三章 盟約 (2)
一方、取り残されたアトッサは、アーロンから渡されたエンリルの親書を前に曖昧な表情で唸っていた。こちらの雰囲気は、カゼスとカイロンの間に流れる空気ほど和やかなものではない。堅物青年が相手では致し方ないという向きもあるが。
「つまりエンリル王は、我々がティリスに与せぬのならば、他のいずれの国に対しても同様の態度をとるように求めておるのだな」
問うでもなく、自分に確認するように彼女はつぶやいた。「簡単に言ってくれる」とでも言いたげな表情だ。実際、アトッサとしては頭が痛い問題だった。軍事力の面では、高地は他の三国に到底及ばない。問題外、きわめてお粗末、笑止千万。
戦を仕掛けるなどは論外だが、他国の侵略から身を守るのもおぼつかないのに、頑として中立を保ち続けられるものだろうか。
(……と素直に言えば、『保護』という名目でティリスが軍を進めてくるやも知れぬし)
自力で国土を守れないなら、我々が守ってやろう……そんな口実をつけて、ティリスの軍が高地にやって来る可能性もある。エンリルが馬鹿でなければ、こんな手はとうに考えているだろう。そしてそのまま軍を居座らせ、実質上占領してしまうのだ。
「ティリスの手は友好的に差し伸べられているとは考えにくいな」
苦笑いしたアトッサに、アーロンは真面目な答えを返した。
「殿下に誠意を疑われたと知れば、少なからずエンリル様は落胆されるでしょう。我々は戦を望んではおりませぬ。高地との関係が悪化すれば、希少品の紙や絹、木材に事欠くこととなり、また貴重な薬草の流通も滞ります。言うまでもないことですが、我々にとっては不利益となるだけなのですよ」
優等生的な回答に、アトッサはやれやれといった風情で肩を竦めた。だからこそ、ティリスが高地を手中に収めようとしても不思議はないというのに。もちろん彼女はそこまでは口にしないし、アーロンもそんな懸念は承知の上だろう。
すべては『信用』という胡散臭い代物にかかっているのだ。
「即答は難しいな。カイロンが戻り次第、じっくり検討させて貰おう。今夜一晩、できれば明日一日は猶予を貰いたい」
ため息をついてそう答えたアトッサに、アーロンはしかつめらしくうなずいた。
「当然のことかと。では、王女殿下とカイロン殿が答えを出されるまでの間、街を視察するお許しを頂けますでしょうか」
「ああ、無論それは構わぬ」
ふとおどけた表情になって、アトッサはつい失笑した。王女がふらふら出歩いても安全なほどの街である。隠さねばならぬほどの秘密もないし、危険のあろうはずもない。
と、ちょうどそこへカゼスとカイロンが戻ってきた。出て行った時とは打って変わって友好的な雰囲気で、部屋にいた面々は目をしばたたかせる。
「……随分打ち解けたようだが、話は終わったのか?」
アトッサがそう訊くと、カイロンは穏やかな笑みを浮かべたままうなずいた。
「ラウシール殿は信頼の置ける人物です、ご安心下さい」
「まあ、先物取引ぐらいの信頼度ですけど」
ぼそっとカゼスがささやき、カイロンは失笑をもらす。意味不明の単語を耳にしたデニス人たちは、ただ顔をしかめるばかり。
カゼスがあまり気を許してしまっているので、心配なのか癪に障るのか、アーロンはいつもに輪をかけた仏頂面で言った。
「カイロン殿、曖昧にされた先程の質問に、改めて答えを頂けませぬか」
ティリスの王宮に現れたのはなぜか、まだきちんとした答えを聞いていない。簡単に信用して良い相手ではないだろう。
だが、答えたのはカゼスだった。
「あ、その件でしたら心配要りません。カイロン殿はマティスとは違います」
アーロンの懸念など、どこ吹く風といった体である。眉を寄せたアーロンの前で、彼女はカイロンを振り返って同意を求めた。
ただ黙ってうなずいたカイロンに、アーロンは不信のまなざしを向ける。しかしここでこれ以上追及しては、不可侵・中立の約束を得られなくなってしまうかも知れない。苦虫を噛み潰し、彼は引き下がることにした。
「では、エンリル王の親書をこちらで検討している間、そなたらには自由に過ごして貰って構わぬ。街を視察するのも自由だが、城に戻るには渡し舟が……ああ、そうか心配無用であったな」
アトッサは言いかけて苦笑し、召使を手招きした。
「部屋を用意させるゆえ、そちらでくつろいで頂いても結構。ではまた夕食時に」
指示を出し、穏当な言葉で退出を命じる。その態度はたしかに王者の風格を備えており、数年の後に女王として君臨している姿を容易に想像することができた。
カゼスはカイロンと少し言葉を交わし、アトッサに頭を下げて部屋を出る。アーロンは最低限の挨拶しかせず、召使が客室へと案内している間もむっつりと押し黙っていた。
各自の客室に案内されると、カゼスは荷物の整理などをフィオに任せ、おずおずとアーロンの部屋を訪れた。彼は窓際で、油断なく外の様子を観察している。その目の厳しさは、敵になるか味方になるかまだ分からない国にいるから、というだけではない。
「あの……何をそんなに怒ってるんですか?」
何かとんでもない失策をやらかしたのでは、と不安になり、カゼスは小声でアーロンに問うた。アーロンはしばらく背中を向けたまま黙っていたが、ややあって深いため息をつき、おもむろに振り向いた。
「簡単に人を信用するな、と何回言わせるのだ?」
途端にカゼスはしゅんとうなだれてしまう。「でも」と小声で言いかけたものの、先は続かない。アーロンは鳶色の目を天に向け、もう一度ため息をつく。それから窓を離れ、ゆっくりカゼスに歩み寄ると、軽くその頭を撫でた。いつものくしゃくしゃとかき回すような仕草ではなく、もっと優しく。
「おぬしの『見る目』を信用していないわけではない。だが、人を信用するか否かは賭けのような面もある。その時におぬしはいつも、己が損をするのは自明の賭けにさえ乗ってしまう。それが心配だ」
「カイロンさんは大丈夫ですよ。あの人は私なんかよりずっとしっかりしてて、思慮もあるし、慎重だし……ティリスにいてくれたら良かったのにと思うぐらいで」
なんとかカイロンに対する心証を良くしようと、カゼスは懸命に弁護する。だが、アーロンは余計に眉間を険しくしただけだった。
「そりゃ、信用しにくいと思われるのも分かります。でもそれはカイロンさんが高地のことを一番大事に考えているからで、決して本人が悪い人だっていう証拠ではなくて……、いい人なんですよ、本当に」
だからそんなに睨まないでくれえっ、と心中で叫ぶカゼス。
(なんでこんなに怒ってるんだ?)
アーザートの件があって間がないからか? それにしても、ここまで不機嫌にならなくてもいいだろうに。
言葉に詰まって泣きそうな顔になったカゼスに、アーロンはようやくぼそっと言った。
「俺よりもか」
………………。
「はい?」
かなり長い間を置いて、カゼスはぽかんと聞き返した。途端にアーロンは赤くなり、ふいっと視線を外して背を向ける。
「いや、何でもない」
「何でもない、って……でも、その、つまり……」
アーロンが何に対して腹を立てていたのか気付き、カゼスの頬に見る見る血が上った。
「そんなわけないでしょう!? 何を考えてるんですかっ!」
動転して思わず怒鳴ってしまう。アーロンは目をそらしたまま、片手で顔を覆った。
「我ながらそう思う」
まったく、何を考えているのだか。
だが、自分には理解できない、カゼスの本来いるべき世界のことは……カイロンほどに感覚を共有することはできない。ティリスの一員としてふるまっているカゼスのことは良く分かっても、昔の彼女のことは何も知らない、教えられてもきっと理解できない。それが悔しかったのは事実。
突然、本来の距離を思い知らされたのだ。まるで、しばらく地上に降りていた天上人が、迎えに来た者の手を取って自分のそばからいなくなってしまうかのような気分。
(大袈裟な……俺はこんなに嫉妬深い男だったのか)
嫌になる。アーロンはカゼスの視線を背中に感じながらも、振り向けなかった。
長く、気まずい沈黙。
「あの……上手く、言えないんですけど」
ぽつぽつとカゼスが切り出し、アーロンはちらっと相手に目をやった。
「私は、ずっと……なんていうか、こういう事には無縁の人間だと思っていましたから、誰かを、その……す、好きになる、なんていうのは、考えてもいなくて」
うつむきがちに、時折言葉に困って頭を掻く。
「だから、つまり、その……、あ、えーと……、ほいほい誰かを、好きになったりとか、そういうことは、でき、できないかな、と」
うへぇ。最後に一言そう付け足したので台無しだが、カゼスはそれだけ言うと真っ赤になって自分の頭を抱えてしまった。
「うー、何言ってるんだろ、私」
小声でうめき、逃げ出したい衝動をなんとか抑える。人の気配がしたので上目遣いに様子を見ると同時に、アーロンの腕がカゼスを包み込んだ。そのままアーロンはしばらくカゼスを抱きしめていた。ただじっと、存在を確かめるように。
カゼスは硬直したまま、心臓の激しい動悸をなんとか静めようとしていた。頭の血管が脈打つ音ばかりが感じられて、何も考えられない。
……が、やがてふと変化が訪れた。
自分を包み込んでいる腕や肩の大きさが突然、妙に意識された。元から逞しくはなかったのがさらに華奢になった今では、それはまるで枷のよう。抱きしめられているのではなく、締め付けられているだけのような圧迫感。
(逃げられない)
なぜか突然そう思い、カゼスの背筋に冷たいものが走った。瞬きした刹那に生じる僅かな闇に、暗い廊下のイメージが浮かぶ。
(逃げられない)
恐怖がじわりと這い上る。
「――――!」
息を呑み、彼女は思いきりアーロンの腕を振り払った。
いきなり突き放され、アーロンは呆然となった。
「……カゼス?」
目をぱちくりさせ、少し傷ついた顔をする。いったい何に怯えているのか、背後を振り返ってみても、もちろん何もいない。
「すみま……せ……でも、」
途切れ途切れにそう言い、カゼスは両手でこめかみを押さえた。意識の一部が遊離して、わけもなく震えている自分を見下ろしている。何も恐れるべきことなどないと分かっているのに、残りの意識はそれを受け入れてくれない。
瞬きする度に、暗いイメージが脳裏に閃く。
廊下。階段。手術室……?
(病院?)
並んだ機器。薬品の匂い。注射器。ハサミ……
(あの悪夢だ)
白衣の男。視界を遮るその体格。逃げられない。太い腕。
(イヤダ。コワイ。コワイ)
気が付くと、部屋の隅の壁にぴったりと背中をつけて、我が身を抱き締めて震えていた。幼い子供が親の叱責を恐れて隠れるにも似た、少しでも縮こまっていれば見付からないと考えているような姿勢で。
涙があふれて止まらなかった。
アーロンが心配そうに膝をつき、手を伸ばしてくる。反射的にカゼスはそれを拒絶していた。バチッと大きな音がして、アーロンが弾き飛ばされる。
(そんなつもりじゃない、傷つけたいんじゃない)
相手のうめきが耳に届き、カゼスはなんとか自制心を取り戻そうとする。だが膝はガクガク震え、意識の混乱は激しさを増すばかり。自分を中心に世界が重力崩壊するのではないかと思うほど、制御がきかなかった。
(タスケテ、ダレカタスケテ)
幼い声が現在の意識と重なり、共鳴を起こしている。
(ダレカ、ダレカ、ダレカ――)
プツン、とスイッチが切れるように意識が暗転し、カゼスはその場にくずおれた。
アーロンはなす術もなくただそれを見ていたが、それきりカゼスが動かなくなると、痛む体を無理に動かしてそばに寄った。
外傷はない。気を失っているのだろうか?
そっと名前を呼びながら肩を軽く揺すると、カゼスはぼんやりと目を開けた。
「誰……?」
唇の間からもれたのは、子供の声だった。怯え、泣き疲れた子供の。アーロンがぎくりとすると、相手はそれを察したのか、その目に恐怖の色を浮かべた。
(コロサナイデ)
頭の中に直接、声が響く。アーロンの頭は割れるように痛んだが、彼はそれをなんとか堪えた。
「誰もそんな事はしない。大丈夫だ」
なだめるようにゆっくり言い聞かせる。カゼスの目がゆっくりと閉じ、安心したのか、そのままことんと頭を床につけて眠り始めた。
とりあえず危険は去ったと判断し、アーロンは自分の手当をする為に立ち上がった。
カゼスに触れようとして伸ばした手が、血まみれになっている。もちろん利き腕なので、一人では治療などできない。
カイロンならなんとかしてくれるかも、と不本意ながら彼は腕を抱えて歩きだした。
接待役の召使は客室から出て行ったきりでまだ戻っておらず、道案内はいない。それでも彼は、じきに先刻後にしたばかりの部屋にたどり着いた。
幸いまだアトッサとカイロンは中にいて、書状を挟んであれこれと討議しているところだった。血を滴らせているアーロンに気付いた召使が小さな悲鳴を上げ、二人は驚いて振り返る。
「アーロン卿! どうされたのです、その傷はいったい」
すぐにカイロンが立ち上がり、駆け寄ってきた。
「なんでもいい、手当を頼みたい」
アーロンは痛みを堪えて噛みしめた歯の間から唸った。アトッサがすぐに立ち上がり、部屋から走り出て行く。
カイロンは怪我人を座らせると、水差しの水と柔らかい布を使って腕を洗った。現れた傷に、彼は眉をひそめる。刃物傷などではない。どう考えても、まともな手段でつけられた傷だとは思えなかった。
と、アトッサが戻ってきた。手には何やら箱をもっている。応急治療用具一式が入っているカイロン専用のものらしい。
てきぱきと手当をしながら、カイロンは言った。
「なぜ私のところまで来られたのです? すぐ近くにラウシール殿がおいででしょうに」
「…………」
無言の答えに、カイロンはため息をついた。
「やはり、これはそのラウシール殿につけられた傷ですな」
そばで聞いていたアトッサが変な顔になった。どうしてそうなるのかまったく想像もつかない、といった風に。少しためらってから、彼女は戸惑い顔のまま言った。
「あー……私が聞いてはいかんのであれば、耳をふさいでおくが」
「そう願えますれば」
短く即答され、彼女はいささか憮然としたものの、素直にうなずいた。
「分かった。では私は部屋の方に戻っているからな」
カイロンにそう言い置いて、あっさり出て行く。王女だというのに、のけ者にする気かと怒るでもない。妙に淡泊なところはエンリルと少し似ている。
包帯が腕を覆うと、アーロンは少しためらってから口を開いた。
「念のためにカゼスの方も診て頂きたいのだが」
カイロンは驚いて軽く目をみはったものの、うなずいて治療道具や薬を箱に片付けた。そのまま箱を抱えようとするカイロンに、「いや」とアーロンは首を振る。
「外傷はないのだ」
「…………?」
怪訝に思いながらも、カイロンは箱を置いてアーロンについて行く。廊下を歩きながら、アーロンは先刻の出来事を一部省略して話した。
客室ではカゼスがまだ床の上に丸くなっていた。壁に背中をつけて眠っている。
「今はただ眠っているだけですな。心配は要りませぬよ」
一応、脈を測ったりしてからカイロンはうなずいた。多分、軽く揺するか声をかければ目を覚ますだろう。だが今はとりあえず、そっとしておく。
アーロンはカゼスに毛布をかけてから、小声でカイロンに言った。
「不躾で申し訳ないが、カゼスの相談相手になって頂きたい」
いささかいつもの仏頂面に不機嫌な気配が加わっているのが、隠せていない。カイロンは目をしばたたかせた。
「なぜ私に?」
「あなたの方がカゼスの話を理解できるだろうと思う。そちらの国々のことは、私にはよく分からないことが多いし、何よりカゼスはあなたを信頼している」
声に含まれる苦いものに気付き、カイロンは少しずれたところで納得した。
「卿ご自身としては、胡散臭い『赤眼の魔術師』などを頼りたくはないが、というわけですか」
そう苦笑してから、彼は複雑な表情の相手を安心させるように続けた。
「政治の絡まぬことであれば、力になりましょう。カゼス殿にもそう約束しております」
この場合は逆効果かもしれない言葉だったが、アーロンはただ短く礼を言った。何も自分たちの曖昧な関係まで暴露する必要はないだろう。
そんな彼の内心に気付く由もなく、カイロンは表情を曇らせてつぶやいた。
「しかし、お話を伺った限りでは、私にできる事などわずかでしょうが……。あまり良い状態とは言えませんな。ラウシール殿ほどの力を備えた魔術師が精神的に不安定になっているというのは……周囲にまで危険が及ぶやも知れませぬ」
彼はカゼスの寝顔を眺め、ふと視線をアーロンに向けて、意外そうにやや眉を上げた。カゼスを見つめる横顔は、ついさっきまでの仏頂面とは豹変している。不安と心配と同情、そしてそれ以上の何かを含んだまなざし。
カイロンは気付かなかったふりで目をそらし、話を続けた。
「もしまたこのような状態になれば、迂闊に近付かぬ方が良いでしょう。今度は腕一本ではすまぬということもあり得ます」
「放っておけ、と言われるのか?」
厳しい目で振り向いたアーロンに、カイロンは平静にうなずく。
「ラウシール殿本人の意識は、恐慌に陥れば塵同然に吹き飛ばされてしまいます。おさまるまで離れていた方が安全でしょう。誰にも救うことはできません。恐怖に克つことができるのは自分自身のみ……それは武将たるあなたにもお分かりの筈です」
穏やかに諭され、アーロンは返す言葉もなく黙り込んだ。
戦に出る前の恐怖感はもうかなり薄れてきてはいるが、緊張感までなくなったわけではない。抑制された恐怖心とも言えるそれは、そばに誰がいようと、どんなに確実と思われる策があろうと、結局は自分自身が手綱をつけて御するしかないのだ。
(何も出来ないのか)
そばにいて力づけるぐらいのことしか……いや、それすらも出来ないのか。
苦い敗北感を噛みしめながら、彼はカゼスの傍らに膝をつき、そっと抱き上げた。深い眠りに落ちたのか、カゼスはそのままベッドに横たえられても、指一本動かさなかった。
いつもと同じはずの寝顔も、どこか暗い影を帯びているようで、アーロンはその場にじっと立ち尽くしていた。




