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帝国復活  作者: 風羽洸海
第三部 アルハン攻防
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二章 呪われた子 (1)



「人や馬は無理ですけど、食糧や余分の武具なんかは、まとめて後から移動先に送ることができますから」

 というカゼスの提案で、輜重隊の人員は最小限に減らされ、荷馬にも兵が騎乗するという、機動力最優先の編成が取られた。いつぞやエンリルに渡したのと同じような『印』をまた預け、後から魔術で自動的に食糧などを送るのだ。

 今回は転送の座標指定や、どれだけの分量を何日後に『跳躍』させるのか、といった細かい調整が多く、カゼスはきりきり舞いすることになった。それはラガエで食糧を準備する方も同様だが、エンリル隊の出立に間に合わなくても後から送れるだけ、普通の出陣よりも猶予があった。

 自主的に謹慎していたサルカシュも駆り出され、スクラと共に食糧や武具の調達に奔走している。兵の一人に至るまで、暇そうにしている者などまったく見られなかった。

 その甲斐あって、信じられないほどの短期間で準備が済み、エンリルたちはティリス目指して出発することになった。街の外に整然と集結したティリス軍は、引き絞った弓につがえられた矢のように、鋭気に満ちている。

「ご武運を、陛下。どうかお気をつけて」

 不安げに見送るカゼスとアーロン、サルカシュらに対し、エンリルは厳しい決意に満ちた笑みを浮かべて見せた。

「占領される直前にカッシュから発った急使が、つい先刻、到着したところだ。奴らは余が戻るまでに時間が充分あると考えているだろうが、それが誤りであると思い知らせてやる。エラードの守りは任せたぞ、アーロン。残党を勢いづかせるようなことは、断じてあってはならぬ」

 そこまで言って、彼はふと思い出して表情を和らげた。

「そういえば、あとひと月ほどでそなたの誕生日であったな。謀反人を討ってそなたを呼び戻せる頃には、とうに過ぎておるだろうが、ティリスで盛大に祝うことにしよう」

「身に余る光栄でございます、陛下」アーロンは深く頭を下げ、堅苦しく答える。「ですが私にとっては、エンリル様がお健やかであれば、それに優る喜びはございません。ティリスに戻った折に、今と変わらぬお姿で出迎えて頂ければ、それ以上は望みませぬ」

「ほう。では迎えに出た余を、そなたが労ってくれるというわけか」

 エンリルは眉を片方上げて皮肉った。頭を上げたアーロンの面にも、すこしおどけた苦笑が浮かんでいた。

「たまには私も、陛下に迎えられてみたいのですよ。昔から私の役目は、陛下を捜し出して連れ戻すことばかりでしたので」

 ちくりと刺されたエンリルは、薮蛇だったと首を竦め、明後日の方に目をそらす。カゼスが小さくふきだし、一同は少し笑った。

「まぁそれも良かろう。約束だ。その時を楽しみにしているぞ」

 エンリルが気を取り直して言い、アーロンも「約束ですよ」と笑いながらうなずく。

 ちょうどその時、ゾピュロスが出発の号令を求めてやって来た。エンリルはぐっと顎を引くようにしてうなずき、もう一度カゼスとアーロンの顔を見つめてから、馬にまたがった。エンリルは王になってからも、馬車や輿を使ったためしがない。とりわけ今回は、そんな優雅な乗り物など使っていられない事情でもあるが。

 エンリルが手を上げると、合図の角笛や声があちこちで上がり、騎馬の軍勢は規則正しい歩みで動き始めた。土埃が舞い上がり、空気を白っぽく染めていく。しばらく見送る内に、カゼスたちの視界からエンリルの姿は完全に隠されてしまった。

「……また、マティスがしたように暗示をかけたんでしょうか」

 カゼスはぽつりとつぶやく。エンリルの身が案じられるのは当然だが、反乱を起こした二人の貴族の運命も気にかかる。傀儡にされた挙句、謀反人として死刑に処せられるのだとしたら、いくらなんでも哀れだ。

「それだけではないかも知れぬ」アーロンが険しい顔になった。「たとえラームティン卿とクティル卿のそれぞれが暗示にかけられたのだとしても、前回のことがあるのだ、下の者たちが皆、唯々として乱に加わるとは考え難い。何か、彼の地の大勢を決するようなことがあったに違いあるまい」

 カゼスは黙り込んでしまった。暗示を解きさえすれば反乱が鎮まる、というものでもないらしい。自分にできることは何もないのだろうか、と考えて気分が暗くなる。

〈いったいどうしてなんだろう。エンリル様に、謀反を起こされるほどの落ち度があるとは思えないのになぁ……素人だからそう見えるだけなのかな〉

 訊くともなく、リトルにそう話しかけてみる。ため息のような気配を寄越してから、リトルはやれやれとばかりに答えた。

〈あの二人が冷遇されているのは一目瞭然ですがね。気が付いてなかったんですか? 彼らはマティスに操られてエンリル様に敵対していた時も、オローセス様には忠誠を捧げていましたよね。それが、一件落着したら早速そのオローセス様はひっこんでしまって、玉座にエンリル様が即いた。彼らにしてみれば居心地が悪いのは当然だし、エンリル様の方にしても、彼らを厚遇しなければならない理由がない〉

〈でもそれは、仕方のないことだと思うけどなぁ。死刑だとか追放だとかにしないだけ、恩情判決だと思うけど〉

〈自分があの二人の立場だったら、そう思いますか? 自分は何も悪くないのに、と恨む方が自然だと推測しますがね、私は〉

 言われてやっと、カゼスはあっと気が付いた。確かに、彼らにしてみれば納得の行かぬ処置かもしれない。今回の出征にも、おまえたちに用はないとばかり、声すらかけられなかったのだ。長年の実績や地位を無視され、領地に引っ込んでいろと言われたも同然。

〈憎らしい若造が留守の間に王都を占拠して先王の復位を要求し、自分たちに相応しい地位を……彼ら自身の考えによれば貰って当然の報酬を、力ずくで手にしようとする。ごく自然なシナリオじゃありませんか〉

 リトルが言い終わる頃には、カゼスにもその筋書きがごく当たり前のように感じられていた。それなら、シザエル人が暗示をかける必要すらないかも知れない。

 陰鬱な気分になっていると、ふいに頭をぽんぽんと叩かれた。

 驚いて顔を上げると、微苦笑を浮かべたアーロンと目が合う。

「いくら『赤眼の魔術師』に抗し得るのがおぬし一人とは言っても、今回のことについておぬしが責任を感じる必要はなかろう」

 考えていたこととは違うものの、カゼスは相手の心遣いに素直に感謝して、礼を述べた。あれこれ思い悩んだところで、人間ひとりにできる事などたかが知れている。

 カゼスとアーロンのやりとりを黙って聞いていたサルカシュは、会話が途切れると遠慮がちに口を開いた。

「それでは、ラウシール殿には輸送の準備が整い次第、谷へ向かう馬を用意させておきましょう。此度の乱がアルハンの仕組んだものとあらば、猶予はござらぬ。船で川を下ってファシスを回るのでは、時間が……」

「あ、その心配は無用ですよ」

 笑ってカゼスは答えた。クシュナウーズは、ここに来た時と同様にイシルの力で谷まで戻るつもりだろう。カゼスもそれに便乗し、その後、谷から先のアルハンに近い地方を偵察するのは、一人でリトルを連れて行くつもりだった。

 きょとんとしたサルカシュにカゼスがそのことを説明すると、彼はなんとも複雑な顔になって、わずかに首を竦めた。

「ティリスという国は、摩訶不思議なところでござるな」

「エラードに生まれて良かった、ですか」

 思わずカゼスは笑ってそうからかった。魔術に馴染みのない人々にとっては、水域を通り抜けて行く、などというのは、「ちょっと近道を」と言って死の国を横切るような気分でもするのだろう。

「じきに慣れますよ。私がここに来たばかりの時は、アーロンもあなたと同じような態度でしたから」

 カゼスは珍しくにやりとして、皮肉っぽくアーロンを見やった。その視線を避けるように、アーロンは明後日の方を向く。

「何にしろ、しばらく別行動になりますね。何かあったらすぐ戻れるように、跳躍の印はつけておきますけど……そちらからも連絡できる手段を考えた方がいいかな」

 そこまで言って、カゼスは慌てて「あくまで、万一の用心ですけど」と言い繕った。

「確かに、そのような必要に迫られぬに越したことはないがな」

 アーロンが苦笑する。と同時に、サルカシュは伝令兵に呼ばれ、「失礼」とその場を離れて行った。その巨躯が街の中に消えてから、アーロンはふとカゼスを振り向くと、わずかに気恥ずかしそうな表情をして言葉を続けた。

「だが必要がなくとも、おぬしと何らかのつながりがあれば……」

 不意打ちをくらってカゼスは立ちすくみ、真っ赤になった。さすがにアーロンも自分が女々しく思えるのか、それ以上は言わず、困ったようにちょっと頭を掻く。

 しばし二人とも立ち尽くしたまま、視線を合わせることも出来ずに沈黙する。地面を見つめてひたすら長衣の袖を虐待しているカゼスの頭上から、アーロンの声が降ってきた。

「いや、贅沢な望みだな。忘れてくれ」

 カゼスがちらりと上目遣いに見ると、アーロンは複雑極まる表情で彼方の丘を眺めていた。思わずカゼスは笑みをこぼし、そっとアーロンの手を取った。そして、その甲に指先でいくつかの記号を描いていく。

 軌跡がうっすらと赤や青に光っては消え、最後に全体がボウッと輝いて、消えた。

「これで、離れていても分かると……?」

 自分の手を不思議そうに見たアーロンに、カゼスは説明しようと口を開いたが、

「なーにをこんなとこで、手を取り合っていちゃいちゃしてんだよ」

「うわあぁぁっ!」

 いきなりクシュナウーズに割り込まれ、驚きのあまり飛び上がってしまった。

「び、びび、びっくりさせないで下さいよ!」

 心臓に悪い、と胸を押さえてカゼスが抗議する。クシュナウーズは耳まで口が裂けそうなほど、にんまりと笑った。

「俺ァ別におどかすつもりじゃなかったぜ? こそこそ近づいたわけじゃねえ。気付かなかった方がおかしいんだ。何に気を取られてたんだか知らねえけどよ」

 言い返せずにまた赤面したカゼスを見て、クシュナウーズは声を立てて笑いだした。途端にアーロンに向こう脛を蹴られ、くぐもったうめき声を上げる。

「ってえな、図星を指されて怒るんじゃねえよ」

「黙れ。これは……」

 緊急事態に備えてのことだ、とアーロンは言いかけたが、相手のニヤニヤ笑いを見て口をつぐんだ。そんな事を教えたら教えたで、いっそうからかわれるだけだ。相手が言いそうな言葉が次々に脳裏をよぎり、アーロンは「やめた」と無愛想に言った。

「おぬしに教える義理などない。羨ましければ、おぬしもカゼスに頼んでみるのだな」

 そして、フン、と皮肉な笑みを浮かべる。予想外の態度にクシュナウーズは唖然とし、何が起こったのかとばかりにカゼスとアーロンを見比べた。その顔がおかしくて、カゼスはふきだしてしまった。二人に笑われて、クシュナウーズが憮然とする。

 カゼスは、ちょっと笑いすぎたかな、と詫びるような口調で説明した。

「離れていても、何かあったら分かるようにしていたんですよ。しばらく私はアルハン側に行きますから、もしラガエで何か私の力が必要になった時に、すぐ呼び戻せるようにしておいた方が安心でしょう?」

「って事は」クシュナウーズは目をしばたたかせ、アーロンの方を胡散臭げに見た。「こいつが『すぐ来い』っつったらお嬢ちゃんがその場にポンと出てくるわけか?」

「私がすぐに戻れる状況なら、ですけどね。もしアルハンの魔術師が何か大掛かりなことをすれば、それは私がどこにいても多分わかります。でも魔術以外のことは、当たり前ですけど、離れてしまうとわかりませんから。そういう事態のためにね」

「ははぁ……」

 クシュナウーズは曖昧な返事をし、アーロンはしげしげと手の甲を眺めている。転移装置や魔術はおろか、電話すら存在しない世界では、遠く離れた土地でのことが同時にわかる、というのが感覚として理解できないのだろう。早馬による知らせですら、何日という単位なのだから。

 もう何の痕も見えない手の甲をさすって、アーロンがいつもの真面目な顔で訊いた。

「おぬしを呼び戻したい時には、どうすれば良いのだ?」

 ええと、とカゼスは言い淀む。魔術の知識が皆無の相手に、どう説明したものか。

「心で強く呼んで下されば、分かりますよ」

 とりあえずそう答えたが、アーロンは難しそうな顔をしただけだった。『心で呼ぶ』というのが曖昧すぎてわからないらしい。カゼスは少し考えて、具体的なイメージを利用してみることにした。

「うーん、そうですね……ちょっと試してみますか」

 とことこと小走りに離れ、普通の声が届くほどの距離で立ち止まって振り返る。

「ここらでいいかな。それじゃアーロン、目を瞑って、暗闇の中を光の筋が伸びて行くところを想像してみて下さい。それで、その行き着く先に私がいる、という風に」

 言われるままにアーロンが目を閉じる。と、次の瞬間、

「うわっ!?」

 空を切る音とともにカゼスの姿は消え、同時にアーロンと衝突せんばかりの距離に現れた。あまりに接近していたため、驚いたカゼスは体勢を崩し、アーロンにしっかりと抱きとめられてしまう。

 驚きの表情のまま、三人はしばらく固まってしまった。

 数呼吸してカゼスが我に返り、真っ赤になって身体を離した。アーロンもさすがに恥ずかしいのか、なんとも曖昧な表情で立ち尽くしている。そんな二人を目の前にしているクシュナウーズに至っては……なんと言うか、もうどうしようもない。

 気恥ずかしい沈黙を破ったのは、クシュナウーズの深いため息だった。

「おまえらよぉ……」

 言いかけてまた、ため息。彼はうんざりと首を振ると、頭痛がするとばかりに眉間を押さえた。

「練習すんのもいいが、ほどほどにしとけよ。あんまりのんびりしちゃいられねえんだ。おいカゼス、とっとと準備終わらせて桟橋に来いよ」

 言うだけ言って、クシュナウーズは頭を掻き掻き、街に戻って行く。カゼスとアーロンはそれを見送り、やがてどちらからともなく顔を見合わせて、笑いだしたのだった。


「この方法は、あんまり快適だとは言えませんね……」

 カゼスはずぶ濡れで河原に上がり、乾いた石にびしゃびしゃと足跡をつけながらぼやいた。あちこちについた木の葉などを取ってから、『力』を動かして体を乾かす。既に呪文を意識の中で形作ることすら、必要ない。カゼスはいつの間にか、自分の手足を動かすのと同じ感覚で、力を使っていた。

「まだ『跳躍』の方がマシかも」

 服の裾をしぼっているクシュナウーズを眺め、カゼスは苦笑いした。まったく、海軍元帥だの宮廷魔術師だの、ご大層な肩書を持っているくせに、こんな格好でこんな場所からおでましとは。

 幸いイシルが船着き場から少し離れた場所に出してくれたので、人に見られて大騒ぎになることはなかった。

「まぁ、じーさんに人間らしい気配りを求めちゃいけねえや。塩水でなきゃ、たいして厄介でもないしな」

 服についた水草を取り、クシュナウーズがぷるぷると頭を振る。と、濡れた重みで、いつも額に締めている布がずり落ちた。

「おっと……」

 彼は目にかかったそれをいったん外し、ぎゅっと水気をしぼった。カゼスは見るともなくそちらを見やり、あらわになった額にぎくりとする。

「……あの、それ……」

 ひどい火傷の痕だった。どうしたんですか、と訊くのも憚られるが、見なかったふりをするのも不自然だ。カゼスは曖昧に問いかけ、結局黙り込んだ。クシュナウーズは濡れた前髪をかきあげ、ああ、と無頓着な風情で答える。

「昔のだよ。あんまり自慢げに見せるもんでもねえからな」

 パン、と布を引っ張って滴を飛ばし、締め直す。その動作の途中で、彼はふと気付いてカゼスを見た。

「こんなんでも、お嬢ちゃんの魔術できれいに出来るのか?」

「完全にきれいには……でも、多少目立たないようになら、できると思います」

 あまりそうした細かい治療はしたことがないので、カゼスは自信なさげに答えた。その内心を見抜いてか、クシュナウーズは「ふうん」と他人事のようにうなずき、

「んじゃ、また今度頼まぁ」

 ぽんぽんとカゼスの頭を叩くと、丸石のごろごろする河原を土手の方に歩きだした。慌ててカゼスも後を追い、クシュナウーズの体に手をかざして、服を乾かしてやる。だが、クシュナウーズはあまり嬉しそうな顔はしなかった。

「濡れたままでも良かったんだがな」

「え? で、でも……」

「こんだけいい天気なんだ、歩いてる間に乾くだろ? まあ、一応ありがとよ」

 礼を言われて、かえってカゼスはしゅんとなってしまった。確かに、もうそろそろ秋口とは言え、まだ陽射しはかなり厳しい。川から領主館までは少し距離があるので、急いで乾かす必要はないと言えばなさそうだった。むしろ乾かしてしまうと、じりじりと焦げてしまいそうだ。

「だから、いちいち気にすんなって」

 苦笑まじりにクシュナウーズが言い、カゼスの背中を軽くどやす。おっと、とよろめいたカゼスに、彼は皮肉っぽく続けた。

「そうやって細かいことにうだうだしてっから、付け入られる隙が出来るんだ。今あそこにいるジジィどもは」と領主館を視線で指す。「二人ともタヌキだからな。用心しろよ」

 親切な忠告に、カゼスは素直に「はい」とうなずいてから、不意に可笑しくなってくすくす笑い出してしまった。思えば、最初に出会った頃と比べて、クシュナウーズの態度も随分と変わったものだ。

 まわりの人間を変えてしまうほど、自分は危なっかしく見えるのだろうか。それとも、この男にも案外、人の良いところが隠れていたのだろうか。

「なんだ。何が可笑しいんだよ」

 自分が笑われているのがなんとなくわかるらしく、クシュナウーズはムッとなる。だが彼は追及したりはせず、ちぇっ、と苦笑いしただけだった。

 そうこうしてしばらく歩き、領主館に着くと、門の衛兵がクシュナウーズを覚えていてすぐに中へ入れてくれた。

「お早いお戻りですな、閣下」

 玄関ホールで二人を出迎えたのは、そんな皮肉っぽい声だった。出やがった、とばかりクシュナウーズは苦虫を噛み潰す。召使らしき若い娘の腰に手を回し、すっかり主顔になっているヴァラシュであった。

「ラウシール様までおいでとは、また谷も騒がしくなる様子」

 まことに残念、と愛しげに娘を見つめ、ねだるような視線にこたえて口づけを落とす。引きつり笑いを浮かべている二人の前で、ヴァラシュは娘に甘い言葉を二つ三つ与えて、その場から下がらせた。

「ヴァラシュ殿も相変わらずのようで」

 カゼスが苦笑して挨拶すると、ヴァラシュはすまして頭を下げた。

「私も、あなた様ほどではございませんが、博愛主義者ですので」

 とぼけて応じたものの、顔を上げた時、その口元に浮かぶ笑みは鋭く冷たいものに変わっていた。もうひとつの趣味にいそしめる、という期待だろう。

 カゼスはがくりと頭を垂れ、クシュナウーズはやれやれと天を仰いだ。

「……ま、とにかく、ジジィどもの所へ案内してくれや。ティリスで謀反が起こってな。アルハンの連中が仕掛けたに違いねえ。この隙にまた攻めて来やがるぞ」

「ティリスで? ということは、ラームティン卿とクティル卿のお二方が、エンリル様では不満だと駄々をこねだしたわけですな」

 ふむ、とヴァラシュは小さく唸る。

「今回は、前回のようにはゆかぬでしょうな。簡単に討伐できるものかどうか……いや、ここで言うても詮無いこと。我々は我々で、ヴァルディア王に教訓を与えてやらねばなりますまい。こちらへ」

 即座に事情の予想をつけたらしく、ヴァラシュは二人の先に立って歩きだした。

 ヴァラシュに案内されて広間に入ると、ちょうどアルダシールとウタナがセル盤を挟んで睨み合い、ウィンダフラナとメロエ夫婦は葡萄酒の杯を手になにやら談笑しているところだった。

 和やかな情景をかき乱してしまうことに気後れして、カゼスはその場に立ち止まる。だが当然、残りの二人は遠慮しなかった。

「楽しき憩いの時も終わりを告げん。いざ勇士らよ、槍を持て!……出番ですよ」

 ヴァラシュは仰々しく言い、言葉尻でおどけて見せた。ちょうど負けていたらしい、アルダシールが喜々としてセル盤をひっくり返した。

「そうか、ではのんびりしてはおれぬな」

「おのれ卑怯だぞ! うぬぅ……まあ良いわ、今の棋譜はしかと記録させてある。ひと仕事すんだら、寸分違わぬ状況から再開するからな」

 ウタナが鼻を鳴らし、小姓の少年に、記録紙を大切に保管するよう命ずる。アルダシールが苦い顔をし、ウィンダフラナとメロエはやれやれと笑みを交わした。それから初めてこちらを振り向き、ウィンダフラナはあっと目を見張った。

「もしやあなたは、ラウシール様?」

 慌てて彼は杯を置き、カゼスの前に進み出ると、驚きと賛嘆を隠せない表情で、深く腰を折って礼をした。

「お初にお目にかかります。エラード軍万騎長、ウィンダフラナにございます。どうぞお見知りおきを。ご高名はかねてより聞き及んでおります」

 いやに丁寧な挨拶をされ、カゼスはあわあわとうろたえてしまった。

「あ、その、は、初めまして……あの、そんな畏まらないで下さい。私はその、噂ほど大した人間じゃありませんから」

 そんなカゼスの態度は、見た目とはかなりの落差を感じさせた。まやかしの効果が及ぶのは性別だけなので、他者の目に映るカゼスはかなり美形の部類に入るのだ。ウィンダフラナはなんとも複雑な顔になり、クシュナウーズは無遠慮に肩を震わせて笑いだした。

 そんなに笑わなくても、と恨めしげな顔を向けたカゼスに、クシュナウーズはにやにやしながら助言を与える。

「お嬢ちゃんも、もちょっとでんと構えて見せねえと、いつまでもそれじゃ困るぜ」

 途端にウィンダフラナが、えっ、と息を飲んだ。

「まさか、ラウシール様は……」

「男ですよ、一応」

 カゼスは台詞を先回りして遮り、クシュナウーズを睨んだ。今では、性別に関しては完全に嘘をついているわけだ。ふざけた呼び方は、もはや冗談では済まなくなっている。

「おっと、こりゃ失礼」

 クシュナウーズは明後日の方を向いて、とぼけて見せた。ヴァラシュは感情の読み取れない顔でそのやりとりを見ていたが、会話の途切れた隙に口を開いた。

「のどかに自己紹介している余裕は、残されておりますまい。急ぎ斥候を出して、陸海両方の状況を探らねばなりませぬ」

 実際的な話に移り、一同は表情を改めた。ヴァラシュはそれが当然とばかり、一人一人に指示を出していく。

「クシュナウーズ殿にはイシル殿と共に海上の偵察をお願いしたい。カゼス殿はヒルカニアの森を抜けてくるであろう軍勢の動きを。エラードの方々には陸からやってくる部隊を迎え撃つべく、工作の準備をお願いする。これから知らせる物を用意し、すぐにも取りかかって頂きたい」

 よどみなく出される指示は、まるで既に一切の計画を立てていたかのよう。

 それぞれが分担について納得し、仕事にかかろうと動き始め……ふと、クシュナウーズがヴァラシュを振り返った。

「で、おまえは何をするんだ?」

「それはもちろん」参謀閣下は肩を竦め、優雅に微笑んだ。「ここで皆さんの報告を待つのですよ。ほかに何をしろと?」


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