四章 虜囚の街 (2)
ハトラの街は落ち着かない空気に包まれていた。
元より目的を持って整備された街ではないので、道の走り方はもちろん建物の集まり方もまちまちで、お世辞にも防衛に向くとは言えない。国境警備は北西のドルネが要となっていたからだ。
丘の最上部、つまり街の中心地には一応城壁らしいものがあるが、その外側にだらだらと無秩序な拡がりを見せている新しい区画には、まだ街壁がない。部分的に建造中の基礎があるだけだ。
そのハトラに到着した国王軍の内訳は、サルカシュとスクラの隊、それに国王直属の親衛隊。エラード国内の全兵力のおよそ四割に当たる。街の外にはずらりと天幕が並び、兵士たちが忙しく走り回っていた。
「どうなるのかしら……」
「こっちはいい迷惑じゃ。王様の兵隊が来たって、わしらのもんを巻き上げるだけじゃないか。さっさとティリスの連中なんぞ、引き渡してしまえばいいのに」
「でもそうしたら、今度は俺らが工事に引っ張り出されるに決まってるぜ」
ぼそぼそと交わされる住民たちのささやきは、どれも憂鬱なものばかりだ。
この時代はまだ、軍を進める際に効率の良い食糧輸送ができるわけではなかった。全兵数の内、戦闘員は実質的にはわずかで、膨大な数の輜重隊を引き連れて行くのが常だったが、それにしても、下っ端の兵にまで充分な食事が行き渡るわけではない。特に禁止命令がない限り、行く先々で略奪を行うのは兵士の権利として黙認されていた。
場合によっては、ろくに準備を整えず、通り道にある集落すべてで食糧と人員を根こそぎ奪いながら進軍することさえある。兵を急がせる場合は特にその傾向が顕著で、今回の進軍も例に漏れていなかった。
そんなわけで、土地の住民にすればティリス軍も国王軍も同じ、ひたすら迷惑な存在でしかなかったのだ。
今はまだ彼らも到着したばかりで、一通り簡単な徴収が行われただけだが、もし戦が長引けばどうなるかは目に見えている。
町の中にも何人かの兵士が配置され、怪しい人物がいないか目を光らせていた。
「おい、そっちは立ち入り禁止だ」
建造中の寺院につながる道で、そんな兵士の一人が通行人を呼び止めた。
「へ? なんでですか」
ぼけっとした口調で問い返す通行人。兵士はなぜか、その人物の容姿や声がよく分からなかった。
「ティリスの連中が迫っているからな。収容所の奴らに知られてはいかん」
「はあ。それじゃやっぱり、ティリス人がいるんですね」
「……?」
なぜそんな事を訊くのか。兵士は眉を寄せた。街の住民なら知っていて当たり前のことだ。今はこの街を出入りするのは完全に禁止しているから、よそ者が入り込んでいる筈がないのに。
「貴様……」
怪しい奴、と言いかけた時には、もうそこに人はいなかった。
はてな、と兵士は目をこすり、きょろきょろする。周囲にそれらしい人影はない。
(疲れてるのか?)
立ったまま夢を見ていたんだろうか。いかんいかん、と彼は頭を振り、仕事に意識を集中させた。
もちろん彼は夢を見ていたのではなかった。姿を文字通り消した通行人、すなわちカゼスは、そのままとことこと街の中を歩いて抜け、外へ出て行く。
街道を西へしばらく歩いてからまやかしを解いて姿を現し、風を呼んだ。ふわっと浮かび上がり、少し上空から町の様子を観察する。緩やかな丘の上にうずくまる街は、上から見るとまるで廃墟かと思うほど、雑然としていた。
「守りには向いてないねぇ」
「籠城される心配だけはないでしょうね。突貫工事で壁を造りでもすれば別かも知れませんが、まあ無理でしょう」
肩の近くに漂っているリトルも、街の地理を記憶しながらそう言う。その内部に見える作動光が明滅を止めると、カゼスは小さくうなずいた。
「じゃ、戻ろうか。兵力なんかも記録できたかい?」
「もちろん終了しています。恐らく戦闘が展開されるのは丘の下……この辺りでしょう。伏兵の心配はしなくても良いでしょうが、相手が兵力をいくらか温存しておいて後から出してくるということは充分考えられます。斥候を必ず出しておくように進言して下さい」
おや、ここにも頼もしい軍師様がいたよ。そんな風情でカゼスはおどけた顔をする。
「いいのかい、口出ししちゃって」
「しょうがないでしょう。あなたの身に万一のことがあったら、私はここに取り残されるんですからね。冗談じゃありませんよ」
ぶつくさ言われ、カゼスの表情にふと暗い影が落ちた。
「ごめんよ」
「謝ってもらってもどうしようもないと、何回言わせたら気が済むんです?」
リトルは少々わざとらしいため息を聞かせる。カゼスは肩を竦め、それ以上この話題に触れるのはやめた。
風を操り、北西へ丘をひとつ越えた辺りに来ると、眼下に軍勢の姿が見えた。ティリス軍だ。国旗の掲げられた一番大きな天幕の前に降りると、周りにいた一般兵が何人か、驚いたように振り返った。
エンリルは天幕の外に出て、騎兵団長ゾピュロスと何事か話していた。重要な話なら天幕の中でするだろうから、例によって雑談といったところか。
「カゼス! 戻ったか。どうだ、エラード軍は到着していたか?」
ぱっと笑顔を向けられ、カゼスは気分が明るくなるのを感じた。どうもエンリルという少年は、人の心を支配する能力があるようだ。笑いかけられると、褒められた犬のように嬉しくなってしまう。
「ええ、残念ながら相手の方が一日ほど早かったようです」
カゼスは言ったが、あまり残念そうな声にはならなかった。
「街にティリス人の収容所があるのは間違いないようです。何人かにそれとなく訊いてみましたが、やはり奴隷として寺院建造に従事させられているようですね。今は寺院周辺に近付けませんでした。我々が迫っていることを内部に知られて、何らかの手段で呼応されるのを恐れているんでしょう」
「なるほどな。何か工事をしている気配はあったか?」
「籠城の準備、という意味ですか? いいえ、今のところは何も。壁も堀も造っている様子はありませんでした。どのみち守るには到底不向きな街です、丘の麓に出て来て勝負を挑むと思いますよ」
カゼスがすらすらと答えるので、エンリルはやや驚いた風に目をしばたたかせた。
「ヴァラシュをアラナ谷に行かせて正解だったな。こちらにも意外な軍師がいたわけだ」
「あ、いや……これは……」
ごにょごにょ。途端にカゼスは口ごもり、よく分からないことを口走る。リトルが精神波で苦笑を送って寄越したのには、赤面するしかなかった。
「すみません、つい差し出がましいことを」
第一、カゼスが言ったようなことは、戦慣れしたエンリルやゾピュロスならば言うまでもない当たり前のこととして意識していよう。恥ずかしくて縮こまったカゼスに、エンリルは屈託のない笑い声を上げた。
横でゾピュロスが重々しく口を開く。
「平地での戦いであれば、数も互角、負ける戦ではありますまい」
ティリスの内乱がおさまって、結果としてエンリルとも仲良くせざるを得なくなった彼だが、相変わらず仏頂面を固持している。少しは雰囲気から険が取れたものの、既にゾピュロスの笑顔などというものは、空飛ぶ羊と同格扱いされているほどだ。
対照的ににこやかなまま、エンリルがうなずいた。
「そうだな。では、連中がおかしな細工をせぬ内に、引っ張り出してやるとしよう」
街が見える丘の上に兵を展開してから、ティリス軍はもう一度、降伏の勧告をすべく使者を送った。
「できれば無用な犠牲を出したくはない。マデュエス殿が自ら出向いているのであれば、譲歩を引き出す望みも皆無ではあるまい」
向こうが原因を作ったとは言え、他国の内乱に乗じての侵攻である。エンリルの気勢もいまいち上がらないままだ。
だが、エラード側はやる気満々だった。降伏勧告の使者は、首だけになって帰って来たのだ。こちらの意気を殺ぐのが目的だったとすれば、生憎それは失敗だったが。使者の首を見たカワードは、頭から湯気を立てて怒った。
「人が親切に忠告してやってるってのに、なんことしやがる」
もっともエラード側に言わせれば、『なんてことしやがる』のはティリスの方こそで、何が忠告か、ただの脅しではないか、ということになるが。
相手の戦意を見せつけられ、エンリルも気を引き締めた。手を抜いて戦おうものなら、ひどい目に遭うだろう。
「しかし、なぜここまで苛烈な対応をしたのでしょうか」
はて、と首を傾げたのはアーロンだった。もの問いたげな目を向けたエンリルに、彼は難しい顔で続ける。
「いかに顧問官の力が絶大と言えど、仮にも王たるマデュエス殿がいる限り、極端な対応は出来ぬはずです。良くも悪くも、マデュエス殿ならばどこかしら逃げ道を残しておくでありましょうが、これではまるで、どちらかが全滅するまで剣を引かぬ、と宣言しているようなものではありませんか」
「確かに、マデュエス殿らしくないな」エンリルもうなずく。「何か、彼の御仁をここまで追い詰めるものがあるのか、それとも……」
エンリルが濁した言葉の続きを察し、アーロンは眉をひそめた。
あるいは、いまだ誰も知らぬ切り札があるのか……?
なぜここまで、というのは、実のところエラードの将兵たちとしても同じ心境だった。顧問官エリアンがとった対応を聞いて、多くの者が首を傾げた。たとえ戦時中でも、よほどの事がない限り使者を傷つけてはならない――それはデニス一般の不文律だ。
「顧問官殿はティリスに恨みでもあるのか?」
何もここまでせずとも、とサルカシュが言う。仮設司令部になっている総督府の一室をぐるぐると歩き回り、納得行かぬ、と何度も首をひねりながら。
「知らぬよ、そこまでは。だが、何らかの策があるのは間違いあるまい。我々には知らされていない秘策、あるいはとっておきの魔術でもあるのだろう。さもなくば、この機会に身中の虫を退治するつもりやも知れぬ」
粗末な腰掛けに座ったまま、スクラが冷静に分析した。彼が口にした言葉にひっかかるものを感じ、サルカシュは歩き回るのをやめて振り返る。
「どういう意味だ」
「『身中の虫』というのは……」
「言葉の意味なら知っておる。いくら俺でもそこまで馬鹿ではない」
スクラの揶揄するような声を、サルカシュはムッとして遮った。馬鹿にされたことに対する怒りではない。全幅の信頼を置いている友人が、自分を煙に巻こうとしている、そのことに対する苛立ちだ。
やれやれとスクラは肩を竦め、声のトーンを落とした。
「後に引けぬようお膳立てして、『虫』を早々に始末しようとするつもりかも知れぬ」
「だから、その『虫』は誰なのだ? おぬしには見当がついておるのか」
今にも剣の柄に手をかけそうな気迫でサルカシュが言う。スクラは黙って、ただ自分の胸を指した。
「…………!?」
瞬間、サルカシュの顔色が変わった。剣に伸びかけていた手がピクンと痙攣し、そのまま凍りついたように動きを止める。
驚愕。怒りと悲しみ。何か理由があるに違いない、あってくれ、というすがるような気持ち。そして、悪い冗談だろうといなしてしまいたい衝動。それらが相まってなんとも複雑な表情を生み出す。
彼の反応をじっくり眺めてから、スクラはようやく肩を竦めた。
「すまぬ、驚かせたな。別に、味方に突撃したり、夜陰に乗じて顧問官を刺したりするつもりではない。ただ俺は顧問官に従順ではないし、おぬしのように溢れんばかりの忠誠心を持っているでもない。言わば消極的な裏切り者だ」
「だからと言って」
「排除するほどとは思われない、か? 顧問官ならどうするか考えてみろ。危険な人間をいつまでも泳がせておく女ではあるまい」
「む……」サルカシュは低く唸り、ためらいがちに訊いた。「では、おぬしがその、例の谷の方に一枚噛んでいる、というわけではないのだな……?」
違うんだろ、な、とでも言うような目に、スクラは思わず失笑した。「どうかな」と意地悪く答えて相手を悔しがらせておいて、ごく平静に続ける。
「いずれにせよ、恐らく俺の隊が先鋒を命じられるだろう。そのまま見殺しにされるかも知れぬな」
「そんな事はさせん!」
即座に怒りを込めて断言するサルカシュ。スクラは口元に拳を当てて、懸命に笑いを堪えなければならなかった。
裏切ったのか、と疑いを抱いたのかと思えば、もうこれだ。本当に自分が戦場でいきなり寝返ったとしても、その後で窮地に陥れば結局この男が助けに来るのではなかろうか。
サルカシュは戦闘能力に関しては文句なしに一流だが、しかし、馬鹿だ――と、陰口を叩く者は少なくない。人柄の良さで敵は多くないが、どこにでもやっかみ屋はいる。
(だが、決して愚かではない)
いつもぽんぽん馬鹿馬鹿と言っているスクラだが、内心ではサルカシュのことをそう評価していた。確かに理詰めでものを考えるのは不得手のようだが、人を見る目がある。誰に助言を仰ぎ、誰の言葉を信じ、誰の行動に従えば良いのか。それを見極めることができるのだ。誰彼かまわず盲信する類の愚か者ではない。
現在のところ彼の指針となっているのが自分らしい、というのは時折どういうわけかと首を傾げてしまうが、まあ、それならそれでこちらとしても心強い。
「むろん俺とて、無駄死にするつもりは毛頭ない」
スクラはそう言うと、ふとある考えを抱いて笑みを消した。
「ティリス側が寝返ってくれと打診して来たら、いっそのことと思わぬでもないしな。おぬしならばどうする?」
「それだけは出来ぬ」
即答だった。サルカシュはじっとスクラを見据え、首を振った。
「だから、おぬしもそんな真似はしないでくれ。おぬしと戦っても負けるだけなのは分かっているが、だからこそ……だからこそ、俺はマデュエス様を見捨てることは出来ぬ」
彼には、八年前に死んだ先王から受けた恩義がある。マデュエス当人がいくら愚昧な君主であろうと、サルカシュの気性では敵に寝返ることはできなかった。
顧問官さえいなければ。
その淡い望みが、彼を王の下につなぎとめているのだ。
やはりか、とスクラは内心肩を落としたが、面にはその気配さえ見せずうなずいた。
「だろうな。まぁ仮定の話だ、そう悲愴な顔をするな」
悲愴、と言われて、サルカシュは思わず妙な表情になった。そんなに凄い顔をしたか、と首を傾げる彼に、スクラは今のやり取りがなかったかのように話を続ける。
「ただ、どうにも分からぬことがある」
「おぬしでも分からぬ事があるのか」
からかうようにサルカシュが言ったが、スクラは苦笑さえしなかった。
「俺とて万能ではない。知り得ぬことばかりはどうしようもないさ。顧問官が俺という捨て駒の代わりに何を取るつもりでいるのか、そこまではな。兵力をどぶに捨てるようなことをするとは思えぬが……」
と、そこで招集の合図が響いた。やれやれと彼は頭を振って立ち上がる。
「所詮、セルの駒にゲームの行く末は分からぬということか」
何やら哲学的な台詞をつぶやき、彼は天幕を後にした。
丘の間に広がる平地を挟み、ティリスとエラードの両軍は初めて正面から対峙した。
軍旗のはためく軍団が整然と並び、開戦の儀式として、双方の口上が述べられる。天にも届けと大音声を張り上げて相手を罵倒し、自軍に神の加護を願い、士気を高めるのだ。
そして、合図の角笛が響き渡ると共に、雪崩を打って軍勢が走りだした。
伝統的な戦いでは、まず弓兵が迫り来る敵に矢を射かけ、互いの歩兵がぶつかる前に少しでも相手の数を減らしておく。それから、楯を並べた歩兵団同士が激突し、槍と短剣とで押し合うのだ。騎馬兵は遊撃部隊で、歩兵隊の露払いと敵に対する奇襲を行う。
とは言え、魔術師という有利な条件をもつティリス軍が、今まで通りの戦い方をする筈がなかった。
弓兵の援護もないまま殺到する騎兵隊を見て、サルカシュは眉を寄せた。歩兵をいったん止まらせ、前線に弓兵を出して、射程に入るのを待ち受けさせる。熟練の弓兵が並んで地面に片膝をつく。地面に矢を幾本も突き立ててから、最初の一矢をつがえて、厳しい目で標的となる騎馬の姿を見据えて。
「ティリスの新王とは、この程度か」
サルカシュは失望のあまり、チッと舌打ちした。通常なら歩兵が出るべきところに騎兵を投入して、撹乱するつもりだったのかも知れないが、いくら精強をもって鳴るティリス騎兵と言えど、矢の雨にさらされては、敵陣に辿り着くまでに相当数が消耗してしまう。こちらの陣に到達する頃には陣形も大きく崩れているから、少数の騎兵に多数の歩兵で当たれば撃破できるだろう。つまり騎兵をいきなり繰り出した意味は皆無だ。
兵を無駄死にさせるとは将たるに値せず、とサルカシュは断定し、弓兵に構えの号令を下した。ザッ、と弓が上を向き、弦が引き絞られる。
狙って下さいと言わんばかりに押し寄せるティリス軍。その先頭が射程圏内に入ると、サルカシュは不快感を堪えて命じた。
「放て!」
いっせいに弦が唸った。ザアッと音を立てて矢が空を飛ぶ。弓兵は放った矢が地に落ちるのを待たず、次々と新しい矢を引き抜いてつがえ、機械的に放ってゆく。空が飛ぶ矢に覆われて薄暗くなるかというほどだ。
放物線を描き、矢の雨がティリス軍に降り注ぐ――かに見えた、刹那。
ドウッ、と、突風がティリス軍の背後から駆け降りた。
まるで見えない水が堰を切って暴れだしたようだった。矢はことごとく勢いを殺がれ、風の手につかみ取られてあらぬ方へバラバラと落ちて行く。ひどいものはエラード側に吹き流されてくる始末。
「な……! なんだ、これは!」
目を開けていられないほどの風に、サルカシュは狼狽し、指示を出す機を逸した。突然のことに度を失ったのは彼だけではなかった。弓兵たちはどうしたら良いのか分からず、迫り来るティリス軍を見つめたまま、あるいはただ青ざめ、あるいはじりじりと後ずさっている。
ハッと我に返ったサルカシュが、弓兵を下げようとした時には、もうティリス騎兵の蹄が彼らを蹂躙していた。
逃げ惑う部下を叱咤し、どうにか統制を取り戻そうとしながら、サルカシュ自身も馬に乗って剣を抜いた。接近戦用の装備を備えた歩兵だったならまだしも、弓兵では騎馬兵相手にかなう筈もない。どうにか弓兵たちが退却した時には、すでに相当数が騎兵に踏みにじられていた。
味方の士気は早くもどん底まで落ちている。サルカシュは舌打ちし、敵の指揮官を探した。騎兵を率い、自らも剣を奮っている巨躯の男に気付き、彼は馬首を返してそちらに突進した。
「名高きアーロン卿とお見受けする! いざ尋常に勝負!」
怒鳴ると同時に打ちかかる。ティリスの将は咄嗟にその一撃を受け、ガッ、と跳ね返した。サルカシュを振り返った目が面白そうに細まり、口元がにやりと歪む。
「名のある武将を討って手柄を立てたいのは分かるが、相手を間違えておるぞ」
「なに? では卿は……」
問いながらも、鋭い突きを繰り出す。真面目に戦う意志のある相手には厳しい一撃だったであろうが、それは空を切った。
「万騎長、カワードだ! すまぬが、おぬしに用はないのでな!」
陽気に言い、軽く身をかわしたカワードはおどけた礼をして、騎兵に手を振る。合図を受けた部下たちと共に、彼はサルカシュを振り向きもせず、そのままエラード軍の陣をえぐりとるように駆け抜けて行った。
先陣に当たっていたサルカシュの軍が混乱し、後方の部隊は何があったのか把握できずに混乱していた。通常の戦闘であれば、こんなに早くに敵の騎馬兵が突っ込んでくる筈がないからだ。
その隙に、まやかしの壁の向こうに潜んでいたアーロンの部隊が、突然姿を現して横から攻撃を仕掛けた。
「どうなっているんだ!?」
さしものスクラも、予想外の展開にうろたえた。それまで何もなかったはずの場所からいきなり軍勢が現れたのだ。これが魔術なのか、と彼は唇を噛む。こんな事態には全く手の打ちようがなかった。
兵士の混乱はもう、どうしようもないところまで行っていた。わけがわからないまま逃げ出す者も少なくない。追い打ちをかけるように、エンリルとゾピュロスの率いる本隊が正面から押し寄せた。
(このままでは……!)
壊滅する。恐怖を克服するべく努めている将たちでさえ、危機感に鳥肌が立った。
退却の合図を出そうと彼らが手を挙げかけた、まさにその時。
突然、エラード軍の上空に一点の光輝が現れた。
「去れ、神の国を荒らす蛮人どもよ」
戦場に響き渡ったその声は、人間のものではなかった。戦いに全神経を集中させていた者でさえ、有無を言わせぬ力に引きずられるように、手を止めて空を仰ぐ。
「――! あれは」
カゼスは息を呑み、立ち竦んだ。光はゆっくりと、時空の狭間に開く扉の如く広がってゆく。その中から現れる、一人の……天使。
空高くに小さく見えるその姿はまだ幼かったが、しかしカゼスには、それが誰であるか残酷なまでにはっきりと分かった。
「ヤルス」
つぶやきは、声になったのか、ならなかったのか。乾いた口の中に舌がはりつく。一年前、初めて落とされたデニスで出会った時、青年となったヤルスは言っていた。かつては布教のために様々な能力を有していた、と。
誰もが心を奪われたように、その光景に見入っていた。強力な催眠効果は、地上にいる数万の軍勢のすみずみまで届いていた。催眠にかかる筈のないエンリルでさえ、呆然と天使の姿を見上げている。
「御使いだ……神が救いを遣わして下さった」
誰が言ったのか。そんなささやきが、エラード兵の間にさざ波のように広がる。
「救いが現れた」
「あれこそ天の使いだ」
恍惚とした表情で、エラードの兵士たちは天使を仰ぎ見る。逆に、ティリス軍には戦慄が走った。そうと意識する間もなく、人々の感情は完全に操作されてしまったのだ。
「駄目だ……駄目だ、駄目だ、駄目……」
口の中で何度も繰り返し、カゼスは首を振った。
言いようのない、とてつもなく嫌な予感。
「血に飢えた蛮人の王よ、神の国を穢した報いを受けるが良い!」
威厳に満ちた声が告げると同時に、天使が片手を上げる。その手の周囲に膨大なエネルギーが集まり、見る間に巨大な光の槍となる。
それは、一瞬の出来事だった。
「危ない!」
カゼスが叫び、放心しているエンリルを突き飛ばす。天をも引き裂く雷が走り、地を揺るがす轟音と共に、光の槍が魔術師を貫いた。
「―――!」
悲鳴が数多の口から上がった。ティリス軍の頼みの綱、精神的な旗印でさえあるラウシールが。守護天使とさえ言える存在であったラウシールが。
エラードの神に、負けた――!
人の形をした消し炭が、ぐらりと傾いで倒れる。
衝撃が戦場を駆け抜けた。
それまで圧倒的に優勢であった筈のティリス側は、はや浮足立ち、命令を待たず退却を始めてしまう。エラード側は一気に勢い付き、攻勢に転じた。
もはや立て直しはきかなかった。機を窺っていた無傷のエラード王親衛隊が、怒涛のように丘を駆け降り、敗走するティリス軍に襲いかかる。
いかにアーロンやカワードたちがすぐれた武将であっても、どうにか陣形を保ちながら退却するのがやっとだった。何より彼ら自身が動揺していたのだ。
かくして、ティリス軍はハトラから遠く離れた丘陵の陰まで、追い戻されることになった。どうにか追撃を振り切った時には、もはや日暮れだった。
惨敗を喫し、ボロボロに傷ついた兵士たちは、それでも天幕を張って野営の準備をする。やがて、エンリルの姿が夕日の残照の中に浮かび上がった。
マントにくるんだ遺体を前に乗せ、うつむきがちに手綱を握っている。主人の気持ちを察してか、馬の足取りも重い。
「エンリル様……」
ご無事で、と出迎えた武将たちは、かける言葉をなくし、無言で立ち尽くす。
「しばらく一人にしてくれ」
それだけ言うと、エンリルはカゼスの遺体を抱いて天幕に姿を消した。




