六章 大崩壊 (1)
アラナ谷では、州都アルベーラの南側に船団を停泊させて警戒する一方、クシュナウーズの命令で河口の漁村タフタンでも着々と迎撃の準備が進められていた。
タフタンは交易の中継点でもあったが、アルベーラが河口からそう遠くないためもあって、ほとんど素通りされるだけの村である。とは言え漁業が盛んなため、港には小さな船がずらりと並んでいた。
今は村の者の多くが、船や家財と共にアルベーラまで避難させられている。岸の粗末な家々もティリス軍が接収し、にわか軍港となりつつあった。
港に残っている漁船にはすべて細工が施された。引き揚げた魚を入れる水槽を改造し、硫黄と硝石、それに干し草や柴などの燃え種をかぶせた上でぴったりと板をはめて、外からは見えないようにした。クシュナウーズは後で追加の物を入れるから、まだ板を固定するなと命じたが、その『追加の物』を作る材料が揃っていなかった。
ティリスで産出される硝石、それに南方の島々から持ち込まれる硫黄は調達が容易だったのだが、
「問題は炭か……」
タフタンで作業の指揮をとりながら、クシュナウーズは渋い顔をした。
もともと森林資源に乏しいデニスでは、燃料には薪と乾燥させた家畜の糞が併用されており、贅沢な炭はほとんど流通していない。アルハンや高地では多少の生産があるが、ほとんどが国内用で、買えたとしても相当な高値をふっかけられるだろう。
「いったい何に使うのだ? 炭などなくとも、硫黄と硝石があれば火計を用いるに充分だと思うが」
横でヴァラシュが首を傾げた。何も説明されていないにもかかわらず、この恐るべき男はクシュナウーズの戦術を看破しているらしい。
「確かに、なくてもいいんだがな。あった方が楽なんだよ、圧倒的に」
クシュナウーズは言い返し、仕方がない、と桟橋から海をのぞき込んで言った。
「おい、じーさん。ちょっくら遠出してえんだが、頼めるか」
言い終わるや否や、水面が波立ち、ザアッと水竜の頭が現れた。
「いずこじゃ」
「イフトールだ。連中の目につかない場所に上げて欲しい」
クシュナウーズが指示した地名に、ヴァラシュは束の間きょとんとした。次いでそれがどこの都市かを思い出し、顔色を変える。
「待て!」
咄嗟に袖をつかんで引き留めようとし、クシュナウーズに引きずられてドボンと海に落ちる。結局そのまま水域を通り抜け、ヴァラシュは『三日月の島』にあるイフトールの沖合にざぶんと頭を出すはめになってしまった。
「なんでてめえが付いて来るんだ」
クシュナウーズは鬱陶しそうな顔をしたが、ヴァラシュの方も負けず劣らず不愉快げに言い返した。
「おぬしが敵の本拠地に乗り込む、などと言い出すからだ。でなければ誰が男の後など」
ぶつくさ文句をたれる色男を無視して、クシュナウーズはすいすい泳ぎだす。
「スクードラに殴り込みかけるつもりじゃねえよ」
少し泳いで足のつくところまで来ると、彼は磯の岩陰へバシャバシャ歩いて行った。ヴァラシュもそれに続き、べとつく塩水に苦い顔をする。
「スクードラ?」
ヴァラシュが訊くと、クシュナウーズは岩に登って街の方を見ながら答えた。
「ここに住んでる連中の名前さ。もとはずっと北方にいた連中らしい。俺も名前の意味なんざ知らねえよ」
「ノスティリアの海賊どもと近縁の輩か」
「奴らよりもまだ北の部族だ。荒れる海を渡って、豊かな南方で略奪し放題してた連中だよ。血の気が多いんでな、見付かると厄介だぜ」
説明しながら、クシュナウーズは用心深く岩陰を移動していく。往来する人影は女子供がほとんどで、どうやら男たちは船で出払っているようだ。その内のどれぐらいがアルハンに買収されたのだろうか。
クシュナウーズは人の来ない隙に、街壁の外に広がる雑木林に向かって走りだした。ヴァラシュは未練そうに女の姿を目で追ったが、渋々と後に続いた。
もとが北方の人種とだけあって、女たちは明るい金や銀の髪と白い肌をしており、デニスの高地人とはまた違った美しさを備えている。ヴァラシュにとって、彼女らを無視せねばならぬとは、砂漠で渇ききっていながら井戸を素通りするにも等しい苦行だった。
木立に駆け込むと、クシュナウーズは少し警戒を緩め、落ち着いた足取りでゆっくり歩きだした。ヴァラシュはまだちらちらと後ろを振り返っていたが、クシュナウーズがあまりに勝手知ったる様子なのが気になって、ひそっと問うた。
「おぬし、この地を訪れたことがあるのか?」
クシュナウーズは「ああ」と短く答えたきり、一言も説明はしなかった。彼の素性にかかわることなのだろう。
少し歩いて辺りを見回し、彼は「あった、あった」と小走りになった。行く手に、崩れかけて草むした小屋がたたずんでいる。
ヴァラシュは不審な顔をしながら、周囲を確認した。この小屋だけ、こんな場所にぽつんと建っているのはどうしたことか。付近には人家など、その朽ちた痕跡すらないというのに。
クシュナウーズは蝶番の壊れた扉を蹴り開けて、中に入って行く。蝙蝠が飛び出し、驚かされたクシュナウーズは「わっ」と小声を上げてから、毒づいた。
「もう使われてねえってか……いや、あるぞ」
ぶつぶつ言いながらあちこちをひっかきまわしている。ヴァラシュはその間、外で待っていた。既に海水が乾いてべたべたになっているので、この上に埃だの蝙蝠の糞だのを被るのは遠慮したかったのだ。
ややあってクシュナウーズは、クモの巣を頭にひっかけ、埃まみれの大きな木箱をひとつ引きずり出して来た。
「なんだ、それは」とヴァラシュ。
「炭の粉さ。純度が高い、特製の奴だ」
クシュナウーズはにやっとして、厳重に封をされた木箱を軽く叩いた。雨水や湿気が入らないよう、何か独特の塗料でこってりと塗り固められている。
「これだけありゃ、今回の作戦に充分だろう。どうせもう、これを使う奴もここにゃいないんだし、貰ってっても罰は当たらんさ」
「それで何をするつもりだ?……待てよ、聞いたことがある。硝石と硫黄、それに何か混ぜ物をすることで、単なる燃え種として以上に激しい爆発を引き起こせる、と」
これがそうなのか、とヴァラシュは眉を寄せた。
『海の民』の侵略で神聖デニス帝国が崩壊するとき、それまで蓄えられてきた知識は、書物から口伝に至るまで大半が失われた。それゆえ、ヴァラシュにしても古い時代のことはあまり正確には知らない。スクードラ人のこともそうだ。
「なぜおぬしが知っている?」
「人づてに聞いた話さ」
そらとぼけて言い、クシュナウーズは木箱に縄をかけた。ぐっと引っ張っても切れないことを確かめ、ずるずると引きずりながら、海の方へと歩きだす。
「三日月の島に元々住んでいた連中てのは、実にのんびりした連中でな。歌や絵や踊りが好きで、食えもしなけりゃ薬にもならねえ花を育てたり、学問にしたって何のためにもならないような代物ばかり、ってなざまだった。そんな連中が、荒っぽいスクードラ人に抵抗できるわけもねえわな」
立ち止まり、彼は木立の向こうに見える街壁を指さした。
「あの塀だって、スクードラ人が建てたもんだ。それまでは何の防壁もなかった。せいぜい、堤防とイノシシ避けぐらいだな。スクードラ人はイフトールの港に押し寄せ、火を放ち、住民を殺しまくった。若い女や、見た目のいい子供は奴隷に売り飛ばされた。主に神聖デニス帝国の貴族どもに向けて」
「おぬし……」
言いかけて、ヴァラシュは言葉を飲み込んだ。黒髪に碧眼、加えて小柄という容姿は、デニスの者には見られない。もしや、と思いはしたものの、ヴァラシュは確かめる事ができなかった。クシュナウーズの表情は、それをはっきりと拒絶していたから。
「軟弱な原住民も、たったひとつ、マシなことをした。それがこの火薬さ」
「火薬……起爆剤のことか」
「そうだ。つっても、もちろん呑気な連中はそれを戦争に使おうなんて考えもしなかった。ま、戦う相手もいなけりゃ、扱いも難しかったんだがね。でかい土木工事の時、たまに使う程度で、あとはもっぱら花火……つまり遊びに使ってたのさ」
クシュナウーズは苦笑して、軽く頭を振った。花火と言っても、決して大掛かりなものではない。だが、この遊びを知っているのは、小さな島国の呑気な住民だけだったのだ。
「スクードラ人が攻めて来た時、住民連中は真っ先にこいつの危険性に気が付いた。だったら自分たちがこいつを使ってスクードラ人を追い返せば良さそうなもんだが、なんせ戦なんぞ数百年は知らなかったような連中だ。火薬はあっても、それをどういう武器にすればいいか、わからねえ。それに」
と、彼は鼻を鳴らした。嘲りと言うよりは、どこか諦めのような気配の表情で。
「火薬を使えばいずれ他所にもそのことが知れて、凶悪な武器を世界に広めることになっちまう。そこで連中は、町にある調合済みの火薬はすべて水に投げ込み、調合の手掛かりになりそうな物も全部捨てちまった」
「では、あの小屋は……」
「かつての花火師……つまり火薬を調合する職人が住んでた所さ。いつ事故でドカンといくかわからねえし、火事にでもなった日にゃ目も当てられねえから、ああして離れたところにぽつんと建ってるわけだ」
これで分かったろ、と言うように肩を竦め、クシュナウーズは歩みを再開した。
ヴァラシュは無言でそれについて行く。意外な男が意外なことを知っていたために、彼はいささか衝撃を受けていたのだ。タフタンでの攻防は、彼が推察したものよりも、はるかに激しく容赦ないものになりそうな気がした。
アルハン海軍とて、出陣を遅らせて敵に万全の準備をさせるほど愚かではなかった。
まだタフタンの陣営が完全に整わぬと見える内に、早くも船影が沖合に姿を現し、クシュナウーズとヴァラシュはすべての船を率いて出港した。
「ふむ、まずはこちらの見せかけに騙されてくれたか。寄せ集めだな」
ヴァラシュは敵の船団を見て、一言そう評した。正規のアルハン海軍よりも、スクードラ人やノスティリア人といった北方の海賊たちが目立つ。だがその数はクシュナウーズの指揮する船すべてを集めた倍はあるかと思われた。
見せかけ、と言ったのは、ティリス勢の方は陣営が整わぬどころか、実際は既に準備万端整えて、今や遅しと手ぐすね引いて待ち構えていたからである。クシュナウーズは三日月の島から戻ると、フローディスからついて来た何人かの男を集めて作業を手伝わせ、丸三日がかりで奇妙な球をいくつも作り、一部を漁船に仕込んで細工の仕上げをしていた。
それだけ用意ができていても、クシュナウーズの表情はいつになく深刻なままだった。
「スクードラ人は船の扱いに長けてるからな、侮るなよ」
そう釘を刺したクシュナウーズに、むろんだ、とヴァラシュは薄く笑った。
「こんな序盤で、せっかくの楽しみを台なしにするつもりはない」
「言ってろ」
素っ気なくいなし、クシュナウーズは船団の陣形に目を凝らした。ここで失敗したら、なにもかもが水の泡だ。笑い事ではない。
矢の届く距離に近付くと、ティリス軍の方がやや早く合図の旗を振った。途端に、堰を切ったようにザアッと音を立てて矢の雨がアルハン軍に降り注ぐ。弓の性能が劣るアルハン側は強引に接近し、矢の応酬を始めた。
火矢が放たれ、あちこちで黒煙が上がる。だが密集した状態で、しかも騎馬などと違ってすぐには方向転換すらできない船同士の戦いでは、火は共倒れの危険があるため多用できない。じきに矢の雨は止み、船と船との衝突が始まった。
船首につけた衝角で、できるだけ敵の横っ腹に穴を空けようと、どの船も次々に向きを変える。衝角の一撃であえなく沈む船もあれば、穴は空けられずとも敵の兵士に乗り込まれ、拿捕される船もある。
数の少ないティリス側は、瞬く間に劣勢になっていく。だが、あちこちで敗北を喫しながらも、その陣形はゆっくりと巧みにアルハンの船団をすりぬけるよう、動いていた。
こちらの意図にアルハン側が気付く前に、ティリス軍は退却の合図を出した。
既に逃走を目的とした位置と陣形にあった船団は、合図が出るや否や、驚くほど素早く南へと戦場を離脱していった。追撃しようとしたアルハン側は、ヴァラシュの睨んだ通り寄せ集めゆえに統制がとれておらず、既に陣形は崩れ、命令系統も混乱をきたしていたため、諦めざるを得なかった。
「見ろ、臆病者が尻に帆かけて逃げて行きよるわ」
スクードラ人の長セファイドは、見る間に小さくなって行く船影を嘲笑うと、タフタンに入港するよう命じた。多少は損害も出たが、ほぼ圧勝と言ってよい戦果だ。セファイドと同じく赤銅色に日焼けした金髪の船乗りたちが、その言葉に哄笑した。
総司令官であるアルハンの軍人は形式的に略奪や暴行を禁じたが、実際の効果はほとんどなかった。村に残っていたティリス軍は味方の敗走を見て、食糧や物資を打ち捨てて逃走しており、いるのは逃げ遅れた村人がわずかばかりという様。上陸したアルハン勢の横暴にも、何ら打つ手がなかった。
戦利品の山にほくほくしながら、彼らはティリス軍が捨てて行った陣で好き勝手にくつろぎ、また騒ぎ、勝利の美酒に文字通り酔いしれた。置き土産の中には、大量の酒も含まれていたのである。
「こんなちょろい戦に我らを呼ばねばならぬとは、元帝国も堕ちたものよ」
「良いではないか、楽な仕事だ。その上、美味い酒にもありつけると来ている」
スクードラ人は先祖代々抱いてきた優越感もあり、聞こえよがしにアルハン兵を笑った。侮られたアルハン兵の中には、その場で喧嘩を始める者もあらわれる。
陣地に漂う怪しい雲行きに誘われるように、夕刻から空は荒れ模様になってきた。
せっせと桟橋で作業をしている村人に気付いたアルハン兵が、それを捕らえてただすと、船が流されないよう、もやっているのだと言う。見ると、小さな漁船は港のあちこちで、何艘かごとにまとめてしっかりとつなぎ合わされ、またそれぞれが桟橋の杭につながれていた。暴風雨でも波にさらわれる心配はなさそうだ。
村人の話では、この雲の具合だと今の時期は大荒れになるだろう、とのことだった。
兵からそれを聞いた司令官は、慌てて自軍の船をもやうように命令を出した。暗くなってからでは作業が難しい。大事な船を流されでもしたら、ヴァルディア王の怒りの鉄槌に叩き潰されてしまう。
だがセファイドはこの命令に従わなかった。それぞれの船は桟橋にしっかりつながれている、それで充分だ、と言うのだ。
「普段なら夕凪の後は陸風になるはずだが、今は海から風が吹き上げている。もし連中がそう遠くまで行っておらず、近くに潜んでいるならば、嵐がおさまらぬ内に奇襲をかけて火を放つやも知れんからな。我々は貴様ら帝国人と仲良く丸焼けになるつもりはない」
陸から目と鼻の先で水遊びするしか能のない連中に、こと船に関して指図されてたまるか、という心情が露骨にあらわれた態度だった。
司令官は、王より全権を委ねられているこの私に従わぬとは何事か、としばらく怒りまくったが、結局、負け惜しみを二言三言吐き捨てて諦めた。流されたとしても、アルハンの損失になるわけではない、勝手にしろ、と。
夜になっていよいよ風が強まり、雨が降り始めると、村人の家はことごとく兵士たちに占領された。暴風と雷鳴の割に雨量は少なかったが、風の吹き込む天幕ではなく、みすぼらしくとも壁と屋根のしっかりした家の方が良いからだ。
嵐の中に追い出された村人たちは恨み言を並べたが、ぐずぐず言うと斬るぞ、などと酔った兵士に脅されて、仕方なく全員よるべを求めて村の外へ逃げて行った。
激しい風と雷鳴は夜半まで続き、その間、屋根の下に退避した兵は、また戦利品の酒を飲んで騒いでいた。
元が海賊のスクードラ人やノスティリア人のみではない。アルハン兵も、運の悪い歩哨を残して、残りは酒を酌み交わしつつ、スクードラ人の横柄さに対する不平不満を吐き出していた。飲まずにやってられるか、という心境なのだろう。
そんなわけで彼らは、早々に雨が止んだことにも気付かなかった。上流のアルベーラに停泊していたティリス軍が、じわじわと川を下り始めていることにも、また沖合から奇妙に濃い霧が広がっていることにも。
翌朝には濃霧が立ち込め、自分の手元すらおぼつかないさまとなった。占領軍は身動きが取れなくなったわけだが、夜更けまで痛飲していた者にはどのみち関係ない。歩哨も、迂闊に海側へ近付けば落ちる危険があるため、村の中を手探りでおざなりに見回るだけだった。
そんな状況が変わりはじめたのは、ぼんやりと霧の向こうに太陽が輝き、再び海風が吹き始めた頃だった。
油断しきっていたアルハン軍の目の前で、どんどん強まっていく海風に吹き散らされ、霧が晴れて行く。そこに現れたのは、昨日惨敗して逃げ去ったはずのティリス軍だった。
歩哨の上げた驚きの声、続いて打ち鳴らされた警鐘にも、宿酔でへたばっている兵士たちの反応は鈍かった。重い頭を持ち上げて外に出たセファイドは、谷の入り江を封鎖しているティリス軍の船に愕然とした。
「馬鹿な、どうやってあの嵐と霧の中を……!」
思わず声に出してそう言った時には、もうティリス側の攻撃は始まっていた。
足の速い小船が、追い風に乗って突進して来る。船に乗っているのはほんの数人だが、覆いをかけた積み荷が見て取れた。船首は平らになっており、銛のようなものが何本も突き出ている。最悪なことに、各船には必ず松明を持った兵が乗っていた。
「もやいを解け! 離脱しろ、ぐずぐずするな!」
セファイドはぎょっとして自分の部下を叱咤し、自らも船に乗って作業を始めた。アルハン軍の方でも、慌ただしく兵が走りだす。しかし、村人に手伝わせた船のもやいは、素人の手ではなかなか解けない。業を煮やして、綱ごと切ってしまう者もいる。
そうしている間にも、小船はぐんぐん近付いていた。迎え撃つべく弓兵が船首に立って矢を射かけたが、速く細かい動きでよく避け、なかなか当たらない。
小船の先端がアルハンの船にぶつかるより早く、ティリス兵は乗っていた船に火を放って水の中へ飛び込んだ。中の数隻は、敵船めがけて油の入った小さな瓶を投げ付けさえした。後方に控えていた小船が味方を救出し、元来た方へ逃げ帰っていく。
火のついた最初の一艘がアルハンの軍船に食いつき、信じられないことが起こった。
積み荷がいきなり爆発したのだ。船を吹き飛ばすような大爆発ではないが、積み荷から船全体までが瞬く間に燃え上がり、それはまるで巨大な鳥が翼を広げたよう。ゆうべの嵐や今朝の霧で船の外側は濡れていたが、炎のはばたきの前には枯れ草同然だった。
いち早くティリス側のもくろみに気付いたセファイドは、既にもやいを解いて桟橋を離れていた。次々と小船が炎上し、結び付けられた船から船へと、炎の舌がのびていく。海風に煽られ、その勢いは激しくなる一方だ。最後まで矢を射ていた兵が、逃げ遅れて炎に巻かれ、踊り狂うようにして海へ落ちていく。
「やはり火計があったか」
セファイドは苦い顔で唸った。危うく巻き添えになるところだった、と一息ついたその途端、後続の船で騒ぎが起きた。
「なんだッ!?」
縁から身を乗り出し、後ろを見る。村人の船のそばを通りかかった最後尾の船が、必死で逃げようとしたために、前の船の進路に突っ込んでしまっている。
何をやっているのか、と苛立つ間もなかった。逃げようとあがく船の後方で、爆発が生じたのだ。
「何があった! ティリスの伏兵か?」
物見に向かって大声で問う。マストの上の物見台にいる男が、後方に目を凝らした。
「漁船です、長! 村の漁船が爆発したんです!」
クソッ、とセファイドは舌打ちした。大量に舞う火の粉を浴び、漁船にまで延焼した結果、仕込まれていた何かに引火したのだろう。ご丁寧に、船団の隅々まで炎が行き渡るよう、漁船は港のあちこちに分散させてある。
セファイドは漁船を徹底的に調べなかったことを後悔した。ティリス軍はいったい何という代物を作り出したのだ?
「速度を上げろ!」
冷たいようだが、ぐずぐずしていたらこちらまで燃えてしまう。
次々に漁船が爆発し、タフタンは吼え猛る真紅の怪物に蹂躙されていく。風が火の粉をすくいあげ、陸の陣地に運ぶ。燃え広がる勢いはまるで炎の馬が駆け抜けるかのようで、既に多くの兵がその蹄にかかって絶命していた。
どうにか逃げ出せたのは、セファイド率いるスクードラ人の一団だけだった。
陸に取り残された兵士たちは、しばらくは消火しようと涙ぐましい努力をしていたが、火勢が強まって熱気のために近づくことすら出来なくなると、上官の指示すら待たず我先に北東へ――アラロス川の上流へと逃げ出していた。
恐らく彼らも逃げおおせられまい、とセファイドは暗い目でその姿を追った。これだけ仕組んでいたのならば、上流のアルベーラから兵を差し向けているはずだ。
退路はひとつ。入り江をふさぐティリスの船団を突破するしかない。
「封鎖を破って逃げるぞ! 敵はわずかだ、帝国人に海での戦を教えてやれ!」
セファイドの声に、部下たちが威勢よく呼応する。ティリスの船は横一列に並んでいるだけなので、一箇所を突破できれば逃走もたやすいと踏んだのだ。楔形の陣形をとり、燃え盛る陸地を後にして、まっすぐ北西へと突っ込んで行く。
「やはり取りこぼしが出たな」
ヴァラシュは悠然と、こちらに向かってくる船団を眺めていた。クシュナウーズはその隣で、だから言ったろ、とばかり鼻を鳴らした。
「投石機、用意!」
彼が合図すると、旗が振られ、それぞれの船で船首の方に投石機が引き出されてきた。もともと城壁を挟んで対峙する時に攻防それぞれの側でよく使われる兵器なのだが、クシュナウーズはそれを船に持ち込んでいたのだ。
「一度にひとつだぞ、気をつけろ」
導火線のついた爆弾を投石機に準備し、火を移すタイミングをはかる。クシュナウーズは紙と泥で球形の皮をつくり、その中に調合した火薬を仕込んで、油に浸した太い縒り糸を導火線にしていた。
「よく狙え、無駄にするなよ」
準備期間が短かったため、火薬の量自体がそう多くはない。それにクシュナウーズは肝心な調合と仕上げの工程を、絶対に他人にさせなかった。自分ひとりで行ったのだ。封鎖線の端まで行き渡らせると、爆弾はわずかしかなかった。
敵から矢の攻撃が始まり、こちらも弓兵が応射をはじめる。盾を掲げて矢を防ぎながら、クシュナウーズは間違いなく届く距離までセファイドの船を引きつけた。
「よし、撃て!」
充分に引き付けた後、クシュナウーズは号令をかけた。導火線に火が移され、爆弾がスクードラ人の船に投げ込まれる。いくつかは海に落ち、いくつかは途中で火が消えて不発に終わった。投げ込まれた船の兵は最初こそ怯んだものの、それが石でも金属でもないと分かると、船縁に身を乗り出して罵声を返し始めた。なんだ、こんなもので沈められると思っているのか、馬鹿め。
むろんそれは長続きしなかった。最初の爆発が起こり、船縁から何人かが吹き飛ばされる。続いてあちこちの船で、ひとつ、またひとつと炎の花が開いた。
「しまった! くそ、火を消せ、そいつはすぐ海へ捨てるんだ!」
セファイドは甲板で火が燃え上がると、慌てて指示を出した。ティリス側は攻撃の手を休めない。続いて油の瓶が撃ち込まれ、見る間に火勢が強まる。弓兵も背後が燃えだしたのではおちおちしていられない。取り乱した多くの者が射撃をやめ、消火にかかろうとして持ち場を離れた。
矢の勢いが弱まったのを見て取ると、ヴァラシュが他の船に合図を送った。
離れた場所の船が、いっせいに櫂を降ろし、動き始めた。他に火の手を逃れた船がないとはっきりしたため、スクードラ人の一団を包囲しにかかったのだ。気が付いたセファイドは焦ったが、前方を突破しない限りどうにもならない。そうこうする間にも、どんどん火の手が上がり、味方の船は次々と炎上していく。
とうとうセファイドの船も全体に火が回り、漕ぎ手も弓兵も、負傷していない者は我先に海へ飛び込み始めた。こうなってはもう船を動かすことはできない。
ティリスに呪いの言葉を吐き、神の加護を願って、セファイドも海へと跳んだ。焼け死ぬよりは溺れ死ぬ方がマシだ、と。
徹底的に痛めつけておきながら、クシュナウーズはまだ彼らを容赦しなかった。
デニスでは通例こういう状況になれば、敵の兵にも縄を投げてやり、投降する者の命は助けるものだ。もちろんそれは捕虜にするためなのだが、少なくとも自軍の船まで泳ぎ着いた者を見捨てはしない。
だがクシュナウーズは、縄を降ろしてやれとは言わなかった。
「司令官……」
旗艦の船長が不安げに声をかける。このまま放置していたら、敵兵は全員溺死するだろう。なにしろ陸は完全に炎の支配下で、近付くこともできない。それでもまだクシュナウーズは、水面に必死で頭を出してもがいているスクードラ人を、どこか冬の闇夜を思わせる顔でじっと見下ろしていた。
煙と灰が空を覆い、また、谷間での猛火によって局地的な雲が生じ、辺りが薄暗くなる。一人、また一人とスクードラ人が沈んでゆく。
やがて発達した雲から、パラパラと雨粒がこぼれ落ちはじめた。大きな滴がピシャッと頬に当たってからやっと、クシュナウーズは静かに命じた。
「縄を降ろしてやれ」
残っているスクードラ人は、片手で数えられるほどしかいなかった。




