四章 虜囚の街 (5)
ラウシールの葬儀が終わり、ついに休戦協定が切れる日が来た。
ティリス軍は引き返すか、さもなくば今一度協議の使者を寄越すであろう……そう踏んでいたエラード軍は、ハトラの間近まで相手が迫っていることに驚かされた。夜明けと共に動き出したティリス軍は、エラード側に気付かれることなく条件の良い場所を選んで布陣していたのだ。
「やはり来たな」
そう呟いたのはエラード側ではスクラ一人だった。
「ええい、往生際の悪い奴らよ。何度来たところで御使いが我らをお救い下さるに決まっておるものを」
マデュエス王は苛立った風に、だがあからさまな嘲笑と優越感を含ませて言ったが、それはまた、大半のエラード兵の心境を代弁する声でもあった。
そもそもティリス側にさえ、まだ戦うのかという厭戦的な雰囲気が漂っていたのだ。もしまたあの『御使い』が現れたらどうすれば良いのだ、とばかりに。
もっとも、若干名の武将とエンリル本人だけは、やる気満々だった。その勝利の確信がどこから来るのか分からない配下の兵士たちは、戸惑いながらも何か策があるに違いないと希望を抱いて戦列に立っている。
ティリス軍は無理にハトラまで攻め込みはしなかった。小さいとは言え丘の上にある町に、下から攻め込むのは不利だ。それに、恐慌に陥った駐屯兵や町の住人が捕虜を虐殺しないとも限らない。
エラード側が出て来るのを待ち、ティリス軍はいっせいに攻撃を仕掛けた。
さすがに魔術師の助力がないとあって、先日と違い伝統的な戦い方をせざるを得ないらしい。弓兵が火蓋を切って落とし、歩兵の突撃がそれに続いた。
数では互角。
が、ティリス軍はエンリル自ら先陣を切っているのに対し、エラードの総指揮官たるマデュエスは高みの見物を決め込んでいる。そしてまた、『御使い』もすぐには現れてくれない様子だった。
徐々にティリス側が優勢になっていく。
先鋒の部隊を指揮するサルカシュは、じりじりしながら空を仰いだ。出陣前、彼は街に残る部隊の兵士にある命令を下しておいた。出来れば実行されないままに終わって欲しい類の命令を。
(くそ――)
苛立ちが募る。諦めず攻撃を続けるティリス軍は、勝てるかもしれないとなると俄然勢いづいたようだった。まだ『天使』は現れない。今の内に叩いてしまえば勝てるかもしれない。そんな希望がティリス兵を奮い立たせるのが、サルカシュにさえ分かった。
「ええい、来るならさっさと来い!」
思わず彼は天に向かって怒鳴った。前のように敗走寸前になってから来られても、遅いのだ。死んだ者は生き返らない。
と――
まるでその声に応えるかのように、サルカシュの視線の先、雲上の高みに光のひだが生じた。頭上から射す、太陽のそれとは違う光に、兵たちがいっせいに仰向いた。エラードの者は期待に顔を輝かせ、ティリスの者は絶望に蒼白となって。
虹のひだをくぐり、翼のある少年が姿を現す。
静まり返った戦場に声が響いた。
「神にたてつく血に飢えた愚か者どもよ、裁きを受けるが良い」
強い暗示が軍勢の間に広がって行く。だが、そのとろんとした空気は、凛とした声の一喝によって霧消した。
「何をもって神と言うか、人の欲の化身が!」
澄んだ声に、人々はハッと我に返る。そして声の主を探して首を巡らせ、ティリス側の丘の中腹にいつの間にか現れた人物を見付けたその途端――
「ラウシール様!」
うわあっ、と歓声が上がった。飾り気のない細い杖を持ち、風に青い髪をなびかせて、ティリス軍の守護者が毅然と立っていたのだ。
予定にない展開に、『天使』は戸惑ったまま滞空している。いくら英才教育を施されていても、実経験の少ない子供なのだ。突発事態に対処する術がわからない。
その隙に、カゼスはふわっと風に乗って上空まで舞い上がった。杖に『力』を込め、ヤルスめがけて振り下ろす。もとより殺すつもりはなく、ただ地上の戦況に影響を及ぼす暇をなくすだけのつもりだったので、最初の一撃はあっけなくかわされた。
ヤルスも我に返り、レーザーブレードとおぼしきものを作り出してカゼスに斬りかかってきた。剣術の心得などないカゼスだが、
〈左へ避けて! 杖を上げる、手首を返して〉
的確なリトルの指示に従って動くだけで、見事に相手の攻撃を封じていく。精神波での指示は、単に速度が早いというだけではない。体の動かし方までがはっきり意識として伝わるので、矢継ぎ早の指示にも敏速に体が反応するのだ。
言葉として指示が伝わるより先に、意識がカゼスの体を動かす。まるでそれは、リトルと一体化しているような状態だった。
しばし地上の面々は上空の戦いに見とれていた。が、
「騎馬隊、前へッ!」
エンリルの声に続いて合図の喇叭が鳴り響き、突如として喧噪が戻った。
もはや勝敗は誰の目にも明らかだった。ラウシールの復活でティリス軍はここぞとばかり、猛獣の如くエラード軍めがけて襲いかかる。一方、エラード側はぬか喜びに終わった期待に足をすくわれ、次々と陣形を崩されてゆく。
「お前は何者だ! いったいなぜこんな……」
こんな筈ではないのに。その焦りと動揺を隠せず、ヤルスはカゼスの杖を受け止めたまま怒鳴った。カゼスは少年の行く末に思いを巡らせ、眉をひそめる。
「あなたは道具にされているにすぎない。『なぜこんな』、なんて――」
カッ、と二人の武器が火花を散らす。
「自分の行動にこそ、問うべきだ! 自分の意志はどうしたんです!」
「何なんだ、おまえは何なんだ! 何を言ってるんだ!?」
ヤルスは既に泣きだしそうな顔をしていた。
わけがわからない、技術の粋を集めた筈の自分が、こんな未開の国で得体の知れない魔術師に負けそうになっている、しかも理解出来ない問いをぶつけてくる、こいつは何なんだ、こんな状況にどう対処したらいいのかなんて教えられてない……
「来るな! 来るなあぁッ!」
もはやそこにいるのは『天使』などではなかった。思い通りにいかない現実を突き付けられてパニックを起こし、喚き散らしている、ただの子供。
闇雲に攻撃を仕掛けるヤルスを適当にあしらって、カゼスは時間稼ぎを続ける。
と、鋭く〈避けて!〉とリトルが警告を発し、彼女はパッと横へと身をかわした。
ビシュッ!
一瞬後、カゼスを貫く筈だった一条の光線が、ヤルスの肩を撃ち抜いた。
「う……っ、こん、な……っ」
ヤルスの顔が苦痛と絶望に歪む。傷口から薄く白煙が立ちのぼっていた。
「――!」
反射的にカゼスは手を伸ばし、ヤルスを支えようとした。だが、小さな体は地上めがけて落ちて行き……フッ、とかき消えた。
滞空したまま、カゼスはしばらく呆然としていた。我に返って地上を見下ろした時には、既にエラード軍は退却を始めており、レーザーを放った者の姿を見付ける事は出来なくなっていた。
勢いづいたティリス軍の前に、エラード軍は支えきれず潰走を始めていた。
攻める時は先陣を切ったサルカシュの部隊は、今はしんがりとなって他の部隊が逃走する時間を稼ぐべく防戦を続けている。
「あとしばらくだ、あと少し踏ん張れ! 我らが持ちこたえれば、それだけ同胞が生き延びられるのだぞ!」
萎えそうな兵を励ましながら、サルカシュは馬を駆って、歩兵の壁が破られそうな場所から場所へと加勢して回る。
彼らも攻撃する側であれば、本来の機動力を生かして自在に敵の部隊へと切り込むのだが、防御に徹するにはその盾はあまりに脆かった。しなやかな木の枝で編んだ軽いものであるゆえに槍に貫かれやすく、よしんば体までは貫通しなかったにせよ、槍が抜けなくなって盾の方はもう使い物にならない。
もっとも、盾の強度で言えばティリス側も似たようなもので、獣の皮で補強してあるだけマシという程度だ。それでもエラード側の盾の壁には、死んだティリス歩兵から奪ったとおぼしき盾が既に幾つもまじっている。槍を持っている者も半分いるかいないかで、残りは短剣を振るって戦っていた。
もはや騎馬部隊は散り散りで、まとまった攻撃をしかけられるだけの統率は失われていた。それでも数騎はサルカシュの姿を見付け、その指揮下に加わってくる。
と、容赦ない追撃の手が一旦休み、ティリス側の兵が少し下がった。その戦列から、金髪を乱し、血のついた短槍を掲げてエンリルが進み出る。
「降伏せよ、武器を捨て投降するなら命までは取らぬ!」
だが、サルカシュが睨みをきかせているせいか、それとも極限状態に置かれた精神が興奮しきって焼き切れたせいか、一人として逃げ出す気配を見せない。
その様に、エンリルは落胆しつつも感動したような顔になり、嘆息した。
「惜しいな。かくの如き勇士らを我が戦列に加えられぬこと、遺憾に思うぞ」
「勿体ない栄誉にございます。では、お言葉に恥じぬ戦いぶりをお目にかけ奉ろう!」
サルカシュは言い返し、馬の腹を蹴る。あっと息を呑む間もなく、彼はエンリルの眼前に迫っていた。剣を振りかぶり、すれ違いざまに斬りつける。
ベキッ、と木の折れる音が響いた。
エンリル自身は辛くも身をかわしたものの、短槍を折られてしまったのだ。
「陛下!」
アーロンはじめ、幾人かの兵が援護に飛び出して来る。だがエンリルは折れた槍を投げ捨て、馬上で剣を抜いた。
「サルカシュ卿よ、余が勝てばそなたと部下の身柄は預かるぞ!」
嬉々として言い、馬首を返して再び迫ってきたサルカシュと向き合う。
「おやめ下さい、陛下!」
アーロンが庇おうとしたが、エンリルは既に走りだしていた。
他方サルカシュは相手が自分の名を知っていたことに驚き、またこんな年若い国王が自ら向かって来たことに度肝を抜かれ、剣を繰り出す好機を逸してしまった。ハッと気を取り直し、反射的に盾をかざす。同時にバシンと衝撃が腕に伝わった。エンリルの剣が柳の盾に食い込み、ポキポキ音を立てる。
行き違った直後、二人はすばやく互いに向き直り、間合いをはかりながら馬でじりじりと円を描くように動いた。
見ている方は気が気でない。アーロンはハラハラしながらも、この隙に余計な手出しをする者がおりはせぬかと警戒していた。援護したいのは山々だが、そんな事をすれば自分たちの王に対し、一人前の戦士とは認めない、と宣告することになる。手は出せない。
体格差を考えると、いかにもエンリルは頼りなげに見えた。まるで剣術の稽古をつけて貰っている新兵のようだ。だがこれは稽古でも試合でもない。
互いに視線を相手に固定したまま、二人は慎重に機を窺い続ける。と、エンリルの馬が窪みにつまずきでもしたのか、一瞬、わずかに傾いだ。
「やっ!」
もらった、とサルカシュが斬りかかる。体勢を崩しかに見えたエンリルは、巧みな手綱さばきでそれをかわし、瞬く間に相手の背後に回った。やった、とティリス側から歓声が上がる。
慌てて馬の向きを変えようとしたサルカシュの後頭部に、いきなり何かが投げ付けられた。直撃をくらってサルカシュはよろけ、馬が巨体の重みに引きずられて足取りを乱す。既に一帯の地面はたっぷりと血や汗を吸い、また入り乱れる兵の靴にこね回されて、非常に足場が悪くなっているのだ。とても支え切れない。
ここぞとばかりエンリルは馬を寄せ、追い打ちをかけるように、蹴りをくれた。
なんたる戦い方かとアーロンが顔を覆った時には、地響きと共にサルカシュは馬もろとも転倒していた。エンリルは素早くそのそばに降り立ち、剣を相手の喉元にぴたりと当てたが、実際は無用の動作だった。サルカシュはどうやら頭を強く打ったらしく、目を回してぴくりとも動けずにいる。
エンリルは心持ち恐縮そうに肩を竦め、おどけた口調で言った。
「すまぬが、ここでのんびりするわけにはゆかぬのでな」
そして一気に意気阻喪したエラード兵を一瞥し、よしとうなずいて味方を振り返る。
「アーロン! ここはもう良い、追撃を再開して町へ急げ! 捕虜の身に危険が及ぶ前に解放するのだ」
アーロンは束の間ためらったものの、すぐに命令に応じて号令を下した。最後まで頑張っていたサルカシュの部隊を迂回し、町へと雪崩を打って逃げ続けているエラード軍を追いかける。その進行を阻もうとする兵は、もはや残っていなかった。
サルカシュは目の前でチカチカする星をなんとか追い払い、何が起こったのか、と痛む頭をさすりながら身を起こした。体を支えようと地面についた手が、何かに触れる。
「……?」
エンリルの盾だ。馬上で扱いやすい大きさであることには変わりないが、サルカシュや一般兵のものと違って延ばした鉄板が使われている。
(まさか、これを投げ付けたのか?)
サルカシュは呆れ、言葉も出て来ないままエンリルを見上げた。盾を投げ付けるなど、まともな武人なら天地がひっくり返っても実行すまい。盾は己の身を守る最も大切な武具であるというのに。
その視線を受けて、エンリルは笑いだしそうな顔を見せた。
「そなたの気に入りそうな戦い方で応じられず、余としても残念だ。いずれ機会があれば正々堂々、試合でもさせて貰うとしよう。今は先を急ぐゆえ、容赦してくれ」
そんなに嬉しそうに言われても説得力がありません、と、アーロンならば言ったであろう。だがサルカシュは、ただただぽかんとしていた。
エンリルはちらと悪戯っぽい気配をその面に浮かべたものの、すぐに口元を引き締め、ハトラの方を見やった。彼の厳しい目の色を見て取ったサルカシュは、ああと察するなり口をつくまま言葉をかけた。
「捕虜のことならば、ご案じ召さるな」
「……?」
軽く目をみはり、エンリルが振り返る。サルカシュは相手が自分の主君でないことをいまさら思い出し、慌てて口をつぐんだ。が、根が正直な性質のため、じきに白状してしまった。
「出撃の前に、町に残る部隊に指示を出しておき申したゆえ。ティリスの民が暴徒の手にかかることのないよう、撤退時には収容所の鍵を開けて捕虜を逃がすように、と」
そう言ってから、まさか命令が実行されていないような事はなかろうか、と不安になって丘の上の町を振り仰ぐ。と、その目が丸くなった。次いで、ぽかんと口を開く。
サルカシュのその表情につられ、彼の部下たちも何事かと振り返る。
「あっ!?」
途端に何人もが弾かれたように立ち上がり、声を上げた。
逃げるエラード軍は町に立てこもるかと思いきや、そのまま丘の向こうへと退却を続けて行くのだ。追撃するティリス軍は、町で一部が分かれてとどまり、騎馬兵の一部だけがエラード軍を追って丘の向こうに消えた。
「町で何かあったようだな」
ふむ、とエンリルはつぶやき、盾を拾い上げる。それから、
「確かめに行くとしよう。サルカシュ卿、ついて来るが良い」
言うなり、ひらりと馬にまたがった。サルカシュはまだ呆然と町を見上げていたが、エンリルの言葉で我に返って目をしばたたかせた。
「は……? 何ですと?」
「ついて来い、と言ったのだ。それとも、もう馬にも乗れぬほど疲れたか?」
馬上から笑いかけられ、サルカシュは困惑をそのまま顔に表して立ち尽くす。
「その、私は……部下共々陛下の捕虜になったものと、理解しておりますが」
「ならば余の指示に従うのは当然であろう? どうした、そなたの命令が果たされたか否か、気掛かりではないのか。ぐずぐずしていたら置いて行くぞ」
けろりと言われ、サルカシュはもう何が何だかわからなって、言われるまま愛馬の手綱を取った。サルカシュが騎乗したのを見届けると、エンリルは手近の兵に捕えたエラード兵の保護を命じ、残りの兵を率いて馬を進めた。
面食らってきょときょとしながら、サルカシュも後ろについていく。
「あの、陛下……」
「なんだ?」
エンリルが振り返る。その笑みは明るく、つい先刻まで敵味方として戦っていた者に向けるものとは思えない。
「私はここにいても良ろしいので?」
サルカシュは居心地の悪さから、その巨体を縮こまらせている。エンリルは短い笑い声を立て、「むろんだ」とうなずいた。
「余が世辞で『惜しい』と言ったとでも思うのか? そなたらが我が方の民でなかったこと、心から無念に思っているのだ。とりわけそなたについては、こうして目の当たりにした武勇のみならず、徳義と慈悲の心を備えた得難い武将であると聞き及んでいる。どうだ、今からでも我が下に剣を捧げる気はないか?」
声は真剣だった。ただ陽気で明けっ広げなだけではない、奥にある思慮深さを悟らせる声。サルカシュは胸を打たれ、しばし言葉を失った。
「……私も、斯様な形でしかお目にかかれなんだこと、残念でなりませぬ。ですが、私の主君はエラード国王マデュエス様ただ一人にございます」
ようやくそう答えた時、不覚にも声がかすれ、震えた。
「そうか。致し方ないな」
エンリルは微苦笑してそれだけ言い、前を向く。
「だがまあ、せめてハトラで落ち着くまでは、その忠誠心はどこか隅に押しやっておいてくれぬか。そなたに枷をはめたり監視役を何人もつけたりするのは、気が進まぬ」
「……は」
低い声で短く答え、サルカシュはうつむく。
マデュエスは決して、これほどまでに自分を評価してはくれなかった。また、これほどの寛容さを見せられたこともない。
揺らぎそうになる心をなんとか立て直し、彼はスクラの事を考えた。
(あいつと戦いたくはない。マデュエス様に剣を向けるような真似もできぬ)
と言って、ならばここでエンリルに襲いかかって、刺し違えてでもその首を取る……などという真似も、到底出来ない。頭を振り振り、彼はただ黙ってエンリルの後から丘を登り続けた。
近付くにつれ、街壁の前で繰り広げられている騒ぎが、風に乗って耳に届き始めた。門の前に集まっているティリス軍の一団が、エンリルの姿を認めると、ざあっと両脇へ避けて道を空ける。門の前にはアーロンとイスファンドが待っており、壁の上には……
「カゼスか」
騒ぎの理由に見当をつけ、エンリルは破顔した。カゼスはそれに気付いて笑みを返すと、城壁の内側に手を振って合図をする。じきに門扉はギシギシ音を立てながら、ゆっくりと開いた。
「―――!」
エンリルは思わず息を呑んだ。門の内で彼を待っていたのは、エラード兵や街の住人に付き添われた、大勢のティリス人捕虜たち――その笑顔だったのだ。
歓声が起こり、エンリルの名を呼ぶ声がティリス兵からも、街の住民からも、絶えることなく上がる。その中を、エンリルは半ば呆然と進んで行った。
彼が門をくぐると、街の代表者らしき男とエラード兵とが共に進み出て膝をついた。
「サルカシュ卿の指示で捕虜を解放しましたが、さりとてマデュエス様の兵がこの町に詰めかければ、ただではすみませぬ。それゆえ門を閉ざし、嵐が過ぎて再び太陽がこの地を照らすのをお待ちしておりました」
恭しくエラード兵が言うと、住民の代表が「どうか寛大なご処断を」と乞う。エンリルは事情を理解すると、満足げにうなずいた。
「むろん我々は、ハトラの者に対して何ら害意はない。たまさか戦場と相成っただけのこと、むしろその不運に同情しよう。だがせめて、解放された我が国の民に、食事と寝床を分け与えてはくれまいか」
直接声をかけられ、住民の代表は頭を地面にすりつけんばかりに平伏した。
「はい、それはもう、当然のことかと……ですが、何分マデュエス様がこちらに滞在なさった後のこと、皆様方に差し上げる穀物も家畜も」
「そう恐れずともよい。既に刈り取られた麦畑から、根まで掘り起こして奪いはせぬ」
苦笑してエンリルは長い言い訳を中断させた。平伏している男だけでない、成り行きを見守っていた多くの市民が、驚いた顔を見せた。
「こちらは輜重隊の食糧で賄える。ただ、捕らわれていた民には、温かいもてなしが何より必要であろう。それをそなたらに頼みたいのだ」
「それだけでよろしいので?」
信じられない、と言うように男が念を押す。エンリルは皮肉っぽい笑みを浮かべ、
「余の気が変わらぬ内に、行動に移した方が良いぞ」
などとからかった。弾かれたように男は立ち上がり、住民たちに次々と指示を出す。そのさまを笑って眺め、エンリルは城壁の上を仰いだ。
「カゼス! いつまでもそんなところから眺めておらぬで、降りて来て将兵たちに無事な姿をよく見せてやるが良い」
カゼスはちらと、共犯者のくせによく言うよ、とばかりの笑みを浮かべたが、すぐにうなずいて壁の上から飛び降りた。
うわっ、と一部で声が上がったが、カゼスは見えない腕に支えられているように、ふわりと地面に降り立った。
「再びお目にかかれて嬉しゅうございます、陛下」
芝居がかった口調で言い、カゼスは仰々しい礼をする。そこに含まれる皮肉を察し、エンリルも苦笑した。
「余も同じだ。さあ、行って兵たちにもその喜びを味わわせてやれ」
「はい」
お互い楽じゃありませんね、と目で言いながら、カゼスは門の外に歩み出る。わあっと歓声が上がり、兵士はいっせいに槍や剣を掲げて称賛の言葉を叫んだ。
「ラウシール様!」
「我らの守護者に栄光を!」
わあわあ言う兵たちにラウシールらしく笑みを向けていたカゼスは、小さな人影が兵士の間をかき分けて出てくるのを見付けた。
「フィオ!」
カゼスが呼ぶと同時に、無礼を止めようとする兵の手を払いのけ、少女が駆け寄って来た。大きな目にみるみる涙があふれ、こぼれだす。
「カゼス様――!」
わあっ、とフィオはカゼスに抱き着いた。こんな場に召使がでしゃばるなど前代未聞だったが、当のカゼスがしっかりと少女を抱き締めているので、誰も文句を言えなかった。
「生きてたんですね、無事だったんですね――もう、もうもう、」
語尾が震え、あとは言葉にならない。カゼスは何度も優しくフィオの背を撫で、ただじっと抱擁を返していた。そうすれば少しでも、自分に向けられた温かな感情に対し、感謝の気持ちを伝えられるような気がして。
追撃に出ていたカワードの部隊が日暮れ前に戻り、野営の天幕が一帯に並んでやっと、カゼスは馴染みの顔触れと共に夕食をとることができた。
「まったく、生きておったならそうと言え!」
ガツガツと口一杯にものを詰め込んだまま、カワードが憤慨したふりで言う。
「異世から舞い戻ってきた亡霊かと思ったではないか。寿命が十年は縮んだわ」
「まぁそう言うな。敵を欺くにはまず味方から、と、知らぬわけでもなかろう」
エンリルが苦笑してなだめたが、矛先が変わっただけだった。
「ご自分は先刻承知であられたから、しゃあしゃあとそのような事をおっしゃるのでしょうがね、陛下。あんなに深刻な様子で戻って来られて、葬儀の際にはいかにも口惜しげな顔まで作られて、え、いっそ役者にでもなられてはどうです」
これにはエンリルも言い返せず、ただ困り顔でパンを口に入れ、もぐもぐと返事をごまかすしかなかった。妙に少年らしいその仕草に、カゼスはじめ数人が失笑する。
「アーロン卿はお気付きになられたようですが……なぜです?」
笑いがおさまると、イスファンドが不思議そうに問うた。あれ、見破られたのか、とカゼスは驚き、アーロンをまじまじと見つめた。「偶然だ」とアーロンは肩を竦める。自分だけが先に気付いたことで、妙に勘操られたくないと思ったのだろう。
「ハゲワシが一向に柩を狙う気配がないのでな。まやかしではないかと陛下に確かめてみたのだ」
「あ! そうか、それは迂闊でしたね」思わず反省するカゼス。「次は気を付けます」
アーロンが渋い顔になるのと、カワードが「冗談でも止せ」と唸るのが同時だった。
「そうそう何度もあってたまるか」
言われてカゼスも苦笑した。
「確かに、ラウシール様がしょっちゅう死んでたんじゃ、威厳がなくなりますね」
「馬鹿、誰がそんな話をしておる」
カワードが呆れ口調で言い、カゼスの頭をはたいた。きょとんとしたカゼスに、カワードは半分本気で怒りながら説教する。
「おぬしが倒れたのを見て、どれほどの者が泣いたり叫んだりしたと思っとるんだ、反省するならそこを反省しろ、そこを! アーロンなんぞ自分が死んだような面で魂が抜けたようにふらふらしておったわ、」
「余計なことを言うな!」
アーロンが抗議し、カゼスが赤面したが、カワードは無視して続ける。
「ウィダルナはウィダルナで、いつ息を吸うておるのかと思うほどため息ばかりついておったわ、フィオに至っては半狂乱で、なだめようとしたこちらが殴り殺されるかという剣幕だったのだぞ!?」
そこまで言われて、やっとカゼスは表情を改めた。しゅんとなったカゼスを見下ろし、カワードは葡萄酒をぐいっと呷る。
「おぬしは自覚が足らん! 死ぬなら本当に死ぬ時だけにしておけ!」
言っている事が、なんだかよく分からなくなってきた。ウィダルナが苦笑を洩らし、やれやれと仲裁に入る。
「そのぐらいでもう良ろしいでしょう。カワード殿も人一倍心配なさったゆえ、お怒りも二倍というのも分かりますが」
「俺は心配なぞしとらん! 怒っとるだけだ!」
「はいはい」
ウィダルナがいなした後、隙を作らずイスファンドが口を開いた。
「実際問題、カゼス殿はあの『天使』とやらに確実に対抗する術を身につけられた、と、そう考えて良いのでしょうか?」
すっ、とその場の空気が冷えた。真剣な面持ちで、誰もがカゼスを見つめる。
「もう二度とあのようなことはない、と約束して頂けますか? でなければラガエまで攻めのぼるにも不安が残ります」
ラガエ――エラードの王都。本来の目的である捕虜の解放は果たしたが、谷の反乱がどうなったのか、知らせがまだ来ない。国王軍を足止めする時間稼ぎが必要だ。
カゼスはちょっと考えてから、慎重に答えた。
「間を置かずに追撃する限りは、心配ないと思います。顧問官が、ヤ……あの天使に、新しい細工をしない限りは」
相対した限りでは、ヤルスに力場を固定したり術の妨害をするような機能はついていなかった。時間的余裕を与えさえしなければ、恐らく今回の傷の修復をするだけで手一杯だろう。
「では、明朝にもここを引き払い、ラガエに向けて進軍を再開するとしよう」
カゼスの答えを受け、エンリルは迷いのない強い口調で言った。
「二度と斯様なことの起こらぬよう、せめて顧問官だけでも討ち取らねばな。直接手を下すのが我々であれ、谷の者であれ」
その言葉には、カゼスの感傷など入り込む余地はなかった。実際にその時代に生きる者の、ごく現実的な言葉。深くうなずいた一同と共に、カゼスもまた、小さく首肯した。
胸に疼く、鈍い痛みを抑えながら。




