二章 暗雲 (1)
無事に怪物が片付いたので、ついでに視察をと一行は川を渡り、西側の町外れに位置する総督府に向かった。
カゼスは情けないことに小馬にすら乗れなかったので、今回もアーロンに面倒を見て貰うはめになった。デニス標準で考えるとカゼスが小柄なのが、せめてもの救いだろう。
アーロンの前でぽこぽこと揺られながら、カゼスはゆうべ教わった名前を復習した。
覚えるまでもなく知っているのが、金髪の王太子エンリル殿下。屈託のない笑顔を見せられる辺り、やんごとなきお方である事をつい忘れそうになる。
その守役だったというアーロンは、さんざん世話をかけているので、さすがにもうしっかり覚えている。なんとなく、治安局で訓練されている捜査犬を彷彿とする印象。万騎長というのは、騎兵団長……つまり陸軍元帥に当たる地位の、すぐ下だとか。
(まあ、とにかく偉いんだろう)
軍のない平和な世界育ちのカゼスの認識は、その程度だったが。
もっとも、格の高さを認識できないのは、彼らの言動にも一因があろう。何かにつけアーロンと下らない舌戦を繰り広げているのが、同じ万騎長のカワード。
図体のでかさと、むさくるしいもさもさ頭に不精髭。これだけ揃えばインパクトの強さはかなりのもので、彼もまた記憶にしっかり焼き付いてしまった。
そのカワードの部下らしい、千騎長のウィダルナは、どちらかと言うとアーロンの方に似た雰囲気の青年だ。やや顔立ちは繊細だが、黒髪で長身という基本は先の二人と同じ。
(肩凝りと頭痛は持病、って雰囲気だなぁ。そのうち、鬱病になるんじゃないか?)
などとカゼスは余計な心配をする。上司があれでは無理もないが。
比較的マシなアーロンを上司に持った千騎長のイスファンドは、決してでしゃばらず寡黙で、印象が薄い。金髪だがその色は淡く、顔立ちも整ってはいるが地味な方で、アーロンたちとは別人種に見える。
(少なくとも二種類の血筋があるみたいだってのは分かったけど、この人はエンリル様と同じ系統にも見えないしなぁ)
カゼスがついじっと見ていると、視線に気付いたのかイスファンドがふと振り返った。目が合うと、ほんのわずか控えめな微笑を浮かべる。どうやら誰に対してもこの調子らしい。カゼスは曖昧な微笑を返し、視線を前へ向けた。
残る一人は、一行の訪問を告げる先触れとして総督府へ向かっている。エンリルの従者をつとめるダスターンだ。まだ十代の半ばと見られる黒髪の少年で、どうもカゼスに対する心証は良くないらしい。
大きな栗色の目で睨まれると、心にやましい事が山とある身のカゼスとしては、怯んでしりごみしたくなってしまう。身元の分からぬ新参者に対する常識的な反応と言えばそうだろうが、それを受ける側としては、あまり嬉しくない。
「しかし驚いたな」
何やら先刻からたわいないおしゃべりをしていたカワードが、不意にカゼスの方を向いて言った。驚いてカゼスが顔を上げると、カワードは真面目そうな表情を作って続ける。
「まさか小馬にすら乗れぬ者がいようとはな。信じられん」
揶揄されてカゼスは自分の情けない立場を思い出し、赤面した。
「私の育った場所では、馬は一般的な移動手段というわけではないんです」
馬自体は、郊外の牧場まで出かければ見られたし、一般人でも乗馬の練習は気軽にできた。一度カゼスも学友に誘われて試した事があるが、鞍に乗ることさえ出来なくて、以来ただの見物客である。
「馬にも乗らず、武器もとらず、か」
やや呆れた風なアーロンの声が頭上から降ってきた。
「このようなひ弱さでは、先が思いやられるな。まるで小娘ではないか」
容赦のない言葉の槍が肋骨の間を貫く。カワードが堪えきれず笑い出した。
「実際、美人の女子ででもあれば良かったろうにな、え、アーロン。せいぜい姫君とでも思うてお世話つかまつるがいいさ」
「ならばおぬしの方が嬉しかろう、譲ってやるぞ」
皮肉の材料にされたカゼスは、全身に言葉の矢を浴びてうなだれてしまう。
(本当に男じゃないんだから、体格に関しちゃ仕方ないけどさ……あうう)
落ち込んでいるカゼスを見かねてか、エンリルが助け舟を出してくれた。
「アーロン、カワード。そなたら武将と違ってカゼスは魔術師なのだぞ。それぞれに合った役目というものがあろう、そなたらが魔術などまるで使えぬのと同じ事だ」
王太子の制止だけあって、まだあれこれ言い合っていた二人はぴたっと口をつぐむ。もっとも、このフォローにしたところで、カゼスの胸には痛いのだが……何しろ十人並みのへっぽこなのでは。
まだカゼスが暗雲を背負っているので、エンリルはふと悪戯っぽく笑った。
「いや、そなたらにも使える魔術があったな」
えっ、とカゼスが顔を上げ、当の二人も目をしばたたかせる。少し間を置き、エンリルは皮肉たっぷりの口調で彼らの視線に答えた。
「口先の魔術、という奴だ」
冗談の不意打ちをくらって、カゼスは思わず大笑いしてしまった。ウィダルナやイスファンドまでが隠そうともせず笑っているのでは、口先の魔術師二人の立場はない。
「……どちらかと言うと、それはカワード卿の方ではないかと存じまするが」
ようやくアーロンが苦い顔で言う。
「何を言うか、おぬしの方こそ舌先三寸で殿下を丸め込んで」
「おぬしのように数多の女をたぶらかす術などは、俺には到底使えぬからな」
これには反論出来ず、カワードがぐっと詰まった。カゼスはもうほとんど馬のたてがみに顔を埋めんばかりの姿勢で笑っている。
「たぶらかすなどと、人聞きの悪い事を言うな! 女の方から寄って来るのだぞ、俺はおぬしと違って仏頂面ばかりの無愛想男ではないからな」
「それが真実ならば、世の中には随分と悪趣味な女が多いことだ」
ひどい言い草である。口先の魔術と言うよりは、むしろ言葉さえも武器扱いすると言うべきか。さすがは武将、などとカゼスは下らない事を考え、余計に可笑しくなる。
と、その時。
(あれ? 今の……でも、まさか)
不意に彼は笑いをおさめ、顔を上げて行く手を見つめた。
(魔術の気配……?)
だが、誰にも使えない筈だ。デニスの人間でないなら……そう、この国にいるシザエル人が魔術師ならば、話は別だが。
〈リトル、ちょっと注意しててくれるかな。なんだか……嫌な事があるかもしれない〉
〈魔術ですか? 私には何も感知されませんでしたが〉
〈多分ね。この国で魔術が使えるのが私とシザエル人だけなら、私以外の誰かが魔術を使った結果が、嬉しくない事になる可能性は高いだろ〉
〈試算するまでもありませんね。分かりました、いつでもシールドが張れるようにしておきます。ただ、シザエル人が魔術のみを使用した場合、私は事前に感知する事は出来ませんから、予防策についてはあなたにお願いします。不安ではありますが〉
ぼそっと最後の一言を付け足す辺り、厭味を言う機会は逃さないといったところか。
心ない一言に落ち込んでいる暇はなかった。突然黙り込んだカゼスに、上から怪訝そうな声が降って来たのだ。
「どうした? 何かあったのか」
「あ……いえ、その……魔術の気配がしたもので」
身を捻って相手を見上げ、カゼスは答えた。自分が後ろだったら楽だったのだが、眠り込んで落ちそうになるのを気遣いながら運ぶのはうんざりだ、というアーロンの言葉には文句が言えなかったのだ。
「魔術? そんな馬鹿な」
「そうですね。エンリル様のお話だと、この国にはもう魔術を使える人間はいない筈ですから。私と、『赤眼の魔術師』を除けば」
だから、と、その先は目だけで充分伝わった。アーロンは不愉快げに眉を寄せ、軽口を叩き合っていたカワードと視線を交わす。エンリルが行く手を見据えたまま言った。
「あの女、どうやら自分で暗雲を作り出す事にしたらしいな。気を引き締めてかからねばなるまい」
「何を仕掛けて来たのか、分からぬのか?」
アーロンに問われ、カゼスは申し訳なさそうに肩を竦めた。
「ほんのかすかな気配でしたから。多分、大した事はまだ何もしていないと思います。下見程度の事でしょう」
「おーお、嫌な感じだな」
おどけて言ったのはカワードだった。「冗談事ではありませんよ」とウィダルナがたしなめ、不安げにカゼスを見る。
「何か打つ手はないのですか?」
「今のところは何も。一応、予防線は張っておきますが……なにしろ私はここの力場に不慣れですから、相手の方が強力な術を使ってきた場合は、何とも保証しかねます」
頼りない、と言われそうで、カゼスは縮こまる。だが誰もそうは言わなかった。
「……天の配剤、ですね」
イスファンドが短く言い、アーロンたちも小さくうなずく。カゼスが目をしばたたかせていると、エンリルが振り返った。
「あの女が画策を実行に移し始めた矢先に、そなたが我々の元に現れてくれた。そなたがおらねば、我らは魔術などには抗し得ぬところだ」
いやそんな、とカゼスは困って頭を掻く。責められこそすれ、ありがたがられるほどの者ではないと自分では思っているのに。
そんなカゼスの態度に、アーロンが半ば本気、半ば冗談めかして問うた。
「それとも、相手がおぬしの現れた事を察知して動き始めたと言うのか?」
「あ、それはないです」
即答したカゼスに、アーロンはかえって不審げな顔になる。その視線を受けて、慌ててカゼスは説明した。
「だって、私は二百年後の伝承を知っているけれど、彼らは知りませんから。仮に私がここに落ちて来たのに気が付いても、私が彼らにとって敵か味方かという事までは分からない筈でしょう」
そもそも、カゼスが報告するまでデニスの事は知られていなかったのだからして、カゼスよりも百年前のシザエル人が、この地の歴史を知る由もない。が、そこまで説明してもまっとうなデニス人を混乱させるだけなので、それは言わずにおいたが。
「なるほど。……ん? ちょっと待て、今、『彼ら』と言ったか」
一旦は納得したものの、アーロンはすぐに嫌な事実に気が付いて顔をしかめた。
「彼ら、だと? あの、赤い目の奴は一人ではないのか!」
「えっ、一人しか知らないんですか? 伝承では確か、何人かいたらしいとか……」
カゼスは目をぱちくりさせた。もはや一行の中に気楽な顔をしている者はいない。誰もがむっつりと黙りこくってしまった。
(一人ではない、か……このティリスに他の仲間が潜んでいるのか? それとも)
エンリルはきゅっと唇を噛んだ。
もし、デニス全土に散らばっているのだとしたら。
(奴ら、何を考えている? 父上に取り入るだけでは済まぬのか。ティリスを掌握しようというだけではないのか? その数人とやらがまったく無関係ならば良いが)
……そうではあるまい。
予感がする。すべての歯車が、ゆっくりと軋みながら動き始める、そんな予感が。
エンリルは顔を上げ、行く手に見える総督府を睨みつけた。
(いや、もう……とうに始まっていたのだ。この『青き者』は、最後のきっかけにすぎない)
振り返り、所在なさげに視線をさまよわせている魔術師を見る。ふと目が合うと、エンリルの瞳に浮かぶ厳しい色を見て取って、カゼスはにこりとした。
「大丈夫ですよ」
何の気負いもなく、そんな事を言う。エンリルが目をしばたたかせ、他の面々もいささか不信の念のこもったまなざしを向けた。が、カゼスは小さく首を傾げ、もう一度、大丈夫ですよ、と繰り返した。
「私は二百年後にどうなっていたか、知っています。途中経過はそりゃしんどいかも知れませんけど……諦めないで頑張れば、大丈夫ですよ」
ね、と言うように、カゼスは微笑む。エンリルは、しばし呆気に取られたものの、すぐにつられて破顔した。
「ああ、そうだな」
総督府の中は、見事に整理整頓が行き届いていた。先触れに告げられて大慌てで掃除した、というのではなさそうだ。辺境と言っても良いほどの土地の総督府にしては、どうしてなかなか趣味の良い調度や美術品が並んでいる。
「いい暮らし向きだな」
ふん、とカワードが鼻を鳴らした。そこに含まれる意味を察しかね、カゼスは目をしばたたかせて小首を傾げる。もの問いたげな青い目に、カワードは苦笑した。
「ド田舎の総督にしちゃ金持ちだ、って事だ。総督って奴は中継ぎ役だからな。税の上前をハネる奴が多いのさ。庶民の敵だな」
「あ、そうか!」
カワードの説明とはまるでずれた所で納得し、カゼスはぽんと手を打った。
「もしかして、庶民育ちなんですか? 雰囲気が他の人達とは違うなぁと……あ、失礼だったらすみません、えーと、カワードさ……様?」
昨日アーロンに嫌がられたので、恐る恐る『様』と呼んでみる。カワードはぐふっとふきだし、幅の広い肩を震わせて笑い出した。
「無理してへりくだらんでも良いさ。どうせ俺はアーロンと違って、卑しい生まれだからな」
「卑しいなんて、そんな事ありませんよ! 同じ人間じゃないですか」
慌ててカゼスは言った。が、どうもその感覚は理解し難いらしい。カワードは目をぱちくりさせている。
「えーと、だから、生まれや育ちに違いはあっても、それが貴賎の差だとは言えない、って言いたいんです。第一、私だって元の世界じゃただの小市民なんですから」
「ほう、それじゃお仲間ってわけだ」
今ひとつカゼスの主張は飲み込めないものの、カワードは同類を見付けて笑顔になった。
「気遣い無用だ、呼び捨てにしてくれたらいい。俺もそうする」
「はあ……でも、それじゃあんまりですから……カワードさん、とか?」
「妙に気を回す奴だな。ま、好きにするさ。それにしても……」
ふ、と改めてカゼスに目を落とし、カワードは呆れ顔になった。
「おぬし、ちゃんと食っておるのか? つくづく、随分とちまっこいな」
「ちま……」
さすがに、ちまっこいとまでは言われた事がなかったもので、カゼスは衝撃に絶句してしまった。
「ああ、いや、すまん。悪気はないんだが」
「あなたこそ、何を食べて育ったんですか。話していると首が痛いですよ」
憮然として言い返しておいてから、カゼスは一応説明した。
「言っておきますが、私の故郷では、このぐらいの背は格別低いわけじゃありません」
男にしては低め、女にしては高め、といった程度の身長なのだ。前にデニスに来た時から一年たっているので忘れていたが、この国の人間はおおむね長身だった。
(圧倒されるんだよなぁ、これ……女の人でも大概は私ぐらいあるんだからさ。なんか、高層ビルの隙間に落っことされた平屋の一軒家、って気分かな……)
自分で妙なイメージを思い浮かべて、余計に落ち込む。問題発言の主はけろりとしたもので、軽くカゼスの肩を叩いて言った。
「まあ、場所を取らなくて良いさ。武人になろうと言うのでなし、問題あるまい」
「…………」
何を言い返す気力も果てて、カゼスはため息をひとつ、ついたのだった。
そこへ、ウィダルナがひょいと顔を出した。
「何をしてらっしゃるんです? お二人とも。お暇なら邸内の調査を手伝って下さいませんか。どうも密輸品がちらほらとあるようなので」
「俺にそんな物の区別がつくと思っているのか?」
「私にはちょっと分かりませんねえ……」
庶民の二人は同時に答え、顔を見合わせて苦笑した。ウィダルナがげっそりする。
「カゼス殿は致し方ありませぬが……カワード殿、開き直らないで下さいよ」
「事実だろうが。美術品の真贋や禁制品か否かなど、俺に判断がつくものか。ウィダルナ、おぬし最近妙に口うるさいぞ。アーロンに要らぬ事を吹き込まれたのではあるまいな」
「何をおっしゃいます! 私は別に……」
言い争いを始めた二人の目につかぬように、カゼスはこそこそとその場を離れて別の出入り口からカーテンをくぐって立ち去る。
背後でまだ続いている不毛な争いを放って、カゼスは総督府の中をてくてく歩きだした。確かに暇を持て余している場合ではない。
〈リトル、屋内に何か異常がないか、調べて来てくれるかな〉
〈了解しました。私に分かる範囲の事は調べ上げておきます。あなたも怠けないで下さいよ、観光旅行に来ているわけではないんですからね。たまにはキリキリ働くのもいいもんでしょう。いつもダラダラしてばかりなんですから〉
文句をひとくさり並べてから、リトルは光学迷彩で透明化して飛んで行く。カゼスはげっそりとため息をついて、周囲を見回した。
とりあえず今は、何の変化も見られない。魔術のかけられた品物が転がっている気配もなかった。という事は、どこか離れた場所から直接力を作用させるつもりなのだろう。
(そうなると、相手を妨害するのは難しいなぁ……)
どうしたもんか、とブツブツつぶやきながら、当てもなくウロつく。とりあえず、常に力場位相を監視しているわけにはいかないので、変化を察知する網を張り巡らす作業だけはすませようと、精神の糸を細く繰り出しながら。
「さて、警報装置はこれでいいとして」
糸が総督府とその周囲に行き届いたのを確認し、カゼスは誰に言うともなくつぶやいて、両手を軽く腰に当てた。
「あとは……緩衝材でも詰めとくか?」
あまり効果があるとは思えないが。何しろ第四惑星の力場はミネルバとは桁違いの強さだ。自分ごときへっぽこ魔術師では、相手の術が用いる力を扱いきれずに精神崩壊を起こすのがオチだ。
「いくら自分自身がすべてを吸収するわけじゃあないって言ってもなぁ……はぁ」
それでも、対策を怠ることは出来ない。たとえ相手が何を仕掛けようとも、即時に壊滅的な打撃を被ることがないように。
「まあ、エアキャップぐらいの役割は出来るだろ」
ぼそぼそ言いながら、呪文を組み立てて行く。我ながら心もとないが、仕方ない。
呪文を組み立て終わり、声として解放しようとした矢先。
「何を一人でぶつぶつ言っている?」
いきなり声をかけられ、カゼスは「うひゃっ」と竦み上がった。
「あ、あああ、びっくりさせないで下さいよ」
相手の姿を確認し、カゼスはほーっと胸を撫で下ろした。その反応にアーロンは不審げな顔になる。
「何をしていたのだ?」
「あ、いえ、あの……予防線を張っておこうかな、と。少し待ってくれませんか」
何か訊きたそうな相手を制して、意識に留めておいた呪文が消えない内に唱える。張り巡らされた網の隙間に、柔らかいスポンジのような層が詰まった。
が、もちろん一般人に分かる筈もない。アーロンは眉を寄せ、妙な物を見るようにカゼスを眺めた。エンリルの場合なら瞳が聖紫色に変わるからすぐ分かるのだが、この魔術師の場合は何の変化も目に見えない。
「ええと、ですね」
相手のまなざしに含まれる意味を察し、カゼスは慌てて説明する。
「向こうが何か仕掛けてきたらすぐ分かるようにしたのと、衝撃を吸収するクッションを詰めた……ようなものです。魔術師以外の目には見えませんけど。あ、エンリル様なら分かるかな」
解説されてもまだ納得がいかないらしく、アーロンはぐるりを見回した。カゼスは苦笑するしかない。
「信用されないのも、無理はありませんけど」
「疑っているわけではない。信じたわけでもないがな」
短く答え、アーロンは正体不明の異邦人をじっと見下ろした。
「おぬしが何者であろうと、我々は自分に出来る事をするまでだ」
何と答えたものか分からず、カゼスはただ少し頭を掻く。白けた間があってから、ようやくカゼスは口を開いた。
「……まあ、そうして頂けるとこちらとしてもありがたいです。全面的に頼りにされても困りますから。ところで、そちらは今は何を?」
「邸内の調査を。粗方終わったところだ。じきに失点を取り返そうとするだろうな、あの総督は。抱き込まれぬよう気を付けろ」
忠告されてカゼスはうっと詰まった。確かに自分は、カモにされやすいタイプなのだ。顔立ちが柔和に見えるせいか、勧誘は何であれしつこいし、用事を押し付けられる事もままある。決して人が良いからではなく、要領が悪いために、カゼスはなかなかそれらをはねつける事ができない。
「はい……充分注意します」
しゅんとなったカゼスに、アーロンはごく真面目に追い討ちをかけた。
「おぬしはあまりに世間知らずのようだしな」
はみ出し者に近い魔術師としては、沈黙するしかない。おまけにデニスの『世間』に関しては、ほとんど何も知らないのだ。言い返せず、カゼスは更にうなだれる。
その青い頭を、何を思ってかアーロンはぽんぽんと軽く叩くと、そのまま立ち去ってしまった。
〈完全に子供扱いですね〉
リトルが不意に話しかけてきたので、カゼスはぎょっとなった。慌てて見回すと、空中にリトルが姿を現していた。
〈びっくりさせるなよ、まったく……仕方ないだろ、どうせ私はここじゃお荷物なんだから。一人前と認められなくても文句は言えないさ。身長も『ちまっこい』し〉
いじけてカゼスはリトル相手に愚痴をたれる。
〈まあ、ここの人達は魔術をまるで知らないんですから、認められなくても無理はありませんよ。魔術を実際に経験すれば、あなたに対する見方も変わるでしょう〉
〈珍しいね、フォローしてくれるなんて〉
〈ありのままを述べているだけです。魔術を抜きにしたあなたは余りにも情けない、という事実をね。それに実際のところ、認められるのも困るんでしょう? 当てにされるといつも逃げ出すんですから〉
言葉の槍が臓腑をえぐる。カゼスはもはや何度目になるか分からないが、妄想の中でリトルをブラックホールに蹴り込んで、シュバルツシルト境界面に縫い止めてやった。
〈おや、気に障りましたか。生憎と私は、嘘をつくのが下手でして。本当の事しか言わないと嫌われますね。寂しい話です〉
〈その発言自体が相当な嘘だと思うけどな〉
憮然としてそれだけ言い返すと、カゼスはまたとぼとぼ歩きだした。ミネルバにいるよりもずっと自分が卑小な存在に思われて、惨めな気分に浸りながら。