは誰にするつもりか、とな」
あっ、とシーリーンが目をみはった。
確かに、オローセスを復位させるのが彼らの目的だと言うが、いずれにせよ実子がいないのであれば、次代の王は傍系から引っ張り出すか、別な貴族から養子を取らなければならない。
血筋の正統などという主張は、その事実の前には空しいばかりだ。新たな妻を迎えよと言うなら、ではどの家から女を選ぶのだ? それこそ、彼らが己の血筋を王家に結び付けんとしている証拠ではないか。
部屋に垂れ込めていた暗雲が晴れたように、誰もがほっとした様子で息をつく。
オローセスが感謝のまなざしをアトッサに向け、微笑んだ。
「いかにも。余としては、彼らの言い分を一部のみしか認められぬ、ということだ。確かにエンリルは余の血を直に受けてはおらぬ。だが、余の息子でありティリスの王であることは、いまや衆知のこと。その施政が、最善と言えぬにせよ誤ってはおらぬこともな」
その声には凛とした力強さがあった。アトッサもにこりとし、深くうなずく。
「戦いの準備を。エンリル王にお目にかかるまでに、私も多少は恩を売れるよう、ティリスのために貢献させて頂こう」




