二章 暗雲 (2)
シャフラー総督は、小太りの小男、という表現がぴったりの人物だった。エンリルやアーロン達の血筋とは明らかに違う。どちらかと言うと、イスファンドにやや近い。髪の色は蜜蝋色で身長は低く、顔立ちも地味な方だ。
私腹を肥やしていたのを見付かり、慌てて一行を過剰なほどにもてなし始めたのには、カゼスもつい失笑してしまった。
夕刻からは宴となり、美酒美食の数々が惜しげもなくふるまわれた。料理は羊肉とケルカ川の魚が主体で、様々な香りを立ちのぼらせている。もっとも、
〈その皿の料理はやめておいた方がいいですよ。あなたなら確実に下痢を起こします。かなり独特の素材と調理法のようですから〉
などとリトルが忠告してくれる代物も、少なくなかったが。
カゼスは無難な料理をつまみながら、ぼんやり皆の様子を観察していた。相変わらずアーロンとカワードは何やら言い合っている。ウィダルナが二人を止めようとしているが、あまり成果は上がっていないようである。
(―――?)
ふと、カゼスは顔を上げた。
(今、何か糸に引っ掛かったような……?)
何か、気配がした。魔術の気配が。だがどうした事か、それはほんの前兆程度で消えてしまった。
(気付かれたのかな……)
そっと精神の糸を手繰ってみる。しかしほとんど何の痕跡も残っていなかった。術を行使しかけたのだとしたら、最初の一言を声にした瞬間に中止したのだろう。
はてな、と首を傾げる。さすがに、王宮の一室で行われている魔術の内容を知る事までは、カゼスにはできなかった。
マティスの術を中止させたのは、残念ながらカゼスの張り巡らせた網ではなかった。
「カイロン……邪魔しないでくれないかしら」
苛立ちのこもった目で、マティスは高地の同胞を睨みつけた。呪文を解放しかけた矢先に、部屋に設置した空間転移装置のマーカーを利用して、男が現れたのだ。
「どういうわけだか知らないけど、あの王太子は父親より力が強くて、催眠暗示にかからないのよ。殺すしかないでしょう? それとも、反対しに来たって言うの?」
「いや、術の邪魔をしたのなら悪かった。そんなつもりで来たのではなかったが……王太子を殺すつもりなのか? それはやり過ぎではないか」
歳はマティスと同じぐらいか。銀髪赤眼の男は、すっかり身に馴染んだ長衣をまとい、平静な口調で言った。その落ち着き払った態度は、言葉を交わす度にマティスを苛立たせた。本当にこの男は、ザールの神に奉仕する意志があるのかと疑いたくなる。いつも感情をその面の下に隠し、この地ではわずかなシザエル人同志だと言うのに、決して誰の言葉にも同調しない――否定もしない代わりに。
「仕方ないでしょう、あの王太子は私に協力する気配はないし、ぐずぐずしていたらティリスではザール教の国教化はできなくなってしまうわ。そうなったら、エリアンのところにティリスを併合して貰うしかなくなるじゃないの。その方が犠牲が多くて、あなたの気に入らないのではないかしらね?」
マティスは言い返し、いまいましげにため息をつく。カイロンは、その暗赤色の目を伏せてしばし考え、変わらず落ち着いた口調で応じた。
「『御使い』の効果を上げるためにも、少し騒ぎを起こした方が良くはないか? どうせ消すにしても、天災を装って単純に消してしまうのでは価値がない。同じ死ならば、最大限に利用しなければ失礼というものだろう」
「どういう事?」
「天災などで殺してしまうよりは、王太子自身に死への道を選ばせるが良かろう。父王が息子を殺す方が衝撃も大きかろうしな。こうするのだ……」
淡々と説明するその声に、他者への同情は微塵もない。低温の理論だけ。
だが、その計画を聞き終えたマティスが浮かべた笑みは、いっそ人間離れしているとさえ言えるほど酷薄なものだった。
「ああ、それはいいプランだわ。間に合って良かった」
呪文を新たに組み立て直し、魔術に没頭していく彼女を、カイロンは冷ややかな目で眺めている。
デニスに来て、早十六年が過ぎようとしていた。元々彼は感情面で起伏の少ない性質だったが、偶然同じ時代・地方に降り立った同胞と知り合って以来、ますますその面に内心の動きを見せる事が少なくなっていた。
眼前で、ザールの神にすべてを捧げた女が呪文を唱えている。
その精神の昂揚は、カイロンにまで伝わってくるほどだ。が、逆に彼の心は硬く冷えて行く。赤い目に何の感情も映さぬまま、彼はマティスを眺めていた。
(狂信者よ……)
ふと、己が過去に受けた言葉をそのまま思い出す。
今ならば、その言葉も厭味なほどすんなりと納得できた。
(役者の一人に過ぎぬことを知らぬ道化よ……幕が降りるその瞬間まで、気付かずに踊り続けるが似合いだろう)
術に夢中になって既にカイロンなど意識にないマティスを残し、彼は転移装置を使ってティリスを去った。
(そして私もその道化の一人と言うわけだ。……ティリスの王太子、エンリル、か。ようやく幕の引き手が現れたのかも知れない。この茶番劇を終わらせる、本来の役者が)
舞台に乱入した道化たち。己の役所を把握できないままに踊り狂う愚か者。その姿を自分自身にも重ね、カイロンは自嘲気味の笑みを浮かべた。
(これで……否応無く、彼は我らとの戦いを強いられるだろう。そして多分、勝利は彼の手に転がり込む)
そうならなければ、自分の手で……。
カイロンは我知らず右手を握り締めていた。
だが、彼の思惑がうまく運ぶ為には、とりあえず今回のマティスの襲撃をエンリルたちが無事に乗り切らなければならなかった。少なくとも、命は無事で。
「来た!」
叫ぶなり、カゼスは立ち上がった。その言葉が何を意味するのかを知っている視察団一行は、即座に剣を抜いて身構える。
突然の行動に、館の者がきょとんとする間もなかった。
「うわぁッ! ば、化け物ッ!」
悲鳴がいっせいに上がる。どこからともなく現れた漆黒の毛皮を持つ獣の群が、宴に興じる人々を襲った。
(少しは効いたみたいだな)
時間差で現れる獣を視界の隅に捉え、カゼスは少しだけホッとした。緩衝の術をかけておかなければ、一度にすべての獣が現れていた筈だ。そうだったら、とてもではないが太刀打ち出来なかったろう。
カゼスは魔術の作用を打ち消す結界を張りながら、近場にいる無防備な人間をその中へ誘導する。リトルは文字通り飛び回って、各種電磁波を駆使して攻守に多大な貢献をしてくれていた。アーロン達の剣さばきも、獣相手に引けを取らない。
「シャフラー総督! 総督、ここ以外に人は!」
呆然と自失しているシャフラーを揺さぶり、カゼスは問うた。その言葉でハッと我に返り、彼は突然転がるように走りだした。カゼスの知らない何人かの名を呼びながら。
「あ! 危ない、一人では……ああもう! すみません、ここは頼みます」
近くにいたイスファンドに言い置き、カゼスも慌てて後を追った。広間には自衛手段を持たぬ人間も多いかわり、館の衛兵もいれば、頼りになる万騎長たちもいる。へっぽこ魔術師が一人消えても、支障はあるまい。本人よりリトルの方がよほど役に立っているし。
自虐的な事を考えながら走っていたカゼスは、総督の姿を見失ってしまった。相手は火事場の何とかで、その体型からは考え難い俊足ぶりだったのだ。よそ事に気を取られながら走っていたのでは、追いつける筈もない。
「あーもー、どこ行っちゃったんだよぅ……」
息を切らせてぼやき、周囲を見回す。
「……どこだ、ここ」
既に自分の現在位置が分からない。げっそりとため息をつき、カゼスはしゃがみこんで息を整えた。
(あれ? 今のは……何だ?)
魔術が発動中で繁雑になっている力場の流れに、新しい動きが一瞬生じ、消えた。
(転移魔術……? 何か逃げたのかな。それとも何か送り込まれたのか)
と、すぐ近くの部屋から何か派手な物音が聞こえ、思考が途切れた。
慌ててカゼスは駆け込んだが、そこにいたのはシャフラー総督ではなかった。傷を負った召使たちと、それを守っている衛兵が一人、そしてその隙を狙う獣。
咄嗟に呪文が頭に浮かばず、カゼスは手近にあった燭台をつかんだ。標的を変えて闖入者に飛びかかってきた獣の顔面めがけ、闇雲に投げ付ける。
針が鼻に刺さり、獣は怒り狂って咆哮した。その背後に衛兵が斬りつけ、獣はひときわおぞましい叫びを残して霧のように消えた。
「消えた……? どうして」
カゼスはぽかんとなった。魔術で呼び出された実在の獣であれば、消える筈がない。たとえ作り出された偽物だったとしても。理由をじっくり考えたかったが、そうもいかなかった。衛兵のうめき声でカゼスは我に返り、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
負傷していたのは、召使だけではなかった。彼らを守ってどれほど孤軍奮闘していたのか、衛兵もかなりあちこちに傷を負っている。座り込んでしまうと、もう立てない様子だった。
「あー……と」
室内を見回したが、手当の道具に出来そうなものはない。医療士の資格を持っていても、道具がなければ何の役にも立たなかった。治癒術はあまりかけすぎると良くないのだが、この際仕方がない。カゼスは比較的使い慣れているいつもの呪文を組み立て、力のレベルを下げてから解放した。
見る間に傷口が癒着して行く。痛みにうめいていた者が突然楽になって目をぱちくりさせると、既に擦り傷ひとつ残っていなかった。
「これは……あなたはいったい」
衛兵が呆然とカゼスを見上げる。その視線が驚愕から賛嘆へと変わる前に、慌ててカゼスは言った。
「奇蹟じゃありませんよ、ただの魔術ですからね。それより、今からこの部屋に防護術をかけておきますから、安全が確認されるまで出ないでくださいね」
反論も質問もさせず、カゼスは軽く目を閉じる。印を結ぶぐらいの事をした方が、一般人には『魔術使用中』と分かりやすくていいのだろうが、生憎と格好いいポーズを思いつかなかったのだ。
広間に張ったのと同じ結界を張り、カゼスは急いで部屋から出た。あれこれ訊かれるのも面倒だったし、先刻の術が何だったのかも気になる。
だが、廊下を走りながら、荒々しい生物の気配が鎮まっているのに気が付いた。
〈リトル? そっちはどうだい?〉
呼びかけてみると、疲弊した声が即座に答えた。
〈どうにか広間の方は片付いたようです。もう一頭も残っていません。そちらは?〉
〈ご苦労様。こっちは、孤立していた人たちを何人か助けられたよ。総督は見失っちゃったけど。それに、新たに何か転移術を行ったみたいなんだ。持ち去ったのか置いてったのかは分からないけど〉
〈分かりました〉
〈もう答えが分かったのかい? さすがはリトルヘッドだね〉
返事を予期していたので、用意しておいた冗談を取り出す。が、リトルは生憎と、ジョークに付き合ってくれるほど上機嫌ではなかった。
〈いまさらユーモアセンスを持っているふりなどしないでください。邸内を調査して増減した物を調べます〉
〈ごめん。頼むよ〉
一応謝ったが、返事はなかった。やれやれとカゼスは肩を竦め、総督が去ったと思われる方向へ適当に歩く。精神探索をしても、これだけ混乱があった後では、総督の残留思念を見付けられるとは思えない。
「ここはどうかな……、っ!」
カーテンが引きちぎられた一室をちょっと覗き込み、息を飲む。吸い込んだ空気の生臭さに吐き気がして、咄嗟に口を押さえ、よろよろと後じさった。
絨毯が吸い切れなかった血が、磨き上げられた床石の上に溜まっていた。ぶちまけられた人間の中身が、壁や天井にまではりついている。その中央でピチャピチャと嫌な音を立てている獣が、カゼスの足音に振り返った。
声が出なかった。カゼスは凍りついたように立ち尽くし、ただ獣が跳躍に備えて身を屈めるのを、見開いた目で捉えていた。
「どけ!」
怒声がカゼスを振り向かせた。瞬間、獣がパッと跳ぶ。だが、鋭い爪が人間の脆い首を落とす前に、短剣がヒュッと飛来し、漆黒の毛皮に突き刺さった。
一瞬後、駆けつけたアーロンが放心しているカゼスの腕を掴み、自分の陰に引き入れる。同時に長剣を下から突き上げ、獣の腹を裂いた。
獣の体が床に落ちる前にパサリと消えて、ようやくカゼスは我に返った。
「あ、ありがとうございま……し、た」
言う端から、足が萎えて座り込んでしまう。アーロンが掴んでいた腕を離すと、何の抵抗もなくパタリと落ち、そのまま本体の方まで床にくずおれてしまった。それを見下ろし、アーロンはため息をついてから室内に目をやった。そして、さすがに彼も顔をしかめる。
「無理もないか」
つぶやくと、片膝をついてカゼスを揺すった。反応はない。アーロンは周囲を見回して獣の気配がないことを確かめると、カゼスを荷物よろしく小脇に抱え、広間に戻った。
「お、戻ったか。こっちも見回り終了……って、どうしたそれは」
アーロンを見付けたカワードが、抜き身の剣を手に提げたまま言った。
「血を見て失神したらしい」
端的に答え、アーロンは無事だった絨毯の上にカゼスを降ろした。
逞しいもので、無傷あるいは軽傷の者が、もうどんどん片付けを始めている。負傷者の手当も、総督府の薬師がなんとかやっていた。
「はー、血を見て失神、ねえ。まさしく姫君だな」
カワードは呆れたが、アーロンはいつもの真面目な顔で首を振った。
「見るなりその場で倒れなかっただけマシだろう。あれではな」
「……そんなに凄かったのか?」
「恐らく、総督の女か家族か、だろう。少ない衛兵が広間に回っていたせいで、身辺に召使の類しかいなかったようだ。獣に喰われていた。片付けの人選に困るな」
淡々と説明しながら、アーロンは水差しの水を手に取ってカゼスの頬や額を濡らした。喰われていた、と聞いてカワードも顔を歪める。
「よくまあ無事だったもんだ」
「ぎりぎり間に合ったというところだ。運がいい……気が付いたか」
言葉の終わりで、カゼスが小さくうめきを洩らして目を開いた。
「……あれ? 私は……」
「気絶したから広間まで運んだ。気分は? 葡萄酒が要るか」
「いえ……なんとか……こちらは、被害は少ないようですね」
ゆっくり体を起こし、カゼスはぼんやりと周囲を見回した。物こそ散乱しているが、死体は見当たらない。さすがと言うべきだろう。
「死体を見たのは初めてか」
アーロンは言って、水差しを渡した。カゼスはほとんど機械的にそれを受け取り、てのひらに少し注いで飲む。
「いえ、仕事柄……何度かは。でも、あれは……」
思い出すと胃がよじれそうで、カゼスは顔をしかめた。「だろうな」とアーロンは立ち上がり、ざっと周囲を見てから言った。
「俺は殿下の所へ戻らねばならん。おぬしはしばらく休んでいろ、その状態でウロチョロしても片付けの邪魔になる」
「あ、はい。分かりました」
カゼスが答えると、アーロンはもう一度、ウロチョロするなよ、と念を押してから、広間の奥にいるエンリルの方へと走って行った。
「随分おぬしが心配らしい」
我慢出来ぬとばかりにくすくす笑い、カワードが言った。「は?」とカゼスが見上げると、カワードは剣を鞘に収めて隣に座った。
「あれはもう、性分だな。誰かの世話を焼かずにおれぬといった性質だ。本人は否定するだろうが、何しろあいつは兄一人と姉が三人の末っ子だからなぁ」
おかしそうにカワードはアーロンの家庭事情を暴露する。
「姉君たちに遊ばれたりこき使われたりで、否応無くマメになっちまったのさ。そのくせ、近所のガキ共の面倒みたりして、年長ぶりたがったり、な」
「はあ……なるほど」
守役だった事だけが原因なのではないらしい。などと納得し、カゼスはふと改めてまわりの状況を眺めた。
〈リトル? どこにいるんだい?〉
〈邸内の調査中ですが。急用ですか?〉
〈あ、そうか。いや、いいんだ。うん、続けてくれていいよ〉
おぼつかない足取りながらも立ち上がり、薬師の方へ向かう。リトルの助けが得られないので、治療に用いられている物が適切かどうかの判断はつけられないが、何かの役には立てるだろう。
「手伝いましょうか?」
話しかけると、薬師の男が振り返り、目を丸くした。
「あなたは……ああ、あなたがエンリル様が仰せられた『ラウシール』様ですね。いや、お手を煩わせるなど、とんでもない。あなたの方こそ、休息が必要なのでは?」
どんな話を聞いたのやら、恭しくそう述べる。カゼスは怪我人の列を眺め、薬師の手元のわずかな薬草や包帯に目を移して、ごく小さなため息をついた。
薬草の効果がどの程度のものかは分からないが、いずれにせよとても量が足りない。
「重傷の方はこちらへ。既に手当を受けた方でも、辛ければ無理せずに来てください」
呼びかけると、何人かがおずおずとカゼスの方にやって来た。突然現れた獣に対する恐怖が消えぬまま、青髪の人間に対する警戒心がその目に暗く光っている。
(あれ? そう言えば、さっき私はどうやって……)
衛兵と召使たちの傷を癒した時、自分がどうやっていたのか思い出せない事に気が付いて、カゼスは内心ドキリとした。一人一人に術をかけた覚えはない。だが、確かに傷は治っていた筈だ……記憶違いでなければ。
(……後で考えよう。今はこの人たちを治さなくちゃ)
呪文を組み立て、意識にしっかりと結び付けておく。いちいち組み立てていたら、時間がかかってしょうがない。
最初の一人は、肘がザクリと裂けて骨まで露出していた。他にも小さな傷が何箇所かあるが、丸めた服で押さえているそこが一番ひどい。カゼスは傷口にそっと手をかざし、小さく呪文を唱えた。
見る間に組織が再生され、元通りの腕がよみがえる。生まれたてのようにきれいな皮膚がきちんと周囲と癒着すると、呆然とそれを見ていた薬師と患者たちが、うわあっ、と喚声を上げた。喜びと驚きと畏怖のあいまった声を。
予想外に激しい反応に、カゼスは驚いてたじろぐ。広間の周囲にいた者までが、何事だと寄って来た。並んでいた列が乱れ、我も我もと押し寄せる。危険なほどの熱気。
「落ち着いて! 落ち着いて、静かに!」
たまりかねてカゼスが叫ぶと、間もなく皆がシンと静まった。自分の一言がこれほど顕著に効果をあらわすのは初めてで、カゼスは何やら気味悪くさえ感じながら、それでも平静を装って言った。
「これはただの魔術で、特別な力じゃありません。それに、誰彼かまわずかけて良いものでもないんです。体に無理な負担をかけますから、どうしてもこの……薬師の方の手当では追いつかない、今すぐ治さなければ危ない、そういう人だけ、こちらに並んでください。順番に並んで、騒がないで!」
言葉を切ると、ザワザワと人々が移動を始めた。野次馬はカゼスの後ろの方に集まり、前には付き添いの必要なほどの者から順に列ができる。最初の呼びかけに応じた数とは桁違いの人数だ。
(引率の先生になった気分だなぁ……一列に並んでー、お行儀良くしなさーい、ってか)
ふう、とため息をつき、熱狂がおさまったのを見て治療を再開する。一人治す度に、背後の見物人が、おお、とか、ああ、とか感嘆の声を上げた。
いい加減に苛々して、カゼスはくるっと振り返ると厳しく言った。
「見物している場合ですか! やる事があるでしょう!」
怒られるとは思わなかったらしい。見物人は一瞬目をぱちくりさせ、それから慌ててわらわらと散って行った。
「まったく、どこの世界にも……」
ぶつぶつぼやく。治安局で仕事をしていた時も、災害や事故の現場にたかる連中のせいで、どれだけやりにくかった事か。ここではまだ、怒れば散ってくれるだけ可愛いものだろう。向こうでは、追い払っても追い払っても、いくら危険だと説明しても、野次馬が絶えなかった。
どう見ても奇蹟を体験したいがために並んだとしか思えない者は、容赦なく隣の薬師に回した。列が短くなるに従って、広間の状況も正常に戻って行く。
〈おやおや、盛況ですね。大丈夫なんですか、こんなに大勢に術を使って。途中であなたの方が倒れたりしたら、笑い話ですよ〉
くすくす笑いを含んだ精神波が伝わり、カゼスは顔を上げた。スイッと飛んでリトルが戻り、カゼスの横に滞空する。
〈お疲れさま。どうだった?〉
〈物の増減はないようですよ。ですから、なくなったか増えたかは人間でしょうね。これは館の人に尋ねる方が確実でしょう。単に逃げ出していなくなった人もいるでしょうし、騒ぎを知って、身内の安否を確かめに来た人もいるかも知れません。野次馬とか〉
〈ごもっとも。後でエンリル様に頼んで調べてもらうよ。言うまでもなく始めてるかもしれないけど〉
ちらっと目をやると、エンリルはアーロンやウィダルナたちにあれこれと指示をしているようだった。
最後の一人を治す頃にはカゼスは立っていられず、座り込んでしまっていた。
「やれやれ、これで最後かな」
ふうっと深い吐息をつき、くらくらするのを堪えてうつむく。と、
「たいしたものだな、ラウシール殿」
おどけた声が降ってきた。見上げると、カワードである。隣にアーロンもいる。
「ついでに功労者の傷も癒して貰えんか? ほれ、ここ、ここ」
にかっと笑ってカワードは袖をまくった。毛深い腕の真ん中に、申し訳程度の切り傷がある。うんざりした顔でカゼスは相手を見上げた。
「…………………」
厭味を考える気力もない。ため息をついて、またうつむく。
「だから止せと言ったろう。その程度の傷で煩わせるなと」
アーロンが、そら見たことか、とばかりの声音で言うのが、ぼんやりと耳に入る。が、既にそれはただの音でしかない。
(私が怪我したら、誰が治してくれるんだろうなぁ……)
意識の中で更にもう一度ため息をついて、カゼスは闇に呑まれるように眠り込んだ。