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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
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五章 造反者 (2)



 アラナ谷領主館の廊下をずかずか歩きながら、クシュナウーズは何度も頭を振った。

(カゼスが死んだ? そんな馬鹿なことがあるかよ)

 伝令の口から詳しい状況を聞かされても、彼はそれが本当だとは信じられなかった。アラロス河の船着き場に出て、自分の指揮する船団を見るともなく立ち尽くす。

 ヴァラシュはまったく動揺しなかった。喪が明け次第エンリルはハトラ攻撃を再開するつもりだ、と聞くと、ならば我々も予定を変更することはない、とだけ言って、あとはその知らせを無視して話を続けたのだ。

 釈然としなかった。

 なんとなく、根拠のない考えが浮かぶ。死んだら絶対に分かるはずだ、と。どうしてと問われても困るのだが、あれだけの魔術師が死ぬような目に遭ったのなら、何か兆候があるのではないか、などと思うのだ。

 あれこれ考えていたので、クシュナウーズは桟橋のそばの水面がさざ波を立てるのに気付かず、突如現れた水竜に驚いて飛び上がるはめになった。

「おどかすんじゃねえ!」

 跳ね回る心臓をなだめようと胸を押さえ、彼はイシルに怒鳴った。緑青色の目をわずかに細め、イシルは面白がっているような風情を見せる。

「汝のごとき者でも、人ひとりの死に動揺することがあろうとはの」

 からかうようなその声に、クシュナウーズもまた目を細める。と言ってもこちらの場合は、険悪で不吉なもののあらわれであったが。

「うるせえ。人の傷口に塩をすりこみに来たのか、このクソジジイ」

「ある意味では、そうなるやも知れぬな。儂は知らせを持ってきたのじゃよ。カルラエに集められておる船団とは、正面きって戦わぬがよいぞ」

 どういう意味だ、とクシュナウーズは訝しげな顔になった。この水竜が人間的な視点での気配りができるとは考えにくかったからだ。

 が、意外にもそれは実にまっとうな忠告だった。

「北方の海賊とアルハンの水軍が少々、それに加えて古い太陽紋の描かれた船が三隻。この連中はまだ増えそうじゃ」

 太陽紋、と聞いた瞬間、クシュナウーズはさっと顔色を変えた。

「まさか……あの連中なのか!?」

「『三日月の島』から呼び寄せたらしい。昔ほど残虐ではなかろうが、造船と航海の技術は受け継がれておるようじゃぞ。汝らのお粗末な船では太刀打ちできぬよ」

 言われても、クシュナウーズは放心したように宙を見つめていた。

 ややあって、水竜と話している司令官に、何か重大事かと航海士の一人が声をかけようとして……やめた。ひやっと冷たい空気が背中を流れたように、彼は竦んで息を飲む。

 クシュナウーズが振り返った時、航海士は相手が誰だか一瞬わからなかった。

「ちょうど良かった」

 無表情に、だが目だけは暗い炎を奥に宿して、クシュナウーズが亡霊のように言う。

「新たに調達して欲しいものがある。何としてもかき集めるんだ」

 続けて指示を出され、航海士はその内容に嫌な予感を抱きつつも、素早く了解のしるしに敬礼し、大急ぎで水夫たちの方へ走り去った。

 クシュナウーズは桟橋に立ち尽くし、一人何事か物思いにふけっていたが、

「仇討ちか?」

 とイシルに声をかけられると、ふっと我に返ったようにいつもの表情に戻った。

「そんなんじゃねえよ」

 ぶっきらぼうに言った彼に、イシルは人間ならば肩を竦めたであろう気配を見せる。

「ま、儂には関係のないことじゃがの」

 それだけ言い捨てて、イシルは再び川の中へ潜った。領主館に戻りかけたクシュナウーズの背中に、「そうじゃ」と思い出したように言葉が飛んできた。

「ラウシールは生きておるぞ」

「え?」

 驚いて振り返ったクシュナウーズの目に映ったのは、トプンと音を立てて水中に消える白い尾ヒレだけだった。

「それを最初に言え!」

 怒鳴り声が響き、水夫たちがびっくりして顔を上げたが、桟橋ではクシュナウーズが一人で水面に向かって罵詈雑言を吐いているだけだった。


 ハトラを奪われ、『天使』の加護すら失ったエラード軍は、踏みとどまって再度戦いを挑もうともせず、王都ラガエまで敗走を続けた。

 エンリルがこだわっていた虜囚の解放も果たした今、ハトラまでの土地を奪ったことに満足して引き上げてくれないだろうか、いや、引き上げるに違いない。マデュエスはそう考えたのだ。適当な時期に和睦の使者を出せばよい、これでもう戦は終わったのだ、と。

 だが、エンリルは引き返さなかった。ハトラで捕虜にしたエラード兵から志願者を募って人員を補充し、他の捕虜はティリス兵の監視をつけてハトラの復興に当たらせた。ティリスから新たな輜重隊が到着するのを待つ間に、被害に遭っていない近隣の村や町から資材や食糧を買い上げて、一部をハトラの住民のためにも使った。

 輜重隊が到着すると、消耗した兵の一部を帰国させる段取りをつけた。ハトラに囚われていたティリス人を送還するための護衛でもある。延々と砂塵の彼方へ続く隊列を眺め、カゼスは憂鬱な気持ちになった。

 虜囚とされていた人々にとって、解放すなわちすべての終わり、ではない。これから長い道程を自分の足で歩いて帰らねばならないのだし、故郷に無事、帰り着いたとしても、新たな困難が待っているだろう。

 住んでいた村はエラード兵に荒らされた後だし、土地が残っていたとしても畑は荒れ地に戻っているだろう。最悪の場合、誰かが勝手に住み着いていて、帰る場所がないということもあり得る。

 そんなことを考えると、カゼスはこのまま西へ進むのではなく、彼らと共に戻りたいとさえ思った。もちろんそれは不可能なので、エンリルに訴えて、具体的に厚い補償を約束してもらうのが精一杯のところだったが。

 カゼスの訴えに対するエンリルの答えは、真摯ではあるが沈痛なものだった。

「私も気にかけてはいる。だが、彼らを送り届けるべき者が不正をはたらかぬとは言い切れず、また、それを庇う愚かな上司もおるやも知れぬ。むろん、そのような者は見付け次第処罰するが、その時にはもう手遅れということもあろう。……それゆえ、補償の万全は約束出来ない。ただ、出来る限りのことはする」

 我が身が複数あればと願うのは、自分だけではない。そうと悟ったカゼスは、恐縮して引き下がったのだった。

 そうこうした繁雑な事後処理をすませた上で、再びエンリルは西へと進軍を開始した。

 もはや誰の目にもその意図は明らかだった。ティリス王は、エラードを完全に掌握するつもりなのだ――と。

「そう思っていないのは本人だけ、というのが何ともね」

 王の天幕でカゼスが苦笑した。エンリルは面白くもなさそうに、憂鬱なまなざしを返す。

「優秀な執政官がいるなら、結果はどうあれエラードの統治は任せておきたいな。それで私は国に帰らせてもらうよ。そろそろティリスの風が恋しくなってきた」

 うんざりと言い、彼は服の胸元をつまんでパタパタと空気を入れた。さすがに王の面前で同じ仕草をする者はいないが、ティリスから離れるにつれ湿度の増してくるここの気候には、皆閉口していた。ゾピュロスがとうとう黒い服を諦めて色の薄い服に宗旨変えした時には、誰もが苦笑をかみ殺したものだ。

「兵に里心がつく前に、決着がつけば良いのですが」

 そのゾピュロスが地図を広げたまま言った。アルハン領内の港町カルラエに、赤い駒が置かれている。

「イシルの話では、カルラエの船団は相当手強いそうですから、パッパッと片付けて彼らが来てくれる、なんて期待はしない方が良さそうですよ」

 カゼスは肩を竦め、アラナ谷に置かれた白い駒ふたつを、指で弾いて倒した。相変わらずの水竜殿は、三日ほど前、いきなりカゼスの水筒から出て来て貴重な知らせをもたらしてくれたのだ。

「王都の立地条件からして、まず確実に籠城するでしょうな」

 ゾピュロスが言い、ラガエに赤い駒を置いた。メルヴ河の中洲にある王城は、周辺市街の住民は別として、逃げ帰った王や貴族たちが立てこもるのに充分な広さがある。

 橋を封鎖ないし破壊されてしまえば、攻める側は相当な難儀を強いられるだろう。市民の抵抗に遭うことも考えられる。

「粘ればラガエを落とせるだろうが、何らかの工作を行わぬ限り、敵より先にこちらが飢えてしまう。河の流れを変えるか、艀を作るか……いずれにせよ時間と費用がかかりすぎる。スクラ卿が王に対して、出撃するよう説得してくれるのを期待するしかないな」

 エンリルが唸った。

 既に彼らはラガエから二日の距離まで敗走するエラード軍を追い上げていたが、それでも、彼らが城に立て籠もる前に追いつくのは不可能だ。

 こちらがあと半日の距離に達する頃には、彼らは城壁の内側に逃げ込んで、橋を落としているだろう。

 しかも実際に、一人は既に転移装置で城へ戻っていた。エリアンである。


 自ら撃ち落としてしまったヤルスを抱いて、彼女は地下の隠し部屋に現れた。

 熱線に貫かれた肩を治療し、カラムの中に休ませて、その上でまだ、エリアンは何かをしようとしていた。

 ティリス軍に真後ろまで迫られている今、一秒でも時間が惜しい。既に底を尽きかけている様々な資材を見回し、エリアンは舌打ちして転移装置に立った。

 光の壁が一周すると、周囲の風景が変わった。カイロンの部屋だ。ここもまた、使えそうなものはほとんど残っていない。

「来る頃だろうと思っていた」

 静かな声が彼女を迎えた。ハッと振り返ると、書棚を背にしてカイロンが佇んでいた。その手には開いたままの本があったが、読んでいたとは思われない雰囲気だった。

「なら、用件も分かっているわね? お願い、あの子を治すのに手を貸して。それに、あなたは『力』を扱えるから、魔術に対する耐性を与えることもできるでしょう?」

 頼みながら、エリアンは胸に不吉な黒い影が差すのを感じていた。なんなのだろう、この空気は? なぜこんなに気詰まりになるのだろう。

 その予感は、深い沈黙の形をとって現実のものとなった。

 カイロンはじっとエリアンを見つめたまま、一言も発しなかった。まさか、とエリアンは息を飲む。瞬きし、そこにいる男が生身の実体であることを確かめるように、まじまじとその顔を凝視する。

「私には出来ない」

 低く、だが堅固な意志をこめてカイロンが言った。

「どういう……こと?」

 無意識に否定の仕草をしながら、エリアンは問うた。沈黙がそれに答える。

 大きく息を吸い、エリアンはよろめいた。机に手をついて体を支え、何度も首を振る。だがカイロンの言葉は変わらなかった。

「出来ないよ、エリアン。殺人兵器を改良する手助けなど」

 エリアンは大きく口を開き、何か叫ぼうとしたが、言葉が出て来ずそのまま絶句した。無意識に手が支えを求めて机の上を移動する。指先に触れたものを反射的につかみ、彼女はそれをカイロンに投げ付けた。

 ガシャン、とガラスの花瓶が書棚に当たって割れた。

「あなたの子よ?」

 言った声が震え上ずっていた。カイロンは暗い表情で唇を引き結び、うつむいたままガラスの破片を払い落とす。

 バシッ、とファイルが肩に当たって落ちた。続けて分厚い本が足元に落ちる。エリアンは泣き出しそうな顔をしていた。

「あなたと私の子なのよ! あのままじゃ魔術師に殺されるのよ!」

「そうなるよう仕向けたのは君だ」

 言葉が人を殺せるものだとしたら、カイロンの言ったことはまさにそれだった。エリアンは蒼白になり、唇をわななかせて立ち尽くした。

 彼女は悟ったのだ。もはや何をしたところで、カイロンの心を取り戻せはしない、と。たった今彼は、自分を断頭台にのぼらせて、冷たい刃を支える一本の綱を断ち切ってしまったのだ、と――。

 涙が溢れ、かつて愛した男の姿がにじんで揺れた。

 認められたくて、振り向いてほしくて、離れていくのをなんとか引き留めたくて。子供を使えば関心を引けると思った。昔のように自分の才能を認め、素晴らしいと称賛してくれると、そう思っていたのに。

 エリアンは叫んだ。言葉にならない、身を引き裂き魂を振り絞るような叫びだった。

 無我夢中で彼女はそこらにある物を片っ端から投げ付けた。

「どうすれば良かったの、どうすれば満足してくれたの!?」

 彼女がようやく投げる手を休めてそう怒鳴った時、カイロンはあちこちに打ち身や擦り傷を作っていたが、まだ同じ位置に立っていた。

 エリアンは力が抜けたように座り込み、子供のように泣きじゃくった。カイロンは足元に広がるものを避けてゆっくりエリアンに歩み寄ると、その肩にそっと手を置いた。

「もうやめるんだ、エリアン。これ以上戦い続けてどうなる?」

 エリアンは激しく頭を振り、「あなたの子よ」「どうして」と、意味のつながらない言葉を繰り返した。

 嗚咽に隠された意図は、カイロンにも理解できた。

 どうして私を見てくれないの。あなたの子を産んだのは私、育てたのは私、なのにどうしてこっちを見てくれないの。

 そうではない、とカイロンは思った。子供は関係ないのだ。子供がいようがいまいが、彼は遠からずエリアンから離れただろう。だがエリアンはそれが理解できないらしい。

「確かに」と彼は小さくため息をついた。「ヤルスは私の子供だ。遺伝的には」

 びくりとエリアンが震え、カイロンを見上げる。濡れた目の奥に警戒の色が浮かんだ。

 カイロンはその目をまっすぐに見据え、残酷と知りながら、しかし言わずにはおれない言葉を舌に乗せた。

「だが、今では『君の作品』である『兵器』にすぎない。そうしたのは君自身だ」

 平静を保とうとして果たせず、その声には長い間ためこんできた深い怒りが、くっきりとあらわれていた。

 次の瞬間、エリアンが信じられないほどの力でカイロンにつかみかかった。

「させないッ! させないわよ!」

 狂ったように叫び、エリアンはカイロンの首を絞めつける。兵器、と言い捨てたカイロンの声に、紛れもなく殺意が込められていることを、本能的に察したのだ。

 彼は『兵器』を『処分』するつもりだ。今すぐでなくとも、いつかは確実に。

 それが、たがの外れたエリアンの心に爆発的な衝動をもたらした。自分が捨てられたことに対する怒りも加わり、理性を吹き飛ばしてしまう。

 カイロンは彼女の手首をつかみ、なんとかひきはがそうとした。揉み合ううちに、先刻エリアンが撒き散らした本やファイルで足を滑らせ、もつれあって倒れる。

 ドスッ、と、鈍い音がした。

 肺の中の空気が一度に吐き出され、手足がびくりと痙攣する。カイロンのその反応に、エリアンはハッと我に返った。

「カイロン……?」

 理性が戻ると同時に、恐怖が氷の津波となって襲いかかってきた。自分の足下で、カイロンが苦悶に顔をひきつらせている。どうにか彼が体の位置を変えて横を向いた時、その背の脇近くにガラスの大きな破片が深々と突き刺さっているのが見えた。

 カイロンは震える手を背に回し、力を振り絞ってそれを引き抜く。血が噴き出し、床に染みを広げた。彼は自分を傷つけたのが何かを確かめると、力なく笑った。

「……なるほど」つぶやいた声が、かすれる。「自業自得だ」

 色鮮やかな美しいガラス細工の花瓶は、彼が故郷から持ち込んだ物だった――行く先の住民を感嘆させられるだろう、という愚かな意図で。

「ばかなこと言わないで」

 涙声でエリアンは言い、傷口を手で押さえた。動転して、それ以外にどうすればいいのか分からなかったのだ。

 ドンドン、と扉を叩く音がしたのは、その時だった。

「カイロン! どうした、何の音だ? ここを開けろ、カイロン!」

 アトッサの声だった。ぎょっとなったエリアンに、カイロンはささやくように言う。

「これも……君を傷つけてきた、罰だろう。あるいは……ザールの神が、息子殺しを……阻止なさったのかも、な。さあ、帰るんだ、エリアン」

 その声はどんどん小さく途切れがちになる。エリアンは「でも」とうろたえた。

「医療キットがあるでしょう? どこにあるの、教えてカイロン。こんな傷ぐらい……」

「私を……助けたら、あの子を、殺しに……行く。それは、確実だ。早く、帰れ」

 カイロンは言い、弱々しい仕草でエリアンの手を払った。その顔には、既に運命を甘受すると決めた者のもつ、穏やかな静謐が満ちていた。

「開けろ! でないと、力ずくでも押し入るぞ! 返事をしろ、カイロン!」

 アトッサの声が響く。ドアを蹴飛ばす音が聞こえた。

 エリアンは傷から手を離し、土気色になっていくカイロンの頬を、そっと両手で包んだ。もう何年も触れていなかった唇に、軽く自分のそれを重ねる。わずかな触れ合いでしかなかったのに、それは今まで二人が交わした口づけのどれよりも、愛情深いものだった。

「ごめんなさい」

 エリアンは震える声で言った。それは、謝罪というよりは決別の言葉だった。瀬戸際で彼女は、昔の関係を取り戻す事ではなく、息子を守る方を選んだのだ。カイロンの気を引くためのものにすぎないと思っていたのに。

 カイロンは答えず、ただわずかに微笑んだ。

 次の瞬間、金属の扉が大きくたわんだ。反射的にエリアンが立ち上がると同時に、爆風が扉を吹き飛ばし、聖紫色の光をまとったアトッサが踏み込んで来た。

 アトッサは室内の光景を目にし、凍りつく。彼女が状況を理解するまでのわずかな時間に、エリアンは転移装置を作動させた。

〈あの子に、……〉

 高地から消え去る一瞬前、エリアンはカイロンが精神波で話しかけたように感じた。

 それは、気のせいだったかも知れない。彼女には精神波を受け取る能力はないのだから。だがそうだとしても、エリアンは、彼の伝えようとしたことが分かるような気がした。


 ファラケ・セフィール国王代理の訃報は、下界にまでは伝わらなかった。

 正式に使者を立てる必要がある国はティリスだけで、あとの二国に関しては風の噂任せにされたからだ。いずれにせよ、密偵を放たれている可能性が高かったせいもある。

 それは国王となったアトッサの、最初の判断だった。

 治療の技を頼ってくる者がいる限り、彼らを通して噂は広まるだろうが、今の高地には年若く経験浅い小娘が一人王座についているだけである、と自ら布告する必要はない。

 葬儀の期間もわずか二日。参列者の多さを除けば、市民の葬儀とほとんど差がないほどの簡素なものだった。カイロンが異教徒であったことが、表向きの理由である。

 アトッサとしても、出来ればもっと壮麗に異世へ送ってやりたかった。

 しかしそうしていたら、弔問にかこつけてエラードやアルハンの者が――下手をすれば国王自身がおしかけて、脅したりすかしたり、あれやこれやの駆け引きをしただろう。

「こんな小娘でも、女は女、権力は権力、だからな」

 自嘲気味にそう言ってから、アトッサは自ら戒めるように首を振った。彼女をたしなめてくれるカイロンは、もういないのだ。言動には気をつけなければなるまい。

「アトッサ様……もう二、三日、出立を遅らせてもよろしいのでは?」

 痛ましげにそう言ったのは、まだ若い鳥使いの女、バールだった。鷹を飼い馴らして狩りに使うほか、伝書鳩の訓練も行う特殊な立場にある。その仕事に興味のあったアトッサは、彼女とよく話をしていた。

 アトッサが自らティリスへ出向くと打ち明けたのも、この女が最初の相手だった。

「ぐずぐずしている内に、ヴァルディア王が求婚してきたら困る。断ることの出来ぬ縁談は、最初から受けぬよりほかに方法がない」

 アトッサは答えながら、葬儀の間まとっていた礼服を脱いで、いつもの簡素で丈夫な服に着替える。その目はまだ泣き腫らして赤く、しゃべる声は時折震えた。だが、彼女は既に理性で状況を判断していた。

 葬儀の二日目、柩が土の中に埋められた時、アトッサは悲しみの声を上げて倒れた。その光景を見た者にとって、彼女がそのまま病に臥したという知らせは、すんなり納得できるものだった。現実には、こうして密かに旅支度などしているのだが。

「姫様、渡し舟の準備ができました」

 城の隠し通路から、高地人にしては大柄な男がぬっと現れる。衛兵隊長のハムゼはバールの夫であり、今回の計画を知る数少ない人間の一人でもあった。

「こっちも用意はできた。さてと、あとは留守中に皆がうまくやってくれるのを祈るばかりだな」

 靴紐をしっかり結び、アトッサは小さな革袋をつかんでしゃんと背を伸ばした。ほかの必需品は、既に対岸で待っている馬の鞍袋に入っている。

 三人は暗く狭い通路を通り抜けて船着き場に出ると、渡し舟に乗り込んだ。船着き場には他にも数人の人影があったが、皆、了承済みの者たちだった。無言でアトッサが手を上げると、彼らは深く頭を下げ、渡し舟を見送る。

 湖に出るとハムゼは松明を消した。月明かりだけが頼りだが、さいわい明るすぎず暗すぎもしない、頃合いの月だ。漕ぎ手は黙って棹を操り、町の桟橋ではなく、かなり離れた湖岸に着けた。

 馬が三頭、森の影の手前に佇んでいる。手綱をとっている男は、やはり無言でアトッサたちにそれぞれの馬を引き渡した。それから自分はロバに乗り、道などないかに見える森の中へ三人を導いて行った。

 アトッサは、自分がおそらく生涯最大の賭けに出たことを自覚していた。まさに今、彼女が踏み入れた森と同じく、先の見えない危険なものであると知りながら。

(だが、これ以外に道はないし、後戻りも出来ぬ)

 ちらと背後を振り返る。月を映した湖面の上に、青白い光を帯びた城が墓場のようにひっそりと佇んでいた。


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