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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
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六章 大崩壊 (2)



 惨い殺戮に腹を立てたように、雨は激しく一帯を打ち据えた。炎が徐々におさまっていくのを船の上から眺めていたクシュナウーズは、何を思ったか唐突に、残っていた爆弾を海にバラまいた。

「何をする!」

 驚いたのはヴァラシュである。この画期的な武器があれば、ティリスの軍事力は他の国とは比べものにならないものとなるだろうに。

 だが、前もって言い含められていたらしい、他の船でも、旗艦から爆弾が捨てられたのを見て次々に未使用の爆弾が投げ込まれた。

「イフトールの民が望まなかったことを、俺がするわけにはいかねえからな。ただ、仇討ちぐらいなら許してくれるだろうと思っただけだ」

「愚かな。おぬしが捨てても、今回の作戦に携わった者は皆、火薬の存在を知ったのだ。遠からずティリスの軍備に加えられるぞ」

 ヴァラシュの言葉に、クシュナウーズは答えなかった。この策を実行に移すと決めたときに、それは覚悟していた。今さらきれい事を言うつもりもない。ただ、気持ちの問題。

 クシュナウーズは小さくため息をつき、捕虜にしたスクードラ人を振り返った。その中にはセファイドもまじっている。

「連中の始末はおまえに任せる」

 ヴァラシュに向かってそう言うと、彼は船室へ歩きだした。

「俺には公平な判断が出来そうにねえ」

 小さくつぶやかれた言葉を聞いた者は、いなかった。

 甲板下の狭い船室に入ると、クシュナウーズは壁に背を預けて座り込んだ。腕で頭を抱えるようにして、ひとりじっとうずくまる。ややあって、どこからともなく声が響いた。

「忘れることが出来ぬのは、つらかろう」

 イシルの声だった。どこに隠れているのか、その姿は見えない。どのみちクシュナウーズは探して見ようともしなかった。うつむいたまま、複雑な苦笑をもらす。

「忘れてたさ。あんたが思い出させるまではな」

 それきり、沈黙が降りる。長い、重い沈黙が。

 ポタッ、と小さな水音が静寂を破った。続いて「くそっ」とクシュナウーズがかすれ声でうめき、また、ポタポタッ、と音がする。うずくまったまま、彼は歯を食いしばっていた。その顔の下になった床に、涙の滴が次々に丸い染みをつくる。

 とうとう彼は、鼻をすすり、手の甲で乱暴に目をこすった。勢いよく首を振って顔を上げ、頭を壁にもたせかけて目をつぶる。しばらくそうしてから、彼は深い息をついた。

「……もう、昔のことだ」

 自分に言い聞かせるようにつぶやいた声に、イシルのささやきが続いた。

「さよう、もうずっと昔のことじゃ」


 司令官が水竜とそんな言葉を交わしている間に、ヴァラシュは捕虜に投降を勧めていた。いつものいびり癖もひとまず押しやって、珍しく真面目に。

 クシュナウーズの挙動不審を見れば、不本意ながらそうせざるを得なかったのだ。彼が抜けると、ティリス海軍には大きな穴が空く。それに備えるためにも、船団の指揮に慣れた将が必要なのだ。雑兵はいくらでも集められるが、指揮官はそうではない。

 元々アルハンに金で雇われただけであるセファイドにしてみれば、忠義だてする義理もない。多くの仲間を見殺しにされたことについては憤懣もあったが、自分たちの油断も敗因である。ともかく何より、死ぬのは嫌だ。そんなわけでセファイドは、苦々しい顔ではあったが最後には投降した。

 雨が上がって太陽が輝き始める頃には、ヴァラシュはスクードラ人の配属を決め、船をタフタンに――と言うか、元タフタン港の焼け跡に入らせていた。

 ほぼ同時に、谷の上流からウィンダフラナ率いる騎馬の一隊が、捕虜を多数引き連れて現れた。村人に扮して作戦の重要な部分を務めた兵たちも、一緒に戻って来る。

 その姿を認め、ヴァラシュが労おうとした矢先、

「おう、全員無事だったか!」

 いつもの海軍司令官の声が響いた。けろりとした顔で現れたクシュナウーズは、ひょいと身軽に船から浅瀬へ飛び降りると、ウィンダフラナの方へ歩いて行く。その背を見送り、ヴァラシュは不可解げに眉を寄せてしばらく考え、結局ため息をついて頭を振った。

 あの男の考えることなど、理解しようとする方が間違っている。

 彼はうんざりそう結論づけ、後を追った。

「アルハン兵は一人も逃がしていませんよ」

 にこやかに言って、ウィンダフラナは下馬するとクシュナウーズの手を握った。

「お見事でした。こちらはあまり出る幕がありませんでしたね」

「なんの、きっちりこなしてくれて助かったぜ。まあ、焼け跡じゃなんだし、アルベーラに引き揚げて祝宴といこうじゃねえか」

「ですが、村人を帰らせるまでに少しでも家屋を再建しておきませんと。その為の人員と監督ははここに残しておかなければ」

 「そうか」クシュナウーズはちょっと頭を掻き、やれやれという顔を見せた。

「それじゃ、しばらく祝宴はお預けか。司令官が後始末を押し付けて宴会ってわけにゃいかねえしな。せっかくの酒を、連中にたっぷり恵んでやったのが悔やまれるぜ」

 アラナ谷の葡萄酒はその美味なことで知れ渡っている。それを何樽も、明日には死ぬという敵のためにくれてやったのだ。がっかりして肩を落としたクシュナウーズに、ウィンダフラナは厭味のない笑い声を立てた。

「そうおっしゃると思いました」

 彼は部下のひとりを振り返り、手で合図する。心得ました、とその男は後方に去り、じきに酒樽を積んだ荷車を前まで引かせてきた。

 おおっ、とティリス軍の兵が喜びにわきたつ。

「こんな焼け跡ではありますが、勝利を祝して皆に一杯ずつふるまうぐらいはできるでしょう。次の仕事にかかるのは、それからでも遅くはありませんよ」

 ウィンダフラナは言うと、クシュナウーズの返事を待った。実際のところ聞くまでもなく、彼の表情が充分返答になっていたのだが。

 クシュナウーズは喜色満面でうなずき、自分が一番にありつこうというように、酒樽に近付いてその蓋をポンと叩いた。

「もちろんだ、すぐに……」

 言いかけて、彼はふと空を仰いだ。

「……?」

 何かが気にかかる。そんな風に。つられてウィンダフラナも空を見上げたが、特にこれといって妙な雲があるわけでもない。

「どうかしましたか」

 問うても、クシュナウーズ自身、何に気を取られたのか分からないというように、首を傾げるばかりだった。


 少し時間をさかのぼり、アラロス湾でティリス軍が故意に敗走していた頃。

 王都ラガエでは、騒ぎがもちあがっていた。あのラウシールを顧問官が捕らえた、というのである。これこそザールの神が正しいという証拠だ、と神殿の関係者は息巻いていた。

 カゼスは転送機で王城に直接運び込まれ、強力な力場固定装置の作用している牢につながれた。制御はもちろんエリアンの部屋から行われているので、カゼスには手も足も出ない。もちろん、出そうにも牢につながれた時はまだ、眠りの底にいたのだが。

 カゼスをエリアンに引き渡したジョフトは、その当夜、何食わぬ顔でスクラの元に戻った。歩哨以外は寝静まっている時間である。空になった民家を司令部として利用しているので、隣家から屋根伝いに入れば誰にも見付かる心配はなかった。

「スクラ殿、ジョフトです。戻りました」

 ささやき声が告げるより早く、スクラはベッドに身を起こして剣を手にしていた。相手が誰だか分かると、彼は抜きかけていた刃を鞘に戻したが、何か奇妙な空気を感じ取って、そのまま剣から手を離さなかった。

「結果は」

 短く問う。月光の差し込む室内で闇の中に佇む影を見つめると、皮膚がピリピリし、頭の中で警告の光が閃いた。

「サルカシュ卿はご無事でした。それどころか随分優遇されている様子でしたよ。ティリス軍は内通者の友に親切と見えますな」

 ジョフトが含み笑いをもらす。スクラは眉を寄せ、剣の柄を握る手に力を込めた。その沈黙をどう受け取ったのか、ジョフトは数歩離れた位置を保ちつつ、言葉を続けた。

「ご安心を。まだ誰にもこのことは告げておりませぬ。ただ、利用させて頂きはしましたがね。お陰でラウシールという大物を捕らえることができました」

 スクラは息を呑んだ。が、相変わらず言葉は発しなかった。身じろぎもせず、冷たく冴えた心で呼吸をはかっている。

 長い沈黙に、ジョフトは微かな不安をおぼえて胸をざわつかせた。これ以上しゃべっても良いものだろうか、と。

 以前の彼ならば、その不安に耳を傾けたろう。だがアーザートをうまく利用し、また顧問官エリアンから褒賞の一部を先払いとして与えられた今、欲望の牙はあらゆるものをたやすく噛み砕いてしまった。羞恥や良心はもとより、自制や警戒でさえも。

「さて、あなたのことを顧問官の耳に入れたら、どうなるでしょうね?」

 それでもまだ、スクラは動かない。ややあってようやく彼はすっと立ち上がり、枕元に置いた衣服一揃えから革帯を取り上げた。ほとんどの兵が、帯の裏側に銅や銀の棒状硬貨を縫いつけて、いざという時のために携帯しているのだ。

 それを外しているらしい、金属の澄んだ響きが小さく聞こえ、月光にキラリと何かが反射した。ジョフトは笑みを広げ、早く受け取ろうと手を伸ばす。

 ――と、

「こうなるだろうな」

 スクラの一言が、聞こえたか聞こえないか。ジョフトの右手首から先は、きれいになくなっていた。ジョフトは一瞬、何が起こったのかわからなかった。そして絶叫すべく口を開きかけた時にはもう、その口を手で覆われ、するりと喉をかき切られていた。

 ドサ、と元部下の体がくずおれる。スクラはそれを見下ろし、かすかに顔をしかめて不快げに小さなため息をついた。判断を誤った己自身に腹を立てたのだ。

 だがともあれ、サルカシュが優遇されているらしいことは分かった。それに、内通していると思わせるほどに、彼がおとなしくしていることも。

(どうやら、エンリル王はサルカシュに認められたらしい)

 なんとなく面白くない。自分が馬鹿に思われて、スクラは眉間にしわを寄せた。

 ジョフトの剣を鞘から抜き、切り落とした右手に握らせる。剣を取る時に、彼はちらっと相手の体に目を走らせた。うつぶせに倒れているが、腰に結わえつけられた小さな袋が見て取れた。それを確認してから彼は、外に出て小声で歩哨を呼んだ。

「曲者が入った。明かりを」

 歩哨は一瞬驚いたものの、スクラが無傷で落ち着いているので、騒がず松明を持って中に入った。そして、倒れている人物を見出してぎょっとする。

「ジョフト殿ではありませんか!」

「……そのようだな」

 スクラは大袈裟に驚いたりはせず、ただいつもの自分らしく、答えるまでに間を置いた。

「枕元を探っておる気配がしたゆえ起き上がったところ、斬りつけられたのだ。やむなく応戦したが、よもやこの男とはな」

 言いながら遺体のそばに膝をつき、今はじめて気付いたように腰の袋をつまみ上げた。

 音がしないよう用心してか、紐でぐるぐる巻きにされている。それをほどくと、案の定チャリンと澄んだ音がした。袋を逆さにして中身をてのひらに出すと、まばゆいばかりの黄金色がこぼれた。松明の光を受けて、キラキラ輝いている。

 歩哨が息を呑む音を背中で聞きながら、スクラは出所を示す手掛かりはないかと調べ始めた。金貨銀貨に宝石までまじっている。小さな指輪を見付けると、スクラはそれを明かりにかざして検分した。

「誰から盗んだものか……。譲り受けたのでないことは確かだがな。このような不始末を他の兵に知られては、ただでさえ追い詰められている今、何が起きるか分からぬ」

 彼は歩哨を見上げ、「おぬし、口は堅いか」と問うた。歩哨はぎょっとなり、はじめて自分の置かれた状況を理解したらしく、見る間に青ざめた。スクラの視線に促され、彼はごくりと唾を飲んで、深くうなずく。

「では、手伝ってくれ」

 ジョフトの持っていた袋から金貨を少しわけて歩哨に握らせ、スクラはシーツで床の血を拭き始めた。慌てて歩哨もそれを手伝う。その後二人は、そのシーツでジョフトの遺体をくるんで運び出すと、人目につかぬよう、闇をぬってメルヴ川へと向かった。

 高地から流れる川は夏の今でも豊かな水を湛えており、腹をすかせた魚のように、投げ込まれた遺体を飲み込んでしまった。

「このシーツは燃やしておこう。ジョフトは密かに忍び込んで来たのだ、行き先を人に告げている心配もあるまい」

 スクラはひと仕事終えると、改めてまた少し、歩哨に黄金を握らせた。

「あとの金はなんとか持ち主を見付けて、私から内密に返しておこう」

 信用のない上官であれば、もっと多くの口止め料を要求されるところだが、スクラは違った。言ったことは必ず実行し、部下の手柄や恩賞を横取りしたりもしない、公正で無欲な人物として知られていたのだ。それだけに、口外すればどうなるかも、わざわざ言う必要はなかった。歩哨は嬉しそうな気配すら見せず、しゃちこばって「は」とうなずいた。

「では、私はまた務めに戻りますので」

「ご苦労だった」

 スクラは川辺に立ったまま、持ち場に戻る兵を見送る。その姿が見えなくなると、近くの空き家に入って竈を探した。昼間に兵が使ったのか、運良くまだ火種が残っている。スクラは火を起こしてシーツを突っ込むと、その場を離れた。

(さて……)

 中洲にある王城は、まだあちこちに煌々と明かりが灯っている。浪費を何とも思わない貴族や富豪たちが集っている証拠だ。

(ラウシールが捕らわれたという噂が真実であるなら、厄介なことになるな)

 彼は城を睨むようにしばらく立ち尽くし、あれこれと思案していた。


 深い眠りから醒める直前、カゼスは何か柔らかいものに触れたような、妙な感じをおぼえた。物理的に触れたのではない。意識がふと別の世界に入りかけ、その壁にぽんと軽く跳ね返されたような感覚。

「……ふにゃ?」

 寝ぼけた声をもらし、彼女はゆっくり瞼を開いた。体がやけに重い。のろのろと起き上がりかけ、思うように腕が動かなくてガクンと倒れた。

「うわっ……と、えっ?」

 自分の動きを妨げたものを見付けると、カゼスはぎょっと目を見開いた。眠気が一瞬で吹き飛ぶ。それは、金属製の丈夫な手枷だった。

 自分の身に何が起こったのか、すぐには思い出せなかった。リトルを探してキョロキョロし、見覚えのない牢につながれていることに気付く。足にも枷がはめられており、それは壁から鎖でつながっていた。

 徐々に状況を思い出し、カゼスはその場にかたまったまま、さあっと青ざめた。

 格子戸の向こうに人影はない。どこからか射し込む日の光が、苔むした石の壁をよそよそしく照らしていた。

 すぐにカゼスは『力』に触れようとしたが、真綿の海に溺れるようで、つかまるべき僅かなとっかかりすらない。精神を開こうとしただけで、意識が底無し沼に呑み込まれる感じがした。

 吐き気がする。『力』に触れられないのがこんなに苦しいものだとは、思ってもみなかった。入門以前には触れられなくて当然だったはずなのに、そんな時期があったとは想像すらできない。まるで、自分の立っている位置や姿勢、重力の方向までが感知出来なくなったかのよう。

 座り込んで胸のムカつきを堪えていると、コツコツと足音が近付いてきた。

 身構えたカゼスの前に現れたのは、おどおどした態度の兵士だった。牢番だろう、カゼスが起きていたので、ぎょっとしたように後ずさった。

 こんな状態にあってさえ自分が恐れられているのだと気付くと、カゼスは皮肉な気分で苦笑をもらした。

「別に噛みついたりしませんよ。手枷足枷に加えて、魔術が一切使えないのではね」

「……本当に、本当なんだな?」

 恐る恐る番兵が格子戸に近付く。カゼスはゆっくり立ち上がり、鎖の届く範囲で歩み寄った。番兵をざっと観察し、腰に鍵束がぶら下がっているのに気付く。

「あの、お願いがあるんですが……せめて手枷だけでも外してもらえませんか? 魔術が使えないんじゃ、枷なんかなくても、どうせ何もできませんから」

 上目遣いになって番兵に懇願する。間近で見つめられた番兵は、警戒とは別の感情から慌てて顔を背けた。それから彼は威儀を正すように咳払いし、惑わされるものかとばかり厳しい表情を作った。

「それは出来んな。あんたは危険なんだ」

 ……コンナ危険ナ――

 一瞬、カゼスの脳裏で別の声がささやいた。それを追い払うようにカゼスは首を振り、困り顔になる。

「今の私はそこらの子供より非力ですよ。手枷が重くて痛いんです。これじゃ背中が痒くても届きませんし」

 我ながら情けないと思いつつ、陳情してみる。番兵は妙に現実的な例を出されて、複雑な顔になった。ラウシールでも背中が痒かったりするのか、とでも言いたそうだ。

「外して差し上げろ」

 別の声が言い、カゼスと番兵は揃って救われたように声の主を振り返った。蜜蝋色の髪の小柄な武将だ。

「スクラ殿? 東街区でティリス軍の攻撃に備えておられるはずでは?」

 番兵が戸惑いながら訊くと、スクラはカゼスを一瞥してから答えた。

「あのラウシールが捕らわれたと聞いて、今なら出撃許可が下りるかと陛下にお伺いを立てに来た。そのついでだ。……ラウシール殿は清廉で高潔なお人柄だと聞く、枷など礼を失することになろう」

「は……」

 いまいち納得できていない風情だったが、番兵は格子戸の出入り口を開けて、用心しながらカゼスに近付いた。スクラも後から牢内に入り、カゼスを牽制するように剣の柄に手をかけて立った。

 枷を外してもらうと、カゼスは少し気分が楽になったように感じた。ふっと息を吐き、粗末な木の寝台に腰掛ける。立っているのも億劫なほど体がだるい。

 スクラはそれを見ると、番兵に水を持ってくるよう命じた。

「ここは私が見ている。新しい水を汲んで来い。できるだけ冷たいものをな」

 言いながら、銀貨を相手に渡す。番兵はスクラの意図を察し、うなずいて外へ出て行った。戻ってくるまでに彼は相当な時間、冷たい水を探し回ることになるだろう。

 カゼスは怪訝そうに番兵を見送り、スクラを見上げて首を傾げた。

「いいんですか? あなたの立場が悪くなったりしませんか」

「他人の心配ができる立場か?」

 呆れてスクラは言い返し、冷ややかにカゼスを見下ろした。初対面の人間、それも敵の立場にある者を気遣うなど、いくらそれが陰で協力している者だと言えども、馬鹿としか思えない。

 だが、自分の落ち度はそれとして謝らねばならない。スクラは憂鬱げに頭を下げた。

「おぬしをこのような立場に陥れたのは、私の部下だった男だ。私が軽率な行動に出たが為に、思わぬ事態を招いたことは、詫びておきたい」

「ああ、ジョフト殿でしたっけ。それじゃ、あなたは関与していなかったんですね」

 納得してうなずくカゼス。その言葉に、スクラはちくりと良心の痛みを感じた。

「あの男は、私の部下だと明かしたのか。それゆえ、かくもたやすく捕らわれたのだな」

「それだけでもないんですけどね」カゼスは自嘲気味の苦笑を浮かべた。「見る目がなかったのは私もです。ジョフト殿と、私の護衛だった人がつるんで芝居を打って、私を顧問官に引き渡したんです」

 そう、アーザートを信じたがゆえに裏切りに気付かなかった。いや、信じてはいなかったのかもしれない。信じたいと願っていたからこそ、たやすく騙されたのだろう。

 カゼスはいきさつをかいつまんで話し、軽く頭を振った。

「本当に信じていたなら、彼と二人で陣から離れたりしなかったような気がします。信じたいと……信じるに足る証を立てたいと、そんなことばかり考えていたから、気付かなかったのかも」

 独り言のようにつぶやくと、カゼスは寂しそうに微笑んだ。スクラはじっと話を聞いていたが、ややあって平坦な口調で言った。

「おぬしの考えることは、私には理解できそうにない。アーザートとやらの二心に気付いていたのならば、なぜそれでもなお信じようなどと馬鹿げたことを考える? 自ら破滅を招くようなものではないか」

 カゼスは答えず、ただ曖昧な笑みを浮かべた。理解されないのも無理はない。アーロンやカワードたちのように、カゼスと最初から行動を共にしてきた者ですら、カゼスのやることは理解できないこともあるのだ。

 裏切られてからでは遅い。だが、裏切る前からそうと決めつけて断罪することもできない。ならば、裏切りを思い止どまらせるために、こちらから歩み寄らなければならない。

 カゼスはそう考えていたが、もちろんこの時代のデニス人にとって、こんな考え方はまったく異質なものだった。

 スクラは奥深いカゼスの目をじっと見つめていたが、ややあってふいと視線を外した。

「なるべくおぬしを解放できるように働きかけてはみる。サルカシュや他の捕虜全員と引き換えにするという手もあろう。だが、期待はするな」

 彼が言葉を切ると間もなく、番兵が戻ってきた。水差しを渡され、カゼスは双方に向かって別々の意味を込め、「ありがとう」と礼を言った。

 番兵はそわそわしながら、スクラに何度も視線を向ける。その意図に気付き、スクラは無言で目礼して、牢を後にした。

 格子戸が再び閉じられ、ガチャリと施錠される音が響く。スクラが去ると、カゼスはせっかくの水に口をつけもせず、ぐったりと寝台に横たわった。

 『力』に触れられないせいか、すべての感覚にぼんやりと霧がかかっている。いつの間にかカゼスは瞼を閉じ、再び深い眠りに落ちていった。


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