三章 盟約 (1)
エデッサの町並みは質素だが整然として美しく、行き交う人々も礼儀正しく上品に感じられた。旅人と見ると愛想の良い笑顔で挨拶をして、何かお困りのことはありませんか、と訊く者も多い。
「どうにも居心地が悪ィや」
ぼそっとアーザートが言い、思わずカゼスは失笑した。確かに、こんな都市で生活していたら、こっちも微笑と穏やかな物腰が染み付きそうである。地のがさつな彼女――今ではそう呼ぶ方が妥当だろう――としても、少々息苦しくなりそうだ。
街の門でも厳しい検問はなく、少額の通行税その他を支払って目的を告げるだけで良かった。もちろん、この時点でも彼らは「観光」とかなんとか適当な答えをして、本当の目的はごまかしておいた。敵か味方か分からない相手に、正直になるのは早い。
カゼスは門の上に監視カメラが隠されているのに気付いたが、リトルが作動していないと教えてくれたので、手を振るのはやめた。多分まだカイロンはこちらの到着に気付いていないだろう。
「本当に平和な雰囲気ですね」
うーん、とカゼスは小首を傾げた。あの二人の報告を信じていなかったのではないが、いざ実際に目にすると、やはり驚いてしまう。この国にシザエル人がいるとは、カメラがなければ考えられなかっただろう。魔術の気配も、ザール教の匂いも、まるでしない。
しばらく歩いて湖畔に出ると、フィオとカゼスが同時に「うわぁ」とそっくり同じ感嘆の声を上げた。アーロンに妙な目で見られ、カゼスは赤面して口を覆う。
フィオは連れの目など一向かまわず水辺に駆け寄ったが、カゼスは意識的にゆっくり歩いて追いついた。
「うわぁうわぁ、きれいな水! 泳いだら気持ちいいだろうなぁ」
屈み込んで水に手を浸し、フィオがはしゃぐ。カゼスも横に立ち、じっと水中をみつめた。銀の腹をひらめかせ、魚が泳ぎ去っていく。湖面を渡る風が頬を撫でた。
緑の木々と白い山、青空が、水中にも見える。王城の繊細な姿がさざ波に揺れ、水鳥のはばたきが空をかき乱す。
「何もかも忘れて、ボーッとしていたくなるような場所ですね」
心地よい風に目を細め、カゼスが言う。と、後ろでアーロンがふきだした。振り向くと、彼はごまかすように口元に手を当てて咳払いした。
「私、何かおかしなことを言いましたか?」
カゼスが目をしばたたかせると、アーロンはなんとか笑いを堪えながら「いや」と答えた。しかし視線は明後日の方を向いている。カゼスが困惑していると今度はフィオがふきだし、肩を震わせて笑いだす。
「フィオまで……どうして笑うんですか」
「だって、なんだか……想像しちゃって」
ふくくくく、と堪えながらフィオは答え、ちらっとカゼスの顔を見て、結局大笑いしてしまった。つられてアーロンも抑えがきかなくなり、くすくす笑いだす。
「失敬な」
憮然としてぼやき、カゼスはアーザートに目を向けた。彼の視線は冷ややかで、あからさまにこちらを見下している。
「ま、あんたにはそうやってんのが似合いだな」
フンと鼻を鳴らし、それきりこの話題は忘れたように、油断なく周囲に目を配る。
私のせいじゃないんだけどな、などと心中でいじけ、カゼスはしゃがんで水に手を浸した。両手ですくい上げた水はあまりに清冽で、山道を登ってきた身にはことのほか美味しそうに見えた。吸い寄せられるように口をつけかけた、まさにその時。
「ウルミア湖は美しいだろう、ラウシール殿」
いきなりそう声をかけられ、カゼスはぎょっとなってつんのめり、危うく頭から水に突っ込みそうになった。慌てて体勢を立て直した時には、アーロンとアーザートが剣に手をかけて声の主に対峙していた。
「物騒な連中だな。いたいけな娘相手に大の男が二人して剣を抜こうとは」
ふんと鼻を鳴らしたのは、誰あろうアトッサ王女だった。その瞳がわずかに紫色を帯びている。
「あ、もしかして……王女殿下ですか」
警戒している二人を手で制し、カゼスは前に進み出た。アトッサは少しだけ高い位置にあるカゼスの目を真っすぐに見上げ、にこりとする。
「さよう。ティリス王も、今度はまた随分と大層な使者を寄越したものだな。しかし、青い髪を晒しておるとは不用心なことじゃ」
ふむ、と彼女はカゼスの髪を一房つまみ、しげしげと眺めた。連れの三人が眉を寄せているのが分かり、カゼスは苦笑する。
「お言葉ですが、殿下以外の人には黒髪に見えているんですよ。殿下はエンリル様と同じく皇族の能力をお持ちですから、私のささやかなまやかしは通用しないんです」
「なるほど。ではそなたを探す手間が省けて良かったと言うべきなのだろうな。それにしても、こんな所で何をしておったのだ? 渡し舟が出るのを待っておるのか」
ああ、と自ら納得してアトッサは船着き場の方を見た。相変わらず混雑している。
「失礼ながら」とアーロンが割り込む。「あなたが本物の王女殿下であらせられるならば、警護の者もお連れにならず城外においでなのは何のゆえあってか、お聞かせ願いたい」
警戒の表情を崩さず詰問したアーロンを見上げ、アトッサはややおどけた顔を見せた。
「堅苦しい奴よの。いつもこうなのか?」
問いはカゼスに向けたものである。本人の手前なんとも答えられず、カゼスは曖昧なことを言ってごまかす。アトッサは肩を竦めて悪戯っぽく笑い、堅物青年に向き直った。
「私がここにおるのは、別に珍しいことではない。エデッサは治安が良いのでな、私もちょくちょく城から出て街の様子を見ておるのだ」
遊んでおるわけではないぞ、と言わずもがなの一言を付け足す。カゼスが失笑し、アーロンが胡乱げな目つきになったもので、慌ててアトッサは話を変えた。
「それより、夕の船が出るまで街を案内してやろう。それとも、ラウシール殿お得意の魔術で空でも飛んで城に入るか?」
「お許し頂けるのでしたら」
苦笑しながらカゼスはそう応じた。目の前に城が見えているのだから、目立つ風乗りをするまでもなく『跳躍』で中に入ることも可能だ。もっとも、彼女にしてみれば冗談のつもりで、まさかアトッサが本当にうなずくとは思っていなかった。
「もちろん、許す! ぜひ一度、空を飛んでみたかったのだ」
子供のように目を輝かせて王女が言ったので、カゼスは思わずたじろいだ。
「……本気ですか?」
「なんだ、冗談だったのか?」
あからさまに落胆するアトッサ。いやその、とカゼスは慌てて言い訳する。
「空を飛ぶと言っても、ほんのそこまでですからあまり上空には上がりません。それに、素人が『風乗り』すると、酔うかもしれませんよ。まだ、瞬きひとつの間に城内に移動する術の方が、軽いめまいですむかも……」
「それでも良いぞ。うん、そうだな、できればカイロンの目の前に現れて、仰天させてやりたいのだが」
すっかり乗り気のアトッサに、カゼスは参ったなぁ、と苦笑した。このノリはどうもエンリルに通じるものがある。迂闊にものが言えない。
「分かりました。やってみましょう」
連れの三人を手招きして近くに寄せ、アトッサをすぐ横に立たせる。わくわくしている王女に、一応カゼスは「本当に瞬間ですからね」と釘を刺した。魔術師でない人間にとっては、移動の前の手順や術が発動した時の『力』の鮮やかな動きなど分からない。見世物にはならないのだ。
軽く目を閉じて城の内部に意識を飛ばすと、銀髪の男の姿が見えた。幸い、今は周囲に誰もおらず、一人で机に向かっている。
呪文を声にするまでもなく、『力』を少しばかり動かす。
言葉通り、一瞬後に彼らはカイロンの執務室に立っていた。跳躍を経験したことのあるアーロンとフィオは少し顔をしかめただけだったが、アーザートは平衡感覚を狂わせてたたらを踏んだ。
「……城には門から、部屋には入口から、入って頂きたいものですな。アトッサ様」
しばしの間があってから、相変わらず落ち着き払った態度でカイロンが言った。その彼を驚かせる筈だった王女は、めまいを起こして座り込んでしまっている。
「突拍子のない訪れ方をして申し訳ありません、王女殿下がぜひにと望まれたもので」
代わってカゼスが苦笑しながら答えると、まやかしを解いた。
深紅の目を向け、カイロンは束の間、カゼスを見つめた。
「あなたがラウシール殿ですか。お噂はかねがね耳にしております」
言葉は丁寧だが、親愛の情がこもっているとは言い難い。こちらの出方を窺っているのだと気付き、カゼスは軽い緊張をおぼえた。
堅苦しい雰囲気でお互い紹介をすませると、彼らは応接室に移動してテーブルを囲んだ。とは言え、フィオとアーザートは壁際に立ち、成り行きを見守るしかないのだが。
「本題に入る前に、伺いたいことがあります」
エンリルから預かった親書を渡しかけ、ふと思い出したようにアーロンが問うた。
「我が国の尚書シャフラーの話では、あなたは戦況を自由に左右できる時にティリスを訪れていらしたはず。その理由をお聞かせ願いたい」
「いったい何のお話ですかな」
しらっ、とカイロンが応じた。驚きも動揺もなく、ただ不思議そうに。アーロンが眉を寄せ、アトッサも不審なまなざしで二人を交互に眺めた。
カゼスはこの話を後でするつもりだったので、慌ててアーロンにささやく。
「失礼、ちょっと待ってください」
同時に、精神波でリトルに話しかけて、室内の会話が盗聴されたり記録されたりしていないことを確認してから、翻訳呪文を解いた。
「カイロンさん、私の言葉が分かりますか?」
ぎょっとなったのは、当のカイロンだけではなかった。突然意味不明の言葉でしゃべり出したカゼスに、困惑の視線が集まる。
「弱ったな……ええと、」
カゼスはカイロンが凝固しているのでちょっと頭を掻いて、テラ共和国標準語から、たどたどしいミネルバ公用語に変えた。
「これなら分かりますか?」
反応は劇的だった。
それまで落ち着いた態度を決して崩さなかったカイロンが、弾かれたように立ち上がって椅子を倒した。血の気が引いた顔で、驚愕に目を見開いて。
その激しい反応に、アトッサがカゼスをなじるように何か言った。もちろんカゼスには分からない。どのみち、学生時代に習った公用語を思い出すのに忙しかったので、聞こえてはいなかったが。
「カイロンさん、落ち着いてください。私はあなたに……えーと、えーと」
〈ああ、駄目だぁ。リトル、通訳してくれないかな〉
〈情けないですね、あなたって人は! 翻訳呪文に頼り切っているからそういう憂き目に遭うんですよ。語学の授業で何を学んだんですか〉
ひとくさり授業料と税金の無駄遣いを嘆いてから、リトルはカゼスの下手くそな公用語をきちんと翻訳して教えてくれた。
「いささか言葉が通じにくいかも知れませんが、私はあなたよりも一世紀後の、それもテラ人なんです。あなたに危害を加えるつもりはありません。今のところ、ですけど」
「君は……何者なんだ?」
カイロンもデニス語から切り替え、長らく使っていない言葉を思い出すようにぽつぽつと口にした。横でアトッサが不審な顔をしているのに気付き、彼はため息をついた。倒れた椅子を立て直し、カゼスを手招きする。
「アトッサ様、私は少し……ラウシール殿と話があります。アーロン卿からお話を伺っておいてくだされ」
「しかし、カイロン……」
アトッサは不安げにそう言い返しかけたが、結局不承不承うなずいた。
ティリス側でも、カゼスがカイロンと一対一になるのは不安だというような反応があったが、カゼスは大丈夫というように笑みを見せ、その場を離れた。
しばらくカイロンに先導されて城内を歩き、二人はあまり人気のない棟にやって来た。石造りの壁に並んだ木の扉はどれも同じように見えたが、カイロンはその内のひとつで足を止め、鍵を取り出した。
ガチャガチャと鍵を回す必要はなく、ただ差し込まれただけで、錠はかすかな電子音を鳴らし、パチンと電磁ロックの外れる小さな音を立てた。
二重扉で外界の視線から完全に隠された部屋に入ると、カゼスは予期していたもののやはり驚きに息を呑んだ。
スチール製の棚に並んだ数々の機器、壁や床に這うコード、整理整頓の行き届いた机に並ぶ技術関係の専門書。新たにカイロンが著したと思しき本もあった。デニスの地理や植物図鑑などだ。
「技術者だったんですね」
ほうけたようにカゼスは言い、カイロンが怪訝な顔をしたのに気付いて、翻訳呪文を唱えた。
「失礼。どうも、翻訳呪文に頼りきりになっているものですから、公用語をすっかり忘れてしまって。どっちにしろあなたと私では一世紀ばかり開きがあるわけだし、こっちの方が便利でいいでしょう」
苦笑して見せたカゼスだったが、相手はまだ表情をこわばらせたままだ。参ったな、とカゼスは頭を掻いた。
「……君は、なぜここにいるんだ?」警戒しながらカイロンが問う。「私を、いや我々を追って来たのではないと言うのなら、なぜ?」
「私にもよく分からないんですよ。来ようとして来たわけじゃなくて、事故で吹っ飛ばされたものですから。と言っても、何か因縁めいたものがあるようにも思えるんですけど」
カゼスは肩を竦め、去年、二百年後のデニスに飛ばされた時のことをかいつまんで話した。カイロンは黙って聞いていたが、カゼスが話し終えると困惑した様子を見せた。
「すると君は、全く意図せずにこの国に来て、ラウシールに祭り上げられたのかね」
「そうです。今だって誰でもいいから教えて貰いたいぐらいですよ。どうして私なんだ、ってね」
軽いため息をつき、カゼスはうなずく。
なぜ自分なのだろう。時折ふと我に返って自問することがある。なぜ、『ラウシール』は自分でなければならないのだろう。こんな大役を負わされる理由など、まるで思い当たらないのに。
「だから、別にあなた方をどうこうしようというわけではないんです」
カゼスはそう言い、カイロンの疑わしげな視線を受け止めた。
「ただ、任務ではなくても、あなた方のしていることがこの国の人々にとって害となるのであれば、私はそれを阻止せざるを得ないでしょうし、立場上、エンリル様にとって妨げとなるのであれば、やはり敵に回るしかありません」
「なるほど、君は公安……いや、治安局員としてではなく、一個人として、道義に反するという理由で我々と対立するわけか」
カイロンが苦笑した。正義の味方を気取るのか、と揶揄するように。カゼスは少しムッとなったが、その言葉を否定しようとはしなかった。
「マティスの時はそうならざるを得ませんでした」
短く答え、彼女はカイロンを見据えた。あなたの場合はどうですか、と。
重く、緊張した沈黙が降りた。カイロンの深紅の瞳は冷たい平静を保っている。内心に葛藤があるとしても、その気配は見事に隠されていた。
黙ってカイロンは、カゼスに掛けるよう椅子を示す。緊張しながらカゼスが座ると、カイロンは部屋の片隅に行き、コポコポと水音を立てた。
じきにふわりと芳香が漂い、カゼスはあれっと目をしばたたかせる。久しく嗅いでいない香りだ。これは……
「コーヒーですか?」
きょとんとしながらもカゼスが問うと、カイロンは湯気の立つカップをふたつ運んできた。ひとつをカゼスに差し出し、自分はそこらの機器の台に腰をあずけると、先にカップに口をつけて見せた。
「驚いた、コーヒーがあるなんて知らなかった……」
言いかけて、カゼスはぎくっと顔を上げた。カイロンの苦笑が目に入る。
「安心したまえ。外界には出していない、小さな株だよ。私の分を作るのがせいぜいだ」
「あ、そうですか。そうですよね」
疑ったのが恥ずかしくなって、カゼスは赤面した。
元々カゼスは紅茶党なのだが、長らくコーヒーと離れていたせいで、この上なく美味に感じられた。「私は」とカイロンが切り出した時も、カゼスはまだ豊かな香りにうっとりしていた。
慌てて相手に注意を戻したカゼスに、カイロンも緊張を解いて少しおどけた表情を見せた。聞いているかね、と居眠り学生に問う教授のような。
「こうしてこの部屋で、コーヒーを飲んでいると……すべてが夢で、私はまだ学院の研究室にいるのではないかと思う時がある」
ふとカイロンは遠い目をした。カゼスはどう応じて良いのか分からず、ただ目をしばたたかせる。
「どうしてここにいるのか、と自問する時さえある。十六年……時間が戻るなら、私は別の選択をするだろう。いや、それともやはり、同じ選択をしているのか」
独り言のように続けてから、彼は両手でカップを包んでいるカゼスに視線を戻した。
「エデッサの様子を見てきたのなら、私がマティスとは違うと分かって貰えるだろう」
「確かに、そうです。それだけにあなたの真意が分かりません」
カゼスは用心深く答えた。講義で教わったシザエル人は、すべて熱烈な使命感と信仰心に支えられて世界へ散ったとされている。それなのに、眼前にいるのは、一人のくたびれた男にすぎない。人生の半分は過ぎたような、穏やかで、学究的な男。
「我々はミネルバにいてこそ、シザエル人たり得たのかも知れない」
カイロンは答えにならない言葉を紡ぎ、肩を竦めた。
「こんなことを言おうものなら、他の同郷人に罵られるかも知れないが。だが、このデニスで暮らす内にそれぞれの形で変質していったのは確かだ。マティスも我々と出会ったばかりの頃は、ああではなかった。エリアンも、キースも、私も……皆、変わった」
「そんなにいるんですか!?」
思わずカゼスは驚きの声を上げた。マティス、カイロン、それに今名前の挙がった二人。四人もこのデニスにいるとは。
「最初から一緒にこの地へ向かったわけではないよ。たまたま流れ着いた場所がここだった。それも、それぞれが別の国に」
カイロンは苦笑し、少し考え込んでから続けた。
「はじめ、私の場合はちょっとした実験心からだった。ザールの教えが、全く異なる世界でどこまで通用するのか、教義の内容にどのような反応がくるものか、調べてみたかったのだ。あるいは、若さから来る愚かな思い上がりだったかも知れない……文明未開の地で現地人を驚かせてやろう、というような」
小さく鼻を鳴らし、自嘲気味に苦笑する。
「だからそれほど長居するつもりはなかったし、ある程度好奇心が満たされたら帰るつもりでさえあった」
「……どうしてそうしなかったんですか?」
相手が黙り込んだので、カゼスはおずおずと問うた。
「帰れたと思うかね?」
問い返されて、カゼスは困惑する。どういう意味で彼がそう言ったのか、いまいち分からなかったのだ。高地の離れ難い素晴らしさを言いたいのか、現在の地位から過去に何があったか推測しろと言うのか。
だがそれらのいずれでもなかった。
「あれは、何年頃だったか……後からデニスに流れ着いたマティスの知らせで、我々はもはや故郷へは帰れないと悟った。マティスは第一次の散開には加わっていなかったんだが、連邦公安とテラ治安局とが合同で『狩り』を開始してから、シャナに残ったシザエル人に対する迫害もまた始まって……その酷さに耐えかねて、彼女も離れるつもりのなかった故郷を後にしたらしい」
「そんなこと……!」
カゼスは驚きに目を見開いた。教科書には出ていなかったし、教師も何も言わなかった。その事について触れた本もなかった。
「知らなかった、教わらなかった、かね?」
皮肉っぽくカイロンは眉を上げる。
「まあ、歴史にはよくある事だ。君はシャナの人間ではないから、仕方がない面もある。マティスの話では、『狩り』の件が公になると間もなく、家に石やゴミが投げ込まれだしたそうだ。嫌がらせの通信が溢れ、壁にはペンキやスプレーで罵詈雑言を書かれ、外を歩けば子供までが嘲りの言葉と石を投げつけた。やがて個人商店に買い物に行けばいつも『品切れ中』になり、水道が壊されても修理に来てくれる者はおらず……」
聞くに耐えずカゼスは頭を振った。陰湿な手口の嫌がらせは、自身もさんざん受けた記憶がある。どんなにつらく腹立たしいものか、想像するまでもなく分かった。
「道端でシザエル人が絡まれ暴行されていても、公安は見て見ぬふりを続けた。命の危険を感じるところまで追い込まれて、彼女はこの国に逃げて来た、というわけだ。憎しみと恨みだけを抱いて、な」
カイロンが締めくくると、カゼスは小さく「そんな」とつぶやいたきり、何も言えなくなってしまった。
どうして、なぜ、そう問い続けていたのはカゼスだけではなかったのだ。
マティスもまた、幾度となく問うただろう。自分は散開に加わっていないのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。なぜ違うと分かってくれないのか。そして、なぜここまで酷いことをされなければならないのか――と。
答えの返って来ない『なぜ』はやがて怒りと憎しみになり、すべてのものを敵とみなすようになる。身に覚えがあるだけに、やるせなかった。
うつむいて心の痛みに耐えているカゼスを見下ろし、カイロンは曖昧な口調で「だが、もう済んだことだ」と言った。カゼスが顔を上げると、彼は過去から現在の問題に立ち戻らせようとするように、声の調子を変えて言葉をつなぐ。
「君が恥じ入ったり己を責めたりすることではない。彼女が受けた傷がいかに深かろうとも、その恨みをデニスの人々に転嫁して良い理由はない」
「もしかしてあの時、あなたはマティスの暴走を止めようと……?」
カゼスが小声になって問うと、カイロンは複雑な苦笑を浮かべた。カゼスが答えを知っていることを、見透かすような笑みだった。
「是と答えれば、私のしたことが正当化されるかね?」
穏やかな声には後ろめたさも辛辣さもなく、すべてを受け止める静かな決意だけがあった。カゼスは無言で目を伏せ、唇を噛む。その表情をじっと見つめ、カイロンは軽く頭を振って、話を続けた。
「ともかく、そんな事情で我々は、それぞれなりにデニスで生きる道を見付けるしかなくなったわけだよ。私は幸いフラーダ王の信頼も得られ、こうして国家元首の真似事をしているが、王女が即位すれば隠退させて貰うつもりだ」
「それじゃあ、ザール教を広めたりとか、技術や学問・思想の発展を加速したりとかいう事は考えていない?」
おずおずとカゼスが訊くと、カイロンは苦笑した。
「私にそんな余分のエネルギーがあるように見えるかね」
問いに問いで答え、彼はカップに残ったコーヒーを飲み干した。その仕草は、身にまとっているデニスの長衣には不似合いで、一時ミネルバに戻ったように錯覚させる。
「私よりも君の方がよほど、デニスに影響を与えているように思うのだが。君の価値観や態度は周囲の人間を変えずにはおくまい。君が狩られても不思議はないな」
ちくりと刺されてカゼスはうっと言葉に詰まった。その反応を面白そうに眺め、カイロンはコトリとカップを置いた。
「だが正直なところ、君のような人間がラウシールで良かったと思っている。もし君が容赦のない治安局員であれば、私は間違いなく殺されているだろうし、そうなるとティリスと高地の関係は極めて危険な状態になるだろう。王女のことを考えると、そんな事態は何としても避けたい」
アトッサのことを口にする時、カイロンの面は優しい気配に和んだ。が、すぐに彼はまた厳しい表情に戻る。その真剣なまなざしはシザエル人としてのものではなく、一人の高地人としてのものだった。
「君が私を狩りに来たのではないならば、私は高地の顧問官としてのみ、相対することができる。いや……そうでなければならない」
「え……つまり、他のお仲間のことは言えない、ということですか?」
カゼスはやや失望した顔なる。カイロンは「そうだ」とうなずいた。
「彼らを君に売り渡すことはできない。高地の立場を危うくしかねないのでね。私もこの国も、中立を保つつもりだ。少なくとも王女が自分の意思で国を動かそうとし始めるまでは、極力私という存在の影響を与えないでおきたい」
「ああ、なるほど」
カゼスはふむふむと納得する。カイロンというシザエル人がいたことによって、大きく対外姿勢が変わったりしないように、と彼は言うのだ。
「なら、私はあなたのことを何も心配しなくていいわけだ」
うん、とカゼスは嬉しそうにうなずいた。
〈いいんですか? このまま見逃しておいて〉
〈心配ないだろ。だって、私よりこの人の方がよっぽど慎重で保護的な立場に立ってるよ。この人がシザエル人としてじゃなく高地人として行動するのなら、別にあれこれ口出ししたり無理やりミネルバに戻らせたりしなくていいんじゃないかな〉
第一、いまさらどこに帰らせるというのか。
カゼスは少しばかり気の毒な思いでカイロンを一瞥した。
出発した時点の故郷には、とても帰れない。彼が過ごした年数と同じだけ経過したシャナ連邦に戻すとしても、やはり苛烈な制裁が待っているだろうし、そうでなくとも、彼が知っている故郷とはがらりと変わってしまっている。そんなところへ無理やり送還するよりは、このまま高地にとどまって貰った方が、カゼスにとってもティリスにとっても、ありがたいだろう。
「分かりました」
カゼスは再度、深くうなずいて意志の確かさを示した。
「他のシザエル人の情報は訊きません。私が自分の目で確かめましょう。あなたの行動にも口を挟みません。あなたの方が思慮もあるし、デニスで過ごした年数から言っても先輩になるわけですから」
その言葉を聞いてやっと、カイロンはほっと安堵したように笑みを広げた。緊張を完全に解き、両手で顔をこする。
「やれやれ、そう言って貰えるとありがたい。こんな虫のいい主張を受け入れてくれて、感謝するよ」
「その代わりと言ってはなんですけど」
相手が急に身近な存在に感じられ、カゼスは少し悪戯っぽい口調になった。ぎくりとしたカイロンに、カゼスはわざと一呼吸おいて続ける。
「個人的な付き合いは許してくれませんか? つまり、私もたまにはミネルバ人に戻って話をしたい、ってことなんですけど」
「……ああ」カイロンは苦笑し、穏やかにうなずいた。「もちろんだ」




