一章 火種 (3)
カゼスが建物の中に入ると、ちょうどアーザートが廊下を急ぎ足にやって来るところだった。傷が回復した後、逃げ出そうと思えば逃げ出せたろうに、なぜか彼はカゼスの護衛を続けている。
(何か怖いことでも、想像してるのかなぁ)
あの日以来アーザートの顔は、無愛想を通り越して嫌悪と怒りの気配を常に漂わせている。そのくせ出て行かないのは、逃げたら魔術で酷い目に遭わされると考えているからだろうか。カゼスは思わず苦笑した。
その笑みを見分けられる距離まで近づいていたアーザートは、ムッとした顔をしたものの、何も言わなかった。だがそれでも、以前に比べれば心理的な距離が縮まったように感じられる。はっきり顔に心情を表すようになった分、作り笑いの下に殺意を秘めていた時よりマシだ。
立ち止まって待つカゼスの前まで来ると、アーザートは「茶だと」とぶっきらぼうに言い、ついて来いとばかりに顎をしゃくって、くるりと元来た方に足を向けた。
どうやら彼は、あれ以来フィオに使い走りをさせられているようだ。不平や不満もあるに違いないのに、文句ひとつこぼさず、ただ怒り顔のまま黙々と職務をこなしている。
アーザートのやや後ろを歩きながら、カゼスはなんだか可笑しくなって、くすくす笑い出してしまった。アーザートはじろりとカゼスを睨んだが、それもほんの束の間で、フンとも言わずに黙殺して歩き続ける。カゼスはなんとか笑いをひっこめ、無理にしかつめらしい顔を作って後について行った。
案内された部屋の中には、どこから嗅ぎ付けたのかカワードやアーロン、エンリルまでが既に車座になっており、フィオが淹れた茶を飲みながら思い思いにくつろいでいた。
「増えてる……」
愕然とアーザートが独白したので、カゼスは堪え切れずふきだしてしまった。
むっつりと壁際に退いたアーザートの視線に追い立てられ、カゼスはそそくさと室内に入ると、フィオが用意してくれた場所に座った。
「エンリル様、仕事に戻られたんじゃなかったんですか」
カゼスは紅茶を一口飲んでから、からかうように声をかけた。本を読んでいたアーロンが顔を上げ、片眉を上げて疑問符がわりにし、エンリルを見る。どうやらエンリルは、このささやかな茶会に加わるのが既に「一休み」した後だとは、言わなかったようだ。
だがアーロンは説教したりせず、
「まあ、たまには良いでしょう」
とだけ言ってパタンと本を閉じた。元守役は飴と鞭の使い分けを心得ているらしい。実のところ本人も、イスファンドに仕事を任せて休憩しているのだから、あまり厳しいことは言えない、というのもあるが。
「エンリル様にも気晴らしが必要ですしね」
カゼスはそう同意すると、何か良い案はないか、と目顔でその場の面々に問うた。言葉にしてしまうと、遊びましょうと誘っているようで、少し不謹慎な気がしたからだ。皆が乗って来るようであればそれで良し、と思ったのだが、
「それもそうだな。どうです陛下、たまには娼妓をはべらせて酒宴でも」
カワードのこれは、さすがに悪乗りだった。カゼスは困り顔になって目をそらし、ちょうど新しい茶を運んで来たフィオは「もうっ」と呆れ声を上げた。
「カワード様って、三の長といい勝負ですよ。そういうことばっかり言ってると、本当に好きな人に逃げられても知りませんよ」
楽や舞、あるいは行き届いた接待を目当てに、宴席に花柳界の女を呼ぶのは珍しいことではない。だがカワードの言うそれは、単に宴に添える花とは少し意味合いが違う。
「何を言う、エンリル様は既にティリスとエラード二国の王となられたのだぞ。それに、女に興味のない歳でもない。王たる者が、女ぬきの宴などしみったれたことをしていてはいかんだろうが。そうでなくともお世継ぎの問題もある、早くて悪い理由もあるまい」
「自分が女の人目当てだから、そんなこと言うんでしょ。それを言うならカワード様こそ、その王様の下で万騎長なんてやってるんですから、しみったれてないで自分のお金で女遊びでも何でもして来たらどうなんですか」
相手が貴族育ちでないだけに、フィオの物言いも遠慮がない。カワードが大袈裟に顔をしかめ、ひとしきり笑いが場を包んだ。
笑いがおさまると、エンリルが苦笑しながら口を開いた。
「実はそのことを考えていたのだ」
「ええっ!?」
カゼスとフィオが叫び、アーロンとカワードは目を丸くして主君を凝視した。エンリルは悪戯っぽく一同を見回して「いけないか?」と、とぼける。アーロンは今までになく複雑な顔で、
「場合によっては、悪いとは申せませんが」
などと、珍しく歯切れの悪い返事をした。エンリルとて、いつまでも子供ではないのだ。娼妓をはべらせたいと言い出しても、不自然ではない。ないのだが。
「しかし、今まで一度もそのようなことは……」
言わなかった。それだけに、元守役としては複雑な気分だったのだ。最初に女遊びを提案したカワードまでが、なんとも言い難い顔をしている。
エンリルはしばらく平然とした態度を装っていたが、ややあって、とうとう自分から笑い出してしまった。
「私が女に興味を持つのがそんなに奇妙か? 揃いも揃って失敬だな、そなたらは。だがまあ良かろう、いずれにせよ私が考えていたのは、この屋敷に娘たちを集めていにしえの皇帝の真似をすることではない」
「なんだ、びっくりさせないで下さいよ」
ほっとして胸を撫で下ろしたカゼスに、エンリルは皮肉っぽい目を向けた。
「案ずるな、たとえそのようなつもりであっても、そなたに酌を命じたりはせぬ」
カゼスはどう応じたものか一瞬迷ったが、苦笑いを浮かべて冗談にすり替えた。
「私が着飾ってお酌なんかしたら、裾を踏んで転ぶに決まってるじゃないですか。そんなに私を無礼討ちにしたいんですか」
「ふわふわ浮いておれば、転ぶ心配はないぞ」
カワードが要らぬ口を挟む。カゼスは胡散臭げな目を向けた。紅茶で酔っ払っているのか、と責めるように。
急いで話の軌道を修正したのは、最初にずらした責任者のエンリルだった。
「いくらなんでも、ラウシールに余興まがいのことをさせるのは、賢明とは言えぬぞ。それは町の娼妓や芸人たちに任せれば良かろう」
「なるほど」アーロンが得心してうなずいた。「市民を宴に招いて、宥和と街の活性化を図ろうというわけですか」
ああ、とカゼスも納得すると同時に、カワードが面白くなさそうに口をひん曲げた。
「要するにエラード人のご機嫌取りですか、陛下」
なんだつまらん、と言わんばかりの声音に、エンリルは苦笑した。
「そなたの期待を裏切ってすまぬが、今はラガエ市民を宥めねばならぬのでな。そなたらも、市民の感情を肌で感じておろう? 我らはかつてこの都を支配していた者どもをこの世から消し去った。それは事実だが、市民を脅して服従させるものでもなく、また搾取するつもりでもないと、はっきり示しておかねばな」
「そうか……そうですね」
園丁の態度を思い出して、カゼスは目を伏せた。そうだった。相手が自分を恐れているから、そして自分は恐れられて当然の事をしたからと言って、放置していたのでは何の解決にもならない。
「ご機嫌取り、って言ったらちょっと聞こえが悪いですけど、結局そうした方が街の人も安心できるでしょうしね。私も協力します。あ、宴を盛り上げるとかいうのは無理だと思いますけど、その……別の方面で」
大崩壊以降、カゼスは今まで直接ラガエの復興にはかかわって来なかった。ラガエ市民の脅えた目が怖かったし、あれだけのことをしておきながら、聖人面をして病人や怪我人を診たり、飢えた人に食糧を配ったりするなど、考えたくもなかったのだ。だが、それは言い訳でしかない。
「状況や立場はともかく、現に今、困ってる人がいるんだから、我が身可愛さに逃げてる場合じゃありませんでした」
カゼスは照れ隠しの苦笑を浮かべ、ちょっと頭を掻いて「反省、反省」などとつぶやく。その様子を、エンリルとカワードは少し驚きかつ感心したように、またアーロンは優しい微笑を浮かべて、見つめていた。
と、カワードがアーロンの表情に気付き、にたりと笑みを広げた。
「なるほどな、こういうところに惚れたわけか」
「……っ!」
アーロンは途端に真っ赤になった。悟られているとは夢にも思っていなかったらしい。
「カワード! おぬし、何を」
「ははは、随分と動揺するではないか。日頃俺に向かって生意気な口ばかり叩いておる割には、まだまだ青いということだな」
実に愉快げに、カワードはちくちくとアーロンをいじめる。赤面したまま、アーロンは言葉に詰まって低く唸った。エンリルはくすくす笑うばかりで、助けてくれるつもりはなさそうだ。
カゼスは恥ずかしくて顔を覆いたくなったが、少し離れた場所で悲しそうな顔をしているフィオに気付くと、慌てて顔を上げた。
「フィオ、その……これは」
「もうとっくに気付いてますよ」フィオは首を振り、苦笑した。「カゼス様、本当は女の人だったんですよね。どうして隠してらっしゃるのか、あたしには分かりませんけど」
「う……」
どうしよう、困ったな。カゼスはカワードとフィオを交互に眺め、どう説明したものかと焦って考えた。カゼスが女であるらしいと気が付いても、その噂を流すようなことはしなかった二人だ。真実を話しても構うまい、と決意し、カゼスは表情を改めた。
「実は、ここだけの話にして貰いたいんですが、元々私は男でも女でもなかったんですよ。フィオ、あなたと初めて出会った時もね。それが、高地に行った頃から急に変わってきてしまって。理由は私にも分からないんですけど……だから、その、」
結局何をどう言いたかったのか分からなくなって、カゼスは曖昧に語尾を濁した。カワードがその背中を勢いよく叩き、屈託なく笑った。
「細かいことはどうでも良いさ。おぬしと娼館めぐりに行けぬのは、残念だがな」
「勘弁して下さいよ」
つられてカゼスも苦笑する。一度、カワードに騙されて娼館に連れ込まれたことがあるのだが、その時は結局カワードと一人の娼婦との熱愛っぷりに当てられただけだった。要するに、彼がしきりに娼館に行こうと誘うのは、ノロケたいだけらしい。
フィオの方の反応はもう少し複雑だった。
「あの……でも、やっぱり内緒なんですよね? カゼス様は男の人だってことにしておかないと、いけないんですね」
曖昧な顔でそう言った少女に、カゼスは「ええ」とうなずいた。
「最初に男だと言ってしまいましたからね。いまさら、嘘でした、なんて言えませんし」
「そうですか。残念だなぁ」
はぁ、とため息をついたフィオに、一同揃って怪訝な顔をする。問いかけるまなざしに対し、フィオは「だって」と唇を尖らせた。
「カゼス様、もっといっぱい刺繍や宝石のついた服を来て、髪飾りとか首飾りとか腕輪とか飾り帯とかつけて、紅もさしたりしたら、絶対にすっごくきれいだと思うんですよ。もったいないなぁ」
「……はい?」
呆然とカゼスは問い返す。いくら現在は身体的に女だと言っても、カゼスは元々無性だったので、女性心理に明るくはない。それに女性化したからと言って、不精な彼女がお洒落の楽しみを発見することもなかったわけで、とどのつまり、未練がましく青い長髪をいじりだしたフィオの欲求不満は、カゼスには永遠に理解できそうになかった。
困惑顔のカゼスを見て、エンリルが小さくふきだした。カゼスよりは、装いに関してまともな意識の持ち主らしい。
「宴の折には、華美にとはゆかぬまでも、多少見栄えがするよう飾ってやれば良い。いっそ誰だか分からぬほどに仕立ててみても、面白いかも知れぬがな」
「あまり目立ち過ぎては困ります」
と水を差したのは、カゼスではなくアーロンだった。カワードが、おやおやとばかりからかう気配を見せたが、アーロンはそれをひと睨みで封じ込めた。
「ラガエの市民にとって、あの大崩壊はまさに悪夢でしょう。それを引き起こしたのがラウシールであることは、既に知れ渡っております。そのラウシールが豪華絢爛に着飾って宴に現れたら、どうなります?」
すうっ、とその場の気温が下がったように感じられた。カゼスは唇を噛み、うつむく。と、その顎にアーロンが手をかけ、ぐいと顔を上げさせた。
「おぬしは何も悪くない」
強い口調ではっきりとそう言い、彼は軽くカゼスの肩を叩く。それからエンリルに向き直り、話を続けた。
「とは言え、ラガエ市民にそうと納得させるのは、残念ながら到底無理な話です。宴の目的を考えると、カゼスや陛下を警護の壁で囲って隔離しておくわけにも参りませぬ。むろん宴の場には一切の武器を持ち込ませぬよう計らいますし、街に潜んでいる残党も出来る限り見付け出しますが、物事に完全ということはありませぬゆえ」
「そうだな。よろしく頼む。さて、そろそろ私は戻らねば」
鷹揚にうなずき、エンリルは空になった茶碗を置いて立ち上がった。そして、一緒に立ち上がりかけたアーロンを軽く手で制する。
「良い、そなたは今しばらく休んでいろ。じきに私のお守りをするよりも、もっと忙しいことになるのだからな」
「陛下?」
アーロンは言葉に詰まり、相手の笑顔を凝視する。その隙に、エンリルはさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……何なんだ、今のは?」
焼き菓子をかじりかけた状態のまま、カワードがいささかぽかんとして、誰にともなく言う。アーロンは、不可解な顔で首を振ることしかできなかった。
軽い調子の声に、目に見えない微小な棘があるようだった。いつもの笑顔なのに、目は笑っていなかった気さえする。それはほとんど判別し難いほどわずかな、それでいて確実な違和感だった。澄みきった湖にほんの一滴、黒い毒液を垂らしたかのような。
だが、誰にもその原因がわからなかった。
何か気に食わないことがあったのなら、あんな言い方をするエンリルではない。ちゃんと相手に理解できるような形で不満を伝えるのが常であったし、陰湿な態度で相手を責めることもなかった。ならばあれはただの軽い皮肉であったか、と言うと、断じて違う。
こりこりと頭を掻いて、カゼスは曖昧につぶやいた。
「やっぱり反抗期なのかなぁ」
途端に、何とも胡散臭げな視線がいっせいに向けられ、彼女は首を竦めたのだった。
ともあれ、エンリルが奇妙な振る舞いを見せることはそれ以後なく、宴の準備も円滑に進められた。街に潜む敗残兵を狩り出すのは、スクラとサルカシュに任された。ティリス人が出て行ったのでは、宴どころか要らぬ騒動に発展しかねない。
もともと街の者に信望の厚いサルカシュが、出頭する者には危害を与えず、また本人の希望があれば軍に戻れるという布告を出しただけで、ばらばらとかなりの数の兵が出てきたのには、カゼスたちも驚かされた。
どこからこれほど、と思うような数だった。市民の家に匿われていた兵は比較的ましだが、よるべがなく、路地裏や城壁の外などに隠れていた者の多くは、物乞いかと思うほどみすぼらしくなっていた。
彼らの処遇を事務的に決めて行くのは、スクラの役目だった。サルカシュの名に安心して出て来た者が騙されたと思わぬよう、一応はサルカシュも彼ら一人一人と話をしたが、
「おぬしでは、野良犬と獅子の区別もつかぬからな」
などとスクラが言う通り、彼には敗残兵の誰ひとりとして敵になるとは見えなかったので、処遇に関しては口を挟まなかった。
大半の兵は既に武器を売って食物や衣類に替えてしまっていた。が、そうした兵の列の中に、まだ武器を持っており、なおかつそれを隠している不穏な者がまじっているのだ。スクラが彼らを次々と見付けていく様は、薄ら寒いほどのものがあった。
「おぬしは大層な目利きだな」
サルカシュは感心して言ったが、スクラはにこりともしなかった。
「俺はおぬしとは違う」
素っ気なくそんな返事をした彼は、街区を巡回して、まだ隠れている兵の居場所を暴くのにもまた、恐るべき的中率を見せた。
用心はすべきだが殺さねばならぬほどではない、というような者は、街の外に広がる農地に連れて行かれ、ティリス兵の監視の下で農作業に従事させられた。時折、その農地の外れで、不穏な行動を起こした者の首が刎ねられた。もちろん見せしめを兼ねている。
だがそうしたことを別にすれば、むしろ血なまぐさい目に遭っているのは、占領軍の方だった。平等に分配すべき食糧を私した兵が笞打たれたり、禁じられているにもかかわらず街での掠奪を行った兵が斬首されたり、といったことである。
古参のティリス兵は規律の厳しさを理解しているが、行軍途中で加わった者や投降兵、ハトラでの志願兵などは、今回初めて身をもって理解することとなった。
敗残兵狩りを始めて数日、これでほぼ出尽くしたと思われる状況になってやっと、スクラは落ち着いて茶を飲むことができるようになった。
「ティリスは辺境の野蛮な土地だと思っていたが、意外に軍の規律は厳格だな」
兵の記録を眺めながら、スクラは失敬な感想を述べた。サルカシュは別の紙を見ながら、生真面目にうなずく。
「うむ。捕虜となっている間に、ティリス軍の様子をとくと見ることができたが、実に良く訓練されておる。正直、羨ましく思ったほどだ。これもエンリル王の器ということであろうな」
「そのティリス軍に叩き潰された親衛隊の生き残りたちも、おぬしの半分ほどで良いからエンリル王に傾倒してくれれば良いが」
皮肉めかしてスクラが言う。親衛隊、というのはマデュエス直属の部隊のことだ。大半は城とともに消し飛んだが、それより前に街の外で戦って敗走した兵は、多く南へと落ちのびている様子。親衛隊の兵士は、マデュエスの耽美趣味に感化された貴族の子弟が多く、与えられる財宝と独特の思想とで、しっかりと国王につなぎとめられていた。
「本気でマデュエスの仇討ちなどを考えるのは、あの連中ぐらいであろうよ」
スクラは鼻を鳴らし、机の上でトントンと書類の端を揃える。
既に以前の主君を呼び捨てにして憚らない友人に、サルカシュは複雑な目を向けた。スクラの言うことは事実だが、サルカシュはその気質ゆえに、そうだな、と相槌を打つことはできなかった。
そんな彼の内心を読んでか、スクラが釘を刺した。
「今さら馬鹿げた考えを起こすなよ、サルカシュ。おぬしのその義理堅いところにつけこんで、要らぬことをさせようとする輩がおるかも知れぬのだ、たとえ旧知の者であっても油断するな。こんな所でエンリル王が亡くなりでもしたら、どうなる?」
「いくら俺が馬鹿でも」むっつりとサルカシュが応じる。「あの王を失えば、喜ぶのはアルハンのヴァルディアだけだということぐらい、分かっておる」
仮にラガエからティリス軍を追い払えたとしても、既にマデュエスの血は絶えているのだ。息子の一人でも無事であれば、それを新たな政権の要とすることも出来ようが、まったくいないのでは、我こそ正統の後継者であると主張する者が、醜い争いを繰り広げるだけ。そうして国内が乱れれば、アルハンのヴァルディアがこれ幸いと攻めてくるだろう。
「分かっているなら、良い」
スクラはひたと相手の目を見据えたまま、短く言った。その鋭い視線に、サルカシュは何やら居心地が悪くなって目をそらす。ハトラの収容所で自分がしたことを思い出したのだ。自重しろと言われたばかりなのに、看守を殴り倒してしまったことを。
「……今度は、間違いなく自重する」
苦々しくそう言ったサルカシュに、スクラはフンという風情で、しかし温かみのある苦笑を、小さく洩らした。
スクラとサルカシュがそんな言葉を交わした二日後、エンリルたちの住まいに使われている屋敷で、宴が催された。
料理人たちは前日から夜通しパンを焼き、肉や豆を煮込み、果物や菓子を大皿に盛って準備を整え、今日は召使たちが大忙しで広間にそれを運んでいる。立食式にしたのは、宴の目的を第一に考えると同時に、ティリス式の歓待では支配者側の力を見せつけることになる、と配慮した結果だ。
屋敷中そこかしこに花が飾られ、広間には比較的身分や教養のある者が集められて、誰とでも自由に話が出来た。娼館から雇われた娼婦たちは、それぞれ楽器を奏でたり歌や舞を披露したり、客の間を回って酒をふるまったりしている。
庭園の方には庶民のために別のテーブルが設けられ、誰もが自由に飲食できるようにされた。ティリス軍による占領後、食料は市民全員に行き渡るよう管理されていたが、やはりこうした贅沢は何よりの楽しみであるらしい。食うに困っている様子などなさそうな市民も、大勢集まっていた。
エンリルと共にカゼスが広間に姿を現すと、歓談する声がすっと静まり、いっせいに視線が集まった。二人のどちらにより多くの視線が集まったかは、定かでない。カゼスは青い髪を晒しながらも服装は控えめにしていたが、対照的にエンリルは、珍しく王者然とした、重厚で豪奢な衣服や装飾品を身に着けていたからだ。
カゼスなどは、うっかりそれに見とれて自分の裾を踏みそうになったほどだった。
ティリスという無骨な土地に育ったとは思えないほど、洗練された美しさだ。
カゼスは気付かなかったが、それはティリス風というよりはエラードの、もっと言うならラガエの、着こなし方だった。それでいて完全にラガエのものではなく、明らかにティリスの者であることを示すような特徴を残してもいる。エンリルは平生服装には無頓着に見えて、実はそういったところに気の回る性質だった。
「皆、今日はよく集まってくれた。そなたらの中には此度の戦で身内を亡くした者もいよう、財を失った者もいよう。だが、争乱を招いた邪教の徒も、それにたぶらかされたマデュエスも、そしてまたその富に目のくらんだ貪欲な貴族どもも、既にこの世におらぬ」
エンリルはゆっくりと落ち着いた口調でラガエ市民に語りかけた。格別大音声を張り上げることもなく、芝居がかった身振り手振りをするでもない。だが、誰もがそれに聞き入っていた。
「これからは、戦いで傷ついたエラードの大地を癒し、幼子から老人まで、誰ひとりとして飢えや戦に脅かされることのない国を、築いてゆかねばならぬ。それにはそなたら一人一人の力が必要だ。たとえ憎しみや恨みがあろうとも、それは各々の胸にしまい、なすべきことに目を向けて貰いたい。今日の宴は余の意志だ――これ以上は争いを望まぬ、という意志。ささやかではあるが、皆、楽しんで貰いたい」
エンリルがそう述べて軽くうなずくと、楽の演奏が再び始まった。音楽やざわめきが戻ると、いくらか座の緊張も緩み、好奇心や欲に負けた者がちらほらとエンリルやカゼスに近付き始める。
ちょうどその頃、屋敷の玄関口で警備の任に当たっているサルカシュの元にも、一人の男が近付いていた。




