一章 火種 (1)
季節は盛夏をすぎた。厳しい夏が長く続くティリスでも、灼けつく日差しに慈悲の気配があらわれ、人々はそろそろ恵みの時期が来ようとしているのを感じ取っている。
旧王都ラガエで、正式にエンリルがティリスとエラード二国の王となった頃、ティリスでは三人の旅人が王宮を訪れていた。
あいにくと、国王代理への拝謁希望は既に受付を締め切られている時間だ。門番は当然ながら、素っ気なく彼らを追い返そうとした。
「オローセス様は御多忙でいらっしゃる、また明日改めて出直すが良い」
いかにもお定まりの言葉を繰り返すばかりの門番に、金髪の少女が業を煮やして大声を上げた。
「ええい、融通の利かぬ奴だな! 私はエンリル王とも縁のある者、通さぬのなら力ずくでも通らせて貰うぞ!」
その言葉を鼻で笑いかけた門番は、相手の瞳が鮮やかな紫色に輝くのを見てぎょっとなった。伝説的なかつての皇族の力を知らずとも、日頃から気さくなエンリルと接していれば、その瞳が何を意味するかは分かる。一瞬で蒼白になり、大慌てでなだめにかかった。
「ま、待て! いや、待たれよ、失礼つかまつった」
門番を城壁のてっぺんまで飛ばす前に、少女、すなわちアトッサは怒りをおさめてフンと鼻を鳴らした。ティリスの王宮も決して市民に敷居が高いわけではないが、エデッサに比べるとやはり、治安上どうしても警備が厳しい。それがアトッサには尊大な権威主義に見えたのだ。
「分かったら早々に取り次げ。大体、火急の用で拝謁願いたいと申し出た者が、悠長に明日まで待っておられるものか。何者であろうと、せめて取り次ぎだけでもするのが門番の役目であろう! 追い返すだけなら犬でもできるわ!」
憤慨したアトッサに、苦笑しながら鳥を連れた女――バールがささやく。
「姫様、そのぐらいに……。ここはエデッサではないのですよ」
たしなめられてアトッサは不満げに口を歪めたものの、それ以上門番を非難するのは控えた。二人の門番の内、一人が城門の内側にいる伝令兵にことづてを頼もうとした矢先、
「何事か。騒々しいぞ」
近衛兵の制服を着た少年が現れた。教練の後なのか、軽く息を弾ませ、うっすらと汗をかいている。銀のサークレットからして、恐らく貴族の子弟であろうと見当がつく。
「これは、ダスターン殿。オローセス様に謁見を願う者が参りましたので」
「今頃か?」
やや呆れた声を出し、ダスターンは無遠慮なまなざしで三人の高地人を眺めた。アトッサがムッとなるより早く、門番が急いで口を挟む。
「陛下と縁のある者だと申しておりますし、事実、その娘の瞳の色が聖紫色になるのをこの目で確かめました」
その言葉にダスターンは片眉を上げて、なんとも言い難い顔をした。それからもう一度アトッサを瞥見し、「わかった」とうなずいた。
「伝令はオローセス様にこのことを伝え、謁見殿においで下さるようお願いしろ。私はこの方々を案内する。本物かどうかはオローセス様が判断されるだろう」
「そなたが案内役をするのか?」
思わずアトッサは不満げに唸る。ダスターンは、素っ気なく「嫌なら結構」と言い返し、くるりと背を向ける。慌ててアトッサは門をくぐり、それを追いかけた。
愛想のなさに反し、ダスターンは三人を置き去りにしたりはせず、ゆっくりと先を歩いていた。その後について中庭に出た途端、アトッサは思わず息を飲んで立ち尽くした。高地にはない艶やかな花が咲き乱れる花壇、風に乗って運ばれるその甘い香り、窓で優雅に踊る色とりどりのカーテン。庭の造り全体も、エデッサの城と違って広々としている。
「申し遅れましたが」
唐突にダスターンが言葉を発し、アトッサは驚いて振り返った。ダスターンは相変わらず無感情な顔のまま、アトッサを見ていた。
「私はダスターン、カッシュ総督の息子でかつてはエンリル様の従者を務めておりました。今は近衛隊の一員ですが、陛下の特殊な御力は何度か目にしております」
「ならば……」
私が皇族に連なる者と分かるだろう、とアトッサは言いかけた。が、ダスターンは首を振ってそれを制し、かすかに眉を寄せた。
「なればこそ、あの場であなたが事実そのような方であるとは申せませぬ。何か火急の、それも極秘の事情がおありだからこそ、そのようないでたちでこちらにおいでになったのでしょうに、あの聖紫色の瞳を見せられたのでは……」
痛いところを突かれて、アトッサはうっと詰まった。確かに、いきなり力を使おうとしたのは軽率だった。高地の女王であるとまでは露見せずとも、富や権力を狙う者に目を付けられる危険性は否めない。
「確かに、少々無分別であった」
同意してからふと、かつて交わした言葉を思い出す。
(カイロン……そなたには、私とて全く無分別な子供ではない、などと意気がっておったが、やはりまだ……駄目だな)
ふと悲しい微笑を浮かべ、目に浮かびかけた涙をまばたきでごまかす。それから彼女は、顔を上げて名乗った。
「私はアトッサ、ファラケ・セフィールの現国王だ。本当はエンリル王にお目にかかりたかったのだが、おられぬのならば、せめてオローセス殿とお話ししたい」
そう告げられても、ダスターンはあまり驚いた様子を見せなかった。アスラーの下で働いているためか、この少年も以前に比べると、露骨な感情の流出が少なくなりつつある。そんなことは知らないアトッサは、こ奴は図太いのか鈍いのかいったいどちらだろう、などと訝っていた。事実はむしろ、繊細で傷つきやすい思春期の少年なのだが。
「そうではないかと思いました」と、ダスターンは小さくうなずいた。「高地から戻ったカワード卿やラウシール殿から、殿下のお噂を伺って……」
言いかけて、あっと気付く。殿下、では、ない。いま彼女は現国王と言ったのだ。ダスターンは高地で何かがあったと察し、表情を改めた。
「失礼致しました、即位なされたとは存じませず」
「当然だ、国外には知らせておらぬ」
平坦な口調でアトッサは答え、ふいと視線を外す。それ以上の説明をしない少女に、ダスターンはどうしたものかとためらうそぶりを見せたが、結局黙ってまた先導を始めた。高地の三人も何も言わず、それに続く。
官僚や召使たちとすれ違いながらしばらく歩き、謁見殿に着くと、ダスターンは衛兵に必要最小限の説明だけをして、一行を中に招じ入れた。
今は時間外であるため、出入り口の衛兵を除けば、壁際に並んでいる近衛兵もおらず、がらんとしている。方形の部屋の一方に壇がしつらえてあり、豪華な椅子がアトッサたちを睥睨するかのように、でんと中央に陣取っていた。そこに座る主はまだ現れていない。
アトッサが室内を一通り観察し終えた頃、壇がある方の出入り口から、背の高い娘が入って来た。娘、シーリーンは、アトッサたちが室内にいるのを確かめると、外に向かって一言二言告げ、脇に退いて貴人のために道を空けた。
ダスターンが前に進み出てひざまずく。バールとハムゼもそれにならって、その場で膝をついたが、アトッサは唇を引き結んで胸を張り、立ったままオローセスを迎えた。
元国王はごく自然に威厳を感じさせるゆったりした足取りで入室すると、立ったままのアトッサに気が付いて軽く目をみはった。その反応にアトッサは一瞬怯んだが、深く息を吸って姿勢を正した。自分は国王なのだ、少なくとも対等の立場として話す権利がある、そう自分に言い聞かせて。
オローセスは少女の表情を見て面白そうな顔をし、不意にくっと笑いを洩らした。そして、豪奢な椅子には一瞥をくれただけで腰掛けず、すたすたと壇を降りてアトッサに歩み寄った。
ダスターンがぎょっとして立ち上がり、慌ててアトッサの方を振り返る。作法を守らなかった事を責めるように。
「良い、ダスターン」オローセスは苦笑し、少年の前を通り過ぎる。「この娘は息子に良く似ておる。我らに縁の者であるというのも、偽りではあるまい」
それからシーリーンを振り返り、手振りだけで指示を出す。すぐにシーリーンは察し、続きの間に控えている召使に言って絨毯を広げさせ、クッションや茶を用意した。
オローセスはまず自分が絨毯の上に座って見せ、アトッサたちにも同様にするようすすめた。ダスターンは傍らに控え、渋い顔をする。
「エンリル様と言い、オローセス様と言い……いっそ謁見殿を迎賓館に改築されてはどうですか、とシャフラー殿がおっしゃるのも当然ですね」
「そう申すな。体裁が必要な時もあれば、そうでない時もある」
オローセスはくすくす笑うばかりで、一向悪びれる様子がない。ダスターンはやれやれと天を仰ぎ、それからアトッサを紹介した。
「こちらは、ファラケ・セフィール国王、アトッサ様です」
それに合わせてアトッサは会釈をしようとしたが、地べたに座る習慣がないため何やら落ち着かず、もぞもぞしながら半端な角度に頭を曲げただけになってしまった。それには気付かぬふりで、ダスターンは今度はオローセスを紹介する。
「国王代理を務めておられる、エンリル王の父君、オローセス様です」
オローセスは鷹揚にうなずきを返し、真面目な声になって言った。
「遠路ようこそおいで下さいましたな、アトッサ殿。本来ならばまず旅疲れを落として頂いた後、もてなしの宴を開くところですが、気もそぞろのご様子。用件を伺いましょう」
落ち着いたその態度に、アトッサは言葉を詰まらせた。格の差を見せつけられた、とでも言おうか。まったく高圧的なところなどなく、同じ目の高さに座りさえしているのに、紛れも無くそこにいるのは王者であり、自分など足元にも及ばないのが分かる。
わざわざここまで来た目的が、ひどく愚かで無分別なことのように思えて、アトッサは羞恥心から目をそらしてしまった。
相手は旧帝国の時代からティリスを治めてきた、本物の統治者なのだ。自分のようなお飾りとは違う。そうと気付くと少なからず自尊心が傷ついたが、今までが世間知らずに過ぎたのだと認めないわけにはいかなかった。
アトッサは小さな声で、「実は」と切り出した。
「先日、我が国の顧問官にして私の後見人でもあったカイロンが、賊の手にかかってみまかった旨、お知らせに参りました」
「なんと……それは」
さすがに予想外のことだったらしく、オローセスは「お悔やみ申し上げる」という一言を述べるまでに、しばらく時間を要した。アトッサは表情を隠すように、黙って小さく頭を下げる。が、次に顔を上げた時、そこに悲しみの色はなかった。
「それだけでなく、どうやら賊というのが、カワード卿やラウシール殿の仰せられた『赤眼の魔術師』であったようなのです。取り逃がしたのが悔やまれますが……貴国では既にそのような容姿の者は討ち取られたと聞いております。ならば、賊はエラードあるいはアルハンの者である可能性が高いと判断しました」
「なるほど」オローセスはこわばった表情でうなずいた。「他の二国の差し金であったならば、高地に魔の手が伸びるのは時間の問題。我が国に身柄の保護を求めて来られたわけですな。賢明なご判断だ」
「身勝手な願いであるとは承知の上でお願い申し上げる。どうか私を……ひいては高地を、守って頂きたい。このデニスで今や貴国に抗し得るのはアルハンのみ、とは言えヴァルディア王が高地を手に入れたならば、貴国にとっても脅威となりましょう」
アトッサはそう言って、オローセスの目を見つめた。本当は自分がここに来たのには、別の理由がある。だが今それを持ち出すのは、あまりに尚早だったし、よく考えると恐ろしく恥知らずなことに思われた。
(私と引き換えに、高地を守れ、などとは)
エデッサを発った時は名案に思われた策が、頭の冷えた今では、図々しく身勝手な言い草だと分かってしまう。アトッサは内心で苦い笑みを浮かべた。
恐らくアルハンのヴァルディア王は、アトッサに求婚するだろう。既に正妻がいようと妾が何人いようと関係はない。拒めばそれを口実に、軍事力で高地を奪いに来るだけだ。
(高地をアルハンの手に渡すぐらいならば……そう思ったのだがな)
それぐらいなら、自らティリス王の妻にでも妾にでもなって、アルハンが戦を仕掛ける気をなくすほどに勢力バランスを崩してしまえばいい。そうすれば、これ以上余計な戦乱が広がることはないだろう、と。
(だがエンリル王にも好みがあろうし、第一私の願いを聞き入れたなら、アルハンとことを構えるのはティリスということになってしまう。私が高地の民を思うように、エンリル王がティリスの民を思うなら……逆に私を突き出してアルハンと手を結ぶやもしれぬな)
なぜこんな単純なことを考えつかなかったのか。結局、周囲のすべてが味方だった高地の甘い環境から、精神的に抜け出せていないということだろう。
――だが、オローセスはそんなアトッサの内心を察したかのように、優しい笑みを浮かべて答えた。
「いずれにせよ、エンリル王がティリスに戻らねば、正式な判断は下せぬのだ。それまではゆっくりと、こちらに逗留して頂きたい」
「――!」
思わずアトッサは目を丸くした。少なくとも、時間稼ぎは許されたということだ。
「よろしいのですか、オローセス様」
厳しい声音で確認したのは、ダスターンだった。そこに含まれる懸念――彼女が本物かどうか――を、オローセスは軽くいなしてしまう。
「案ずるな、私とて皇族の血を引いておる。近縁の者はそれとなく分かるものだ」
そう言ってから彼は、ちらっと悪戯っぽくアトッサを一瞥した。
「それに、かほど聡明で美しく、また勇気をも備えた女子とあらば、息子に引き合わせたいと願うのが、親としては当然の心情であろう?」
途端にアトッサは、己の浅知恵を看破されたかと赤面する。が、幸いなことに横から助け舟が入った。
「オローセス様、冗談にしても笑えませんわ」
やや大袈裟に呆れて話に割り込んだのは、オローセスを案内したきり黙って控えていた、シーリーンだ。当惑するアトッサに、彼女は優しく微笑みかけた。
「失礼をお許し下さい。オローセス様も、エンリル様のこととなるとすっかり親馬鹿になってしまわれるものですから」
それから、軽い非難を込めてオローセスを睨む。親馬鹿呼ばわりされた国王代理はとぼけた顔をして、明後日の方を向いた。アトッサはつい失笑し、慌てて口元を引き締めた。
「では」ごほんと咳払いをし、オローセスは威厳を取り繕う。「アトッサ殿が滞在中のお世話は、このシーリーンにさせましょう。ダスターン、そなたは従者殿を」
言いながらオローセスは立ち上がり、アトッサに手を差し出す。少女の手を取って立たせると、彼は励ますようにぽんと肩を叩いた。
「陛下がこちらにおいでだと公に知らせることはならぬゆえ、盛大にとはゆかぬが……できる限りのもてなしをさせて頂こう。王宮にいる間は、私の遠縁の者という名目になりましょうが、私を父親と思って下さればよろしい」
「もったいないお言葉でございます」
アトッサは情に流されないよう気を引き締め、ぺこりと頭を下げる。シーリーンがおどけた風情で「あらあら」と苦笑した。
「エンリル様が拗ねても知りませんよ、オローセス様」
「良いではないか、私が娘を欲しておったとて、何が悪い?」
とぼけて言い返すと、オローセスはまだ緊張しているアトッサに苦笑し、軽くその背を押してシーリーンの方に行かせた。バールが慌ててそれを追う。
「ではまた、後ほど」
オローセスの言葉を合図に、シーリーンはアトッサとバールを、ダスターンはハムゼを連れて、それぞれ謁見殿から退出した。
広い廊下を歩きながら、アトッサはためらいがちに問いかけた。
「シーリーン殿……と言われたか。オローセス様とは、どのような?」
ああも遠慮のない物言いをするからには、かなり近しい者だろうと考えたのだ。が、シーリーンは振り返ると、可笑しそうに肩を竦めた。
「私はアレイア領主ゾピュロス様の養女です。普段はこちらで卿のお世話をさせて頂いておりますが、今は出征中ですので、陛下のおそばに仕えているだけの者ですわ」
「え?」
思わずアトッサはぽかんと聞き返してしまった。シーリーンはその反応を予想していたらしく、くすくす笑い出す。
「先の内乱の折に、オローセス様をお助けする機会がありましたので、それ以来、少し親しくさせて頂いております。ですが、エンリル様もオローセス様も、あまり形式にうるさい方ではあられませんから」
「……なるほど」
「ですからアトッサ様も、あまり堅苦しくなさらなくて良いのですよ。さあ、こちらが湯殿になります。どうぞ」
蒸気風呂に案内され、アトッサは慣れない風習に戸惑いながらもシーリーンに促されるまま、服を脱いで浴室に入る。係の侍女があれこれと世話を焼いてくれるので、次第にアトッサはくつろいだ気分になってきた。
「シーリーン殿、ひとつ訊きたいのだが……エンリル王は、このままアルハンに攻め込むつもりなのだろうか? それとも、一度手を引いてティリスに戻るつもりだろうか」
広い滑らかな大理石の台に寝そべって、長旅で疲れた足を揉みほぐしてもらいながら、アトッサはそんな質問を発した。儀礼的に入浴に付き合っていたシーリーンは、アトッサの豪奢な金髪を手遊びに梳りながら、のんびりと答える。
「恐らく、ラガエで何らかの交渉をなさっておいでだと思いますわ。大義名分なしに攻め込むのは、エンリル様のご気性からして無理でしょうし、財政状況を見ましても、よほどの理由がない限りは、冬を越すような戦は出来ませんし。一度こちらに戻られる見込みが強いと思われますけれど……オローセス様がおっしゃったことを、気にしておいでですか?」
言葉尻で小さく笑ったシーリーンに、アトッサは拗ねたような顔をして見せる。
「別にそのような意図ではない。まぁ、気にならぬと言えば嘘になるが」
緊張が解けてくると、そんな言葉が口をついた。確かにそれは本心だった。オローセスの人となりを見た今では、高地を発った時とは別の意味で、エンリル本人に対して興味を抱いている。年頃の娘としては、当然と言えば当然の好奇心だ。
それを見透かしたように、シーリーンはくすくす笑った。
「陛下はとてもおおらかで、それでいてとても賢明な方です。少なくとも、アトッサ様に軽蔑されるような方でないのは確かですわ」
「だから、そんな意図ではないと言うに」
意固地に言い返したアトッサだったが、バールまでが笑いを押し殺しているのでは、反論するだけ無駄だ。アトッサは唇をとがらせ、組んだ腕に顔を埋めた。頭の後ろでくすくす笑いを聞きながら、胸の奥底に潜む暗い予感を痛いほど意識する。
「……私が言いたかったのは」
とうとう我慢しきれず、彼女は体を起こしてシーリーンに向かい合った。
「今のティリスはあまりに無防備だということだ。ほとんど全軍を率いて出征しておるのであろう? 国内で反乱が起これば、王都を守る手立てがないのではないか? こんな事を言いたくはないが、ティリスはつい先日内乱がおさまったばかりではないか」
「まあ」
シーリーンは驚いたように目をみはり、真面目な表情になると、アトッサの視線を受け止めた。
「確かにそうですけれど、元凶となった顧問官は既に討ち取られております。かつてエンリル様に敵対した貴族も、今では忠誠を誓っておりますし、何よりエンリル様の留守中、王都を守っているのはオローセス様ですもの。彼らも刃向かう理由がありませんわ」
「なら良いのだが……」
釈然としない様子で曖昧に言い、アトッサは眉を寄せる。
(ならば、この胸騒ぎは何なのだ? 何か……とても、いやな予感がする……)
眉間を押さえた時、ふっ、と目の前をまぼろしがよぎった。
その場の状況も居合わせる人間も、何も分からない。ただ、カイロンと同じ、暗い深紅の目が一対、じっとこちらを見据えている。
「アトッサ様?」
不安げな声がシーリーンのものなのか、バールのものなのか、わからなかった。一瞬のまぼろしはアトッサを芯まで凍りつかせるほどの力をもっていた。
強いて深く息を吸うと、熱い蒸気が胸の奥まで入り込んで、そこに生まれた氷の塊を溶かしてくれる。二、三回その動作を繰り返し、ようやくアトッサは顔を上げた。
「だが、『赤眼の魔術師』ならば、人の心を操る事が出来る、とウィダルナが言うておった。そして……既に討ち取られた者のほかにも、奴らはこのデニスにおるのだろう? アルハンの情報は高地には届いておらぬが、もしあの国にもおるのだとすれば……」
その言葉に、シーリーンはハッと息を呑んだきり、沈黙する。彼女に出来たのは、ただ力無く首を振ることだけだった。




