二章 変容 (4)
カゼスたちが本国を離れて山登りを続けている頃、エラードとティリスの国境付近では、静かな異変が始まっていた。
「やっぱり間違いねえな」
国境となるオクソス川の岸辺で、ずぶ濡れの男がぼそっとつぶやく。足元で小さな白い竜が鼻を鳴らした。だから言うたろう、とばかりに。
周囲は薄暗く、集落からも離れているとあって人影は見当たらない。ただ、エラード領内のハトラへと続く小道を、亡霊のようにたどって行く小さな集団を別とすれば。
男、クシュナウーズは顔をしかめ、その様子を見守っていた。どうやら無理やり連行されているらしく、時々罵りの声と鞭打つような音が微かに聞こえる。彼は舌打ちして、背後のティリス側を振り返った。誰も通らず半ば消えかけている小道の上に、まだ新しい蹄の跡が残っている。
「おおっぴらに踏み込みゃ、日の出の勢いの新王に返り討ちにされちまう、さりとて奴隷は欲しい、ってことか」
小さく舌打ちし、クシュナウーズは吐き捨てるように呪詛の言葉を唱えた。
事の起こりは、ティリス王宮に舞い込んだ一通の手紙だった。
人目を避けるように、信用のおける者の手を渡って運ばれてきた、厳重に封をされた小さな革の筒。水に濡れても字が消えたり紙が破れたりすることのないよう、注意が払われている。その差出人は、王宮に届けた者も既に知らぬということになっていた。
用心深く開いてみると、宛名はエンリルになっており、文末の署名はなんとエラード国内のアラナ谷領主、ウタナのものであった。
その内容については、まだ公表されていない。エンリル本人とオローセス、彼らに密書を最終的に手渡したヴァラシュ、それに内容の真偽を確かめに遣わされたクシュナウーズの、四人だけが知っている。
「ふ……ぇっ、」
クシュナウーズはぶるっと身震いし、慌ててくしゃみを堪えた。丘の向こう側へ消えて行く黒い影の中から、また、ピシッと鞭の音が聞こえた。
「嫌なことを……」
ぼそぼそと口の中でつぶやき、しばし目を閉じる。それから諦めたように首を振ると、イシルを連れて川の中に潜った。
「なんだ貴様は」
誰何するにしては平坦な口調がクシュナウーズを出迎えた。領主館の蓮池に顔を出した怪しい闖入者は、手の甲で顔を拭って相手を見上げる。
淡い蜜蝋色の豊かな髪をひとつに束ねた、小柄な青年だ。リズラーシュ人だろう。混血らしく、少し目鼻立ちがくっきりしている。
「……ここはウタナとかいう野郎の屋敷じゃねえのか」
「訊いたのは私だ。先に答えろ」
スラッと金属音がして、剣の切っ先がクシュナウーズの鼻先に突き付けられる。クシュナウーズは肩を竦め、口をひんまげた。
「敵か味方かも分からない相手に、正体をばらす馬鹿はいねえよ」
「それはこちらも同じだ」
青年はすげなく応じて、剣を引こうとしない。やれやれ、とクシュナウーズはため息をついた。まったくイシルも、もう少し行き先の様子を確かめてから出してくれれば良いものを、これだから水竜とかいう奴は。
「とりあえず、アラナ谷領主ウタナの敵じゃぁねえ。手紙を貰ったんでね」
答えのついでにくしゃみを浴びせる。青年は動じず、油断なく剣を向けたまま、視線をちらっと背後に走らせた。館にはまだ明かりが灯されており、人の声もする。
「ティリスの者か」
押し殺した声で彼は問うた。「まあな」とクシュナウーズが応じると、彼は剣を収め、ついてくるよう手ぶりで命じた。
(態度のでかいガキだな。領主の息子か?)
不審に思いつつクシュナウーズは池から上がり、ぶるっと頭を振って水を飛ばした。
青年はどうやら今のところ味方であるらしく、人気のない場所を通って領主館の奥へと先導して行く。
こそこそと身を隠しながらしばらく進み、青年はクシュナウーズを人のいない一室に入らせたが、途端にクシュナウーズが盛大なくしゃみを放ってしまった。
「スクラ様? どなたかおいでなのですか」
続き部屋に人がいたらしく、カーテンの向こうから声がした。スクラと呼ばれた青年は咄嗟に毛布を掴んでクシュナウーズにかぶせ、まだ「ふぁっ、ふぁっ」とやっているのも構わずベッドの下に蹴り込む。
幸い、声の主はカーテンの隙間からちらっと首を出しただけで、不自然な毛布のかたまりには気が付かなかった。
「いや、今のは私だ。気にするな。それよりも、ウタナ卿をここへお連れしろ」
相変わらず淡々と答えるスクラ。召使は目をしばたたかせた。どう聞いても先刻のくしゃみは、柄の悪い中年のものだ。眼前の涼やかな青年が放つものとは思われない。だが召使はあえて追及しないことにした。身分ある人々に仕えるには、好奇心など害にこそなれ微塵ほどの益もない。ぺこりと一礼してカーテンの向こうに消えた。
黙って引き下がられても、それはそれで不本意らしい。スクラはため息にほんのわずか苛立ちの気配をこめる。召使の足音が完全に消えると、彼は毛布をはぎとってクシュナウーズを睨みつけた。
「じきにウタナ卿が見える。おぬしの名は」
「二回も名乗るのは面倒くせえ。ウタナが来てからまとめて説明してやらぁ。それよりおまえさんは何なんだ? スクラとか言ったな。領主の部下か」
ず、と鼻をすすって答えると、クシュナウーズは床に胡座をかいた。お嬢ちゃんがいりゃあな、こんなもんすぐに乾くのに、と、ぶつぶつぼやく。
「そうではない。王都の万騎長だ」
しらっとしたスクラの返事に、思わずクシュナウーズはぎょっとなって腰を浮かせた。
(やべえ!)
さすがに青ざめる。ウタナがエンリルに手紙を送ったことがばれたら、この場でもろともにあの世送りだ。
身構えたクシュナウーズに、スクラは冷ややかなまなざしを向けた。
「阿呆が」
罵声というにはあまりに冷たいたった一言が、臓腑をざっくりえぐる氷の槍のごとく突き刺さる。クシュナウーズはその場に凍りついてしまった。と、そこへ、
「いったい何用だ、スクラ? まだ議論の……」
何の前触れもなく入室してきた初老の領主も、目をしばたたかせて動きを止める。
「その男は何者だ?」
困惑しているウタナを手招きすると、スクラは外に控えている衛兵を下がらせてから、ようやく答えた。
「ティリスの者だそうです。蓮池から出て来ました」
眉をつり上げて不可解な心境を表現したウタナに、クシュナウーズもまた戸惑いながら声をかける。
「おい、あんたがウタナか? このガキは何なんだ、王都の万騎長がなんでこんなところにいる? 話を聞かれちゃまずいんじゃねえのか」
それがあまりにざっくばらんな口調なので、ウタナは胡散臭げに顔をしかめ、どうしたものかと迷いながらぼそぼそと答えた。
「いや、スクラ卿は構わぬのだ。蓮池から現れたとな? おぬし、よもやラウシールではあるまいな」
「そうではありますまい」
スクラが口を挟む。なかなか事態を飲み込めない他の二人に苛立っているようだ。
「ラウシールならば髪が青いはずであるし、第一いつまでも濡れ鼠のままでいることもない。ラウシールの魔術によってこの地に送り込まれた者と考えるが妥当でしょう」
「妥当だが、外れだ」
いささかムッとしてクシュナウーズは言い、立ち上がった。自分よりもまだ少しだけ低い位置にある相手の目を睨み、フンと鼻を鳴らす。ウタナに向き直ると、彼は濡れた前髪を鬱陶しそうに後ろへ払い、自己紹介した。
「俺は今んとこティリス海軍司令官のクシュナウーズ。ティリスにゃ何かと便利な水竜がいるんでね、その力を借りてここの池にお邪魔したってわけさ。ちなみに、勘違いするなよ、今回俺はことの真偽を確かめに来ただけで、どうするかはまだ決定されてねえ」
ウタナもスクラもまだ不審げな表情を消さなかったものの、結局しばしの後には三人とも絨毯に座って熱い紅茶をすすっていた。
「で? 本気なのか、エラード王に反旗を翻すってのァ」
角砂糖をガリッとかじり、クシュナウーズはカップの縁ごしにウタナを眺めた。どことなくスクラと似ていなくもないリズラーシュ人の領主は、眉をひそめて「声が大きい」とたしなめる。
「既に心は決まっておる。このままマデュエス様と顧問官の好きにさせておいたのでは、我が国は崩壊するわ。海の民にやられた痛手もまだ癒えぬというに、王は怪しげな神にうつつをぬかし、飢饉と重税で塗炭の苦しみに喘いでおる民にはまるで目もくれぬ。この谷とて、ようよう作物の収穫が一昔前ほどまで回復し、働き手の数も増えて来たばかりだというのに……寺院を建てよ、などと無茶を言う」
ウタナは眉間に険しいしわを刻み、いまいましげに唸った。「なるほど」とクシュナウーズはうなずくと、紅茶を飲み乾した。
「建てねえ場合は反逆とみなす、ってわけかい」
「そういうことだ」
むっつりと領主は答え、フンと鼻を鳴らす。
そもそもデニス一帯にはあまり厳格な宗教はなく、都市ごと・地方ごとに様々な土着の神が祭られているような状況だった。もちろん冠婚葬祭を司る神官などはいたが、規則や階級の厳格な組織に属するものではなかった。
先の帝国時代にそれがぼんやりとまとまった形になり、『光』の神と『闇』の神がお定まりのパターンで神々の統率者として現れ、善なる光の神の手で皇帝に支配権が与えられている……そんな感じになってきたばかりの頃。
そこへ『海の民』が攻め込んで来て、結局きちんとした大規模の宗教組織はできないまま、今に至っているのだ。つまり、顧問官が寺院をつくりザールの聖職者を育て上げるのに、まとまって反対する強い勢力が存在しなかったのである。
「とは言え、国内でバタバタしている隙を突かれるのはかなわない、だからティリス側から攻め込んでもらって楽させてもらおう、ってな魂胆かい」
クシュナウーズは皮肉っぽく言い、肩を竦めた。
「そいつはちょっとムシが良すぎやしねえか? こっちだってついこの間までドタバタやってたんだぜ、他人の手助けしてる余裕なんかありゃしねえ。ま、国境付近の住民が盗賊を装ったそっちの手下に連れてかれてんのは、見過ごすわけにゃいかねえだろうが……」
「谷の反乱のために王都ラガエまで攻め込むのは無理だ、というわけか」
スクラが後を引き取った。クシュナウーズは黙ってにやりと口元を歪め、肯定する。ふむ、とスクラは顎に手を当て、軽く考える仕草を見せた。
「だがいずれにせよ、何らかの形でマデュエス王との交渉はせねばならぬはず。国境の警備を厳しくするだけならばともかく、ティリス人捕虜を解放するとなると、領内に兵を進めるより他に方法はなかろう。証拠を突き付けぬ限り、マデュエス王はそのような者の存在を認めまい」
ちらっと視線をクシュナウーズに向け、相手の嫌そうな顔を確かめてから続ける。
「むろん、ラガエまでの道は大層危険なものとなろう。少しでも兵力が分散している方が、エンリル王にとっても良いと思うのだがな」
重い沈黙。ややあってクシュナウーズは、しょうがねえ、とため息をついた。
「分かった、そう伝えることにしよう。スクラってったな、おまえはどうするんだ? 谷の反乱に加勢するのか」
「安全の確保できぬ内にそれを明かすことはできぬ。だが、様々な状況変化に対応できるよう策を立ててはいる、とだけ言っておこう」
「うちの陛下がエラードに攻め込まない場合でも?」
クシュナウーズは揶揄したつもりだったが、スクラは平静に「然り」とうなずいた。これには二の句がつげず、クシュナウーズはぽかんとしてしまう。
もし、この反乱のことを先にマデュエスに知らせたら――そんな問いが喉元まで上がってきたが、彼はそれを飲み込んだ。眼前の青年はやはりうなずくだけだろう。あるいは、その仕草を確かめる間もなく、自分の首が冷たい刃を飲み込むことになるか。
(こいつはヴァラシュと張るぜ)
若いと思って侮れば痛い目を見そうだ。クシュナウーズはちょっと頭を掻き、やれやれといった風情で立ち上がる。
「おっかねえガキだぜ。首がつながってる内に退散するとしようかね。安心しな、ちゃんとうちの陛下に言っとくよ。おまえたちと組んだ方が賢い、ってな」
もっとも、反乱が成功した暁には誰がエラードの玉座につくつもりなのか、それにもよるが……。うまく行けば、エンリルが望むと望まざるとにかかわらず、エラードもティリスの領土に加わるだろう。
今ひとつ征服欲のないエンリルには、ちょうど良い機会かも知れない。
(ただ心配なのは)
人目を忍んで部屋から出る直前、クシュナウーズは最後にスクラを一瞥した。
(このガキがティリス勢を牽制するためにアルハンとも連絡を取っているんじゃねえか、ってことだ……)
杞憂に終われば良いが。
するりと暗闇の中に滑りこみ、彼は姿を消した。
「秘密? なんでだ」
アーザートは焚火から少し離れた岩陰でささやきを返した。カゼスは心配そうに背後をちらちらと振り返り、アーロンやフィオに聞かれていないことを確かめる。
「私は男だってことになってるんです。アーロンやエンリル様は、そうじゃないと知ってますけど……他の人は知りませんから、たとえアーロンだけと話す時でも口にしないでほしいんです。誰に聞かれるかわからないし」
「口止め料ははずんでくれるんだろうな」
カゼスは情けない顔をしたが、仕方なくうなずく。
「なんとかできる範囲なら。生憎ですけど、私はあなたが思っているほどお金持ちじゃないんですよ。とりあえず、今は持ち合わせがないので……」
貧乏くさい台詞にアーザートは呆れ顔になった。
「やれやれ、分かった分かった。ティリスに戻ってからでいいさ」
肩を竦め、アーロンに邪魔されない内にと焚火の近くに戻る。カゼスもとぼとぼと火に寄り、夜気で冷えた指先をかざした。
「なぁおい、万騎長さんよ。いい加減に意地を張るのはやめたらどうだい。俺が交替してやるっつってんのに、ほとんど一晩中起きてるんじゃ身がもたねえだろうが。肝心な時に眠くてふらついてたんじゃ困るぜ」
少し嘲りをこめた口調でアーザートが言う。アーロンは無言で睨み返すだけ。代わってフィオが棘々しく応じた。
「あんたなんか信用できるもんですか。何が護衛よ、殺し屋のくせに」
言葉は荒々しいものの、その表情には威圧に足るだけの生気がない。アーロンと交替で起きているから、睡眠不足が続いているのだ。
とうとうため息をつき、カゼスは当面アーザートに歩み寄ることよりも二人の健康を優先させることにした。
「二人とも、大丈夫ですから眠ってください。気は進みませんが、万一に備えて身を守る魔術をかけておきますから」
誰から身を守るのかね、とばかりにアーザートが皮肉っぽい目を向ける。カゼスはげんなりした。
「肉体にも精神にも危害を及ぼされない護りをかけておきます。私たち全員にね」
全員、を強調して言い、カゼスは厳しい目で三人を順に見つめた。この場にいる誰も、自分以外の誰かを傷つけることはできない。アーザートの身も同様に護られるのだ、と。
カゼスが簡単な呪文を唱えると、それぞれの体が一瞬、光に包まれた。
「これで見張りなんぞ立てなくても良くなったわけか。どれ」
つぶやくなり、アーザートは剣を引き抜きざまカゼスの胴をなぎ払った。
――が、剣は見えない力に弾き返され、彼は痺れた手首を押さえてうずくまる。その時にはもう、反射的に抜かれたアーロンの剣が利き腕に当てられていた。
やっぱりな、と冷笑を浮かべてアーロンを見上げ、アーザートはいささか目を丸くした。アーロンはどうやら本気でアーザートの腕を斬り落とすつもりだったらしいのだが、やはり彼もアーザートに傷を負わせることはできずにいるのだ。
何かに阻まれてそれ以上刃を下ろすことができないと悟ると、アーロンはいまいましげに剣を収めた。
「身内で効果を確かめ合ってどうするんです? 私はもう寝ますよ」
おやすみなさい、と悲しそうに言って、カゼスはさっさと毛布にくるまって丸くなる。フィオもまた、カゼスの魔術に対する信頼から、その横に並んでじきに安らかな寝息を立てはじめた。
残された男二人はむっつりと押し黙って、互いを見ようともせず座していた。
(しゃべるな、ったって、第一この野郎と口をきくこと自体ありゃしねえや)
ふとそんな事を皮肉っぽく思い、アーザートは口元を歪めた。
(それにしても)
万騎長の厳しい横顔から目をそらし、地面に横たわっている魔術師の寝顔を眺める。
(なんでこんな奴が『ラウシール様』なんだ)
自分とそう年も変わらず、ひ弱そうで要領も悪く覇気もない。苦しみや悲しみに耐え抜いてきた者のもつ深みが感じられるわけでもない。ただ、他人に使えない魔術とやらを扱える、それだけのこと……むろん、その『それだけのこと』が他の人々とは厳然たる一線を画しているのだが。
――あなたが人を殺す必要はないと思います……
自分の手に触れた温もりを思い出す。なぜか、胸の奥がうずいた。苛立ちと怒り、どす黒い、やり場のないむかつき。いったい何にそれほど腹を立てているのか、そもそもこれが怒りなのかどうかさえ分からなかった。
依頼など関係なく、この女を踏みにじり五体バラバラにしてやりたい。理由の分からない憎しみが渦巻く。
苛立ちが募るのをごまかすように彼は鼻を鳴らし、焚き火に背を向けてごろりと寝転がった。
(頃合いを見て、売っ払うか)
エラード側に情報を流すか、あるいはうまくカゼスを連れ出して捕虜にするか。顧問官エリアンならば、相手が魔術師でも逃がしはすまい。
それまでは、別の誰かにかっさらわれないように、せいぜいこの金貨袋を守ってやるとしよう……。
(心配いらないよ、健康診断だから)
コツン、コツン、コツン。
暗い廊下に足音が響く。病院のはずなのに、あまりにも静まり返っている。視点の低さは子供のものだ。
窓の外は暗闇が広がるだけ。天井の隅、廊下の隅、扉の隙間……皆、暗い。
(一年でだいぶん背が伸びたねぇ……育ち盛りは早いなぁ。おじさんにも子供がいるんだけどね……)
空々しい、一方的な会話が続く。
知らない『おじさん』は、背中を軽く押したり、腕を引いたりしようとはしない。小さい子供を誘導するのによくやる仕草を一切見せず、ただ横を歩いて行く。
(ねえ、もしかしてぼく、まえにもここに来たこと、ある?)
ちょい、と相手の袖を引っ張る。瞬間、『おじさん』は感電したかのようにビクッとして、小さな手を振り払った。
沈黙が降りる。視点はいつの間にか『おじさん』の方に切り替わっていた。
青い髪、青い瞳の中性的な子供が、じっとこちらを凝視している。どこか放心したような、何かが欠落しているようなまなざしで。
(ひ……っ)
ひきつった悲鳴をもらし、『おじさん』は後ずさる。恐怖が全身を満たした。兎が狼に対して抱くような、本能的な恐怖。
再び、視点が変わる。
いつの間にか一人になっていた。暗闇がその領域を広げ、いまや自分の立っている床だけしか見えない。
言葉にならない怯え、恐れからくる冷たい憎悪が闇に満ちて、ゆっくり締め付けるように迫ってくる。自分も怯えて当然の筈なのに、なぜか何も感じなかった。
踏み出すと、闇が逃げて場所を空けた。だが、消え去りはせず、やはり完全に取り囲んでいる。その中からは出すまいと。
(どうして、何が怖いの。ぼく、悪いことした?)
相変わらず無感情のまま、問いを投げかける。返事はなく、代わりにゆっくり闇の中から何かが現れた。
それが何かを確かめる間もなく、いきなり足をすくわれ、仰向けに倒れる。
身動きが取れないように押さえ込まれ、ゆっくりとその『何か』が視界に覆いかぶさってきた。人間のような形をしている。だが、まるで泥人形のようにぐずぐずして、時々ポタポタと液体が滴り落ちてきた。
――ようやっと恐怖が忍び込み、心臓に冷たい指先が触れた。
潰れかけの人形は、もたもたと腕を振り上げる。その先に何か光るものを握って。
(コンナモノ、処分シテシマエ)
(イマ片付ケテシマワナケレバ)
ぐにゃり、と腕がしなった。
きらめく物が顔めがけて振り下ろされ――
――オマエハ 存在シテハ イケナイ……
「ぅあっ!」
低い悲鳴をもらして、もがくように飛び起きた。指は無意識に毛布をがっちりと握りしめ、額に汗がじっとりにじんでいる。
カゼスは荒い息を整えながら、周囲を見回した。しっとりと朝靄に湿った空気が鼻孔をくすぐる。樹木と土の匂い、既に目覚めている鳥のさえずり。
(そうだ……ここはデニス……高地の山中なんだ)
はーっ、と深いため息をつき、片手で顔を覆う。
夢の記憶は目覚めとともに急速に薄れ、自分が何に怯えて飛び起きたのか、もう分からなくなっていた。だが、恐怖や苦痛は消えず、理由を思い出せないまま涙があふれ頬を伝った。手の甲でそれを拭い、もう一度小さなため息をつく。
しっかりしなくては。今日の昼にはエデッサに着くというのに、夢ぐらいで動揺していてどうする。
顔をしかめて眉間を押さえる。
(アーザートがどうとか、よくまぁ言えたもんだよ。私の方が精神分析でも受けた方がいいんじゃないのか?)
記憶の底に沈んでいる暗い出来事。リトルに訊けばすぐに事件の詳細や結末を知ることが出来るだろう。あるいは、自力で思い出し、過去と向き合う努力をすれば、こんな悪夢に悩まされずともよくなるのだろう。が、しかし。
(他人事なら簡単に言えるけど、自分となると……)
やれやれ。
悪夢の残響が消えて少し落ち着いてくると、カゼスはふと視線を巡らせた。さすがに連日の睡眠不足がつらかったのだろう、アーロンが珍しく熟睡している。
(何とかなるよな。多分、その内)
今は、一人ではないから。支えてくれる、甘えてもいいと言ってくれる人がいるから。
コツン、と何かが足に当たり、振り返ると、フィオが寝返りを打ったところだった。まだすこし小さい手が、カゼスの膝に接している。
微笑を浮かべ、カゼスはフィオの肩からずり落ちている毛布を、そっと掛け直した。
(きっと、大丈夫……)




