六章 大崩壊 (4)
外の騒ぎを全く知らないまま、カゼスは相変わらず眠り続けていた。
食事もほとんど手をつけず、せいぜい、たまに起き上がって半分寝ぼけたような状態のまま、水を飲むぐらいだ。
カゼスはいつもの夢の中に漂っていた。星空を映した深い水底にいるような、静かで澄んだ不思議な感覚。
(このままではいけない)
知らない女性の声が聞こえた。ふと顔を上げると、暗闇の中にぼんやりと、風景が浮かび上がっている。
長衣をまとった娘がひとり、眉間に険しいしわを寄せて、机に向かって何か書き物をしていた。その横顔はまだ十代に見えたが、不相応に重い責任を負っているような、思いつめた雰囲気が漂っている。
(何とかしなければ……)
彼女は頭を振り、苛々とペンの先を机に打ち付けた。そして不意に、ハッと顔を上げて振り向く。その鳶色の瞳が、まっすぐにカゼスを見据えた。
(誰かいるの?)
見付かった、と思った瞬間、ザアッと波が襲ってきて、カゼスをそこから運び去った。
今のは何だったんだろう、と訝っていると、すぐ横を馴染みのある気配が通り過ぎた。反射的に笑みを浮かべ、期待を込めて振り返る。向こうも気付いたらしい、立ち止まってこちらを振り向いた。
明るい金髪が、星の光をかすかに反射している。深い青褐色の目がカゼスを認め、ホッとしたような気配を湛えた。
(助けに行く)
エンリルが、すっ、と手を差し伸べる。カゼスはそれを取る自分の手がどこにあるのかわからなくて、ただ相手を見つめていた。
(そなたの――は、ここ――)途切れ途切れの言葉が届く。(必ず――)
正確なところはわからなかったが、エンリルが伝えようとしたことは、なんとなく分かる気がした。
助けに行く。だから、必ず帰って来い、と。
(帰らなくちゃ)
カゼスの意識にその思いが浮かんだ瞬間、星の海は消え失せ、そこには一面の草原が広がっていた。乾いた風が、緑の原に波を起こして駆け抜けていく。
どこまでも青い空の下を、カゼスはゆっくり歩きだした。
いつの間に眠っていたのだろう? エンリルはゆっくり起き上がり、天幕の中を見回した。もう辺りは薄明るく、夜明けが近いようだ。鳥たちが交わすせわしない挨拶が聞こえてくる。
カゼスの気配を感じたように思ったのだが、夢だったのだろうか。
(まだ無事でいると考えて良いのか?)
無性に会いたかった。会って、あの笑顔で大丈夫ですよと言って貰いたかった。人でないとまで言われるほどの力を持つことがどんなものか、この力をどう扱えば良いのか、話したいことが山のようにある。
(無事でいてくれ)
エンリルは目を閉じ、強く祈った。
それから彼はそっと天幕を出ると、まだ日中の蒸し暑さを予感させるもののない爽やかな空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。これで一日息をせずとも良ければいいのに、などという考えを抱き、彼は自分に苦笑して首を振る。
やれやれ、今日もまた暑くなるのだろうな。と、空を仰ぎ、
「……?」
目をしばたたかせた。
まだ夢でも見ているのだろうか。空と大地の間に透明な水面が横たわっているような、妙な錯覚がした。水に蜜を注いだ時のようだな、と考え、彼はその妙な現象がより濃くなっている方に視線をやった。
――ラガエの王城が、そこにあった。
ここはティリスではないらしいと気付いたのは、しばらく歩いてからだった。カゼスはいつの間にか荒野に立っていた。
ぼんやりと行く手を見やると、岩陰に誰かがいるのが分かった。
数人を相手に、髪も髭も真っ白になった老人が、何か話している。
(呪文や魔法陣、結界といったものは、道具でしかない。いいかね、本来我々が道具に頼らずとも、ある程度までは素手でものを扱えるように、魔術といわれるものも、もとをただせば素手で――すなわち、我々自身の精神によって、扱うことができるのだよ)
どうやら魔術の講義でもしているらしい。興味津々とカゼスは近付いたが、誰もその存在には気付かないようだった。
(だが、素手で焼けた石を掴めば火傷をする。岩の表面を素手でこすり続けていても、岩が擦り減るより先に手の皮が剥けてしまう。だから我々は道具を用いる、そうだね? 呪文や結界も然り、いわば裸の精神を守る衣服であるわけだ)
老魔術師の声は、ぼやけていた焦点が合うように、徐々に明瞭になっていく。弟子たちがうなずくと、老魔術師は不意に、カゼスを見た。
「わかるかね?」
声をかけられて、カゼスはぎょっとなった。自分の存在が相手に気付かれているとは思わなかったのだ。何より、それはつまり、この世界が単にカゼスが見ている夢、というわけではないことを意味する。
カゼスは相手をまじまじと見つめた。
(あなたは、私が見えているんですか)
尋ねる意識は声にはならない。相変わらず、夢の中のように『思う』だけだ。それでもこれは現実なのだろうか。
老魔術師はにこりとしてうなずき、弟子たちに向かって「今日はこれまで」と言うと、彼らを帰らせた。カゼスはぼんやり老人の横に佇み、荒野を見回す。少し離れたところに町らしい影が見えた。
「さて、ようやっと会えたわけだ」
(ようやっと……?)
カゼスは訝しむ。その反応に、老人は少し残念そうな顔をした。
「ふむ、まだすべてを思い出してはおらぬわけか」
(どういう意味ですか)
困惑するばかりのカゼスに、老人は悪戯っぽい目を向けた。
「いずれ分かる。そう遠くない未来に、な。今はまだ……そう、乗り越えねばならぬことが残っておるようだね」
その言葉に、カゼスは不安を抱く。老人の世界に立っている自分の像が、揺らいで危うくなるような気がした。
「心配せんでも良い。君には支えてくれる者がおる。君が『今』と認識する時代にもおるし、そうでなくとも私は必ず君を見守っておるよ。私の力を受け継ぐ、遠い未来の大事な……存在なのだからね」
老魔術師は、最後の言葉を慎重に口にした。本当はもっと別の言葉を使うべきところなのだろうが、あえて今それを知らせないことに、何か意味があるような雰囲気。
カゼスは首を傾げたが、問うても答えは得られまいと察し、別の言葉を発した。
(あなたの声には、聞き覚えがあります。でもどうして……?)
「そりゃ、あるだろう。私は君と共に在るのだから。今までも、これからも、な。記憶までは受け継がれぬようだが……君はこの場所に見覚えはないかね?」
問われて、カゼスは改めて周囲を眺めた。写真や映像でさえ、見た覚えはない風景だ。彼女はゆっくり首を振ったが、(でも)とつぶやいた。
(記憶にはないのに、なぜか懐かしい感覚はあります)
風が吹き、体のないカゼスの中を通り抜けて行く。瞬間、カゼスの意識は風に同化し、世界を駆け抜けた。風が通ってきた場所、見てきた光景、運んできた匂い。それらを一度に感じ、自分の一部に取り込む。
ふと我に返ると、老魔術師は優しい目でこちらを見上げていた。
「そう、今の感覚はいいね。それを忘れなければ、良い魔術師になれる」
(今でも一応、魔術師ですが)
少しばかり自尊心を傷つけられ、カゼスはそう応じた。が、老魔術師は首を振る。
「それは違う。今の君は、魔術というものの利用法を修めたにすぎない。『力』の概念に頼り、誰にでも分かるよう分類し名付けられたものを、利用しておるだけだ。もちろん、万人に扱えるようにするのもひとつの学問だが、本来の魔術……いや、魔法とは、そのようなものではない」
その説明を聞いた瞬間、カゼスの内で、今までずっと揺るぎないものと感じられていた力場位相のイメージが砕け散った。そのかわり、あるがままの世界の姿を知覚する。名前も分類も何もない、ただそこに『ある』もの。
「言葉にはできぬものだよ、魔法というものは。それゆえ私は、少数の弟子をとって直接導いておるわけだ。わかるかね?」
(……はい)
呆然としたまま、カゼスはそう答えた。初めて、今まで『力』として認識していたものが、自分と一体化したのを感じた。もちろんそれは最初からそこにあったのだ。カゼスが見ていなかっただけで。
呪文も結界も、すべてが小手先の技、無用の装飾に思われた。
カゼスが感覚的に納得したのを見計らい、老魔術師はうなずいた。
「よろしい、ではそろそろ戻りなさい。あまり長く離れていると、戻れなくなる」
トン、と軽く突き飛ばすようにカゼスに触れる。途端に風景がぼやけ、カゼスはその世界から引き離されるのを感じた。
(待ってください、せめて名前を)
慌ててそう口走る。答えはもう声にはならず、ぼんやりした思念だった。
(君も知っとるよ。私はファルカム――)
驚きのあまり、カゼスはしがみついていた意識の手を離した。
ファルカム。
それは、ミネルバでただ一人、独力で魔術を拓き、現代につながる基礎体系を築き上げた、偉大な魔術師の名だ。
とうとう自分の気が狂ってしまったのか、などと考えもしたが、カゼスの意識は澄んでおり、今のやりとりが幻覚や妄想ではないと、はっきり自覚していた。
周囲はふたたび星空の深淵となり、やがてその星々すら背後へ飛び去り始めた。牢で眠っている自分の姿が垣間見えたが、それも瞬く間に消え去る。カゼスは帰るべき時を通り過ぎてどんどん飛ばされて行き――
トクン。
気が付くと、温かい水の中に浮かんでいた。居心地の良い、完璧な環境。ふわりふわりとその中を漂う、ひとつの細胞。
見る筈のなかった光景を目にして、カゼスは愕然とした。
人間の母親の胎内――では、ない。薄い赤色の培養液を満たした無菌ケースが、恒温槽の中でゆっくり揺れている。
(違う)
私じゃない。
今、体が存在していれば、両手で頭をかきむしりたかった。
これは私の記憶じゃない。そんな筈はない。
そう言い聞かせようとするのに、残酷なまでにはっきりと、これは自分の過去だと確信してしまう。
間違えようがなかった。順調に発生過程を経た胚は、研究者の手で人工子宮に移される。そこでそれは、ゆっくりと人間の形をとり始める。だが、成長した胎児にうっすらと生えている毛髪は、深い青色だったのだ。
やがて、人工子宮から外に出された赤子は、産声を上げる。驚愕におののく研究者たちの目の前で。
(嘘だ!)
カゼスの意識は叫んだ。
こんなのは嘘だ。信じられない、信じたくない、こんなことは……少なくとも自分は、こんな風に作り出された、まがいものの生命なんかではない!
その叫びを無視して、研究者たちが活発に議論を始めた。
(予想外の変異だ! これ以上段階を進めてもいいものかどうか……)
(しかし、色素系の異常だけで、生育には今のところ問題ないようだぞ)
(今後どんな問題が出るか分からんじゃないか。それに、通常の環境に近い状態で生育させるとなったら、どうやって経過を観察する?)
(移動型のモニターを付ければ……)
(リトルヘッドだ! これほどの成果になら、予算が下りるだろう。リトルヘッドなら相当小型にしても、充分な情報収集・解析能力が期待できるしな)
リトルヘッド……?
まさか。
カゼスはもう驚くこともできず、ただ、凍りついたようにじっと彼らのやりとりを聞いていた。
東街区ではスクラが、潰走した軍の兵をかき集められるだけかき集めていた。ティリス軍は目と鼻の先まで迫っており、『天使』の助けが期待できない今となっては、もはや勝ち目はない。
スクラとしては、降伏に何の抵抗も感じなかった。元々そのつもりだったのだ。カワードとの戦いで敗北・降伏といけば良かったのだが、逃走する兵の流れはどうしようもなかった。自分だけ部下を見捨てて投降すれば、逃げ帰った兵がマデュエスにどう扱われるか知れたものではない。
(まったく、あの無能が王だなどと!)
スクラは舌打ちした。今となってはもう、積極的にエンリルをエラードの玉座に押し上げたい気分だった。マデュエスに今以上マシな政治ができるとは思えなかったし、代わって期待できそうな跡継ぎもいない。
マデュエスの命すらどうでも良かったが、サルカシュの心情を考えると、せめて生かしておいた方が良いだろうと思われた。それゆえ彼は、気が進まないながらも、マデュエスに降伏を勧めに城へ出向きさえした。
が、結果を言えば、失敗だった。
今までなら常に王の側に控えていたエリアンは、天使が吹き飛ばされて以来、姿を見ていない。だがラウシールを手に入れたことでマデュエスはすっかり分別を失い、エリアンの入れ知恵がなくとも、降伏をはねつけたのだ。
ラウシールを捕らえているのに我々が負ける筈はない、勝てないのはそなたらが怠けておるからだ。傲然とそう言い放たれ、スクラはもう、何を言う気も失せてしまった。
(要するに、王はラウシールを手放したくないだけなのだ)
うんざりと彼はそう考えた。ごく短い間、牢で話をしただけだが、確かにラウシールは美しかった。美と快楽を歪んだ形で愛するマデュエスが、いかにも執着しそうな容姿だ。
「付き合いきれん」
むっつりしたまま、彼は声に出してぼやいた。
こうなったら、とっととティリスに投降してしまおう。長引かせても無駄に死者が増えるだけだ。
スクラがそんな事を考えて兵を集めている頃、エリアンは城でヤルスの修復にかかりっきりになっていた。
だが、どうあがいても、ここでは資材が足りなさすぎる。生命を維持するのが精一杯、しかもそれすら、いつまでもつかわからない。
「こんなことになるなんて……」
つぶやき、首を振る。息子の命を助けたければ、一か八か、故郷に送り返すよりほかに手はなかった。じっと目を閉じたままのヤルスを見つめ、小さな声でささやく。
「愛してるわ、ヤルス」
だがもう、その言葉は届かない。
エリアンは最後に、傷ついた場所を避けてヤルスの頬にキスすると、厳重にセットした生命維持装置のケースをロックした。それからケースを転移装置の台に乗せ、故郷に送り返すべく操作を始める。
出来ればせめて、『狩り』が終息した後にたどりついて欲しい。微妙な設定をするのに集中していたエリアンは、背後で、力場固定装置の表示部分に危険値を示すライトが灯ったのにも、まったく気付かなかった。
青い髪の子供は、施設の中で育てられていた。自分の置かれている環境に何の疑問を抱く事もなく、愛情を注がれることもないまま。リトルだけが常にそばにいたが、幼い子供はそれをただの水晶球以上のものとは認識しなかった。
研究者たちはカゼスにできるだけ接しないようにしていた。あくまで観察対象として距離を置き、哺乳瓶でミルクを与えたりおむつを替えたりするのも、不特定の人間がただ事務的に行っていた。名前すら付けられていなかった。記号番号だけだ。
定期的に、奇妙な子供は様々な検査を受けさせられた。
カゼスは肉体がないにもかかわらず寒気がして、ぶるっと震えた。病院の記憶が断片的によみがえる。他の記憶は完全に消えているのに、これだけは脳裏にこびりついている。
測定機器のプリンターが紙を吐き出す音。カゼスが成長して検査を嫌がるようになってくると、研究者たちはカゼスに軽い麻酔をかけた。
(だからいつも、ぼんやりしていたんだ)
記憶の中で、小さな頃の自分が納得している。カゼスは意識でその声を聞いて、ぎくりとした。あれがただの悪夢ではないのだとしたら。このまま自分の過去を見ていれば、あの夢の真相が分かるのだとしたら、それは……
(危険だ)
本能的に察し、カゼスはぎゅっと目をつぶった。意識を閉ざそうとしたが、なかなかうまく行かなかった。
一方、エリアンにいちいち行動を規制されることのなくなったマデュエスは、今日もまたカゼスのつながれている牢に足を運んでいた。
「様子は?」
見張りの兵に問うたが、返事はいつもと同じである。
「まだ眠ってばかりです」
「よし、開けろ」
短い命令に、牢番はきょとんとした。じろりと睨まれて、慌てて鍵を取り出す。格子戸を開けると、マデュエスは気の利かない牢番に苛立たしげな声で命じた。
「呼ぶまで下がっておれ」
「はっ? あっ、は、はい」
牢番は思わず聞き返したものの、次の瞬間マデュエスが言わんとしたところを察して、急いで背を向けた。
ばたばたと牢番が走り去ると、マデュエスは足音を忍ばせて牢に入った。
目を覚ましたのではないかと不安になり、寝台の数歩手前で立ち止まる。だがカゼスは昏々と眠り続けており、マデュエスがその顔をのぞきこんでも、まつげを動かしさえしなかった。
マデュエスは享楽と怠惰にたるんだその顔に、にたりと笑みを広げた。いそいそとカゼスに近寄り、衣服の下に手をさぐり入れる。そして、驚きに目を丸くした。
「これは……」
そして、先刻よりもいっそう淫乱な笑みになる。体に触れられてさえカゼスがぴくりとも動かないのに、彼はそれを不審に思いもせず、服を脱がせ始めた。
今そんな行為に及ぶことが何より危険であると、欲望に取りつかれたマデュエスが気付く筈もなかった。
城の外では、もはや誰の目にも異変が明らかになっていた。
ラガエ近くに布陣したティリス軍の兵も、また街区を後にしようと準備を進めていたスクラも、遠くアラナ谷の河口タフタンで焼け落ちた村の後片付けをしていたクシュナウーズたちも、誰もが一度は動きを止め、不吉な空を仰いだ。
ズズズズ……ッ、と、低い地響きのような音がかすかに、だが絶え間無く続いている。
ラガエの王城の上空に、大気がゆっくりと巨大な渦を巻いていた。
(まだ性徴が出てないなんて、変だな)
診察台のようなものの上に転がされた子供は、裸のままぼんやり宙を見ている。だが、体のあちこちを触られ、不快げに眉を寄せて、身じろぎした。
台を囲む研究者の一人は、酔っているようだった。そうと気付いたのはむろん過去のカゼスではない。耳をふさぎ、目をかたく瞑ってこの光景を締め出そうとしている、『今』のカゼスだ。
(どうだよこれ、性別もないくせに、こういうのは分かるんだな)
くすくす笑いながら、酔った男が幼い子供をなぶる。カゼスは吐き気を堪えて我が身を抱き、昔の自分から意識をそらせる。
男は研究者たちのチーフのようだった。悪乗りする男の背後で、数人の研究者が嫌悪と居心地の悪さを顔に浮かべて視線を交わしたが、声に出して制止する者はいなかった。
(イヤダ、気持チ悪イヨ)
それどころか何人かは、一緒になって悪ふざけを始める。背筋にぞわりと悪寒が走り、カゼスは息を呑んで身震いした。
夢ではない、現実の感覚がしたのだ。
――今のは何だ?
振り返ると、半透明の『現在』が急速に近付いてきた。それにつれ、他人の手が体を這っているのを知覚する。寒気がして、カゼスは本能的にそれを振り払おうとした。
だが、体がうまく動かない。過去のカゼスも、男の手から逃れようと暴れていたが、その動作は哀れなほど緩慢だった。我慢の限界に達した子供が叫ぶ。
(イヤ!)
過去と現在が重なり、共鳴する。瞬間、パンッと音を立てて何かが弾けとんだ。
「ぎゃあぁぁッ!」
獣じみた咆哮。過去と未来のどちらから聞こえるのか、わからない。
過去のカゼスは台から飛び降りて、裸のまま闇雲に走りだした。現在のカゼスは、よろめく足を従えて寝台から離れ、床に打ち捨てられた服を手繰り寄せて格子戸に向かう。だが足が萎えてしまい、つまずいて両手を床についた。
(なんだあのガキは! 何をしやがったんだ!)
錯乱した怒鳴り声が追ってくる。ぺたぺたと走り続ける、足の裏が冷たい。
「陛下!? 何事ですか!」
靴音がバタバタと迫る。過去の研究者たち、現在の牢番の足音が。
過去のカゼスは髪を掴まれ、床にひきずり倒された。現在のカゼスは怯え、どうすることもできず、震えながら壁際に逃げる。格子戸の向こうに現れた牢番が、マデュエスの姿を見てぎょっとなった。
「うわっ……陛下! お気を確かに、今医者を呼びます! 誰か、おおい!」
過去も現在も、カゼスの眼前にあるのは同じもの――無残に潰れた男の顔面だった。
「殺せ! 殺してしまえ!」
(何をするんだ、貴重な成功体を殺すつもりか!?)
(こいつが成功体だと? こんな危険な化け物の、どこが成功だ!)
床に組み伏せられ、男が何か光るものを手にして視界に覆いかぶさる。なす術もなく、過去のカゼスは泣きながら弱々しく首を振った。
駆けつけた衛兵たちが惨状に気付き、反射的に剣を抜いた。マデュエスは口から血の泡を飛ばしつつ、狂ったように喚き続ける。
「この化け物を殺せッ!」
(今始末しとかなけりゃ、どうする!)
恐怖に見開かれた青い双眸に、刃物の光が映る。
(助けて)
「助けて……」
涙があふれ、頬を伝った。怖くて、怖くて、誰かに助けて欲しくて。悪い夢なら醒めて欲しくて。
だが、誰も助けてはくれなかった。
(生み出すべきじゃなかった! 生かしておけるもんか!)
兵士が剣を構え、ためらいながらも振り上げる。マデュエスがカゼスに向かって、まるで笑うかのような金切り声を上げた。
「死ね、化け物め! 死ねぇッ!!」
(死ね――!)
過去と現在がぴったり重なり、殺意が頂点に達する。
刃が振り下ろされ、カゼスは叫んだ。声にならない、全精神をかけての悲鳴――
スクラが兵を率いて街を離れ、自ら降伏を申し出ようと先頭に進み出た、
エリアンがヤルスの転送を終え、真っ赤な警告灯を点滅させている力場固定装置に気付いて駆け寄った、
異状を察知したイシルがアラナ谷からラガエを流れるメルヴ川に移動した、
誰もが一瞬、何かに呼ばれたように空を仰いだ、
その刹那。
巨大な光の柱が、大気の渦からラガエの城を貫いて、大地に落ちた。
川の水が波打ち、中洲にある建物が、音もなく光の柱に吸い寄せられて行く。光に触れた瞬間、屋根も、壁も、柱も、すべてがこの世から消え失せる。
空と大地をつないで輝く光の柱。その中で王城は黒い影となり、粉々に崩れて行く。
瓦礫さえも残らない。すべてが原子や低分子のレベルにまで分解され、光に塗りつぶされていく。
街区で、外の丘陵で、誰もがその光景を呆然と見つめていた。驚きの声すら出ない。世界中から音という音が消えてしまったようだった。
一切の静寂の中を、大気の生ずる不思議な音とも気配ともつかない波動だけが、しんと広がって行く。そして、長い長い静寂の後、光の柱はゆっくりと細く弱くなって行き、最後にはふっと途切れた。
直後、中洲のあった空間を埋めるように渦巻く水が流れ込み、あとにはただ、静かに水を湛える湖が残った。
――後にこれは、『大崩壊』と呼ばれることになる。




