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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
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五章 造反者 (4)



 せめて一晩ゆっくり休んでから、ラガエに戻るといい――サルカシュもカゼスもそう言ったが、ジョフトはその夜更け、こっそり起きて天幕を抜け出した。

 夜の間にラガエに戻り、スクラに見付かる前に城へ行かねばならない。

 足音を忍ばせ、歩哨の目をかいくぐって陣営を離れる。と、

「どこへ行く?」

 冷たい刃の感触が彼を止めた。後ろから首筋に短剣を当てられ、ジョフトはごくりと喉を鳴らした。

「よ、用を足しに……」

「下手な嘘をつくなよ」

 すっ、と横に人影が現れる。それはアーザートだった。

「どうせあんたも、上手く世渡りしたいクチだろう?」

 お見通しだぜ、とアーザートは口を歪めて嗤う。首筋から刃が離れ、ジョフトはほっとして振り向いた。ほかに人はおらず、アーザート一人らしい。

「取引をしないか」

 アーザートが持ちかけても、ジョフトはすぐには答えなかった。用心しているその顔を月明かりの下で眺め、アーザートはくっくっと低い笑い声をもらす。

「いまさら何を警戒してる? あんた、嫌だと言える立場だと思ってるのか?」

「……詳しく説明してくれ」

 ジョフトはむっつりと不機嫌に応じた。アーザートは短剣をもてあそびながら、「いいとも」とうなずく。

「元々俺はラウシールの敵だった。今でも、何の義理もねえのさ。一番高く売れる時を待ってるだけでな。さて今あんたは、スクラとかいう奴とティリス側とのもくろみをひっくり返して、うまみにありつこうと考えてるわけだが……」

 アーザートの物言いに、ジョフトは不快感をあらわにした。自分までが、卑俗で下賎な次元に引きずり下ろされる気がするのだ。が、アーザートはそんな相手の心情など知ったことではないとばかり、平然と話を続けた。

「もひとつ、決め手が欲しかねえか? 確実にこの状況をひっくり返せる駒だ。あんたが相応の代価を支払うなら、俺はいつでもその駒をあんたに渡してやれるぜ」

「なんだと?」

 ジョフトはしかめっ面から、徐々に驚きの表情になった。まさか、と彼は相手の顔を凝視する。アーザートはにやりとして、短剣をちらつかせた。鋭い刃に月光が反射し、白い光がこぼれる。

「あんたに支払えないなら、顧問官でも国王でも引っ張り出せばいい。それだけの価値はあるだろう? ま、この買い物が気に入らないんだったら、それでもかまわんがね」

 ジョフトはごくりと固唾を飲んだ。気に入らないと言えば、おそらくラガエに帰り着くことは出来ないだろう。しかしこの男と手を組むのは、なにか汚らわしいという気がする。

 もちろんジョフト自身、すでにスクラに対する裏切りを画策しているのであり、他人を汚らわしいなどと言える立場ではない。そのことに当人は気が付かず、ただ本能的に相手が同類だと察して嫌悪感を抱いているのだ。

 しばらく思案してから、結局ジョフトは己の陥った状況を受け入れた。

「分かった。俺は何をすればいい?」

「なに、簡単さ」

 アーザートはぼそぼそと低い声で説明する。

 しばしの後、突然馬のいななきが響き渡り、天幕で眠っていた者たちを叩き起こした。

 カゼスもその一人で、咄嗟に跳ね起きてリトルを手探りした。枕元の定位置に転がっていたリトルはカゼスの手が触れるとぼんやり淡い光を放ち、ふわりと浮かび上がる。

 カゼスが天幕の外に出た時には、すでに兵士が何人か騒ぎの元へと走っていた。

「なんだろう?」

 つぶやいて、カゼスもそちらへ向かう。フィオも目を覚まし、慌てて後を追ってきた。

 敵の奇襲だとか、火事だとかいったことではないらしい。騒ぎはあまり大きくならず、ただざわついている程度だ。

 兵士の間をすり抜けて行くと、アーザートが地面に横たわっていた。

「アーザート? どうしたんですか、何か……」

 声をかけようとして、相手が気を失っていることに気付く。カゼスはしゃがみこんで、アーザートの様子を調べた。どうやら馬に蹴られたらしく、脇腹に蹄の跡が残っている。

(骨は折れてないみたいだな。内臓も大事なし、と)

 そっと手を触れ、治癒術を施す。それから他にもないかと見てみると、倒れた時に打ったのだろう、後頭部にこぶができていた。

 こちらは軽傷なので、近くにいた兵に頼んで水に浸した布を持って来させると、魔術でそれを冷やしてあてがってやった。

 ようやくその時になってアーザートは意識を取り戻し、うめいて体を起こした。

「大丈夫ですか?」

 カゼスが問うと、アーザートは痛みに顔をしかめながら言った。

「あのジョフトとかいうエラード人、ただのこそ泥だぞ。馬と食い物をくすねて逃げようとしてやがった。捕まえようとしてこのザマだ」

 クソ、と忌々しそうに言い、無意識に蹴られた脇腹をさする。だが痛みがないので、驚いたように彼は顔を上げた。

「打ち身は治しておきましたよ。頭のこぶは冷やしておけば大丈夫でしょう」

 カゼスはにこりとして答える。アーザートは布を乱暴にひったくり、自分で頭に当てて不機嫌な顔になった。

「あんな怪しい奴を招き入れるから、余計な厄介事が起こるんだ」

「それはどうも、すみません」

 カゼスは苦笑し、ゆっくり立ち上がる。ジョフトがなぜ夜中に逃げ出したのか、カゼスには見当がつかなかった。ただ馬を盗んだということは、何か急ぎの用があったのだろう。夜の内にこっそり街に戻ってスクラに報告するのかもしれない。

 ――などと、カゼスは呑気な解釈をした。

 フィオはアーザートが立つのに手を貸し、胡散臭げな目つきになった。

「あんたが盗っ人を捕まえようとするなんて、意外だわ」

 警戒を緩めない少女の物言いに、アーザートは鼻を鳴らした。

「給料分ぐらいは働くさ」

「どうだか」

「まあまあ、そのぐらいでいいじゃないですか」カゼスが苦笑しながら仲裁する。「アーザートも怪我をしてるんですし」

 フィオはまだ不服げだったが、仕方なく口をつぐむ。カゼスはその頭をちょっと撫でてから、アーザートに向き直った。

「ありがとうございました。詳しい話は明日の朝にしてもらいますから、今夜は休んでいて下さい」

 アーザートは肩を竦め、何も言わず自分の持ち場へ戻って行った。途中で、小さく毒づいて頭を押さえたりしながら。

 カゼスは、まだ残っている兵士たちにも各自持ち場へ戻るよう指示を出した後、苦笑しながらアーザートの後ろ姿を見送った。

(給料分、なんて言って、夕方からずっと気をつけてくれてたんだな)

 ジョフトに対して警戒し、カゼスの護衛としての役目を果たそうとしてくれたのだ。

 そう考えると、カゼスは自然に口元をほころばせた。

 諦めかけていただけに、アーザートがきちんとした働きを見せてくれたのが嬉しくて。信じたいと願っていただけに、これで信じられると安心して。

 もちろんそれが計算ずくで仕組まれたことなのだとは、カゼスの知る由もなかった。


 翌日もまた、ティリス人にとってはつらい蒸し暑さだった。

 じりじりと照りつける太陽は、何度見上げても位置を変えないように思われたし、その上、風もぱったりとやんでしまっている。

 エラード軍は相変わらず閉じこもったきりなので、こちらから手出しをすることも出来ず、歩哨までがだれきっていた。普段は精力的なエンリルでさえ、天幕のなかで横たわってごろごろしている始末だ。

 そんな状態でカゼスが平気なはずもなく、かと言って自分だけ魔術で涼しい思いをするのも申し訳なくて、結局彼女もまた、ぐったりとのびていた。幾分か元気なのは、フローディス育ちのフィオぐらいだ。

 戦況に何の進展もないままずるずると一日が過ぎ、太陽がティリスの方へ去って行く頃には、黒い雲が次々にわき始めた。

「あー、ひと雨来るかな、これは」

 天幕の隙間からひやっと湿った風が吹き込み、救われたようにカゼスはつぶやいた。

〈雨上がりにでも攻め込まれたら、ひとたまりもなさそうですね。揃いも揃って、武具どころか服さえまともに身につけてないときては〉

 やれやれ、とリトルが呆れ声を出す。そりゃおまえはいいよ、とカゼスは恨めしげな目を涼しげな水晶球に向け、小さくうめいた。

 だがリトルの言う通りだ。カゼス自身はラウシール様という立場上、あまりだらしのない格好は出来ないのだが、一般兵たちはほとんどが下着一枚、あるいは半裸になっている。

〈ちょっとエラード側に動きがないか、偵察して来ましょう。昨日のジョフト氏の行動も気になりますしね〉

〈ありがとう、頼むよ〉

 半分とろけかけた頭の中でそう答え、カゼスはまたごろりと横になった。

 リトルが出て行くのと入れ違いに、アーロンが天幕に入って来た。簡素なベッドで平べったくなっているカゼスを見て、彼はいささか呆れ顔になり、「なんだ」とつぶやいた。

「どうなさったんですか?」とフィオ。

「いや、ラウシール殿の天幕なら、魔術でもって涼しくされておるのではないか、と期待しておったのだがな」

 やれやれ、とアーロンが額の汗を拭う。カゼスはのろのろ起き上がり、ぼうっとしたまま答えた。

「私だけ涼んでちゃ、皆さんに悪いですから。それに、まわりの空気を冷やしたら、その分の熱をどこかに逃がさないといけませんからね……他の人が余計に暑くなってしまいますよ。それは困るでしょう?」

「相変わらず律義だな」アーロンは苦笑すると、少し肩を竦めた。「では俺も、陛下にご辛抱下さいと申し上げるほか、なさそうだ」

「まさか、エンリル様に言われて涼しくする方法を探してらっしゃるんですか?」

 思わず呆れるカゼス。アーロンは「いや」と首を振り、

「陛下の天幕に伺った折、随分と閉口されていたのでな。ちょうど今し方のおぬしのように。それで、おぬしなら……と思いついたのだが」

 と答えて、少しからかうような気配を見せた。今し方のカゼスと言ったら、閉口している、などというなまやさしい表現では足りないだろうに。それが分かるから、カゼスはなんとも情けない顔になった。

 アーロンは少し笑ってから、ふと何かに気付いてあたりを見回した。

「何か?」と、カゼス。

「いや、いつもおぬしの近くに転がっている、あの水晶球がないな、と」

 別にどうでもよい事だが、と言うように、アーロンは軽い口調で言う。

 カゼスは、まさかリトルの存在を気にかけている人物がいるとは思っていなかったので、目を丸くした。続いてフィオまでが、

「そういえばさっき、外に飛んで行きましたよ」

 と答えたので、思わず「え?」と声に出して驚いた。

「二人とも、よく見てるんですね」

「見ているも何も、ほとんど常に持ち歩いているか、さもなくばそこいらを飛んでおるではないか。否応なく目につくぞ」

「それにあれ、すごく便利そうなんですもん。明かりにも使えるし。あ、でも、カゼス様じゃなきゃ使えないんですよね」

 フィオが物欲しげな口調で言ったので、カゼスは慌てて苦笑した。

「そうですね。ちょっと、あなたにもひとつ差し上げましょう、とは……」

 やっぱり、と言うように、フィオは「いきませんよね」と言葉を引き取った。

「それにあたしが持ってても仕方ないですし。今度はどこに飛んで行ったんですか?」

「エラードの方に動きがないか、偵察にね。夕立の後にでも攻めて来られたら、皆だれきってますから危ないな、と」

 私もこのざまだし、とカゼスは苦笑する。アーロンは表情を改めてうなずいた。

「賢明な判断だ。昨日おぬしが世話をしたという男も、何やら胡散臭いからな。奴の狙いがはっきりするまでは油断できぬ」

「狙いって……スクラ殿の使いで来ていたんですから、心配無用じゃありませんか? サルカシュ殿だって、あの人のことはご存じでしたよ」

 カゼスがきょとんとすると、アーロンは首を振った。

「ならばなぜ、おぬしにも無断で夜更けにこそこそ逃げ出したりした? 事実その男がスクラ卿の部下であるにせよ、本当にスクラ卿の命でティリスの陣営に潜入したのか、それとも他の誰かの命によるものか、判然とせぬ。あるいは、本物のジョフトによく似た他人を送り込んできた恐れもある」

 そう言われると、確かに怪しく思われてきた。カゼスは眉間にしわを寄せて考え込む。リトルがいれば何か推測してくれただろうが、自分のお粗末な頭ではどういう理由なのか想像もつかない。

「このまま奴が戻って来なければ、言い方は悪いが、心配なのはスクラ卿の身の安全だけで、我々にまで害は及ぶまい。だが、もし再びおぬしに接触しようとするようなら、いかにもっともらしい理由があれども、一人で相対するような真似だけはしてくれるなよ」

 言いながら、アーロンは軽くカゼスの頬を撫でた。途端にカゼスは真っ赤になり、慌てて離れようとして何もないところでつまずき、空中で手をバタバタさせた。あと一瞬、アーロンが腕をつかんでくれるのが遅れたら、まともに顔面から倒れていただろう。

「……何やってるんですか、カゼス様」

 さすがにフィオが頭の痛そうな声を出す。カゼスを支えたまま、アーロンまでがくすくす笑いだした。

「す、すみません、ちょっと、びっくりして」

 もごもご言い訳しながら、カゼスはなんとか立ち直った。アーロンはカゼスの腕を離して、何か言いたそうな顔をしたが、フィオがいる手前、苦笑にそれを紛らせるだけにしておいた。今度は頬でなく頭を、軽くぽんと叩いてごまかす。

「長居して悪かった。ではな」

 彼はまだ可笑しそうな気配の残る声で言うと、天幕から出て行った。

 じきに雨の音がサアッと近付き、涼しい風が細かい飛沫と共に吹き込んで来たので、カゼスはホッと救われたように息をついた。でなければ、フィオのわざとらしい「暑いですねぇ」という台詞に、あとしばらく耐え続けなければならなかっただろうから。

(やっぱり勘づかれてるのかなぁ)

 カゼスは飛沫まじりの風を頬に受けながら、ちらっとフィオを見やった。どう思われているんだろう、などと考えると、いささか情けない気分になる。

 その内、この献身的で誠実な少女には、きちんと話をした方がいいのかも知れない。それがいつになるかは、まだ分からないが。

 カゼスは時折遠くで閃く稲妻を見ながら、そんなことを考えていた。


 夕立が去ると、そのまま日が暮れて空気が冷え始めた。

 昼間の暑さで参っていた兵士たちも、息を吹き返したように動きだす。すっかり暗くなるまでの短い間に、やるべきことをやってしまおうというように。

 そうして、慌ただしい黄昏時が過ぎると、後は虫の声だけが響く静かな暗闇が辺りを覆った。結局エラード側からの攻撃はなく、リトルもこの機会に羽を伸ばしているのか、まだ戻らなかった。

「おい」

 と、声をかけられたのは、フィオも眠ってしまった後だった。カゼスが目を覚ますと、天幕の隙間からアーザートが手招きしていた。

 フィオを起こさないようにそっと起き上がり、カゼスは足音を忍ばせて外に出た。

「何かあったんですか?」

 ささやきで問うと、アーザートも低い声で答えた。

「昨日のジョフトとかいう奴が、内密の話であんたに会いたいらしい。スクラとやらも一緒らしいんだが、他の連中に見付かっちゃまずいんで、一人で来いと言ってる」

 アーザートは厳しい表情で言い、ちょうどティリスの陣営からは見えにくい丘の向こうを指さした。

「あっちで待ってやがるんだ。どうする?」

 カゼスは不安げにアーザートの指す方を見やった。リトルもいないし、昼間アーロンに忠告されたばかりだ。一人で行くのは危険すぎる、と、いかなカゼスでも思った。

 その険しい表情を眺め、アーザートは肩を竦めた。

「ま、俺は行かないことを勧めるがね。行くんなら、お供するぜ」

「……そうですね。あなたが来てくれるのなら、大丈夫かな」

 カゼスはつぶやくように言い、アーザートに向かって微笑んだ。いつでも魔術が使えるように、意識を軽く『力』に触れさせる。こうしておけば、大丈夫だろう。もし何か攻撃を仕掛けられても、アーザートがいれば一瞬で片がつくようなことにはなるまい。

「本当に大事な用だったら、会わないわけにもいきませんしね」

 もしスクラがティリス側と連絡をとる必要があるのだとしたら、それを追い返すことはできない。カゼスは心を決めると、アーザートに導かれるまま歩きだした。

 小さな丘の向こう側には、人影がふたつ、それぞれ馬と共にじっと佇んでいた。一人は月明かりの下で見る限り、昨日のジョフトだ。それより小柄なもう一人は、万一を考えてか、すっぽりと全身をマントで覆っている。スクラだろうか。

 用心しながらカゼスが近付いて行くと、ジョフトがそれを見付けて手招きした。

 アーザートが少し前を歩いている。カゼスは相手の動きを見逃すまいと、エラード人の姿に目を当てたまま、一歩一歩確かめるように進む。

 と、ある地点を越えた瞬間、カゼスは立ち竦んだ。

 『力』との接触がいきなり断ち切られてしまったのだ。

「これ……っ、まさか」

 嫌な感覚には、覚えがあった。実験や記録の目的よりも、魔術師を無力化するための道具として悪名高い、力場固定装置――それが作りだす、独特のフィールド。

 愕然と足を止めたカゼスの目に、マントの人物がフードをずらして素顔を見せるのが映る。それは、エラード人ではなかった。月光にきらめくのは、銀色の髪。

 驚きに声を上げようとしたカゼスの口を、アーザートが素早くふさいだ。押し当てられた布に、何か揮発性の薬品が染み込ませてある。咄嗟に息を止めようとしたが、既に吸い込んだ後だった。もがくカゼスを、アーザートとジョフトが二人掛かりで押さえ付ける。

 否応なく薬を吸い込まされる内に、四肢の感覚が鈍くなっていく。カゼスはなおも抵抗を試みたが、無駄だった。意識が暗い淵に引きずり込まれ、やがてカゼスは一切の外界から隔絶された闇の世界に沈められた。

 ラガエ市街から戻って来たリトルが見たのは、力を失ったカゼスの体が馬に乗せられるところだった。

「あ、あの玉っころは」

 アーザートが気付き、エリアンも空を仰いでリトルを見付けた。近付く様子を見せた水晶球に対し、エリアンはカゼスの喉元に短剣をつきつけた。リトルは仕方なく、その場に滞空する。

 それ自体が知能を有するらしいと気付くと、エリアンはリトルを指さし、それからすっとその指を下に降ろした。リトルはおとなしくそれに従い、地面に転がる。

「そこでおとなしくしてらっしゃい」

 静かにエリアンが言うと、リトルは承諾の印にぼんやり明滅した。カゼスを人質にされている以上、どうしようもない。精神波ですら、強力な力場固定装置に阻まれて、届かせることができなかった。

「驚いたな」

 アーザートはつぶやき、呆気に取られてリトルを眺めた。その為に、彼は背後で交わされた無言のやりとりに気付くのが遅れた。

 不穏な気配にハッと振り返り、咄嗟に身をかわそうとする。だが、その時には既にジョフトの剣が右肩に食い込んでいた。

「きたねえぞ、この……!」

 罵声すら、最後まで続けることが出来なかった。カゼスと同じく薬を嗅がされ、ずるっとその場に倒れ込む。血が流れていくのに、傷口を押さえることも出来ない。

「貴様ごときには、黄金よりも鉄がふさわしかろう」

 ジョフトは鼻を鳴らし、倒れたアーザートの頭を蹴りつけた。彼が自分の馬に乗ると、エリアンはカゼスを乗せた馬を連れ、その場から消え失せた。空間転移装置らしい。ジョフトは馬上からもう一度疑わしそうにリトルを見た後で、馬に鞭を当てた。

 夜の闇に溶けていくその姿を、リトルはただ見ているしかなかった。

 完全にジョフトが見えなくなると、リトルはふわりと浮き上がり、ほんの束の間ためらってから、ティリスの陣営へと飛んで行った。

 リトルに文字通り叩き起こされたフィオは、カゼスがいないことに気付くと、見る間に蒼白になった。リトルは少女のまわりをくるりと回り、誘うように少し先へ飛んで行く。フィオは迷わずその後について走りだした。

 じきにアーザートを見付け、フィオはあっと悲鳴を上げた。近寄ろうとしてやめ、辺りを見回す。もうカゼスの姿は影も形もない。大きな目に涙が浮かび、ぼろぼろとこぼれだした。

 嗚咽を堪え、フィオは身を翻して陣営に駆け戻った。そのまま天幕の間を駆け抜け、一番大きなもの、すなわちエンリルの天幕に走っていく。

 ただ事でないその様子に、衛兵も詳しく訊くまでもなくエンリルを起こした。

「何事だ?」

 すぐに姿を現したエンリルは、この暑いのに、きちんと服を着て剣を持っていた。フィオはしゃくりあげそうになるのをなんとか堪え、途切れ途切れに答える。

「カゼス様が、いないんです。きっと、連れ去られたんです……あっちに、アーザートだけ倒れてて……」

「分かった。案内してくれ」

 エンリルは即応し、衛兵に松明を持って来るよう命ずると、フィオについて歩きだした。騒ぎに気付いた兵士たちが、何事かと起き出してその様子を見つめている。

 ひそひそと、ラウシール様がエラード側に拉致されたらしい、と噂が流れて行く。

 エンリルはそれを止めさせたかったが、どうせ明日には自然とばれることだと諦めて無視した。士気にかかわるのは確かだが、最悪の場合に比べたら、まだマシだ。

 つまり、いきなり全軍の鼻先にラウシールの死体を突き付けられるよりは。あるいは、何の前触れもなく、心を操られたラウシールが自分たちを攻撃し、それにうろたえて全滅するよりは。

 カゼスが連れ去られたと聞いて、無事を祈るより先にそんな予想を立ててしまう自分に、エンリルは少し嫌悪感を催した。

 アーザートが倒れている現場に着くと、エンリルは地面に屈んで足跡を調べた。一雨あった後のことだったため、くっきりと靴底や蹄の跡が残っている。

 格闘があったらしいことは確かだが、それがエラード人とカゼスのものなのか、アーザートがどういう役割を果たしたのかまでは分からない。

 そこへ、アーロンとカワードが走って来た。二人とも兵たちの騒ぎを聞き付けたのだろう、表情をこわばらせ、誰かを探すように時折視線を暗闇の向こうに投げかけている。

「エンリル様、カゼスは……」

 アーロンが息せき切って問うた。エンリルは首を振り、「ここにはいない」と事実だけを述べる。

「陣地の方からここまで、アーザートとカゼスの足跡だけが続いている。ここでエラード側の者と落ち合い……アーザートは負傷し、カゼスは連れ去られた。何が起こったのかは分からぬ」

 気を失ったままのアーザートに目を落とし、アーロンは怒りのあまりさっと剣の柄に手をかけた。

「よせ!」

 短いエンリルの命令が、それ以上の動きを封じる。「しかし」と言いかけたアーロンに、エンリルは重ねて「駄目だ」と言った。

「アーザートが裏切ったと見るそなたの気持ちも分かる。私も同じように感じているからな。だが、はっきりしたことはまだ何も分かっていない。真相を聞き出すまでは、アーザートに生きていて貰わねば困るのだ。今は堪えてくれ」

「……わかりました」

 もとよりアーロンは、理性で物事を判断できる性質だ。苦々しい声ではあったものの承服し、剣の柄から手を離した。

 救護班が駆けつけ、その場でアーザートの応急処置を始める。それを暗い目で見下ろしながら、アーロンは静かに言った。

「ですが、もし実際に奴が裏切ったのであれば、その時は私が始末をつけます」

「私に仕上げの余地を残してくれるなら、な」

 しらっとエンリルが言ったので、思わずアーロンはしかめっ面になった。そんな事を言うようにお育てした覚えはございませんが、と言うような表情だ。エンリルは心の声を聞き取ったのか、厳しく冷たい笑みを口元に浮かべた。

「我が軍の命運を左右する人物を敵に売り渡すなど、許される行為ではない。それ以上にカゼスは……。いや、ともかく、怒っているのはそなただけではないということだ」

 言いかけてやめた部分にひっかかりを感じたものの、アーロンはただ黙ってうなずいた。今はそんな事を気にしていられる状況ではない。

 なんとかしてカゼスを救い出さなければ。

(だが、どうやって?)

 アーロンは険しい目でラガエの方角を見やった。月明かりで深い藍色に輝く空に、町は黒く不吉な影となってうずくまっている。

 それはまるで、異世への入り口のようにも見えた。


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