六章 大崩壊 (3)
夜が明けると、エンリルはすぐに交渉の使者を立てた。もちろん、エラードの捕虜全員と引き換えにラウシールを解放させるために、である。
だが、当然と言えば当然ながら、夕刻になって追い返されてきた使者は、首を横に振ったのだった。
「期待はしていなかったが、やはり残念だな」
エンリルの天幕で、武将たちは険しい顔を並べていた。できるだけ弁の立つ者を選んで行かせたが、実質上の相手は顧問官である。デニス流の駆け引きをもちかけたところで、簡単に乗ってはこなかった。
捕虜全員を引き渡した上で二日分の距離を退くとまで譲歩しても、駄目だった。エラード領内から完全に兵を引かぬ限り、ラウシールの身柄は渡せない、と言うのだ。
もちろんこの条件は呑めない。すべての兵を引くということは、アラナ谷からも、ということだ。アルハンのヴァルディア王が機を窺っている現状で引き揚げるのは、腹を空かせた猛獣の前に、血の滴る肉を置き去りにするようなものだ。力を蓄えた獣はいずれこちらに追いつき、丸呑みにするだろう。
もっとも、『肉』であるエラードがティリスの都合を気にかけねばならぬ理由などない、というのも道理なのだが。
「彼らにしてみれば、カゼスは唯一『御使い』を打ち破る力の持ち主だ。そうでなくともカゼスがいるだけで、大幅に戦術が変わってくる。喜んで解放してくれる筈もないか」
エンリルがため息をつくと、カワードが「せめて無事なら良いが」と唸った。
「まさか」エンリルは一蹴し、首を振った。「もう死んでいることはあっても、無傷ということはあるまい」
さすがにこの発言には、一同ぎょっと顔を上げた。非難の目を向けられ、エンリルは何とも言い難い皮肉な顔をして彼らを見回した。
「もし最初に出会ったあの時、カゼスが余ではなくマデュエス王やヴァルディア王のデニス統一を予言していたら、そなたら、どのようにしていた? おそらくは、無礼者、と打ち据えて、町から追い出していたであろうな」
あの場に居合わせたカワードとアーロンが、渋面になる。エンリルは淡々と続けた。
「しかし既にあの時、カゼスがこれほどの力を持つと知っていたとすれば? その時は、我らの味方になるよう、説得するなり何なりと手を打ったであろう。そうしてなお、カゼスが余の敵に与することはあっても、味方になることはないと判れば……」
皆まで言う必要もない。暗澹となった一同に、エンリルはさらに追い討ちをかけた。
「最悪の場合、エラードの顧問官がマティスと同様の事ができるのだとすれば、カゼスの心を支配して我々に敵対させようとするかも知れぬ」
絶望的なうめきを洩らした武将たちに、エンリルは「良いか」と念を押すように言う。
「このことは兵に知らせる必要はない。だがもし、戦のさなかにカゼスが突然姿を現しても、そなたらは油断するな」
一同がうなずいたのを確かめてから、彼は少し口調を和らげた。
「かと言って、カゼスの救出を諦めるわけにもゆかぬ。今、彼を失うことは、ティリスにとって大きな痛手だ」
「痛手、ですか」
不満げにカワードが繰り返す。エンリルは平然と応じた。
「そうだ。実際の戦力として、また兵たちの心の依り処としても、相当な痛手だろう」
「随分冷たい物言いをされるようになったものですな、ご立派なことで」
カワードが剣呑な声を出した。いつもならそれをたしなめるはずのアーロンも、複雑な面持ちでエンリルを見つめている。
エンリルは少し目を伏せ、考える様子を見せてから、ゆっくり答えた。
「ならば問う。何の役にも立たぬ非力な者が一人、敵の捕虜になったとして、それが知己であるという理由だけで、万の兵を率いて戦に出るような愚か者を、一国の主として認めるつもりか? これこそ我が主君であると、胸を張って申すか」
「極論を持ち出してごまかすなど、以前の陛下はなさらなんだ!」
バン、とカワードが机を叩く。黙って聞いていたゾピュロスが、騒音に顔をしかめた。
「確かに極論だ」エンリルは認め、うなずいた。「だが一面の真実でもある。たとえ余がティリスにとって必要な者だと判断しても、多数がそうとは認めぬ場合もあろう。そのような時に、余がもし己ひとりの情に流されて判断を誤れば、ティリスの民すべてが道連れだ。だから」
と、彼は不意に茶目っ気のある苦笑を浮かべた。
「この上、そなたらまでが余に無謀を行わせるような状況に陥ったりせぬよう、心掛けてもらいたい。幸い、多少の無理をしてでもラウシールを取り戻したいと願うのは、誰もが同じであろう……が、捕らわれたのがカゼスでなければ、あ奴など捨て置け、などと言い出す者がおらぬとも限らぬゆえ」
話の展開に、カワードは何やら煙に巻かれたような気がして、むっつりと他の武将二人を見やった。ゾピュロスもアーロンも、相変わらず仏頂面だ。
「訓戒、肝に銘じまする」
ゾピュロスがまったく無感動に応じたので、カワードとアーロンは視線を交わして肩を竦めた。確かに、こういう状況では内紛も起きかねないというエンリルの指摘は、不快なまでに的を射ている。二人は共に頭を下げ、「努力しましょう」などと適当に答えておいた。
エンリルは青褐色の目を天に向け、やれやれというような顔を見せると、ひとりひとりの目を確かめるように見て、小さくうなずいた。
「では今後の作戦に関してだが……カゼスがおらぬ以上、あの天使とやらが現れたら最後だ。それらしい気配がしたら迷わず退却すること、これだけは他のどのような命令を差し置いても優先するように」
「逃げる時間を与えてくれたら、の話ですがね」カワードは口をへの字に曲げた。「ま、囮のつもりが本当にやられちゃ洒落になりませんから、用心しますよ」
街にいるスクラの兵を外に誘い出し、打ち破ることができれば、危険を犯す事なく王城に肉薄できる。城を攻め落とすことは難しくとも、そこまですればマデュエス王も態度を変えるだろう、というのがエンリルの考えだった。
「彼らはラウシールを失った我が軍を侮っていよう。だが、先刻は最悪の予想を敢えて述べたが、実際問題としては恐らく、彼らがカゼスを利用することはあるまい。カゼスは簡単に心を操られはせぬゆえ、隙あらば魔術でもって逆に彼らを打ち負かすか、少なくともここまで逃げ出してくる筈だ。そうさせぬためには、意識を失わせておくか、我らの知らぬ『赤眼の魔術師』の技によって能力を封じ込めておくか……あるいは、殺すしかない。だが、殺せば我々に対する優位を失うし、何より祟りや呪いを恐れる者がそれに反対するであろうゆえ、顧問官も強引なことは出来ぬだろう」
「せっかく捕らえたラウシールも、持て余すばかりという事ですな」と、ゾピュロス。
「なるほど」とアーロンもうなずいた。「むしろ、カゼスを捕らえておくために、多数の兵か、顧問官自身の力を割かねばならぬ筈。その上に、我々がラウシールを失ったとて戦力の優劣に変わりはないと見せつければ……」
「そう、マデュエス殿はまず確実に降伏を考えるだろうな」
エンリルはそう締めくくり、にこりとした。
この戦では、完膚無きまでに相手を叩き伏せる必要はない。排除すべきは顧問官であり、マデュエス王自身に限って言えば、むしろ玉座に据えておいた方が、ティリスにとっては都合が良いのだ。マデュエスならば傀儡として利用できるが、他の有力で野心的なエラード貴族が王位に即けば、そうはいかないのだから。
マティスとの戦いを通じ、彼ら『赤眼の魔術師』もまた人間であること、それゆえたった一人の裏切りによって命を落とすこともあると分かった。ならばエラードの国王周辺に揺さぶりをかけ、降伏の条件に顧問官の身柄を追加することも不可能ではない筈だ。
「どっちにしろ私が囮役ってのは、変わらんのでしょうが」
カワードはわざと大袈裟に落胆し、やれやれとため息をついた。
「すまぬな。充分に注意してくれ」
苦笑したエンリルに、カワードは「いつでも注意してますよ」などと言い返して肩を竦めた。
「それより、サルカシュ卿の処遇はどうされるおつもりで? まさかあのまま、捕虜なんだか客なんだか分からないままにしてはおけんでしょう」
「マデュエス王の助命を確約するならば、降伏しても良いと言っていた」
答えるエンリルは、少し困ったような情けないような、複雑な顔になっている。カワードはその心中を遠慮なく代弁した。
「なぜあんな腑抜けの王に、いつまでも忠誠を捧げておるのでしょうな。優遇されていたでもなし、挙句この度の交渉では見捨てられたも同然でしょうに。私だったら、とっくにエンリル様の前に膝を折っているところですよ。どう見たって陛下の方が、主と仰ぐに数段望ましい」
「そなたの口から世辞を聞こうとはな」エンリルは苦笑した。「囮役は撤回せぬぞ」
「世辞などと、心外なお言葉ですな」
とぼけてカワードは明後日の方向を見やり、自分で堪えきれず失笑した。
「冗談はさておき、それほど言うならマデュエス王の命ぐらい保証してやっても良いのでは? どうせあの王が先陣切って戦うわけもなし、殺したくても殺せやしませんよ」
「それについては同感だ」珍しくアーロンが賛成した。「だが、サルカシュ卿の気性からすれば、恐らく実際にエラードが降伏するまでは、我々にとって益となる行動を取らせるのは無理だろう」
「余としても、無理強いはしたくない。この戦が終わるまでは、サルカシュには見物していてもらわねばなるまいよ」
エンリルはそう言うと、この件はそこまでにして、具体的な進軍の手順に話を進めた。
しばらくして作戦会議が終わると、将たちはそれぞれ自分の部隊を指揮するべく、解散した。その途中で、アーロンはひとつの天幕に立ち寄った。つい昨夜まで、カゼスがそこにいた天幕だ。
中ではアーザートがフィオの看護を受けていた。まだ意識は戻らず、時々この世とあの世の境まで行ってしまうことすらある。皮肉なものだ。彼が売り渡したカゼスが今ここにいれば、瞬く間に傷を癒して安全圏まで引き戻してくれたろうに。
無言でアーザートを見下ろすアーロンに、フィオはただ小さく頭を振った。自分にできる手はすべて尽くした、と。
死ねばいい。アーロンはそう思うと同時に、死なせたくない、とも感じていた。もちろんそれは、憐憫の情によるのではない。
(簡単に死なせるなど、なまぬるい)
何の償いもさせぬまま異世へ送ってやるつもりなど、微塵もなかった。だが。
カゼスなら、どうするだろうか。
ふとそんな考えがよぎり、即座に彼は顔をしかめた。
(許してしまうのだろうな)
それどころか、金貨が貰えなくて残念でしたね、とか何とか、間の抜けた事まで言いそうな気がする。頭が痛い。
むろん、カゼスのそういうところに惹かれたわけでもあるし、一般的に見ても、だからこそラウシールとして今ほどの人望を得られたのだ。世の中、清廉な人間ばかりではない。些細な罪を自覚しつつもそれを咎められたくない者や、自分という存在を容認して欲しいと願う心弱き者が、ラウシールの足元にはうんざりするほど群がってくる。
(だが、俺が許してやる必要はない)
アーロンは冷たく暗いまなざしを怪我人に向け、陰鬱にそう考えていた。
その日の夜までかかって、ゾピュロスの部隊がメルヴ川上流に堰を造った。一時的に水量を減らし、対岸に渡るためだ。西街区にいるのは普通の市民だが、彼らがラガエを捨てて逃げのびれば、いずれ他所に新たな都を築く可能性もある。また、それに紛れて上層部の人間が脱走するかも知れない。
そんなわけで、東側から攻める前に、西への逃げ道を封鎖しておく必要があった。途中で東街区のスクラ隊が出撃すれば工事は遅れただろうが、幸か不幸か、スクラは出撃許可を取るのに丸一日マデュエスの後を付いて回って説得しなければならなかったのだ。
マデュエスはザールの神に早く救援をと祈るばかりで、それ以外の時間はと言えば、しょっちゅう牢に足を運んで、眠り続けているカゼスを眺めていた。スクラが何を言っても上の空で、生返事ばかり。顧問官はと言えば、ティリスの使者の相手をした時に出てきたぐらいで、すぐにどこかへ引きこもってしまう。
スクラは知る由もなかったが、エリアンはこの時まだカイロンを失った動揺から立ち直っておらず、またヤルスの治療も思うようにいかない有り様で、とても国事を云々できる状態ではなかったのだ。
そのため翌日未明、ゾピュロスの部隊は何の妨害を受けることもなく、西街区の封鎖に成功した。
カワードの部隊が東側から街に迫り、出てこい臆病者、と罵声を浴びせている頃、最終的な判断を下す立場にあるエリアンは、なぜかカゼスのつながれている牢を訪れていた。
まどろんでいたカゼスは、ふと目をさまして格子戸の向こうにいる銀髪の女に気付いた。全身が鉛になってしまったように感じながら、彼女はのろのろと身を起こして、相手の言った言葉を聞き返す。
「……何て言ったんですか?」
エリアンはすぐには答えず、カゼスの口元をじっと注意深く見ていた。それから、確信を持ったようにうなずいた。
「あなた、デニス人ではないのね。魔術を使えるところからして、よそ者に違いないとは思ったけれど、正確には何者なの? あの子の何を知っているの」
「あの子……」
ぼんやりと繰り返し、カゼスはなんとか頭をはっきりさせようとして、やたらと瞬きした。あの子、とは、つまり、
「ヤルス」
無意識にカゼスはその名をつぶやいた。エリアンの表情がこわばる。
「どうしてあの子の名前を知っているの。あの子に言ったのはどういう意味?」
立て続けに質問されても、カゼスには答えられなかった。思考が散漫になっていて、いっこうにまとまらない。
「なぜ……見捨てたんですか」
一年前に出会った、心に傷を負ったまま成長したヤルスを思い出す。カゼスの脳裏で、その姿が先日対峙した幼い子供と重なった。
意味のつながらない返答に、エリアンは苛立たしげに舌打ちした。ヤルスの記録に残っていたカゼスとの会話は、彼女にはさっぱり意味のわからないものだった。カゼスの言葉は、何かを知っていることを示唆していたものの、なぜ、何を知っているのか、まるで想像がつかない。
エリアンの苛立ちが伝わり、カゼスは小さく首を振った。相手が説明を求めていることは分かるのだが、何をどう話せばいいのか考えられない。思いつくままに、ぽつぽつと言葉を口にのぼせる。
「私は……テラ共和国の、治安局員です。『狩り』とは無関係ですが」
さすがにエリアンは動揺を隠せず、ぎょっと一歩下がった。その場に故国の公安委員がわっと現れて取り押さえられるのではないか、とでも思ったようだ。だが、それきりカゼスがまた黙ってしまったので、彼女は不審げに眉をひそめて、格子戸に歩み寄った。
(おかしいわ、どうしてこんな作用が出ているのかしら)
身柄をおさえる時に使った強力な麻酔薬は、もうとっくに切れているはずだ。何か特異体質なのだろうか。
いずれにせよ、カゼスが予想外の存在であることは分かった。
(治安局員と言ったわね。ヤルスをどうするつもりかしら)
『狩り』とは無関係だと言ったが、信用できなかった。もっとも、今になって冷静に考えてみると、マティスがもたらした『狩り』の実態に関する情報も、信頼して良いものかどうか疑わしいのだが。
カゼスの狙いがはっきりしない内は、たとえティリスがどんなに美味しい条件を提示しても、解放する気にはなれない。マデュエス王は既に責任を投げ捨てて、指揮をとる気をなくしているから、交渉に余計な口を挟まれる心配もないだろう。
そんなことを考えていると、伝令兵が駆け込んで来た。
「こちらにおいででしたか。スクラ卿が出撃の命令を待っています」
「すぐに行く」
短く答え、エリアンはもう一度ちらりとカゼスを見やった。形ばかりの粗末な寝台の上で、ぼんやりとこちらを眺めている。
踵を返して立ち去りかけたエリアンの背中に、驚くほどしっかりした声が言った。
「息子さんを愛しているなら、そうと伝えてあげてください。一度でもいいから」
目を丸くして振り返ったエリアンに、カゼスの凝視が突き刺さる。エリアンは戸惑い、そわそわと視線を外した。
「言われるまでもないわ」
歯切れ悪くそう言ったのが、ちゃんと聞き取れたのだろうか。カゼスはにこりとした。
エリアンは落ち着かない気分になって、ぱっと顔を背けると足早にその場を去った。カイロンの亡霊に、カゼスの口を通して話しかけられたような気がしたのだ。
(いったい何なのよ、あれは)
だがそんな疑念も、スクラに命令を下し、自分の部屋に戻る頃には霞んで消えていた。ヤルスはまだ完全に治ってはいなかったが、出番だと告げても嫌な顔はしなかった。むしろ役に立てる事を喜んでいる様子でさえあった。
いじらしい態度にエリアンは胸をつまらせ、息子の顔を両手でそっと挟んだ。
「おまえは私の誇りよ、ヤルス」深紅の目を覗き込み、ささやく。「何よりの誇りだわ」
幼いヤルスは頬を紅潮させ、笑みを広げた。
「もう一度、行ってくれるわね?」
母親の問いに、彼はこっくりうなずいた。
街から出てきたスクラの部隊が、平野部に整列していく。カワードは暑さに閉口しながらも、油断なく相手の出方を睨んでいた。
恐らくスクラは、こちらの罠に気付くだろう。その上でわざと深追いし、アーロンの部隊に退路を断たせて降伏するはずだ。それまでに、城内にこもっている国王直属の兵が出てきてくれたら、作戦は大成功、ということになる。そこまでは無理だとしても、空になった東街区を制圧できれば充分な戦果だ。とは言え、
「そう上手く行くかねぇ……」
なんとなく不安をおぼえ、カワードは空を仰いだ。妙な予感がする。
「カワード殿がそれでは困りますよ。いつものように、それらしくでんと構えていて下さらなければ」
兵の手前もあり、ウィダルナが苦笑しながら励ました。
「それらしく、とは何だ。どさくさ紛れに余計なことまで言いおって」
いまいましげに唸り、カワードは苦い顔を作る。失笑が広がり、雰囲気がすこしだけほぐれた。
「よし、久々に暴れさせてもらうとするか!」
カワードは努めて陽気に言い、号令をかけた。旗が振られ、合図の喇叭が鳴る。途端に、わっとティリス兵が敵を罵り始めた。足を踏みならし、盾に剣の柄を打ち付けて騒音を立てて。臆病者、ここまで来てみろ、街に籠もって震えていたんだろう、等々。
それに対して罵声を返すことなく、スクラの部隊は攻撃を開始した。ティリス兵もザッと槍を構え直し、隊列を整えて迎え撃つ。
飛び交う矢と、馬の蹄に巻き上げられた砂埃とが空を覆う。歩兵の波と波がぶつかり合い、互いの喉元めがけて繰り出される槍の穂先が、砕ける波頭さながらに光った。
しばらく力押しでスクラ隊を打ち破ろうとしていたカワード隊は、かなわぬと判断したように見せかけて、間もなく退却を始めた。
「人を臆病者呼ばわりしておいて、いまさら逃げるか!」
罵倒しながらスクラがそれを追う。勢いづいた配下のエラード兵も、わっとティリス軍の尻尾めがけて食らいついた。
カワードはちらと後方を振り返り、よし、とそのまま彼らを引きずって退却しようとした。が、行く手で兵が退却をやめていることに気付き、ぎくりとする。
まさか裏切りか、という考えが一瞬胸をかすめたが、その不吉な考えですら、自分に対するごまかしでしかなかった。研ぎ澄まされた勘が、最悪の事態を告げている。
「立ち止まるな、逃げろ!」
大声で怒鳴り、合図の鐘をさんざん鳴らさせたが、彼らには通じなかった。後方の上空に現れた光のひだを、誰もが魅せられたように見つめている。
背後からは容赦なくスクラの部隊が追ってくる。異状に気付いたアーロンの部隊が助けに来てくれるとしても、もう間に合わない。
光に包まれた天使の姿が現れると、急速に戦意が萎えていった。カワード自身さえ、逃げることも忘れて立ち尽くす。恐怖が体を支配し、瞬きすらできない。
天使が手を掲げると、そこに白い光が収束する。大気に宿る光を吸い取っているかのように。充分に輝きが増すと、光の槍がティリス軍めがけて振り下ろされた。
見開かれたティリス兵の目に、迫り来る白光が焼け付く。
が、光が彼らに触れかけた寸前、金属が噛み合うような甲高い音が響いた。神経を逆なでするその音に、兵たちが歯を食いしばる。
ィィィ……ン、と音の余韻が消えた時には、白い光は見えない壁にはじき返され、砕け散っていた。
「カゼスか!?」
我に返り、カワードは周囲を見回した。青髪の魔術師は見当たらない。代わりに、
「無事か、カワード!」
エンリルの声が届いた。ぎょっとなって声の主を振り返ると、あろうことか、単騎、エラード兵の間を駆け抜けて来るではないか。
「陛下!」
カワードは思わず驚愕の声を上げ、即座に軽率を悔いた。彼の言葉で少年が何者かを知ったエラード兵が、一斉にエンリルめがけて突進する。カワードは援護すべく馬首を巡らせたが、まったく無意味だった。
「下がれッ!」
エンリルがそう怒鳴ると同時に、その体を聖紫色の光が取り巻き、次の瞬間それは爆風となって、近付く者をことごとく吹き飛ばしたのだ。馬も人も、すべて。
広々とした無人の空間がぽっかりと生じ、飛ばされた者はその周辺に折り重なって倒れている。
敵も味方も共に驚きのあまり、呆然となってエンリルを見ていた。その間に、彼はカワードのそばまで馬を寄せる。後方に浮かぶ天使を見上げ、エンリルは堂々とした態度ではっきりと言った。
「去れ、まがい物の『御使い』よ! 赤眼の魔術師の手先が、神の使いを騙るなど、おこがましいにもほどがあろう。この地にそなたの居場所などない!」
言い切られて、ヤルスが顔色を変えた。
「邪魔をするな!」
喚くなり、彼は両手を掲げた。その手と手の間に、先刻とは桁違いの強烈な光が生じる。空気そのものが灼熱し、そこに新たな太陽があらわれたかのよう。
「誰にも、邪魔はさせない」
小さくつぶやき、怒りに満ちた目で下界をねめつける。また失敗するわけにはいかないのだ。今度はちゃんとやり遂げて、胸を張って帰るのだから。
(そしたら母さんが褒めてくれる)
失望されたくない。やらなければならないのだ。それなのに、どうして邪魔する奴らがいるんだ……!
ヤルスの内で膨れ上がる怒りに呼応するように、エネルギーの塊は凄まじい勢いで密度を増して行く。もはや周辺の風景が歪んで見えるほど。
「馬鹿な、あれではエラード兵まで巻き添えだ」
エンリルはうめくと、自身も馬上で両手を高く突き上げた。深く澄んだ夜空色の瞳が、鮮やかな紫色に輝いた刹那、
「消えろぉ!」
ヤルスの叫びと共に、巨大な光の球が地上に墜落した。
だが一瞬早く、聖紫色のドームが一帯を覆った。光の塊がその壁面にぶつかると、水に石が落ちでもしたかのように、波紋が広がって光を飲み込んでしまった。
不吉な静けさが辺りに降りる。波紋がゆっくり消えると、今度は逆の変化が現れた。
ドームが波立ち、一点に向かって収束し始めたのだ。息を呑むほどのわずかな時間に、ドームはザアッと音を立ててまとまったかと思うや、
「―――!」
巨大な紫電の刃となってヤルスに襲いかかった。
咄嗟にヤルスは防御シールドを作り出したが、渦に呑まれた木の葉同然だった。瞬く間にシールドは破られ、圧倒的な力の激流が翼を引きちぎり、衣服を、皮膚を、組織を切り裂き、紙屑のようにヤルスの体を吹き飛ばした。
紫の光が消えた後には、何も残っていなかった。
「……消し飛んじまいましたか」
呆然とカワードが言うと、エンリルは顔をしかめ、頭を振った。
「いや。逃げられたようだ」
まだ瞳の色が戻らない。いきなり極限まで力を引き出したせいか、自分がばらばらに壊れてしまいそうな気がして、エンリルは馬のたてがみに顔をうずめた。
「陛下? 陛下!」
気付いたカワードがうろたえると同時に、別の地響きが近付いてきた。アーロンの部隊だ。桁違いの力を見せつけられ、しかもさらに増援が来たとあっては、エラード兵の恐怖を抑えるものは何もない。悲鳴を上げ、雪崩をうって我先に逃走を始めた。
この機に追撃すべきか否か、カワードは判断に困って、うずくまったままのエンリルと、逃げるエラード兵とを交互に見た。その視線を感じたのか、エンリルが顔を上げる。
「良い、追うな。逃がしてやれ。どうせもう戦意は残っておるまい」
その通りだった。エラード兵の逃走は全く秩序などなく、とにかくその場から離れたいという恐怖心ゆえのもので、街区に逃げ込むどころか、どことも知れぬ方へ走り去って行く姿も少なくなかった。
あんな化け物と戦うなど、死んでもごめんだ。……そういうことだろう。
エンリルはようやく元の色に戻った目で、彼らの惨めな後ろ姿を虚ろに眺めていた。
「あれはもう、人間じゃないよ」
どこか後ろの方でささやかれた声が現実のものなのかどうかも、よく分からなかった。




