一章 火種 (4)
「サルカシュ卿」
ひそっ、とささやきかけられ、サルカシュは目をしばたたきつつ誰かと首を巡らせた。サルカシュがいるのは裏門側で、庭園に入ろうとする庶民が来る方ではない。それに、卿、という呼びかけも、軍人でなければするまい。
まさか、と嫌な予感が胸をよぎる。よく見ると、曲がり角の陰から一人の男がこちらを窺っていた。サルカシュは残り二人の兵に「頼む」と言い置いて、そちらに足を向けた。
「おぬしは……?」
見覚えがある、とは思ったが、どこの所属の誰かまでは、思い出せない。衣服はみすぼらしく汚れ、顔もげっそりとやつれている。今まで隠れていた兵なのは確かだ。
「忠節で知られたサルカシュ卿ともあろう者が、今ではティリス人の番犬とは」
苦々しく男は言い、忘恩の輩め、と吐き捨てた。サルカシュは痛い所を突かれて顔を歪めたが、どうにか首を振った。
「先代様には恩義があるが、マデュエス様は先代様の遺されたこの国を徒に荒廃させただけだった。長らくそれを認めたくはなかったが……今ではそうせざるを得ぬ」
サルカシュの言葉に男はぎりっと歯がみし、怒りを堪えてうつむく。ややあって彼は疲れ果てたようなため息をつき、顔を上げた。
「たとえそうでも、私はティリス王に膝を屈することは出来ぬ。卿ならばわかってくれるだろう?」
そう言われては、サルカシュとしてもうなずくよりほかない。小さく首肯したサルカシュに、男は「頼みがある」と続けた。途端に警戒したサルカシュに、男は苦い笑みを浮かべて見せる。
「下らぬことだ。私はこの街から去ろうと思う。だが……情けないことに、このままでは一日も行かずに飢えて倒れそうなのだ。何か厨房から取って来ては貰えぬか。それさえ受け取れば、すぐにも出て行く」
「そうか」
さすがに哀れになり、サルカシュは男の頼みを引き受けた。屋敷の中に入れるわけにはいかないが、食べ物を恵んでやるぐらいは構うまい。かつてはマデュエスのお陰で贅沢な暮らしをしていたであろうに、今は物乞いのような真似をせねばならぬとは。
サルカシュは玄関口に戻り、持ち場を守っている二人の兵にささやいた。
「物乞いだ。食べ物を取って来るが、決して中へは通すな」
はい、と兵が返事をしたのを確かめ、サルカシュは急ぎ足で厨房へ向かった。自分で取りに行ったのは、単なる施しものではなく、長い放浪に備えて日もちのする物を見繕ってやろうと思ったからだ。
きりきり舞いしている料理人たちの目を盗み、干し肉やチーズといったものを包む。ついでに葡萄酒の入った皮袋もひとつ失敬して、彼は裏門へ戻り、
「あっ……!」
しまった、と立ち竦んだ。さほど長く離れていたわけではない。だが、そこにはまったく人影がなかった。食べ物を乞うた男も、守りを任せた兵も。
慌てて周囲を見回すと、植え込みの陰になっている壁際に、靴の先が見えた。
「おいっ、無事か!」
駆け寄りかけて、サルカシュは数歩で踵を返した。無造作に置き去りにされた二人の兵士の体は、ともに首から胸まで深紅に染まっていた。既に息をしていないのは明らかだ。地面に目を落とすと、死体をひきずった跡に加えて、いくつか足跡が残っていた。物乞いをした男とは別の仲間が潜んでいたらしい。
サルカシュは罵りの言葉を吐き捨て、「賊が侵入した!」と怒鳴りながら屋敷に駆け込んで行った。
カゼスにとって幸いなことに、広間に集められた市民は身分が高すぎも低すぎもせず、それゆえに胸の悪くなるようなお世辞を聞かされもしなければ、あからさまな敵意を向けられることもなかった。
カゼスは出来るだけ穏やかに話し、相談事――店にたむろするティリス兵が娘を狙っているようで困る、だとか、年老いた父親が節々の痛みを訴えてばかりいる、だとか――を持ちかけた者には誠実に対応した。
酌や給仕をしている娼婦がたまにやってきて、カゼスの肌や髪の美しさを褒めたりすると、カゼスはどう答えたら良いやら分からず赤くなっておたおたした。そんな様子に市民の警戒心も解け、ざっくばらんに話しかける者も増えてくる。気が付くとカゼスはほとんど何も食べられないまま、人垣に囲まれていた。
カゼスが少し疲れた顔をしていることに気付いたアーロンが、「失礼」と断って連れ出してくれなければ、盛大に腹の虫を鳴かせてしまったかもしれない。花器の陰になっている壁際に退散して、せわしなく口を動かしているラウシール様の姿に、料理を取ってきたフィオのみならず、アーロンまでが失笑に肩を震わせた。
「笑わなくても……」
赤くなって恨めしげにそう言ったものの、余計なことを言う暇があれば食べ物を飲み込んだ方がいい。羊肉と香草を焼いて薄いパンで包んだものを、せっせと片付ける。
「カゼス様、朝から何も食べてらっしゃらないんですもんね」
フィオが言い、果実酒の杯を差し出す。寝起きの悪いカゼスを叩き起こして着付けをしたのは、彼女なのだ。カゼスは最後の一口を飲み込み、杯を受け取った。
「もう少し早く起こしてくれたら良かったのに」
「そういう事は、起こしてすぐに起きる人が言うんですよ」
しらっとフィオが応じたので、アーロンがふきだしてしまった。カゼスは返す言葉もなく、果実酒を飲んでごまかす。カゼスの信奉者である少女だが、唯一寝起きの悪さだけはどうにかして欲しいと思っているようだ。
「ラウシールも形無しだな」
くすくす笑いながら、アーロンがカゼスの口元を指で拭った。パン屑がついていたらしい。そのままアーロンは無意識に、指についたパン屑を自分の口に入れた。
真っ赤になって固まってしまったカゼスと、同じように赤くなって明後日の方を向いたフィオに、彼は目をぱちくりさせる。それからやっと自分がした動作に思い当たり、しまった、と片手で顔を覆った。
「すまん、つい……昔の癖で」
「ああ、エンリル様ですか」
赤い顔のままカゼスは苦笑した。どうやらアーロンは、保護者意識をよほど強く植え込まれたらしい。照れ隠しもあって、カゼスはからかい口調になった。
「なんだか本当にお母さんみたいですねぇ」
「やめてくれ」
アーロンはかなり本気でうめいた。さもありなん、好きな相手に『お母さん』呼ばわりされて嬉しい男がいるものかどうか。カゼスはそこの所に思い至らず、無邪気に笑った。
「そう言えば、そのエンリル様は」
言いながら彼女は視線を振り向け、青い目を愕然と見開いた。何を見付けたのかとアーロンが振り返るより早く、カゼスはダッと走りだしていた。
エンリルの背後から、抜き身の剣を手にした男が客の間を擦り抜けて迫っている。近くにいた兵が気付いて防ごうとしたが、男の剣がより早くその腕をなぎ払った。同時にカゼスが叫ぶ。
「陛下! 後ろッ!」
呪文を唱えることもせず、風を呼んで舞い上がる。一瞬で人垣を飛び越え、エンリルの背中側に降りながら、肩を押し下げて床に膝をつかせ――
ガキィン!
鋭い音が響いた。斬りつけた男の刃を、イスファンドの剣が受け止めたのだ。
その直後、カゼスが作り出した『力』の障壁に弾かれて、男は吹っ飛んだ。そのまま男は広間の柱に叩きつけられ、失神してどさりと倒れる。カワードとウィダルナが兵を数人率いて駆けつけ、それを拘束した。
「お怪我はありませんか」
カゼスに助け起こされて、エンリルは「大丈夫だ」と顔を上げて笑いかけた。その青褐色の瞳に、カゼスの背後から心配そうにこちらを覗き込んできた召使の姿が映る。
「良かっ――」
た、と言いかけたカゼスは、いきなりエンリルに腕をぐいっと掴まれ、床に引き倒された。その上に、エンリルが覆いかぶさる。
何かが潰れるような鈍い音と、男のくぐもった悲鳴。そして、押し倒されたカゼスのそばの床に、ぱたぱたっ、と赤い滴が落ちた。
「いったい何が……エンリル様!」
起き上がろうとしたが、エンリルの体が邪魔をする。まさか今の血は、とカゼスが青ざめると同時に、
「もう安全です、陛下」
アーロンの声がして、エンリルがゆっくり起き上がった。カゼスはホッとして立ち上がり、周囲の状況を見た。どうやら最初の男とは別の者が、召使に化けて潜り込んでいたらしい。エンリルに気を取られたカゼスを、背後から隠し持った武器で刺そうとしたのだろうが、こちらは間一髪でアーロンが防いでくれたようだった。召使に化けた刺客は顔を蹴られて、鼻と口からぼたぼた血を垂らしている。先刻の血はこれだったのだ。
刺客は兵に取り押さえられてもまだ暴れていたが、アーロンがみぞおちめがけて拳をお見舞いすると、さすがにぐったりとなった。
サルカシュが応援を連れて現れたのは、ようやっとその時になってからだった。
「陛下……!」
青ざめ、取り乱したその様子に、エンリルはなるほどという顔をした。衣服の襟や裾を直しながら、サルカシュを目顔で招き寄せる。
「そなたが取り逃がしたのは、どちらだ?」
冷静に問われ、サルカシュは、ご無事で、とも言えず、二人の刺客を見比べる。
「私が見たのは、こちらの男だけです」
カゼスに吹っ飛ばされた方の男を指し、サルカシュは答えた。
「所属までは覚えておりませぬが、軍の者であるのは確かです。食べ物を乞われ、他の兵に見張りを任せて持ち場を離れてしまい……その隙に、恐らく近くに潜んでいたのであろうこの男と」と、血を滴らせている男を指す。「二人がかりで見張りの兵を殺し、屋敷に入り込んだものと思われます。……完全に私の落ち度です」
サルカシュはそう言うと、ひざまずいて頭を垂れた。いかような処分もお受けします、という意思表示だ。
エンリルは上着の襟をぴんと引っ張ると、やれやれと小さく肩を竦めた。
「処罰については後ほど沙汰を下そう。今はまずこの者らを監禁するよう命ずる。それと、こちらの者については、しゃべることが出来る程度に手当もしてやれ」
サルカシュは畏まって命を受けると、すぐに二人を引っ立てて行った。牢はないので、倉庫にでも放り込むつもりだろう。
彼らが出て行くと、素早く召使がひっくり返った杯の中身や血の跡をきれいに掃除し始める。エンリルが宴を続けるように言うより早く、カゼスが不吉な声を発した。
「エンリル様。なぜ私を庇ったのです?」
「なぜ、とは?」
エンリルは、当然ではないか、とばかりきょとんとした顔で聞き返した。カゼスは険しい目でそれを睨みつけ、静かな怒りを込めて、もう一度問う。
「なぜ、私の上にご自分の身を投げかけるような真似を?」
「そなたの身が危なかったからだ。ほかに何がある」
不審な顔になったエンリルに、カゼスは低く唸った。
「……歯を食いしばって下さい」
「は?」
駄洒落のように聞き返したエンリルだったが、カゼスの手がすっと上がるのを見ると、ぎょっとなって反射的に言われた通りにした。
次の瞬間、広間に響いた盛大な音に、誰もが目を丸くしてカゼスを見つめた。平手をくらったエンリルはよろけて半歩ほど後ずさり、アーロンに支えられて目をぱちくりさせる。抗議の言葉も出てこず、ただただきょとんとして。
一息置いて、カゼスが怒声を上げた。
「主君に庇われて喜ぶ者がおりますかッ!」
ここまで本気で怒ったカゼスを見るのは、エンリルもアーロンも初めてだった。カゼスは拳を握り締め、わなわなと震えながらエンリルを叱り付けた。
「いくら魔術師でも、死んだ者を蘇らせることは出来ないんですよ!? ご自分の命を何だと思っておいでですか! 陛下に万一のことがあったら……っ」
お説教の途中で声が震え、見る間に青い双眸に大粒の涙が溜まって、ぼろぼろとこぼれだした。カゼスは手の甲でそれを拭い、唇をぎゅっと噛んでエンリルを睨みつけると、何か言おうとして口を開いた。だが、言葉のかわりに嗚咽が洩れそうで、すぐに歯を食いしばって何度も首を振る。
呆気に取られていたエンリルは、ようやく姿勢を正すとカゼスの前に立って、ほんの少し首を傾げるほどに頭を下げた。
「すまぬ、確かに余の考えが足りなんだ」
自分の持っている能力を使えば、何も我が身を盾にせずとも良かったのだ。無意識に力を使うことに対する恐れが働いたのか、単に失念していたのか。いずれにせよ落ち度は認めざるを得ない。
「おっ、お分かりならっ、もう、二度と……こんっ、な、」
しゃくりあげるカゼスに、エンリルは思わず手をのばしかけたものの、公衆の面前でラウシールの頭を撫でたり肩を抱いたりするわけにもゆかず、困って動作を止めた。
次の瞬間、カゼスはきっと顔を上げ、
「こんな事をしないで下さいッ!」
怒鳴りつけた。びっくりして竦んだエンリルに、カゼスは「分かりましたね!」と畳みかける。
「……はい」
やり場のなくなった手を半端な位置に上げたまま、呆然とエンリルが答える。それを確かめると、カゼスは足音も荒々しく、憤然と広間を出て行ってしまった。
残された面々はしばらくぽかんとしていたが、ややあってエンリルが小さく笑いをこぼしたのをきっかけに、あちこちでざわざわと声が上がった。
「やれやれ、叩かれたのは何年ぶりかな」
エンリルはアーロンに向かって苦笑する。アーロンが何とも答えられずにいる内に、彼は楽を奏でていた者たちに手を振って、続けるよう合図を出した。
ぎこちなく始まった演奏も、やがてまた滑らかになり、客たちも気を取り直して料理や酒に手を伸ばす。それを見届けてから、エンリルも葡萄酒の杯に口をつけた。
「アーロン、イスファンド、そなたらの働きのおかげで助かった」
声をかけられ、二人は畏まって礼をする。そこへ、冷たい水を入れた鉢を持って、フィオがぱたぱたと走って来た。
「陛下、頬を冷やして下さい」
「気が利くな、フィオ」
アーロンが言いながら、水に浸してあった布を絞ってエンリルに渡す。
「カゼス様に言われたんです。私はいいから、エンリル様に持って行きなさい、って」
肩を竦めたフィオに、エンリルは冷たい布を頬に当てて苦笑した。
「そなたも、余が馬鹿な真似をしたと思うのか?」
問われてフィオは少し首を傾げ、率直に答えてよいものかどうか、ためらった。結局彼女はアーロンやカワードたちがよくやるような表情を真似て、曖昧に答えた。
「少しは」
「正直に答えて良いのだぞ」
エンリルが面白そうに言ったので、フィオは唇を尖らせた。
「嘘はついてませんよ。確かに無茶でしたけど、カゼス様もエンリル様も同じで、そういう無茶をしてでも人を守ろうとされるから、皆がついていくんだと思います。あの時にカゼス様を助けようとされなかったら、あたし今頃、その杯に毛虫を入れてますよ」
手に持った杯を視線で指され、エンリルは何とも言い難い風に顔を歪める。それから彼は布をフィオに返し、「侮れぬな」とつぶやいたのだった。
サルカシュとスクラによる尋問の結果、エンリルとカゼスを襲った者は、共に旧エラード国王軍の残党であると判明した。
エンリルはじめ主立った面々が広間に集まると、刺客から聞き出した内容についてスクラが淡々と報告をした。サルカシュは正式に処分が決められてはいないのだが、自ら身を慎んで部屋にこもっているのだ。
「……それと不穏なことに奴は、まだ数多の同志がいるのだ、エラードを滅ぼしたと安堵するのは早いぞ、などとうそぶいておりました」
「このラガエに、か?」
エンリルの右手に座るゾピュロスが、隻眼をかすかに細めて問うた。スクラは否と応じて「南に」と続けた。
「メルヴ川を下った残党が、再びまとまる気配を見せている様子。先手を取られぬ内に、殲滅すべきかと存じます」
「おいおい」クシュナウーズが揶揄するような声を出す。「かつてのお仲間だろうに、随分と容赦がねえんだな」
「仲間?」
聞き返したスクラは、冷笑すら浮かべていない。いたって無感情に彼は応じた。
「エラードの土地と民から搾取するだけ搾取し、享楽に酔いしれていた愚か者どもの仲間呼ばわりされるのは不本意だ。下らぬ憶測をしている暇があるなら、谷に戻って守りをかためた方が良かろう」
不遜な物言いに、その場の空気が冷たくなる。だが言われた当のクシュナウーズは平気な顔で、やれやれと苦笑しただけだった。
「船は要らねえてんなら、誰にやらせるんだ?」
クシュナウーズに対して『谷に帰れ』と言ったということは、そういう意味だ。メルヴ川を南下して残党狩りをするのに、ティリスの船団は必要ない、と。エンリルも気付き、問うまなざしをスクラに向ける。
「サルカシュを」とスクラは応じた。「此度の失態を償う機会をお与え頂きたい。彼の者にしても、もはや国王軍の残党が己の敵でしかないことを認識するべきかと」
「なるほど」
エンリルはうなずき、ふむ、と考えこむ。今回のサルカシュの落ち度に対して、何の責任も取らせぬままとは行かない。しかし心情的にはサルカシュに同情する節もあるし、あまり厳しく不名誉な罰を与えて貴重な人材を失いたくもない。
「良かろう。今はひとまず軽微な罰で済ませておいて、ファシスに潜む残党を討伐させるとしよう。失敗すれば、その時こそ厳罰を下すことにする。……ラガエに残って目を光らせているのは、スクラ卿、そなたの方が適任であろうしな」
言葉尻で皮肉っぽい笑みを浮かべたエンリルに、スクラは眉をほんの少し上げただけで、あえて何とも言わなかった。
ここでサルカシュをラガエに残したまま、他の誰かがファシスへと向かえば、また敵に付け入る隙を与えるだけだ。サルカシュにしても、失敗をカバーしてくれる者がいない状況に立たされれば、否応なく情や義理を見直さねばなるまい。
不機嫌な顔をしたままのカゼスは、終始無言だった。
その表情にウィダルナが気付き、おずおずと声をかけた。
「カゼス殿? 随分と険しいお顔ですが……何か気になることでも?」
「まだ坊やに腹立ててんじゃねえの?」
皮肉っぽく笑いながら、クシュナウーズが茶化す。
「な……!」
あまりの無礼さにウィダルナとアーロンが色をなし、エンリル当人やイスファンドも顔をこわばらせた。
「クシュナウーズ、貴様」
これだけの面々が揃っている場で、己の主君を坊や呼ばわりとは。堪りかねてアーロンが腰を浮かす。クシュナウーズは平然と椅子にふんぞりかったまま、鼻を鳴らした。
「俺だってあの現場を見た時ゃ、後で横っ面張り飛ばしてやろうかと思ったぜ? お嬢ちゃんがやっちまったけどよ」
視線を向けられ、エンリルは眉を寄せたが、言い返せずに目を伏せた。クシュナウーズはその反応を見て温かみのある苦笑を洩らすと、肩を竦めた。
「ま、本人も分かってんだし、くどくど言うのは酷ってもんだな。……ってわけで、お嬢ちゃんも機嫌直してやっちゃどうだい」
なぁ、と話を振られて、初めてカゼスは「えっ?」と顔を上げた。
目をぱちくりさせている彼女に、クシュナウーズは憮然とする。
「なんだよ、人がすげえいい話をしてたってのに、聞いてなかったのか? いったい何をむくれてんだ」
「あ、すみません……その、どうも……」
カゼスは夢から覚めたような風情で曖昧に答え、また少し眉をひそめた。
「何か……嫌な予感がするんです」
胸の辺りを、無意識に押さえる。冷たい暗闇を飲み込んだような、不吉な予感。少しでも気が緩むと、それに取り憑かれている。
〈儂の知らせのことかも知れぬな〉
イシルの声が頭の中に響き、カゼスはぎくりとして身を竦ませた。室内の一同が不審げな顔をして見つめる前で、彼女は青ざめ、ぎゅっと拳を握り締める。
「エンリル様。今、イシルが……私に、知らせを」
「知らせ? 何かあったのか」
エンリルも不安に顔を曇らせる。カゼスは深く息を吸って、ゆっくりと押し出すように凶報を告げた。
「カッシュが占拠されたそうです。ティリスで反乱が……。ラームティン卿とクティル卿の兵が王都を目指している、と」
息を飲む者、目を見開く者、腰を浮かす者。反応は様々だったが、即座に言葉を発することのできた者はいなかった。
重く息苦しい沈黙があって、ようやく、「ばかな」とかすれ声がいくつか漏れた。
「間違いないのか?」
エンリルが問う。カゼスは緊張と恐怖にひきつった顔のまま、うなずいた。
「イシルは水のある土地で起こったことはすべて分かります。ニーサのマルドニオス卿の元には、すでに救援を求める早馬が着いた、と……」
「しかし何故いまさら!?」カワードが拳をテーブルに叩きつける。「ラームティンもクティルも、先の内乱が終わった後、オローセス様に、ひいてはエンリル様に、忠誠を誓ったではないか! あれは嘘だったと言うのか?」
「赤眼の魔術師めの仕業だろう」
眉間にしわを寄せて、むっつりとエンリルが言った。エラード進攻の前に、ティリス王宮に現れたキースとかいう男。
「奴の蒔いた種が、ようやく芽を吹いたというわけか。となると、カゼスにはアルハン側の動きに対応して貰わねばならぬな」
鋼のように冷たく硬い声で言いながら、エンリルは立ち上がった者に座るよう手で示した。ふたたび座に着いた一同に、彼はてきぱきと指示を出す。
「本国を奪われるようなことがあってはならぬ。余とゾピュロス、カワードの部隊は即刻ティリスに戻る。カゼス、そなたは出立まで魔術で少しでも期間を短縮できるよう、輜重隊の支援につけ。その後、クシュナウーズ及びイシルと共に谷へ向かい、アルハン側の動きを警戒せよ。単独での偵察も許可する。我々が慌ててエラードを去れば、まず間違いなくアルハン軍が攻め込む。谷で奴らをくい止めるのだ」
「陛下、では私は」
まさか、とアーロンが不安げな顔をする。エンリルは無表情にうなずいた。
「すまぬが、そなたにはラガエに残って貰わねばならぬ。ファシス近辺の残党を一掃するのは後回しにするよりほか、あるまい。スクラ、サルカシュ、それにそなたの三人が残ってくれるなら、『獅子将軍』がおらぬ機に乗じようとする輩も、考え直さざるを得まい。最悪の場合、アルハンが高地を経由して攻め込むつもりなら、ラガエから一軍を派遣せねばならぬからな」
「……御意」
アーロンは苦々しく答える。その表情に、エンリルもふっと笑みを浮かべた。
「そなたをこの地に残すのは、余も心細い。だが……」
「承知しております」
アーロンも表情を和らげ、うなずいた。言葉にされるまでもなく、エンリルが自分を必要としている事も、それゆえにここに残しておかねばならない事も、よく分かっている。離れた場所で任務にあたるのも、今回が初めてではない。
(子離れできない親ではないのだ)
そしてまたエンリルも、親離れできない子供ではない。そう自分に言い聞かせ、アーロンは強いて笑みを作った。
「ラガエの守りはお任せ下さい」