五章 造反者 (3)
予想通り、エラード軍は王都ラガエに立てこもっていた。
エンリルとしては、征服したくて来たわけではないので、河岸の町と住民に大損害を与えてまで城を攻める気になれなかった。町が見えるほどの距離に陣を張りながらも、手出しが出来ずにいる。
と言って、ティリスに引き上げるわけにもいかない。もしアラナ谷に軍勢を送られたら、駐屯しているヴァラシュたちは、アルハン軍との挟み撃ちに遭ってしまう。
もっともヴァラシュなら、たとえ挟撃されようとも、アルハン軍とエラード軍とを戦わせて自分たちは高みの見物、後から双方を蹴散らして実質上谷の支配権を獲得してしまうぐらいは、涼しい顔でやってのけるだろう。
もちろんそうなった場合、谷の反乱軍は面目丸つぶれである。だからこそ余計に、エンリルとしてはマデュエス王とその軍隊をラガエに引き留めておかねばならなかった。ヴァラシュから物騒な贈り物――谷の支配権――を受け取るはめにならないように。
エンリルは天幕の中でひとり鬱々と考え込んでいた。
自分の考えが甘いことは分かっている。だが、
(だからと言ってヴァラシュの好きにさせては、我々はただの征服者になってしまう。私がこのぐらいでなければ)
そう考えて、エンリルはふと皮肉な思いを抱いた。自分は意図的に『甘い王』を演じているわけか? 問答無用の征服者になるのではなく、各地の民が自ら従順になるよう仕向けるために? だとしたら、その方がヴァラシュよりよほど悪辣かもしれない。
(やれやれ)
いつの間にか冷笑癖がついたらしい。エンリルは頭を振って、密偵が入手したラガエの都市地図に視線を落とした。と、そこへ、
「エンリル様、町の様子がだいたい分かりましたよ」
こちらは真性の『甘い人間』であるカゼスが入って来た。神が自分の思索を見透かしたかのようで、エンリルはちらと苦笑を浮かべる。そのわずかな反応を見逃さず、カゼスが訊いた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。そなたと余の違いを考えただけだ」
カゼスは意図せず反射的に同情する。エンリルは同情するところまでは同じでも、そのあと計算した上でそれを表に出す。
(まぁしかし、それで民が快く従ってくれるのならそれで良いさ)
結果としては同じだ。
そんなことを考えているエンリルを、カゼスは訝しげに見ていた。
「お疲れなんじゃありませんか」
「いや。そう見えるか?」
とぼけて問い返したエンリルに、カゼスは「はい」とうなずいた。
「私なんかとご自分を引き比べられるなんて、悪いものでも食べたみたいですよ。……何を悩んでらっしゃるんです?」
エンリルにいつもの明るさがないと、こちらまで不安になる。心配顔になったカゼスを見上げ、エンリルは彼女の手を取って微笑んだ。
「大丈夫だ。そなたがいてくれる限り……」
カゼスはエンリルのような計算をする必要はない。政治には無関心な『聖人様』であるがゆえに、もしエンリルが道を踏み外せば、遠慮なく諫言するか、その下を去るだろう。
だから、カゼスが自分の下に留まっている限りはエンリルも安心できるのだ。支配下の民もまた、そのことを無意識に理解しているに違いない。
「……エンリル様?」
なんだか様子が変だな、とカゼスは身じろぎする。その手をいっそう強く握り、エンリルが何か言いかけた、ちょうどその時。
「失礼します、陛下」
天幕の外で声がして、アーロンが入って来た。妙に緊張した空気に気付き、彼は用件を切り出しかけたまま立ち止まる。
「何かあったのですか?」
エンリルに向けられた問いは、硬く不自然な声になってしまった。カゼスもこの場の不穏な空気を察し、慌てて言い繕う。
「私もそれをエンリル様に訊いてたんですよ。なんだか悩んでらっしゃるようだから」
アーロンにそう言ってから、彼女はエンリルを見下ろし、改めて問うた。
「本当に大丈夫なんですか?」
「……ああ」
エンリルは案じ顔のカゼスと無表情のアーロンとを見比べ、ふっと息を吐いてカゼスの手を離した。それから軽く頭を振り、
「今は余計なことを考えている場合ではなかったな。さて、先にカゼスの報告から聞こうか。アーロン、外の衛兵にゾピュロスとカワードを呼ぶよう伝えてくれ」
いつもの快活な口調に戻って言うと、立ち上がって丸まった地図の端を押さえた。釈然としないままアーロンはいったん外に出る。
ややあって呼ばれた二人がやってくると、エンリルはまったくいつも通りの態度で、カゼスの報告を促した。
「街区にいる住民は、ほぼ全員が中流以下の層です。富裕層の住民は高い代償を払って、城壁の内側に入れてもらったようですね。メルヴ川のこちら側にはもう市民はいません。籠城組に奪われなかった財産をまとめて、ひとまず対岸に避難したようです。こちら側の町にいるのはスクラ殿の部隊でした。一応、歓迎の準備をしてくれているようですよ」
言葉尻でカゼスは苦笑した。エンリルも苦笑し、頭を振る。
「となると、ますます攻め込むわけにはゆかぬな。アーロン、周辺に伏兵は?」
「まったく見当たらない、との報告でした」
簡潔に述べ、アーロンは一呼吸置いてから首を傾げた。
「妙な話です。スクラ卿の部隊相手に我々がもし退却を余儀なくされたら、すぐに追撃できる無傷の部隊を、近場に伏せておくのが常套だと思うのですが」
「とすれば」ゾピュロスが地図を睨んだまま言う。「それだけの戦力がもはや残されておらぬのか、あるいはスクラ卿の内通が疑われておるのか……」
そこで彼は顔を上げ、「いずれにせよ、囮が必要ですな」と結んだ。
「籠城している兵を追撃に引っ張り出せるほどの、見事な負けっぷりを披露できる者か」
エンリルはうなずき、悪戯っぽい光を目に浮かべてゾピュロスを見る。無言でふいと視線を外され、彼は標的をアーロンに移した。こちらは渋面が返事代わりである。最後に選ばれたカワードは、自分の後ろを振り返って見る仕草をしたが、
「そこには誰もおらぬぞ、カワード」
エンリルにくすくす笑いながら言われ、情けない顔を見せた。
「有名なアーロン卿の方が適任では?」
なんとか自分に投げられた爆弾をよそに回そうとするカワードだったが、アーロンはそれを軽くかわした。
「いつもその『勇将アーロン』に間違われるおぬしの方が、信憑性があるだろう」
カワードはいまいましげに相手を睨みつけ、低く唸った。しかし実際問題、囮役は一番危険が高い。それを任されるということは信頼の証でもある。あまりゴネてもその信頼を損なうだけなので、カワードは諦めて肩を竦めた。
「陛下のご命令とあらば。しかし、まさか今日これからと言うのではないでしょうな」
「まさか」
エンリルは笑って首を振ると、真顔に戻って説明した。
「今すぐ攻め込んで退却したところで、彼らもまだ籠城を始めたばかりだ、打って出る必要性を感じるところまではゆかぬだろう。カワードが中心となって川岸のこちら側を包囲し、ゾピュロスの部隊は渡河して西側を囲め。焦りを誘うんだ」
そうしておいた上で、カワードが敗退し追撃部隊が出てきた時にすぐ攻撃をかけられるよう、アーロンの部隊を配置する。カゼスはカワードの部隊に同行、敗走が本物にならぬよう万一に備える。
大まかな計画を立て、その後細々したところを議論して決定すると、それぞれ準備にかかるため天幕を後にした。
外に出たところで、カゼスはアーロンにつかまった。
「いったい何があった?」
アーロンは、どんな表情をすれば良いのか決めかねているようでもあった。カゼスは正直に、わかりません、と首を振る。
「いつになく暗い顔で考え込んでらしたんですけど……何もおっしゃいませんから。でも多分、あなたが考えているようなことじゃありませんよ」
高地での一件を思い出し、カゼスはそう言って相手を安心させようとした。いくらなんでも、エンリルがカゼスに対して恋情を抱いているとは考えられなかった。アーロンも、ちょっと困ったように頭を掻く。
「そう……だろうとは思う。だが、だからこそ気にかかるのだ」
「確かに、ちょっと様子が変でしたね。……そういう年頃なのかな」
「何を馬鹿な」
アーロンは呆れ顔になったが、カゼスはそんな彼の態度に苦笑を禁じ得なかった。
「うちの子に限って、なんて言うんじゃないでしょうね、お母さん」
これにはさすがにアーロンもムッとする。カゼスはおどけて首を竦め、すたこらと自分の天幕へ逃げだした。アーロンは渋い顔でそれを見送っていたが、追いはせず、もう一度エンリルの天幕を振り返った。
(陛下は変わられた)
もちろん変わらぬ良さもある。だが、幼い頃からずっと彼を見て来た身には、何かが変わったのが……あるいは変わろうとしているのが、漠然と感じられるのだ。
一抹の寂しさを抱き、アーロンは、これではカゼスにからかわれても仕方がないか、と頭を振ったのだった。
ティリス軍があれこれと画策している頃、エラード側もただ閉じこもっていただけではない。とりわけスクラは、市街でティリス軍を迎え撃つ準備に忙しかった。
それ以上に彼の心を占めていた心配事は、サルカシュの安否だった。
なんとかティリス軍と接触し、サルカシュが無事でいるのかどうか、どのような扱いを受けているのかを知りたかった。
ハトラから逃げて来た兵の話から推察すると、エンリルは人道的な姿勢を前面に打ち出す性質の王らしい。ならば捕虜に対しても苛酷な仕打ちはすまいが、しかし、当のサルカシュが自ら厳しい処置を招く恐れもあるのだ。マデュエスに対する忠誠を捨てず反抗的な態度を取れば、見せしめに耳や鼻を削がれぬとも限らない。
寝返りを打診されたらどうするか、と問うた時のサルカシュの反応を思い出し、スクラは天を仰ぐ。あれではエンリルに対してひざまずくことは期待できまい。
「スクラ殿? ジョフトです」
カーテンの向こうから声がして、スクラは物思いからさめた。先刻呼んだ部下の一人だ。「入れ」と短く命ずると、痩せた黒髪の男が入室した。
「おぬしにやって貰いたいことがある」
「何なりと」
ジョフトは平静に応じ、続く命令を待った。余計なことは言わず、与えられた仕事を確実にこなすので、スクラも重用している男だ。信頼している、とまでは言えないが。
「ティリスの陣営に忍び込め」
いきなりとんでもないことを命じられ、ジョフトは目を丸くした。が、感心なことに声を上げず、数拍置いてから軽くうなずく。先をどうぞ、という意味だろう。
「サルカシュ卿が捕虜にされているはずだ。なんとか彼に接触する方法を見つけだし、伝えて欲しいことがある」
説明しながら、スクラはもう一度この男が信頼に足るか否か、品定めをするようにじっくりと観察した。できれば自分で行きたかったが、今ティリスの陣営に忍び込もうものなら、顧問官にそれ裏切り者だと指さされることになる。
(賭けるしかないな)
危険の多い不確定要素はスクラの好むところではなかったが、致し方ない。出来るだけ余計なことを知られぬよう、彼は言葉を慎重に選んだ。
「必ず状況を変えて見せる、だからやけを起こして我が身を損なうようなことはするな、と、そう言い聞かせてやってくれ。もしサルカシュと直接話すことが出来なければ、安否を確かめるだけでも良い」
「わかりました。では門の通行許可証を頂けますか」
ジョフトはあっさり承諾すると、まるで買い物の代金を請求するかのように言った。その平静さはスクラの方が不安になるほどだ。
しばしためらったものの、スクラは許可証をしたためて印章を捺し、手渡した。
市民に紛れて密偵や内通者が往来せぬよう、東岸の町は封鎖されている。したがってまずティリスの陣営に忍び込む前に、町から出る方法が必要になるというわけだ。
ジョフトは「では」と一礼すると、すぐに部屋から出て行った。
その日の夕刻、ラガエの東南にある門から、一人の市民が出て行った。市民と言っても、着ているものはみすぼらしく、杖をついて片足をひきずっている。
誰あろう、それはジョフト当人だった。見通しの良いなだらかな丘陵地を走る街道を、休み休みティリス陣へと歩いて行く。誰も見ていないような時でも、彼は演技をやめなかった。実際に、道のわきで腰を下ろしてひとやすみしていると、ちらっと視界の端で斥候の姿が動く時もあった。
そんな歩みだったためになかなか道程ははかどらず、彼がティリス軍の歩哨にようやく捕まった頃には、既に日が暮れかかっていた。
ちょうどカゼスが通りかかった時、彼は哀れっぽい声でパンの一切れでもと訴えているところだった。
「どうしたんですか?」
「あ、ラウシール様」
ジョフトを厳しく尋問していた歩哨は、カゼスに気付くと慌てて姿勢を正した。
「胡散臭い輩が近くをうろついていたものですから。足を痛めて戦えないため、食糧の浪費だとラガエから追い出された、と言っております」
カゼスは眉をひそめ、同情のまなざしをジョフトに向けた。薄汚れ、あちこちにまだ新しい傷を負っている。殴られたり、石を投げられたりしたためと見られた。
「それで、食べ物をわけて欲しい、と?」
「はい。当人は、パンのひとかけでも貰えるなら町の構造や兵の配置を教える、とまで言っております。あさましい輩ですよ」
軽蔑と嫌悪を声ににじませ、歩哨は唾を吐きかねない顔でジョフトを一瞥した。
カゼスは苦笑し、ちょっと考えてから小さくうなずいた。
「そのぐらいなら、なんとか出来ると思います。その人はこちらで預かりましょう」
えっ、と歩哨が声を上げる。ジョフトは初めて見る青い髪に薄気味悪さを感じてもいたので、演技するまでもなく、畏れ多い、と反射的に辞退していた。
「気にしなくてもいいですよ。どのみち、気にして貰うほどのことも出来そうにありませんから。それでも夕食ぐらいは差し上げられます」
カゼスは言って、ジョフトを手招きした。歩哨は複雑な顔をしていたが、お偉いさんの気まぐれには付き合いきれない、というような風情で頭を振った。
「おい、感謝しろよ」
彼はそう言うと、ジョフトを乱暴に押しやってカゼスの前に立たせた。おどおどと視線をさまよわせるばかりの物乞いは、害になる人物とは思えなかったのだろう。歩哨は「それでは」と敬礼し、見回りを再開した。
「それじゃ、私たちも行きましょうか。その前に……お名前は?」
カゼスは訊きながら、ジョフトの体に手をかざした。デニスに来てから頻繁に使うようになった治癒魔術は、既に呪文どころか特別な精神集中さえせずとも行使できるようになっている。
ジョフトは自分でつけた傷が消えて行くのを目の当たりにし、偽装がばれたのではないかと身を硬くした。青ざめ、こわばった彼の表情を、カゼスは違うように解釈した。
「あ、すみません、驚かせましたか。大丈夫、邪まなものだとか、後でとんでもない代償を要求されるとかいった性質のものじゃありませんよ」
にこりと微笑まれ、ジョフトは安堵に肩の力を抜いた。それからうつむいてもぐもぐと礼を言い、もっと小さな声で自分の名前を告げる。
「それじゃジョフトさん、どうぞ、こっちです」
カゼスは相手を促し、自分の天幕に戻った。天幕の前に立っているアーザートは鋭い一瞥を投げたものの、カゼス当人がいつも通りなので何も言わなかった。なるべく余計な会話はしたくないらしい。
中ではフィオが夕食の準備をしているところだったが、カゼスが珍客を連れて来たので、目を丸くした。
「カゼス様、なんですかその人?」
「ラガエから追い出されてしまったそうなんです。足を痛めているから戦力にならない、という理由でね」
説明してからふとカゼスは思い出して振り返り、慌ててまた足を引きずりだしたジョフトを見て、怪訝な顔をした。
「足を痛められたのは、随分昔のことですか?」
「は、はい、もう十年以上前になるかと……」
冷や汗をかきながらジョフトはうなずいた。今度こそバレたか、と思ったが、カゼスの方はその答えで納得してしまった。
「それじゃさすがに、治せませんね。すみません」
「いえ、そのような、勿体ない」
しどろもどろにジョフトは言い、不安になってフィオを盗み見た。侍女の方が主より鋭いらしく、不審げな目でこちらを見つめている。
そんな二人の緊迫感にはまったく気付かず、カゼスは自分の夕食からいくらか取り分けて、ジョフトに差し出した。元々ラウシール様の食事は、一般兵にくらべ量だけは充分にあるため、いつもフィオとアーザートにおすそわけしているほどなのだ。
まさかこんな展開になるとは思っていなかったジョフトは、フィオとカゼスと三人で車座になり、カチコチに緊張したまま無理やりパンやスープを飲み込んだ。
カゼスはなんとかジョフトの緊張をほぐそうとしたが、話しかければ話しかけるほど相手を困らせるだけらしいと察して、途中から話し相手をフィオに限定した。
そうこうして皿が空になる頃には、ようやくジョフトも少し余裕が出て来たため、本来の目的を果たすべく口を開いた。
「ラウシール様は、いつもこのように……その、敵にまで親切にして下さるのですか?」
「え? えーと、うーん」
カゼスは不意をつかれ、言葉に詰まった。それから少し困ったように、照れまじりの苦笑を浮かべる。
「変ですか。私は別に、取り立てて言うほどのことはしていないつもりなんですけど。それにジョフトさんは、敵と言っても単にエラードの人だというだけでしょう?」
「では、捕虜になった者などは……」
用心しながら、ジョフトが話題を誘導する。途端にカゼスはピンときて、「ああ」と破顔した。
「誰かお探しなんですね?」
いきなり言い当てられ、ジョフトは目に見えるほどぎくりと身を竦ませた。ぼんくらに見えて実はこっちの目的などお見通しだったのか、と彼は恐怖にとらわれる。
青ざめたジョフトに、カゼスは慌てて「いいえ」と否定の仕草を見せた。
「別に責めてるわけじゃありません。ハトラに来ていた兵の中に、知り合いでもいらっしゃるんでしょう? 心配されるのもわかります。捕虜になったエラード兵の大半はハトラに残っていますけど、従軍してくれた人もいますから、もしかしたらこっちにいるかも知れませんよ」
(なんなんだ?)
思わずジョフトは阿呆のようにぽかんと間の抜けた顔をした。
この笑顔はなんなんだ。なぜこんなに親切なんだ。罠か?
もちろんカゼスはそこまで頭の回る人間ではないが、ジョフトがそれを知る由もない。
「サルカシュ殿に訊けば、行方がわかると思います」
けろりとカゼスがそう言ったので、ジョフトは目眩がして天を仰いだ。罠だとしか考えられなかった。でなければ、こうも都合よく事が運ぶはずがない。
カゼスに連れられてサルカシュを前にしてもなお、ジョフトは罠ではないかと疑っていた。だが、サルカシュの行動が、そうではない、と証明した。
「おぬし、ジョフトではないか? たしかスクラの部下だったな」
サルカシュは、ジョフトの顔と名前を覚えていたのだ。なぜここに、と問うサルカシュを見て、ジョフトはとうとうため息をついた。
「なぜとお訊きしたいのは、私の方でございます。サルカシュ卿は捕虜になったのではなく、ティリスに寝返ったのですか?」
疑惑で口調が棘々しくなる。サルカシュは手枷足枷どころか、まったく自由の身だったのだ。しかも、小さなものとは言え自分の天幕を与えられてすらいる。
「おぬしの言いたいことはよく分かる」サルカシュは慌てて弁明した。「だが信じてほしい。私はマデュエス様に対する忠誠を忘れてはおらぬし、こうしている今でも、エラードの行く末を思い煩っておる。だがティリス王エンリル殿は立派な方だ。私が自重する限り見張りや枷もつけず、また部下たちを不当に扱わないと約束して下さった」
「それで、悠々と快適に過ごしておいでだというわけですか」
苦々しくジョフトは言った。馬鹿馬鹿しい、あの冷静なスクラが情に負けて危険な賭けに出るほど案じていたというのに、この男は敵陣で、スクラよりよほど恵まれた環境に置かれているではないか。
カゼスは二人のやりとりを見て、きょとんとした。
「あれ? じゃあ、ジョフトさんはエラード軍の人だったんですか。スクラさんに頼まれて様子を見に来られたんですか?」
サルカシュのこの態度を見ては、ジョフトもいまさら隠し立てする気になれず、黙ってうなずいた。そして、その直後にハッと気付く。
「スクラ卿をご存じなのですか」
「直接には知りませんけど。あ、それに向こうは、私が知ってることには気が付いてないでしょうけどね」
苦笑しながらそう言ったカゼスに、ジョフトは疑念を抱いた。その疑いは、続くカゼスの言葉で決定的なものになった。
「でも、スクラさんの命令で来られたのなら、そう言って下されば良かったのに」
(――!)
無邪気に笑うカゼスを穴の空くほど見つめ、ジョフトは愕然とした。
スクラはティリス軍と通じている。
物的な証拠があるわけではないが、カゼスの物言いは確信を抱かせるに充分だった。彼はうつむいて動揺を隠し、低い声で答える。
「私はただ、サルカシュ卿がご自身を損なうような行動に出ぬよう説得すること、とだけ命じられましたので……」
あの『必ず状況を変える』と言ったのは、裏切り行為に出ることを意味しているのか。
「それは……心配をかけてすまなんだな」
サルカシュの方が申し訳なさそうに言った。ジョフトは横目でちらとその表情を観察し、この男がスクラの謀略に加担していることはあるまい、と判断した。
(ということは……)
サルカシュを敵の手に渡しておいて、自分の裏切りによりエラード軍を一気につぶす。そうすれば友人を傷つけずに済む、という計算なのだろう。以前なら、スクラがそんな情に流されるものか、と一蹴したであろう考えだったが、こうして自分を忍び込ませるほどと分かった今では、納得のゆく推理だった。
(どうする)
そうと分かれば、自分の身の振り方を考えなければならない。このまま何事もなかったように戻って、スクラにサルカシュはピンピンしていたと伝えるか。あるいは、この状況を利用して一気に地位を上げるか……。
ジョフトは騙しやすそうな二人を前に、あれこれと考えを巡らせた。
暗い思考がひとつの計画の形を作り出した時も、彼の表情にはその片鱗すらあらわれていなかった。