六章 大崩壊 (5)
大崩壊を目の当たりにしてなお、戦おうという意志のある者は、エラード側はもちろんティリス側にさえ、いなかった。
皮肉なことに、安全なはずの中洲はまるごと消し飛び、死者を数えようにも骨さえ残っていない。西街区で恐怖におののいていた市民だけが、無事であった。
生き残ったエラード兵は次々に投降し、国王も顧問官も官僚の責任者もいなくなった今、実質的にエラードという国家はもはや消滅していた。
日のある内は、投降者への対処やラガエ市民の慰撫に忙しく、あえてカゼスはどうしたかと問う者もいなかった。大崩壊がカゼスによって引き起こされたものであるなら、本人は無事で、そのうちに姿を現すはずだ――無意識に誰もがそう思い、不吉な予想を頭の中から追いやっていたのだ。
だが、日が暮れてもカゼスは戻らなかった。今度は狂言などではないのに。
「……まだ、戻らぬな」
ぼそりと最初につぶやいたのは、カワードだった。途端にフィオが、「生きてます!」と叫ぶ。
「絶対に生きてます、前だってそうだったんだから、今回だって……」
言う間に大きな目が潤み、涙が溢れてぼろぼろこぼれだす。しゃくりあげ始めてしまった少女の肩を、カワードはぽんぽんと叩いてやった。
城があった場所は暗い水がしんと静まっているだけで、岸に打ち上げられるものすら、何ひとつとして無い。
ティリスの将兵はそれぞれ街区の建物で体を休めていたが、落ち着かない様子で時々外に出てきては、川の方を見やる者が少なくなかった。ラウシールの安否を気遣う者もいれば、黒く静まり返った川が今度はこちらまで呑み込むのではないか、あるいはまた天から光の柱が落ちはすまいかと不安に怯える者もいる。
アーロンも、割り当てられた建物に入らず、外に立ち尽くしている一人だった。
その背後から、イスファンドがそっと声をかける。
「いつまでそうして待たれるつもりです?」
アーロンは答えず、ただ小さく首を振る。そのまま彼は無言で歩きだした。街区を離れ、川の方へと。イスファンドはぎょっとなったが、彼が止めようとするより早く、アーロンが振り返った。
「案ずるな、川に飛び込みはせぬ」
かすかに苦笑を浮かべたその顔に、隠しきれない悲痛の色が浮かんでいる。一人にしておくべきだと察し、イスファンドは「お気を付けて」とうなずいて見送った。
川辺には蛍がちらちらと飛び交っていたが、アーロンにとっては何の慰めにもならなかった。草の上に腰を下ろし、彼はじっと水面を見つめる。
そうしてどれぐらい経ったか、不意にパシャッと水音がして、彼はハッと我に返った。
人影が、水の中からゆっくりこちらに上がって来ようとしている。アーロンは弾かれたように立ち上がり、水辺まで駆け降りた。人影は浅いところにたどり着くと、よろよろと危なっかしくぎこちない動きで近付いてきた。
(……女?)
アーロンは眉をひそめた。月が雲に隠れているので、姿がはっきりわからない。用心して、彼はその場に立ったまま相手が近付くのを待った。
二人の間がほんの数歩の距離まで縮まった時、雲が切れて月光が射した。
その瞬間アーロンは、場違いにも相手の美しさに息を呑んでいた。白い裸体は女らしい特徴を備えてはいるものの、どこか成長途中の少年か少女のような、中性的な雰囲気だった。水の精霊ではないかと思うほどだ。
滑らかな肌にはりつく髪が深い青色だと確認した時には、それは精霊ではなく、生身の人間の重さを持って、アーロンの腕の中に倒れ込んでいた。
「カゼス?」
信じられない思いで、アーロンはささやくように呼びかけた。返事はない。と、川の方で別の水音がした。
見ると、イシルが水中から顔を出していた。
「水底に沈んでおったのを見付けて、なんとかここまで動かしてきたのじゃがな」
やれ疲れたわい、とばかりに水竜はため息をついた。アーロンは呆然と問いかける。
「生きているのか?」
「むろんじゃ。とは言え、心はどこぞに飛ばされておるようじゃが……儂には如何ともしがたい。エンリルならば、ラウシールの心を引き戻すことも出来るやも知れぬが。ともあれ儂は疲れた。あとは任せるぞ」
言うだけ言って、イシルはトプンと水の中に沈んでしまった。アーロンは意識のないカゼスを抱いたまま、しばらく立ち尽くす。
ややあって彼は水辺から離れ、草の上にカゼスを横たえた。自分の上着を脱いで、ずぶ濡れのカゼスにそっとかけてやる。だが、何の反応もなかった。
目は閉じられており、よく注意して見なければ死んでいると早合点しそうなほど、息も細い。アーロンはカゼスの額から濡れた前髪を払い、祈るように唇をつけた。開かない瞼を見つめ、ほとんど温もりのない手をぎゅっと握りしめる。
(カゼス)
強く、強くその名を想う。異世へ行きかけているであろう魂を、呼び戻せるように。
と、その時。
ふっと視界が暗くなり、いきなり地面がなくなったような感覚が襲いかかった。アーロンはぎょっとなり、反射的に腰の剣を探った。が、そこには何もない。
慌てて立ち上がった時、目に入ったのは暗闇ばかりだった。平衡感覚が狂い、彼は叫び出したい衝動に駆られる。ぐっと堪えて、唯一確かな足元の感触を確かめると、ややあって上下左右がどうにか分かるようになった。
(ここはどこだ?)
つぶやいたつもりが、声にならなかった。顔をしかめ、彼は辺りを見回してから用心深く歩きだした。
暗闇を歩く内に時間も距離も感覚がなくなってしまったが、ふと気付くと、行く手にぼんやり明かりが見えていた。
(……カゼス?)
明かりの中にうずくまっている人影を見付け、アーロンは驚いて目をみはった。カゼスは平伏したような姿勢のまま、呼びかけにも反応しない。アーロンは駆け寄ると、肩をつかんで揺さぶった。
(死なせてください)
悲痛な声が聞こえた。そのあまりの痛々しさに、アーロンは火傷したかのように手を離す。カゼスは身じろぎもしないまま、ゆっくりと暗闇の底に沈みはじめた。
(待て、行くな!)
アーロンはカゼスの腕を掴み、無理やり引き留めようとした。が、カゼスの足元だけが底なし沼であるかのように、ずぶずぶと沈んで行く。
(生きてちゃいけないんです)
カゼスの声が言うと同時に、幼いカゼスに降りかかった殺意と悪意が、アーロンにも襲いかかってきた。顔面めがけて刃物を振り下ろされる幻覚に、アーロンは目をつぶって顔を背ける。その隙に、カゼスの体は一段と深く沈みこんでいた。
(駄目だカゼス! やめろ!)
なんとか引き上げようとしたが、一向に効果がない。アーロンは歯噛みしてカゼスの足元を睨みつけ、そこに何があるか気付いてぎょっとした。
赤黒い血溜まりの底で、何十本もの人間の腕がカゼスの足に絡みつき、引きずり込もうとしているのだ。どの腕も傷だらけで血に濡れ、白い骨が見えるものさえある。そして腕の下から、幾人もの顔が見上げていた。血の涙を流して慟哭し、怨嗟の叫びを上げて。
危うくアーロンはカゼスの腕を離してしまいかけ、我に返ってしっかりと掴み直した。
(頼む、こっちを向いてくれ)
うつむいて凄惨な光景を凝視し続けるカゼスに、彼は懇願した。
(駄目なんです)
カゼスは振り向かない。
(だってこれは、私がした事だから。目を背けちゃいけないんです。私が殺したんです、私が殺した人たちなんです)
幼い頃に、まだ魔術の何たるかも知らぬまま、『力』を操って人を殺した。自分を生み出した研究者たちを、全員、無数の破片に吹き飛ばしてしまったのだ。そして今また、ラガエの城ごと……何人を殺したのか。もう数え切れない。
ただ自分が取り乱したから、怖かったから。それだけの理由で。
カゼスの体はもう、胸の下まで沈んでいた。やはりあの時、殺されているべきだったのだ。自分を抹殺しようとした研究者は正しかった。カゼスを生み出した、そのこと自体は間違っていたとしても。
(おぬしが自分のした事から目をそらせぬと言うのなら、俺の方も見てくれ)
アーロンは必死で訴えた。
(俺だけではない、エンリル様も、フィオも、皆おぬしに強い影響を受けた。おぬしに救われた者も少なくない。なぜ暗闇ばかり見つめる? おぬしのいるべき場所は、こんなところではない!)
(いるべき、場所……)
ふ、とカゼスがつぶやく。ゆっくりと――苛々するほどゆっくりと、彼女は顔を上げ、アーロンの方を向いた。無防備で、打ちひしがれ、自分に何の価値も見出せずにいる、愛情に飢えた子供の顔だった。
アーロンはやり切れない思いに駆られ、わずかに地上に出ているカゼスの体をかき抱く。カゼスの心が自分の精神にまで流れ込んでくるのがわかった。
普段の姿を見ているだけでは想像出来ない、根深い憎しみや悲しみ、鬱屈した怒りや虚勢、諦めと無力感。それらが一挙にあふれ、流れ去る。そして、その後ろにあるものが見えた。深く穿たれた傷と、そこに潜む底無しの闇が。
それが自分の傷であるかのように、アーロンの胸がずきりと痛む。
この闇の前では、自分はあまりに無力かもしれない。だがせめて、傷をふさぐことは出来なくとも、痛みを和らげてやりたい。真昼の輝きを与えられずとも、足元を照らす蝋燭の明かりを差し出したい。彼は心底からそう願った。
(今まで誰も言わなかったのなら、これから俺が何回でも言おう)
その存在すべてを愛している、と――。
祈りのようにその言葉を意識にのぼせた途端、ほとんど沈みかけていたカゼスの体が、瞬く間に幼い子供のものへと変化し、ふわりと浮き上がった。アーロンがそれを抱きしめると、闇の奥から光が生まれ、広がって、世界が真っ白に輝いた。
やがて腕の中の感触が変わり、アーロンは瞑っていた目をそっと開いた。
「……アーロン?」
かすれ声がささやき、彼は瞬きして声の主を見た。いつの間にか、実際にカゼスを抱き起こしていたらしい。間近で青い双眸がアーロンの視線を受け止める。
一気に安堵が押し寄せ、アーロンは大きく息を吐いて、もう一度カゼスをしっかりと抱きしめた。これは現実だ。温もりも、濡れた髪のしなやかな感触も、すべて。
カゼスも何も言わず、ただアーロンの肩に頬をあずけ、広い背中にそっと手を回した。
(帰って来られた)
幸福感が胸を満たして行く。鼻の奥がツンとして、カゼスは目をしばたたかせた。同時に、アーロンがスンと鼻を鳴らす。思わずカゼスは失笑し、相手の顔を覗き込んだ。
アーロンは涙で潤んだ目をごまかすように、唇を重ねてくる。カゼスは仕方なく、ちょっと笑って目を瞑った。
長い口づけの後、ようやくアーロンはカゼスを離し、あらためてしげしげと相手の顔を見つめた。雲間から途切れがちに届く月光は、腕の中の存在から現実感を消してしまう。
「……まやかしを、かけていたのか。それとも、今俺が見ている方がまぼろしなのか」
ささやくような声は、カゼスの耳にまでは届かなかった。安心した途端に襲ってきた底無しの疲労に、早くも半ば意識を奪われていたのだ。カゼスはまどろみかけながら、それでも、何か言いましたか、と問うまなざしを向ける。アーロンは相手が今にも眠り込みそうなのを見て取り、苦笑した。
「早く皆におぬしの無事を知らせたいところだが、この様子ではそれも無理か」
言いながら、軽く頭を撫でる。
その優しい仕草はいっそう眠気を誘い、カゼスの体からどんどん力が抜けていった。
「どっちにしろ、もう寝ている人も多いでしょうから……騒ぎになっちゃ、悪いですし。私も……くたくたで」
まやかしをかけ直すことも、姿を見られぬようにしてこっそり戻ることも、出来そうにない。そう言い終えるまでの気力さえ、なかった。カゼスはアーロンに寄りかかったまま、泥のように眠り込んでしまう。
アーロンはカゼスをそっと横たえると、ひとり苦笑した。姿がどうあれ、やはりカゼスはカゼスということらしい。むろん彼とて、カゼスの女らしさをまったく意識しないというわけにはいかなかったが、そのことでこの幸福感を壊すほど愚かではなかった。
満ち足りた安らかな寝顔は、あの暗い世界で見たものとは別人のように、穏やかで。アーロンはごく自然に微笑むと、剣を抱いて浅い眠りについたのだった。
翌朝、明るい日差しを受けてエンリルが目覚めた時には、枕元にカゼスが立っていた。
「おはようございます、エンリル様」
彼女は優しい笑顔に少しおどけた気配を漂わせて言うと、軽く頭を下げる。
束の間エンリルはぽかんと口を開けっ放しにし、
「カゼス……か? 本当に、そなたなのか!」
我に返るなり、歓喜の叫びを上げてカゼスに抱きついた。立場も年齢も忘れたように、カゼスの頭をぐしゃぐしゃにかきまわし、続いて両手を取るなりぴょんぴょん跳びはねて喜ぶ。
その歓声に、近くの建物で休んでいたゾピュロスやカワードまでが叩き起こされたらしく、何事かと寝ぼけまなこでやって来た。大騒ぎの原因を見たカワードはこれまた負けず劣らずの歓声を上げ、荒っぽく喜びを表現し始める。ゾピュロスは傍観しているだけだったが、ほんのわずか、誰にも気付かれない程度に微笑を浮かべていた。
やがて騒ぎが伝わり、一般兵が建物の前に集まりだした。それを押しのけて、フィオが駆け込んで来る。その時カゼスをわしゃわしゃにしていたのはカワードだったが、フィオに突き飛ばされて、巨体の主でありながらたたらを踏んだ。
「カゼス様!」
抱きつくなり、フィオはわっと泣き出す。カゼスはその背を優しく撫でながら、もう少しで取り返しのつかないことをしでかすところだった、と深く反省した。あのまま死んでいたら、下手をすればフィオのことである、後追い自殺でもしかねない。
ラウシール生還の報が伝えられると、外でも兵士たちが喜びの声を上げた。カゼスはその声を聞き、窓からちょっと顔を出して無事な姿を見せる。途端に歓声が大きくなり、カゼスは慌てて引っ込まなければならなかった。
「大歓迎だな」
苦笑まじりの声が言い、室内の一同が振り向く。声の主を見て取ったカワードが、早速と皮肉を飛ばした。
「ごゆっくりだな、アーロン。騒ぎも知らずに眠りこけておったのか?」
「まさか」
アーロンはにべもなくいなし、カゼスとエンリルの双方に笑みを見せた。
「ゆうべ、イシル殿がカゼスを岸まで運んで下さったのを、私が見付けました。ですが夜中に騒ぎになっては申し訳ないと、カゼスが言ったものですから」
結局、夜明け前になってから姿を見えなくして、こっそり街に戻って来たのだ。そのまま服を着替え、エンリルの枕元で目覚めを待っていたわけである。
そこへフィオが憤然として割り込んだ。
「ひどいです、アーロン様! エンリル様はともかく、あたしにまでカゼス様を隠しておくなんて、あんまりじゃないですか!」
ともかく扱いされたエンリルは、複雑な顔で苦笑をもらす。
「今のそなたを見ると、アーロンの判断を支持したくもなるがな」
その言葉で国王陛下の御前であると思い出し、フィオは真っ赤になってこそこそとカゼスの後ろに隠れた。ひとしきり笑いが場を包み、空気が和む。
が、その空気を凍りつかせる名前が、カゼスの口からこぼれた。
「そういえば、アーザートは……?」
一同の表情がこわばった。カゼスは「まさか」と眉をひそめる。もう処刑してしまったのだろうか、と。
「生きてはいますけど」
残念そうにフィオが言った。生きているのが残念なのか、回復していないのが残念なのか、そこまでは口にしない。おそらく前者だろうが。
「そうですか」
ホッとしたカゼスに、エンリルたちは複雑な顔を見合わせた。
「カゼス……念のために訊いておくが」遠慮がちにカワードが言う。「よもや、あ奴がおぬしを守って負傷したというような事は、あるまいな?」
「あれ、まさか皆さんでアーザートを瀕死になるまで蹴りまくった、なんてことじゃないでしょうね」
カゼスは意地悪く言うと、どう答えたものかと言葉に詰まっている面々を見て、苦笑した。彼らの反応からして、よほどアーザートは信用がなかったらしい。わずかでも信じようとしていたのは、やはりカゼスだけだったのだろう。
「ご安心を、皆さんの予想通りですよ。ちょっと話をつけて来ます」
言うとカゼスは普通に建物から出ようとしたが、外の人だかりを思い出して足を止めた。軽く目を閉じると、すぐにアーザートの居場所を感じ取る。次の瞬間にはもう、彼の寝ている部屋に立っていた。
意識のないアーザートの額に、そっと手を触れる。呪文を使わなくても、直接『力』に触れて治癒術を施すことができた。命の危険のないところまで回復させると、そのままカゼスはアーザートの精神に忍び込んだ。
カゼス同様、彼の過去は暗闇に覆われていた。憎悪や鬱屈した劣等感、理不尽さや不公平さに対する怒り。それらが沼のように澱んでいる。
ぽつんと佇んでいるアーザートの意識が、カゼスに気付いてぎょっとなった。
(来るな!)
狼狽と怒りと屈辱が、その表情にあらわれる。カゼスはそれ以上近付かず、立ち止まって微笑んだ。
(あなたも、暗い道を歩いてきたんですね)
返事代わりに、黒い壁が立ちはだかった。だが、精神世界においてはカゼスの方が、力も技もはるかに上だ。彼女がちょっと手を上げただけで、たやすくそれは消えてしまう。
(あなたにとって私は、憎むべきものの象徴かもしれない。でも、私自身はそんな存在じゃないんですよ)
カゼスはほんの少しだけ、自分の精神と記憶をアーザートのそれに同調させた。暗い記憶や、アーザートのそれに劣らず歪んだ感情が、その場に現れては消えて行く。
アーザートが驚きのあまり凝固しているのを見て、カゼスは一歩進み出た。
(私は闇を知らない聖人などではありません。もっとも、あなたにすれば『だからどうした』というところかも知れませんが……)
ちょっと苦笑し、彼女は手を差しのべた。
(私が嫌いでも仕方ありませんけど、あなたは私の護衛をする契約でしょう? だったら、きちんと責任を果たして貰わなくてはね。行きましょうアーザート。あなたには、まだまだ出来ることがあるんですから)
言葉以上のものが、アーザートに伝わる。温かく、優しい感情が。
彼はまじまじとカゼスを見て、それから己の背後に広がる暗闇を一瞥すると、ゆっくりカゼスの方に歩きだした。差し出された手は無視したが、彼はカゼスの横を通り過ぎ、光が射してくる方へと進み――
「いっ……!」
痛ぇ、と叫びたかったが、声が出せなかった。息を呑んで体をひきつらせ、激痛に歯を食いしばる。肩から生じる痛みが、首から頭まで容赦なく責め立てていた。アーザートはどうにか目を開き、枕元に立っているカゼスを睨む。
出会ったのが夢ではなかった証拠に、同情的な、だがどこか笑いを堪えているような表情をしている。彼女はアーザートが言葉を発せないのを見て、小さくうなずいた。
「もう大丈夫ですよ。死にたくなるほど痛むでしょうけど、絶対死にはしませんからね。まぁ、自分の雇い主を売り飛ばそうとしたんですから、このぐらいの怪我ですんで良かったですよ。あ、ちなみに給料は当分出せませんから。罰としては軽い方でしょ?」
「…………!」
痛みと怒りでアーザートは青くなったり赤くなったりしている。カゼスは皮肉っぽい笑みを浮かべると、「生きてるって素晴らしいですね」などと痛烈な台詞を残し、部屋を出て行った。
アーザートは痛みでガンガンする頭を動かすことも出来ず、目だけでその後ろ姿を見送る。いっそ内通罪でばっさり斬首されるか、殺されないにせよ傷口を踏みにじられるとかした方が、まだマシな気がした。
(しかもあの態度からして、あのクソアマ、絶対に何か考えてやがる、絶対に!)
肉体的な懲罰の代わりとなる、『何か』を用意しているとしか考えられなかった。従順になるよう仕向けられるとか? 飼い殺しにされるとか? 考えただけでぞっとする。
もしかして俺はとんでもない奴を敵に回してしまったんじゃないだろうか、と、ほんの少し後悔したが、いまさらどうしようもないことは確かだった。
もちろん、当のカゼスは何も懲罰を用意してはいなかった。アーザートが自分であれこれ考えて、悶死しかねないほど懊悩するだろうと予想してはいたが。
建物を出ると、心配して駆けつけたらしい、カワードとアーロンがちょうどやって来たところだった。後からフィオも走ってくる。
「……で?」
カワードが短く訊いた。カゼスは肩を竦め、おどけて答える。
「命に別条のない範囲まで治しておきました。あとは当分、給料なしですね」
三人が揃って呆れ顔になり、口々に何か言いかけ、結局、顔を見合わせてがくりと肩を落とした。その様子を眺めてカゼスは苦笑し、ちょっと屈んでフィオの頭を撫でた。
「すみませんが、当分傷が痛くて動けないでしょうから、面倒みてあげて下さい。少々荒っぽく扱っても死にはしませんから、大丈夫ですよ」
珍しく意地悪な物言いをしたカゼスに、フィオは軽く目をみはり、それから何やら含みのある笑顔になって「はい」と元気良くうなずいた。
少女が建物に入って行くと、カゼスは武将二人に挟まれる形で、自分の部屋まで案内して貰った。道々、カワードがいつまでもぶつくさぼやき続けているので、とうとうカゼスはぽつぽつと話しだした。
「今アーザートを罰しても、何にもならないような気がするんです」
「なるもならぬもあるか、ああいう輩をのさばらせてどうする!」
「うーん……困ったな」カゼスはちょっと頭を掻き、足を止めた。「ここにいる兵士の多くは、あなたやアーロン、エンリル様といった人に忠誠心をもっているわけですよね。だから、裏切るという行為自体が『悪』であって、裏切りによって生じる結果が問題なのではない、と無意識に理解していると思うんです」
遠巻きに上層部の三人を見ていた兵士たちが、いまや聞き耳を立てているのが分かる。カゼスは彼らに微笑を向けてから、続けた。
「でも、アーザートは違う。裏切りによってティリス軍に損失を与えたから、ラウシールを危険にさらしたから、そして結果的に彼の行為を歓迎するエラード側が負け、ティリスが勝ったから、だから罰せられるのだ……と、そんな風にしか感じないでしょう。今の彼は私を裏切ったこと自体については、何の痛痒も感じていないんです」
「獣も同然、ということか」
アーロンが面白くもなさそうに納得する。不可解げな顔をしたカワードに、彼はむっつりと説明した。
「アーザートを罰しても、調教のために苦痛を与えて従わせるのと同じで、奴自身が犯した『悪』を理解させることにはならない。そういうことだ」
「そんなもの、奴に理解できるはずなかろうが」
カワードが呆れ返る。カゼスは苦笑した。
「私が罰したいのは、彼の行為の結果ではなく、行為そのものなんです。それが理解できない内に罰しても、何の意味もない。だから……本当に彼にとって必要な『罰』は、それを理解させることだと思うんです。どうすれば理解して貰えるのか、わからないんですけどね。問答無用で苦しませるだけじゃ、いつまでたっても平行線ですから」
小さくため息をつき、カゼスはまた歩きだした。以前、彼が言葉を失っているように感じたものだが、彼から言葉を引き出すより先に、まずこちらの言葉を理解させなければならないようだ。
「迂遠なことだ」
カゼスの心中を察したかのように、アーロンがやれやれと頭を振った。カワードも天を仰いで嘆息する。
「おぬしにはついて行けぬな。いずれにせよ、俺は奴を許すつもりはないぞ」
と、ちょうどその語尾に、アーザートの悲鳴が重なった。カゼスはちょっと驚いた顔を作って振り返り、怪我人が寝ている建物を見やる。
「まぁ、その辺はフィオに任せておいてもいいんじゃないですか?」
悲鳴は長々と尾を引いて、いきなり途絶えた。アーロンとカワードも後ろを見やり、複雑な顔をする。
「……かも知れぬな」
「うむ」
うなずきあった二人の武将は目だけで何やら会話をしていたが、賢明にも、それを声に出そうとはしなかった。
ラウシールの帰還により、ラガエではティリスの勝利を祝う空気が流れだした。
大崩壊という圧倒的な現象の前に、アラナ谷の反乱はすっかり影が薄くなり、エラードの支配権がエンリルに移る事も、民や兵の間に暗黙の了解として広まっていった。
エンリルは現在アラナ谷にいるウタナやアルダシール、それにスクラや、最後まで忠節を曲げなかったサルカシュに敬意を表し、まだ彼らの同意を得ていないのだからと、正式な支配者の名乗りを急ぎはしなかった。
とは言え、崩壊の事後処理やハトラでの采配、加えてアラナ谷への援助という実績からして、彼らのうち一人として、エンリルがエラードの王権を得ることに反対するとは思えない。ラガエ市民の中には、もう早々と新たな支配者に取り入ろうと拝謁を願い出る者もいる有り様だった。
そうした吉報は駅伝を利用し、アラナ谷はもちろんティリスにも伝えられた。
王都ティリスはエラード陥落の報に沸き立ち、お祭り気分が盛り上がる。王宮から市民に祝い酒や料理がふるまわれ、市場は売り手も買い手も気前が良くなって活況を呈した。
高地から降りて来た三人の旅人が目にしたのは、まさにそのような、浮かれ騒ぐ市民の姿だった。新市街に入った辺りから、あちこちで酔って高歌放吟する者が見られる。
「ティリスは随分と華やいでいるな」
一番背の低い人影が、少女の声で言う。鳥を連れた女が、周囲を見回して答えた。
「エラード遠征軍が勝利を納めたとの噂です。国王が気前よく金貨でもばらまいたのではありませんか」
「なら、我々も快く出迎えて貰えると良いのだが」
男が低い声でつぶやいた。
三人は顔を上げ、行く手を見やる。
ティリス王宮。少女は自分の視界に映るそれが、突然黒煙に覆われたように見え、慌てて目をこすった。
「どうされました?」
気遣う女に、少女は「なんでもない」と応じる。なんでもないと、思いたかった。
「行こう」
短く、だが力強く言い、少女は街の中心部へと通じる門をくぐった。




