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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
43/85

四章 虜囚の街 (3)



 ここでしばらく、時間をさかのぼる。

 谷の反乱鎮圧に向けて王都ラガエを発ったアルダシールとウィンダフラナの部隊は、順調に行軍を続けていた。

 アラナ谷の領主館は入り江から少し奥まったところに位置するアルベーラの街にあり、騎兵で丘陵地帯を越えて行くのが一番の近道だった。谷を流れるアラロス河を船で遡行するという手もないではないが、それには一度ラガエからメルヴ河を下って、河口の町ファシスに出なければならない。

 そこまでするほどの必要はなかろう、という判断から、彼らは街道をまっすぐアルベーラへと向かっていた。

 途中障害となるような天然の難所もなく、斥候は毎日同じ知らせ――異状なし――しかもたらさず、道行きは平穏なものだった。にもかかわらず、アルダシールは進軍を急がせることはしなかった。それどころか、補給と称してあちらこちらに立ち寄り、のらりくらりと谷への進撃を遅らせている。

「将軍、差し出たことを申したくはないのですが」

 幾度目かの補給の際、とうとうウィンダフラナは思い余って直訴した。

「このように道草ばかりしておらぬで、早急に谷の反乱を鎮圧すべきではありませぬか。王の軍隊は臆したりと、彼らが勢いづくばかりです。既に向こうは谷を出て東進を始めているやも知れませぬ」

 だが、アルダシールは鷹揚に笑って応じた。

「それはあるまい。アルハン王ヴァルディアは欲深で知られておる、いくらあのジジイが耄碌しておると言えども、彼の御仁に背を向けて本拠地を空にするはずはなかろう。ましてや乱を起こして日が浅い今、舵を取る連中も不安を抱えておる筈だ」

 そう言って彼は肩を竦め、積み上げられた食糧の小山からチーズの塊を取ってお手玉にしはじめた。ウィンダフラナはアルダシールの手を行き来するチーズに苛々し、目をつぶると深く息を吸って数を数えた。三つまで数えた時、アルダシールが苦笑を洩らした。

「急く気持ちが分からぬでもないがな、それは谷の連中も同じであろうよ」

「……は?」

 ウィンダフラナは眉を寄せたが、じきに相手の言わんとするところを察して、ああ、とうなずいた。

「なるほど。乱を起こしたものの、戦うべき相手――即ち我らがなかなか現れなければ、谷の者の中にも焦って進撃を始めようとする者が現れるだろう、とおっしゃるのですね。アルハンに対する警戒を重視する者との間に、亀裂が生じるのも時間の問題である、と」

「うむ。さすがは婿殿」

 アルダシールは満足げに笑みを広げる。だが、褒められてもウィンダフラナは今ひとつすっきりしない表情のままだった。

 上機嫌な舅を見ていると、なぜだか妙に嫌な予感がしてならない。この男が「まさにその通り」と言ったということは、そうではない何かがあるということだ。

 第一、今アルダシールが言ったようなやり方は、これまでの彼の戦い方を見てきたウィンダフラナにとっては不自然にしか思えなかった。

 エラードの獅子将軍、という異名の通り、アルダシールは姑息で回りくどい戦い方を好まず、戦術に関しては確かに相応のものを立てるが、それ以前の裏工作や時間稼ぎ、密通者の利用といったことは進んで行ったためしがない。正面から堂々と、それが彼の最も好む、そしてまた得意とする戦い方だった。

(絶対に何か裏があるに違いない……それも、とてつもなく嫌な性質の裏が)

 とは思えど、直接本人にそれを問いただすこともできず、ウィンダフラナはただ、信じませんからね、という恨めしげな目を向けるのが精一杯だった。

 もちろんアルダシールの方は、そんな視線は無視して西の方を眺めている。その視線を追ってウィンダフラナもアラナ谷の方を振り向きかけ……

「そこの者! 何をしている!」

 反射的に怒鳴るや、走りだした。食糧の山から何かくすねようとしていた兵士が、あっと身を竦ませて手にした物を取り落とし、脱兎のごとく逃げ出す。

「その男を捕らえろ!」

 行く手にいた別の兵に命じつつ、ウィンダフラナは盗人の逃げる方へと先回りし、腕をつかんで後ろ手にねじ上げた。

「お、お許しを! 出来心で……」

 哀れっぽい声を上げて、盗人が許しを乞う。だがウィンダフラナは手を緩めず、別の兵が持って来た縄で縛り上げてしまった。

「ご苦労、ご苦労」

 のんびりと歩み寄り、アルダシールが緊張感のかけらもなく言う。ウィンダフラナは脱力しそうになってしまった。

「呑気に構えていらっしゃる場合ですか? この者は食糧を掠め取ろうとしたのですよ。軍規に照らして相応の処分をせねば、規律の乱れは激しくなるばかりです」

「ふむ、さほどに我が軍の規律は乱れておるか」

 妙に納得するアルダシール。それもこれもあなたがぐずぐずしているからです、とは、言いたくても言えないウィンダフラナであった。ここで自分が司令官に喧嘩を売ったのでは、兵たちに示しがつかない。

「盗むつもりはなかったんです! ただその、見ている内に手が」

「手がひとりでに動き出した、と言うのか? 己の意志とは無関係に?」

 ひんやりと冷たい声で応じ、ウィンダフラナは盗人を見下ろした。

「潔く罪を認めるならばまだしも、そのような下らぬ言い訳で処罰を免れようなど、あさましいにもほどがある! 恥を知れ!」

 厳しく叱責しながら、彼はふと不安に襲われて視線を周囲に走らせた。騒ぎを聞き付けて遠巻きに様子を窺っている兵の姿がちらほらと目につく。その顔に浮かぶ曖昧な表情、ウィンダフラナの視線に気付いて目をそらす、後ろめたそうな態度……。

 彼は知らぬ間に険しい顔になり、こそこそ立ち去ろうとする兵たちを睨みつけていた。

「確かに、あまり穏当でない様子だな」

 チーズを元の場所に戻し、アルダシールもまたぐるりを見回す。ようやっと自軍に漂う不吉な空気に気付いたのか、ほんのわずか眉を寄せて。

 そそくさと隠れる兵を咎める代わりに、彼はウィンダフラナに命じた。

「兵の人数と食糧の記録を徹底的に確認するよう命じるのだ。この者が今まさにせんとしたのと同じ事を、既にしでかした者が、少なくない数おるやも知れぬ」

「! まさか、脱走……ですか」

 ウィンダフラナは息を呑み、声をひそめて問うた。その単語に反応し、捕らわれの兵がびくっと身を竦ませる。どうやら間違いないらしい。

「なんという……!」

 ウィンダフラナはギリッと歯がみし、怯え震えている盗人に怒りのこもった一瞥を投げた。だがここで運のない男一人を責め、厳しく罰したところで、既に逃げ腰になっている兵に対しては逆効果にしかなるまい。

 彼は舌打ちすると、すぐにすべての部下を集め、各部隊の正確な人数を調査するよう命令を下した。

 ――その結果。

「大規模と言うほどではありませぬが、やはり相当数の脱走兵が出ているようです」

 苦り切った顔でウィンダフラナはアルダシールに報告した。

 アルダシール麾下の兵が脱走するというのは、今までにはなかったことだ。疾風迅雷の勢いで進撃し、敵を踏み潰して行くのが常であった部隊では、逃げ出す間もなかったというのが実情かも知れないが、

「今回は兵の方も勝手がつかめず、不安が広がっている為かと思われます」

 ……というのが正論だろう。平静を保とうとして難詰口調になってしまうウィンダフラナの声は、多くの兵の苛立ちを代弁していた。

 勝算のある戦いではないから、ぐずぐずしているのではないのか。

 今回はいつもの戦と違う。敵兵から戦利品をせしめられないのではないか。

 谷へ向かうと見せかけ、何か別の、もっと手強い敵に当てられるのではないか。

 そういった憶測が広まるのも、仕方のない状況だった。何しろあまりに時間があり過ぎる。余計なことを考える暇がなければまだしも、一回の戦闘すらないまま、だらだらと日が過ぎて行くのだ。

「組織だった行動、というわけではないのだな?」

 ことの原因が分かっているのかいないのか、アルダシールはそんな質問をした。ウィンダフラナは何とも言い難い顔をしたが、「はい」とうなずく。集団の計画的な脱走であれば、事態はもっと深刻だ。その場合、単に戦を厭う心理から脱走するのではなく、敵方へ寝返る可能性が高い。

「ならば捨て置くが良い。戦意のない者を引き連れていても無駄だ。むしろそのような者はとっとと脱落して故郷の村へ帰り、畑を耕している方が役に立つというものだ」

「アルダシール様!」

 さすがにウィンダフラナはぎょっとして、大声を上げた。他の兵に聞かれたら、ただでさえ低下している士気が底まで落ちてしまう。

 だがアルダシールは、厳しい口調で続けた。

「我が軍の中にも、ウタナに同情する者は少なくないはずだ。婿殿とて然りであろう?」

 出発前のやりとりを持ち出され、ウィンダフラナはぐっと詰まった。

「そのような者を抱えたまま、谷の軍勢と相対したくはないのでな。こそこそと一人二人逃げ出す程度のことは可愛いものよ。ここぞと言う時に味方の槍で貫かれたのでは、異世で先王陛下に顔向け出来ぬわ」

 フンと鼻を鳴らしたアルダシールの前で、ウィンダフラナはうつむくしかなかった。

(試されていたのか……)

 アルダシールは決して、徒に行軍を遅らせていたのではなかった。谷の反乱軍を焦らせると同時に、身内の裏切り者を燻り出していたのだ。

 と、彼の心中を察してか、アルダシールはいつもの陽気な口調に戻り、ポンとその肩を叩いた。

「まぁ、婿殿は顔に反して、やるべきことはやる男だと分かっておるがな」

「顔は余計です」

 久しぶりにからかわれ、ウィンダフラナはむっつりと応じた。童顔を笑われるのが嫌で髭を伸ばしてみたことさえあるのだが、メロエに似合わないと言われて、結局剃ってしまったのだ。残しておけば良かった、などと考え、彼は無意識に顎をこすった。

「ともあれ……不安の発生源になりそうな噂は、元から断たねばなりますまい。内通や造反でなければ良いと仰せられますが、これ以上脱走兵が増えては危険ですから」

「うむ。頼んだぞ」

 これでもう、アルダシールが進軍を渋ることもないだろう――そう考えて、ウィンダフラナは「お任せを」とうなずいた。

 だが、彼らの対応は、既に遅すぎたのである。


 ウィンダフラナが食糧や兵の監視を厳しくし、噂の発生源を探り始めて二日目。アルダシール軍は、谷を向こうに隠した丘のふもとで夜営した。夕暮れから霧が出て見通しが悪くなったため、進軍を諦めたのだ。

「王都を発った時点で、既にその手の噂があったと?」

 焚火のそばで報告を聞きながら、アルダシールはさすがに驚きを隠せない様子だった。従士から夕食の鉢を受け取り、ウィンダフラナも難しい顔で「ええ」とうなずく。

「それも、かなり具体的な噂です。谷の反乱軍はティリスと盟約を結んでいる、というもので……ことによれば、噂ではなく事実かも知れません」

 ぶほっ、とアルダシールがむせた。変なところにパン屑が迷い込んだのか、げほげほと咳き込んでしまう。ようやくそれがおさまると、彼はなんとか威厳を取り繕って言った。

「なんと、ティリスか! それは慮外であったな。されば、王都を去るのが不安になる者もいて当然ということか。だが、それだけの噂でかほど不安が伝染するとは思えぬ。まだ何かあるのではないか?」

「実は」ウィンダフラナは気の進まない様子で答える。「既に我が軍の内部にも、内通者、また造反者が多数潜り込んでいるようだ、と……であるがゆえに、谷の反乱軍と戦っても勝ち目はない、というのです」

「それはまた、縁起でもない話だな」

 アルダシールはとびきり苦い笑みを浮かべた。こんな噂を聞かされた兵は、戦列に並んだ時に仲間を信じられなくなるだろう。そのような事実がなかったとしても、不信が生み出す亀裂でまともな戦い方が出来なくなる。結果として負け戦となるかもしれない。

「誰が流したか知らぬが、それ自体で充分に破壊力のある噂ではないか。やりおるわ」

 苦々しく言ったアルダシールに、ウィンダフラナはためらう風情を見せた。それを見逃さず、アルダシールは眉を上げて発言を促す。ウィンダフラナはなお少し迷ったが、思い切って口を開いた。

「確たる証左があってのことではございませぬが……スクラ卿ではないか、と」

「……!?」

 これにはアルダシールも、ぽかんと口を開けて絶句した。

「王都を発つ前に、スクラ卿の口から、せいぜい時機を見誤らぬよう注意せよ、というような話をされた、とか何とか……はっきりした事は誰も言いませぬが。あのスクラ卿の言葉とあっては、兵たちが動揺するのも無理からぬことかと」

 近くにいる兵に聞かれぬよう、ウィンダフラナは極力声をひそめた。もっとも既に、知らぬは指揮官ばかり、という状況なのかもしれない。敵の本拠地に近いため常より多くの歩哨を立てたが、その効果すら危ぶまれる。

「むぅ……」

 低く唸り、アルダシールは渋面になって黙り込む。

 ――その時だった。

 霧に包まれた宵闇の中から、突然、馬のいななきが次々に上がったのだ。二人は即座に立ち上がり、身近に置いていた槍をつかむ。

「敵襲! 敵襲ーッ!」

 遅まきながら、歩哨の声が上がった。その時にはもう、陣のあちこちで混乱した叫び声が上がっていた。篝火が倒され、天幕に燃え移った炎が辺りを照らし出す。

「くそ、いつの間にこんな近くまで!?」

 ウィンダフラナは唸り、敵の姿を探して周囲を見回した。だが、入り乱れる自軍兵や倒れた天幕などに遮られて、もとより霧でけぶっていた視界はさらに悪くなり、まったく状況がつかめない。

「輜重隊だ! 食糧を燃やされては……」

 食糧輸送を受け持つ部隊がいる丘の下方へと首を向け、彼はアッと声を上げた。

 遅かった。襲撃部隊は一番に輜重隊を狙ったのだ。既に一面火の海で、兵士は消し止めようと必死になっている。敵の攻撃に応戦するどころではない。

 こちらの陣には一体どのぐらいの人数が攻めてきたのか、それすらさっぱり分からなかった。ただ、悲鳴や雄叫びにまじって、時折よく通る声が高らかに響きわたる。

「谷にはティリスが味方するぞ!」

「異教の神から大地を取り戻さんと欲する者よ、共に来れ!」

 説得力のある声だった。ウィンダフラナでさえ、うっかり心動かされそうになったほどだ。いかん、と頭を振り、彼はわずか数人の部下と共に、声のする方へと駆け出した。

「惑わされるな! 槍を取れ!」

 怒鳴りつけ、指揮系統を立て直そうと伝令を走らせる。だが効果はなかった。誰もが右往左往し、ウィンダフラナは一人の敵すら見付けられず、焦るばかり。

 やがて、鋭い笛の音を合図に、襲撃者は風のように逃げ去ってしまった。混乱を煽るだけ煽り、燃えるものすべてに火を放って。

「……くッ、無念」

 ウィンダフラナは槍を地面に突き刺し、唇を噛んだ。多くの兵が放心して座りこみ、炎の舌が天幕や食糧をなめつくしていく様を、虚ろな目で見つめている。死者や負傷者はほとんど見当たらなかったが、明らかに人数は減っていた。谷の兵につられて寝返ったか、あるいはこれ幸いと自軍の物資を着服して逃亡したか。

 あまりに一方的な結果に打ちひしがれた彼らに対し、無情にも雨が降り始める。ウィンダフラナは惨めな気分を押し隠して兵を励まし、なんとか無事だった天幕を立て直すと、残った兵を集めさせた。

 ようやく一息ついた時には、アルダシールとメロエもずぶ濡れで、一般兵と同じ天幕に肩を寄せ合って座っていた。

「メロエ……無事で良かった」

 ウィンダフラナは妻を見付けると、疲れた足をひきずって隣に行き、崩れるように座り込んだ。今また敵の襲撃があれば、立ち上がることすらできず死ぬかもしれない――それほどくたびれきっていた。

「あなたもね。でも……このままでは、病人が出るかもしれないわ」

 不安げに言って、メロエはくしゃみをした。食糧は焼かれるか奪われるかで大半が失われ、いまだに戦意の残っている兵士もほとんどいない。この上、病人まで出た日には、戦わずして敗北してしまう。

 せめて明日、晴れていれば。

 そう願いながら、ウィンダフラナは吸い込まれるように眠りに落ちていった。


 願いは叶えられ、翌朝には青空が広がった。だが、まぶしい朝日は希望をもたらすどころか、辛辣な皮肉でしかなかった。

 あまりに閑散とした無残な陣のありさまが、残酷なまでにはっきりと照らし出される。アルダシールとウィンダフラナは、かつて軍隊だったものの成れの果てを、茫然と眺めて立ち尽くすばかりだった。

「……なんということだ」

 ようやくアルダシールが言葉を洩らす。

 夜の間に、さらに多くの兵が逃げ出したらしい。残った全員をかきあつめても、わずかに百人足らず。しかも従士や輜重隊の輸送兵まで含めて、である。

「これでは到底、戦えぬな。一片の流言にここまで打撃を被るとは」

「私の落ち度です。もっと早くに対処していれば、このようなことは……」

 ウィンダフラナはそう認めると、苦渋に満ちた顔で頭を振った。

「いまさら言っても詮無いことですが。このままおめおめ逃げ帰るわけにもゆきませぬ、アルベーラはいったん諦め、近場の町で人員物資を補充しましょう」

「そうしてますます、谷の連中に反乱の正当性を主張させるのか? 王は民から根こそぎ奪うばかりである、と?」

 アルダシールはウィンダフラナの案を一蹴した。反論しかけた相手を遮り、彼は厳粛に続ける。

「無論、卿の論が正しいことは承知しておる。だがいずれにせよ、まともな戦にならぬことは目に見えていよう? 同じ徒花ならば、潔く散ろうではないか」

「アルダシール様……」

「とは言え、皆まで儂に付き合う必要はない。谷に向かい、心置きなく民のために戦うも良し、故郷に帰って羊を飼うも良し、各々望むところに行くが良い」

 しん、と沈黙が降りる。ややあって、兵の一人がおずおずと言った。

「心置きなく、と仰せられましたのは……アルダシール様も反乱軍の言い分を認められるのですか?」

 いっせいに全員の目が集まる。もしや、自分たちの指揮官は最初から戦う気がなかったのではなかろうか、と。

 アルダシールは髭の密生した顎を掻き、苦笑いした。

「早合点するでない。確かに、儂とて現在のマデュエス様が仁政を布いておわすとは思わぬ。だが、乱を起こし性急に変革を迫ることが最上とも思わぬ。……儂に陛下を変えるだけの力がないのは、無念だがな」

 そこで言葉を切り、彼は改めて全員を見回した。

「良いのか? このままついて来れば、犬死にやも知れぬぞ」

 動く者はいなかった。どうしようかと他の者の顔色を窺う者もなく、ただ、全員が黙って指揮官の言葉を待っている。

「……そうか」

 満足げな微笑を浮かべ、アルダシールは小さくうなずいた。

 と、それを見計らったように、皮肉っぽい声が割り込んだ。

「ならば、皆さんお揃いで投降して頂きましょうか」

 ぎょっとなって振り返った一同の前に、物陰に潜んでいた兵士がいっせいに姿を現した。反射的に腰の剣に手を伸ばした者も、矢尻を向けられて立ち竦む。

「迂闊……ッ」

 奥歯を噛みしめ、ウィンダフラナが唸った。その目に、敵の指揮官らしい人物が前へ進み出るのが映る。惨憺たる周囲の有り様とは不釣り合いなほど、小綺麗で洒落た身なりをした青年だ。

「貴公が指揮官か?」

 意外そうな声でアルダシールが問うた。青年は不遜な笑みを浮かべ、おどけた仕草で愚弄するかのように一礼した。

「左様、ティリスより遣わされた正義の使者とでも申しましょうか。アラコシア領主が息にして現在のティリス軍事参謀、ヴァラシュにございます。お見知りおきを」

「……なるほどな」

 相手の素性を聞いて、アルダシールは苦い笑みを浮かべた。ウィンダフラナは渋面になり、ヴァラシュを睨みつける。

 謀反を起こすに他国の力を借りるなど、愚の骨頂。首尾よく王を倒せたとしても、以後良いように利用されるばかりではないか。それが分からぬウタナ卿でもあるまいに……あるいはもしや、

「谷に手をつけなければ、かわりに王都をくれてやる、とでも言われたか?」

 アルダシールの声が、ウィンダフラナの考えをそのまま代弁した。だが、その言葉はヴァラシュに対してそよ風ほどの力も持たなかった。

「正義の使者とは、そのように野暮な取引はせぬものと相場が決まっております」

 人を食った答えを寄越し、ヴァラシュは白々しくにっこりする。

「さればこそ、こうして高名なアルダシール殿をお迎えに参った次第。昨夜の雨で体力を奪われたまま突撃、挙句に討ち死にでは獅子将軍の名が泣きましょう。谷の館においで頂ければ、皆さんに熱い飲み物でもふるまいますよ。アルダシール殿とて、まだ開き始めたばかりの花をここで散らせたくはありますまい?」

 言葉尻で彼はメロエにちらりと視線を送った。厭味のない、しかしどこか悪戯っぽい視線だ。メロエは眉を寄せ、そっとウィンダフラナの後ろに隠れた。

 娘のそんな態度を見て、アルダシールも抵抗を諦めたらしい。深いため息をつき、苦々しく「分かった」と応じた。

「投降しよう。娘に手を出さぬという保証があれば、の話だが」

「それはまた難しい条件を出される」ヴァラシュは苦笑して頭を振った。「かほどの美姫をただ遠くから眺めておれなどとは……まだ一人につき金貨を両手にひとすくいずつ寄越せと言われる方がましというものではござらんか」

「いい加減にしとけよ」

 うんざりした声がヴァラシュの長広舌を遮った。この声は、とウィンダフラナは顔を振り向け、きょとんとなる。覚え違いでなければ、昨夜、兵に翻意を促した声だと思ったのだが……眼前にいるのは、さして指導者的な魅力も無ければ、風采も良くない男だった。

 ウィンダフラナにそんな人物評を下されているとは考えもせず、クシュナウーズは話を進めた。

「とにかく俺らの仕事は、この連中をふん縛ってウタナの前に連れてくことだ。ごねようが渋ろうが関係ねえ」

 歯に衣を着せず言うと、彼はアルダシールに向かって「おい」などと呼びかけた。

「そういう事で、だ。こっちとしては、おまえらが自主的に歩いてってくれると大いに助かるんだが、どうする?」

「…………」

 相手の柄の悪さと遠慮のなさにさすがのアルダシールも面食らい、言葉につまる。と、クシュナウーズは苛立たしげに間近まで迫り、ひそっとささやいた。

「手間暇かけて猿芝居に付き合ってるこっちの身にもなれよ」

 小声ではあったが、すぐそばの風下にいたウィンダフラナには聞こえてしまった。

「! どういう」

 意味だ、とただしかけたウィンダフラナを遮り、

「致し方あるまい」

 アルダシールがうなずく。ウィンダフラナは口をパクパクさせ、舅と敵とを何度も交互に見るばかり。アルダシールはそれを無視し、部下たちに向かって告げた。

「皆、戦わずして捕虜になるなど恥辱と感じる者もいようが、ここは堪えてくれまいか」

「嫌だつっても結果的には同じだがね」

 しらっと余計な一言を付け足すクシュナウーズ。ウィンダフラナは剣呑な目を向けたが、相手の言うことは事実である。それに、メロエのことを考えると……

「それがアルダシール様の出された答えならば」

 屈辱を堪えて言い、彼は剣を外して地面に置いた。迷っていた兵たちも、ここで殺されるよりはと、それぞれ武器を外す。

 こうして一戦も交える事なく、アルダシール軍は谷の反乱軍に全面的な敗北を喫した。

それは奇しくも、カゼスが雷に打たれティリス軍が大敗したのと同じ日のことであった。


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