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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
39/85

三章 盟約 (3)



 翌朝になってから目が覚めたカゼスは、自分がどこにいるのか分からなくて、しばし茫然とした。途切れた曖昧な記憶をたどり、ハッと我に返って周囲を見回す。と、ベッドの足元で毛布が何かに引っ張られた。

 見ると、ベッドにもたれかかって床に座ったまま、アーロンがうつらうつらしている。剣を抱いた腕に包帯が目立つ。

 自分が何をしたか思い出し、カゼスは泣きたくなった。

(なんて事をしたんだ)

 悪夢がどうとか昔のことがどうとか、そんな事を考えるだけでも腹が立った。

 起こさないようにそっとベッドから降り、アーロンのそばに膝をつく。幸い怪我をしているのは右腕だけのようだ。呪文を組み立てて解放する手間は、ほとんど意識しなかった。包帯の上にそっと手を乗せた時には、ごく自然に『力』が動いて傷を治癒させていた。

 その気配に気付いたのか、アーロンが身じろぎして目を覚ます。

 自分を覗きこんでいる悲しそうな女が誰なのかすぐには分からなくて、アーロンはどきりとした。まだ夢を見ているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。目をこすってから改めて見ると、よく知っているカゼスの姿があった。

(今のは何だ……?)

 ともあれ、曇り顔のカゼスに何か言わなくてはならない。だが昨日のことを話題に出すのもどうかと思われ、結局アーロンは「おはよう」と間の抜けた台詞を吐いた。

 さすがにカゼスも脱力した顔を見せ、がくりと首を垂れる。

「おはようございます……じゃなくて」

 色々訊きたいことや言いたいことがあるのに、言葉が詰まってしまう。

 そんな彼女には構わずアーロンは立ち上がり、まるで何も気にしていないというように、剣を佩き直して軽く首や肩を回した。それから包帯を取り、傷が消えているのを確かめると、珍しくおどけた笑みを浮かべた。

「夢を見ていたらしい」

「…………」

 下手な慰めに、カゼスは曖昧な表情をするしかなかった。気にするなと言いたいのは分かる。だが、それに甘えて笑ってしまうことなど出来なかったし、かと言って謝っても再度はっきり「気にするな」と言われるだけだろう。

 黙ってしまったカゼスの頭を、アーロンは軽く撫でた。

「さあ、顔を洗って、カイロン殿や王女殿下がどのような結論を出されたか、伺いに行かなければ」

 はい、とカゼスはうなずき、身だしなみを整える。

(今度また悪夢が来たら……)

 その時は、逃げないで向き合おう。

 声には出さず、一人胸の内で決意する。自分が壊れてしまうだけならまだしも、周囲の人間に害を及ぼすのであれば、もう棚上げにしてはおけない。

(逃げないで、何があったのかきちんと見届けよう。怖くない、もう済んだことなんだから怖がるだけ無駄なんだ)

 自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。すべては終わったこと、過去のことで、今それを知ったところで何が変わるわけでもないのだ、と。

 ――たとえその時、何があったのだとしても。


 朝食後にはもう、カイロンとアトッサは結論を出していた。

「それでは、高地はティリスと同盟を結ぶ、と?」

 さすがにそこまで言って貰えるとは期待していなかったので、アーロンもカゼスも、揃って驚きをあらわにした。

 既にアトッサとカイロンが署名し、印章を捺した正式な条約の証書を二組渡され、カゼスは念入りに内容を確かめる。

 高地は一切他国に対し侵略行為を行わず、またティリス以外のいかなる国とも同盟を結ばぬこと。その代わり、他国が高地に対して侵略行為を仕掛けた場合には、ティリスは高地の要請に応じて援軍を送ること。また、二国の関係は平等であり、進貢の強要など一方が他方に隷属を強いることがあれば、この条約は失効する……等々。

 目を丸くしているカゼスに、アトッサは悪戯っぽく笑った。

「どうして、と言いたそうじゃな。答えは簡単、高地とティリスが現在のデニスで一番目と二番目に貧乏な国だからだ」

 だから、同盟を結んでもそう簡単にデニス全土が戦乱に呑み込まれるだとか、四国の勢力バランスが大きく変わるとかいった心配がない。

「それに、他の二国の情勢も芳しくない。エラードでは腰抜けのマデュエス王が顧問官とつるんで、怪しげな神を崇めるよう諸侯に強要しているとのことだ。寺院の建造に金をつぎ込んでいるゆえ、民は塗炭の苦しみに喘いでおると聞く。さような国と手を結べば、我が国に被害が広がるのは必然だろう」

 日ごろはあまり政治など関心がないように見えるアトッサだが、知るべきことは知っているようだ。淡々と、仮説の証明でもするように話を続ける。

「アルハンは今のところ一番政情が安定しているが、それも現国王ヴァルディアの強力な抑圧が効いているからだ。恐らく、ヴァルディアの跡継ぎが彼以上に暴君であるか一転して名君であるか、どちらかでなければ、次代でアルハンは混乱期を迎えるであろうよ。第一あの国は豊かで、北方への進出を図っておる。今は海路で様子を見る程度にしているようだが、陸路を確保するつもりになればこの国など食い物にされるがオチだ」

 そこまで説明し、彼女はにっこりした。

「それゆえ、ティリスと手を結んでおくのが現時点では最良の選択だと思うのだ。エンリル王がこちらの信頼に応えてくれることを期待しているぞ」

「しかと申し伝えましょう」

 畏まってアーロンが答える。アトッサは満足そうにうなずくと、カゼスたちにペンとインクを差し出した。

「ではティリス王の名代として、ラウシール殿と万騎長アーロン卿の署名を」

 署名が揃った証書は革張りの台紙に挟まれ、ティリス側と高地側に一通ずつ分けられた。カイロンは二人の署名を確認して台紙を閉じ、にこりとした。

「これで遠路はるばるおいでになった目的も、無事に果たせたというわけですな。帰路はこそこそする必要もないことですし、馬を用意させましょうか」

 軽い皮肉をこめて言ったのだが、苦笑と共に返ってきたのは、

「いえ、帰りは一瞬ですから」

 というカゼスの言葉だった。一瞬、と聞いてカイロンは目をぱちくりさせ、一拍おいてからぎょっとなった。

「まさか、ティリスまで『跳躍』を?」

「ええ。出る前に印をつけておきましたから」

 人がいたりして騒ぎにならないよう、一室を完全に立ち入り禁止にして専用の部屋にしてあるのだ。

「しかし、あまりにも距離が……」

 技術者とは言え、彼は昔『入門』を済ませて初歩の術を習ったことがあり、デニスの力場が桁違いに強いことは実感として知っていた。マティスやキースからも聞いたし、エリアンが力場固定装置を作ろうとして一度失敗したのもそのせいだ。長距離の『跳躍』がいかに危険かぐらい、カイロンにも分かった。

 だがカゼスは「大丈夫ですよ」と呑気に笑って見せる。

(馬鹿な。そんな簡単な言葉で片付けられるものか)

 カイロンはまじまじと眼前の魔術師を凝視した。これだけ高レベルの力を扱えるということは、それだけで一種の才能だ。キースもマティスも、魔術を行うのに道具の助けを借りなければ危険すぎて、ほんのわずかな手順の狂いで精神崩壊を起こしかねないと言っていた。だからこそカイロンは、彼らの為に媒体となる道具を作ってやったのだ。

 それなのに。

(出来るというのか? だとしたら……)

 カゼスが特別な存在なのか、それとも自分がミネルバを後にしてわずか一世紀の間に、飛躍的な魔術的進歩があったのか。……恐らく前者だろう。ゆうべの出来事と言い、どうもカゼスは何か一般的とは言い難いものを背負っているようだ。

 そこまで考えると、カイロンは軽くうなずいて見せた。

「そうですか。ではこちらにも印を残して行かれるが良うございましょう。何かあればすぐにも来られるように」

 手を差し出し、カゼスが感謝の表情でそれを握ると、カイロンはミネルバの公用語でそっとささやいた。

「私で力になれることがあれば、いつでもおいでなさい」

 思いがけず温かい言葉をかけられ、カゼスはいささか面食らった。が、すぐに嬉しそうな笑顔を見せて礼を述べる。

 それから彼女は、ティリスの一行を近くに集めてアトッサに頭を下げ、呪文を唱えた。

 光の壁が彼らの周囲を巡り、その姿と共に消える。言葉通り一瞬でいなくなったので、いまさらながらアトッサが感心した風情で言った。

「便利なものだな、魔術というのは。カイロン、そなたはこういう事はできぬのか」

「生憎と、私はラウシール殿ほど魔術の才に恵まれてはおりませぬので」

 真面目くさってそう答えてから、彼は皮肉っぽく付け足した。

「残念ながら、アトッサ様がティリスにまでお忍びでお出かけになるのを手伝うことは、できかねますな」

「だ、誰もそのような意図で言うたのではないわ!」

 あながち外れとも言えない厭味に、アトッサは赤くなって憤慨した。おや左様ですか、などと王女をいなし、カイロンはさっさと日常の仕事に戻って行く。

 その背中に向かって、アトッサは思いきり、いーだ、と歯をむいたのだった。


 王女のたわいない悪意を受け流して自分の部屋に戻ったカイロンは、そこに人がいることに気付いて眉を寄せた。自分と同じ銀髪と赤い目の人間。

 嫌な奴に出くわした、とでも言うような彼の表情に、訪問者は肩を竦めた。

「まるで浮気の現場でも見付かったみたいな顔ね」

 カイロンは答えない。何の用だ、と問いさえせず、背を向けようとする。

「ねぇ待って、ちょっと!」

 慌てて女が駆け寄り、その腕をつかむ。それから自分の行動にばつが悪くなったように手を放し、目をそらしたまま小さめの声で言った。

「ケンカしに来たんじゃないのよ。今日はその……ちょっと、会いたくなったから。それだけなの。それでも駄目なの?」

「エリアン、もう会わない方がいいと言ったはずだ。話をすれば、じきにまた口論になる。帰ってくれ」

 冷たいと感じるほど平坦な口調でカイロンは答え、「さあ」と無情に転移装置を指さす。途端にエリアンが声を大きくした。

「どうしてそんな事が言えるの!? 私たち一時はあんなに……、それとも、あれは私の思い違いだって言うの?」

 かつて愛し合った相手から噛み付くように言われ、カイロンは苦い表情になった。相手に対する嫌悪感からではなく、自分自身の古傷をえぐられて。

 重苦しい沈黙を挟み、ようやくカイロンは絞り出すようにうめいた。

「君は変わった」

「変わったのはあなたの方よ」

 ぴしゃりと言い返される。

(かも知れない)

 彼自身そう思ったが、口には出さなかった。黙り込んだカイロンの心情をどう読み取ったのか、エリアンは悲痛な口調で続ける。

「私はあなたの何? 私にどうしろというの? あの子ももう六歳になるのに、あなたは一度も顔を見に来てくれないじゃない」

 その言葉にカイロンは危うく怒声を上げそうになり、ぐっとそれを押し止どめた。

(どうしろと、だと? それはこっちの台詞だ、カラムの中で『培養』されている息子を見ろというのか!? 素晴らしい、完璧な出来だ、とでも称賛しろと?)

 『御使い』による宣教を行うために、マティスと組んで始められた計画。そのマティスも、彼女が作っていた『悪魔』も、もう存在しないのに、血を分けた子供はカラムの中から解放されない。有機アンドロイドとして理想的な教育を施され、今では多分、そこいらの大人も顔負けの知能を有しているはずだ。情緒的発達も実体験も無視して。

(それがあの子の幸せだと思っているのか? それとも、あの子のことなど本当はどうでもいいのか?)

 唇を引き結び、拳を握り締めて立ち尽くす。エリアンの方を見ると殴りつけたい衝動を抑えられなくなりそうで、彼は顔を背けていた。

「……何も言ってくれないのね」

 苛立ちと、ほんの少しの悲しみがまざりあった声。だがカイロンは振り向かなかった。

「帰ってくれ」

 短く、それだけ言う。これ以上彼女の相手をしていたら、高地の平和も王女の未来も何もかもをかなぐり捨てて、エラードの首都へ息子を奪い取りに乗り込みかねない。

 しかも、そうしたところで恐らく当の息子を殺すしかないと分かっていて。

 生身の人間に特殊な組織を組み込んで新しい能力を付加するのは、エリアンの技術をもってすれば容易なことだったが、その逆は、彼らの知り得るどんな技術をもってしても不可能なのだ。

 自分たちが死んだ後も恐らく長く生き続けるであろう“未来の技術”を、そのまま放置しておくわけにはいかない。自分が死ぬ前に何らかの形で処分しなければ、デニスにどんな恐ろしい影響を与えるか知れたものではない。

 エリアンは構わないと言うだろうが、カイロンはもうこれ以上デニス本来の文明や文化の発達を乱したくなかった。ましてや息子は……ヤルスは、兵器になるべく加工されているのだ。無責任に放置出来るはずがない。

「誇りにさせて見せるわ」

 エリアンの声がそう言ったが、カイロンは意識を閉ざし、何も聞くまいとしていた。

「あなたが、私の夫であの子の父親だと胸を張って誇れるように。すべての人に自慢せずにおれないぐらい、素晴らしい息子を持ったんだと証明してみせる!」

 まるで宣戦布告のような台詞を残し、エリアンはいなくなった。

 彼女の気配が消えてもしばらく、カイロンは同じ姿勢のまま動かなかった。

(どうしてこんな事に……)

 無意識に、かつてカゼスがつぶやいた言葉を繰り返す。

 誰もいない室内で、彼は一人、拳を机に叩きつけた。


 ティリスに戻ったカゼスを出迎えたのは、幸いにもアーザートの顔を知らないクシュナウーズだった。

「おう、お嬢ちゃんも帰ったか。んじゃ早速作戦会議といくかね……あん? なんだ、その人相の悪い奴ぁ」

 この人に言われちゃたまらないな、などと苦笑しながら、カゼスはアーザートを振り返る。本人は何を考えているのか、無表情だ。

「新しく護衛に雇ったんです。名前はアーザート」

「ふーん……」

 胡散臭げな表情でアーザートを眺め、クシュナウーズは肩を竦めた。

「ま、いざって時に人を殺せる奴が一人ぐらいそばについてねぇと、ラウシール様の身が危ねえってこともあらぁな」

 事情の見当がついたのか、痛烈な皮肉を飛ばしてさっさとエンリルに知らせに行く。それを見送り、カゼスはやれやれとため息をついた。

「また護りの術をかけておきますね。あなたの方が先に誰かに殺されちゃ、洒落になりませんから。いまさらですけど、王宮内では猫を被っていてくださいよ」

 言いながら、アーザートに軽く手を触れる。元刺客の護衛は「分かってる」と短く答えただけだった。

 一度はラウシールの命を狙ったが、その偉大さが分かり、帰順した――ということにしておこう、と二人で決めていたのだ。三文芝居だと思うのはお互い同じだったが。

 案の定、彼らがエンリルの前に出向く頃には、あの場に居合わせた兵士はもちろんカワードやウィダルナまでが、殺気立って押しかけてきた。

 ラウシールの命を狙った者を国王の前に出すなど出来る相談ではない、というのも理由のひとつだったが、打って変わって当人がおとなしくしているので、最初は今にも飛びかかりそうだった兵士たちも、徐々にではあるが落ち着きはじめた。

 会議室には既に重要な面々が揃っていたが、エンリルが騒ぎの元凶を見てみたいと言うので、特別にアーザートも入室を許可された。

「そなたが先日の刺客か。見ればまだ若い……敵地に単身乗り込む度胸だけはあるが、腕はまだまだというところだな」

 感情の読めない声でエンリルが言い、カゼスはハラハラしながら二人を交互に見る。アーザートは膝を折って頭を垂れたまま、微動だにしない。

「さしずめ報酬も安かろう。ティリスも甘く見られたものだ」

 エンリルは鼻を鳴らし、蔑む色を隠そうともせずにアーザートを見下ろした。

「牙の抜けた獅子など犬にも劣る。捨て置いても支障あるまいが、こそこそと腐肉を漁られるも不愉快。どうしたものかな」

 そこまで言わなくても、とカゼスは眉をひそめた。アーザートを挑発して、本当に帰順するつもりがあるのかどうか確かめようというのだろうが、手ひどい侮辱の言葉を正面から投げ付ける様は、まるで本物の暴君のように思われる。

 短い間があってから、アーザートが許可を求めるようにカゼスをちらと見た。驚きながらもカゼスがうなずくと、彼は顔を上げてはっきりと言った。

「宮廷の作法に疎い身としましては、陛下のお言葉をただ受け止めるより他に身の処しようを知りませぬ。されど番犬ほどのはたらきはお目にかける所存。お疑いならば所詮畜生にも劣るこの身ゆえ、陛下のお心のままになされますよう」

 その物言いに目を丸くしたのは、カゼスだけではなかった。誰もが少なからぬ驚きを示し、言葉を失ってしまう。

 ただ一人冷静にアーザートを見つめていたエンリルが、ややあって口を開いた。

「よかろう。ならばせいぜい、己の首に縄がかかっていることを忘れぬよう、務めを果たすのだな。下がれ」

 命じられてエンリルに背を向け、アーザートは堂々と退出する。その前にカゼスのそばでほんの一瞬口をへの字にして見せたので、危うくカゼスは笑いそうになってしまった。

 アーザートの姿がカーテンの向こうに消えてから、エンリルが深いため息をついた。

「あの者にまともな護衛の務めが果たせるとは期待できぬぞ、カゼス。良いのか」

「色々と事情がありまして」

 カゼスは苦笑してそう答えた。察しの良いエンリルはなんとなく理由を感じ取って、ますますしかめっ面になる。

「ならばせめて遠ざけておくべきではないか? いつ寝返るかわからぬぞ。あの者にとってはそなたも、利用価値のある品物、あるいは金貨の袋にしか見えておらぬだろう」

 カゼスは少し困った笑みを浮かべた。

「頭から悪人だと決めつけられたり、いずれロクなことをしないと皆にささやかれたら、予想通りにしてやろうじゃないか、っていう自暴自棄な気分になりませんか? だから、良いことは期待できなくても、それを理由に逆の予想を押し付けるのはよしましょうよ」

 ね、と言われ、エンリルはもう一度軽いため息をついたが、それ以上この件に触れるのはやめた。

「では、このぐらいで本題に入ろう。エラード侵攻の件だ」

 さらっと言われた言葉に、一拍置いてからその場がどよめいた。直前のアーザートの件など一瞬で全員の頭から消し飛ぶ。

「まだ決定したことではございませぬぞ」

 騎兵団長のゾピュロスが釘を刺す。が、エンリルはまったくそれを気にかけなかった。

「余の意志は決まっている。それに状況も揃った」

 言いながら、カゼスたちが持ち帰った高地との誓約書を広げ、一同に見えるようテーブルの上に置く。

「高地は動かぬとの旨、約束をとりつけた。背後の心配はしなくても良いわけだ」

「しかし、先の内乱で被った痛手はまだ……」

「遠征にかかる費用のことも……」

 わいわいと、それぞれの立場から声を上げる官僚たち。エンリルは眉を片方上げ、皮肉っぽい表情を作って見せた。

「活発な議論は望ましいことだが、その前にまず人の話を最後まで聞く気はないか?」

 途端に、面白いほどぴたっと座が静まる。エンリルはクシュナウーズに視線を向け、話を続けた。

「先日余の元に密書が届いた。エラードのアラナ谷領主、ウタナ卿よりのものだ。それによれば昨今、エラードとティリスの国境付近を荒らし回っているのは盗賊などではなく、エラード軍の一部であり、捉えたティリス人を奴隷としてハトラでの寺院建造に従事させているとのこと」

 ざわ、と顔を見合わせる者が多数。

「アラコシア領主アルデュスが盗賊に悩まされ、息子のシェラーがその討伐に当たっているも、なかなか成果が上がらぬとは聞いていた。相手が盗賊ではなく訓練された軍隊となればそれも致し方あるまい」

 エンリルの言葉に、シェラーの弟であるヴァラシュがいささか皮肉っぽい表情を見せた。さすがにこの場で厭味を言いはしなかったが、彼にしてみれば兄も父も愚かすぎる、というところだろう。

 もっとも、彼自身の意見としては、エンリルもまた愚かであった。

 密書はアルデュスからヴァラシュを経由してエンリルに渡された。その内容が判明した時、ヴァラシュは言ったのだ。これをどう扱えば一番効果的かは申し上げるまでもありますまい、どのみち陛下がこれをどう処理されるかは分かっておりますから――と。

 実際、エンリルも分かってはいた。この密書の存在をエラードの王都ラガエに知らせ、内乱を煽って双方が疲弊したところに攻め込むのが賢明だ、ということは。だが彼は、そうしたくはなかった。だから馬鹿正直に盟約などを結んだのである。

 エンリルは、ヴァラシュの皮肉な視線が自分にも向けられているのを感じて、困ったような微苦笑を浮かべたが、何も言わず話を進めた。

「密書の真偽はクシュナウーズが確かめて来た。皆に報告を」

 促され、クシュナウーズが口を開く。この男の横柄な物言いを嫌う何人かの官僚が顔をしかめたが、効果はなかった。

「ちょっくらイシルの力を借りて、国境の偵察をしてアラナ谷まで行って来た。エラードの連中がティリス人を捕虜にとってるのは間違いねえ。ハトラまでは確認に行けなかったがね。それからアラナ谷の方は、こっちがどう出ようとマデュエスに対して反旗を翻すつもりだ、と言っていた。実際、やたら頭のいい奴が領主のウタナについてやがる」

 いつもの口調で言い、彼はちらっとヴァラシュを見やった。

「安心しな、女好きって面じゃなかったから、おまえさんの敵にゃならんだろうよ」

 ぼそっと付け足された一言に、何人かが失笑する。ヴァラシュに反撃の隙を与えず、クシュナウーズは話を続けた。

「こっちが楽していいとこだけ貰おうってな魂胆でいると、ひでえしっぺ返しをくわされそうだぜ。腰据えてかかんねえとな。ただ、まだお互い探り合いの状態で、マデュエスを倒した後でどうするのか、って件は今んとこ内緒話の段階だ。いずれにせよ、ハトラまで兵を進めねえと奴隷にされてるティリス人を解放するのは無理だろう、とは言っていた」

「マデュエス王に揺さぶりをかける程度では駄目だ、ということか」

 ゾピュロスが面白くなさそうに言う。「ああ」とうなずいてからクシュナウーズは、エンリルの隣にいるオローセスに目を向けた。

「あの王がどんな奴かってのは、先王陛下がよくご存じでしょうがね」

「……いかにも。小心者で臆病だが、言い逃れとごまかしの達人だ。実際にハトラを制圧して捕虜を解放せぬ限り、そのような事実があったことすら認めぬであろうな。もっとも、そうしたところで誰か貴族の独断だと言ってごまかす可能性は高いが」

 ため息をつき、オローセスはやれやれと頭を振る。

「討たねばなるまい」

 短く言い、彼は息子を見つめた。エンリルは気の進まない様子で黙っていたが、じきに表情を改めてうなずいた。

「ハトラの虜囚を解放し、二度とこのような事態を招かぬよう、ラガエのマデュエス王ならびに顧問官を討つ。此度の遠征は長引くやも知れぬゆえ、各々領地に必要な伝令を遣わしておくように」

 命令が下されると、官僚や武将たちの反応は素早かった。それぞれが必要な準備をするべく、動き始める。立ち上がりかけたクシュナウーズを、エンリルが呼び止めた。

「クシュナウーズ、そなたはヴァラシュ及びイシルと共に船団を率い、エラード南海上を迂回してアラナ谷へ向かえ」

「谷へ? あの連中の援護をすんのかい」

 いささか不満げに応じたクシュナウーズだったが、続く言葉に表情を改めた。

「そうではない。ウタナの読み通りに運べば、谷では一度たりとも戦闘になるまい。だがアルハン側から火事場泥棒が現れる可能性は充分に考えられる。その際、少しでも水上戦に強い者がいた方が良かろう」

「なるほどね、了解。またお嬢ちゃんと別行動ってのは気に入らねえが、俺様の出番とあっちゃしょうがねえや」

 おどけた口調で応じて、ちらっとカゼスに目を向ける。だが、今ではカゼスにも相手の微妙な口調の違いが分かる。普段と違って真面目にエンリルの言葉を受け止めているのが感じられ、彼女は怒る代わりに励ますような笑みを返した。

(戦争、か。不思議なもんだな、なんだか当たり前のようにそれを感じているなんて)

 カゼスも自分なりの準備を整えるために自室へと足を向ける。

 一市民として故郷にいた時は、戦争など縁がなかったし、税金の使途に戦費が占める割合など、少なければ少ないほど良いと考えていた。平和は尊い、それは当然の事実。

 だが、この国、この時代は違う。他国と戦って得た富を民に配るのは長たる王の務めであるし、多くの成人男子にとって、兵役は手っ取り早い収入への道なのだ。あまり長く平和が続きすぎると、人間は堕落し、腐敗するとまで考えられている。

 もちろん、エンリルとて好んで戦を仕掛けているわけではない。人命が軽視されているわけでもない。ただ価値観が違うのだ。そして、それを無理に変えさせることの出来ないカゼスとしては、彼らのやり方に従うしかなかった。

(まぁ、その中でできることをやるしかないか)

 カゼスは深いため息をついて、空を仰いだ。


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