二章 変容 (3)
その日の夕刻、三人は小さな宿にたどり着いた。寂れた街道の傍らで、狩猟を主に生計を立てている家が、必要とあらば旅人に一夜の宿を提供する……といった程度のものだ。あまりのみすぼらしさと胡散臭さゆえに、思わずカゼスまでが、眠らせて身ぐるみ剥いで殺す類の盗賊宿ではないかと疑ったほど。
住んでいるのは狩人の一家で、夫婦二人に加えて年かさの息子が三人という狭苦しさだったが、人当たりは良かった。
「うちは温泉も引いてるからね、ゆっくり旅疲れを落としてくんな」
三人を客室に案内しながら、次男が愛想良く言う。
「それにしても珍しいな。いや、詮索するつもりはねぇけど、特に病人がいるわけでもなさそうなのに、夫婦でエデッサに行くなんてよ」
またかとばかり、カゼスとアーロンは揃ってげんなりした。フィオが苦笑しながら用意しておいた説明をする。
つまり、カゼスはカイロンの噂を聞いてその技を一目見んと欲している医者、フィオがその助手、アーロンはカゼスの友人で道中の護衛を買って出てくれたのだ……と。もちろんここでも、すべて偽名だ。
(あんまりいつも女だと思われるのも、困るなぁ。まやかしをかけておいた方がいいかも知れない)
フィオの説明をぼんやり聞きながら、そんな事を考える。
案内された部屋は、普段は息子たちが使っているらしい。簡素なベッドがちょうど三つある。中に入ると、フィオは何やらうずうずした様子を見せた。どうしたのかとカゼスが首を傾げると、彼女は思い切って言った。
「あのっ、あたし、先にお風呂に入ってきてもいいですか?」
カゼスは思わず目を丸くした。いつもはカゼスの事を優先するのに、今回ばかりは別らしい。カゼスが目をしばたたかせていると、彼女はもじもじしながら続けた。
「だって、あの、もう長いことお湯のお風呂なんて入ってないし……」
実はかなり前から風呂に入りたかったらしい。カゼスは「もちろん」と気前よくうなずいた。自分は身分上それなりに頻繁に湯を使えたし、そうでなくとも魔術でなんとかできる。いつもカゼスを優先してくれる少女に、たまには報いるべきだろう。
「気にしないで、ゆっくりしておいで」
「ありがとうございますっ!」
満面の笑顔になって飛び出して行くフィオを見送り、さて、じゃあ寝床の準備でもしようかな、と振り返る。途端にアーロンと目が合い、カゼスは硬直した。
昼間あんな事があったばかりで二人きりになってしまうと、どうにもこうにも息苦しい。赤面するのを隠そうと、慌てて背を向け、虫やゴミが落ちてないか調べるふりをした。
背後で、ベッドに座って靴の具合でも点検しているらしい物音がする。カゼスはしばらく自分の寝床を調べていたものの、客を宿に入れる前に急いでシーツや毛布などは取り替えたらしく、思いのほか清潔で、すぐにやる事がなくなってしまった。
所在なくベッドに腰かけ、ふくらはぎを軽く揉んでみたりする。ややあって、結局カゼスの方が先に口を開いた。
「あの、ひとつ……訊いても構いませんか?」
何を、と問うようにアーロンが顔を上げる。カゼスは顔に血がのぼるのを自覚しながら、しどろもどろに言った。
「その、つまり、どうして私なんかを……?」
これにはさすがにアーロンも目をしばたたかせた。
「どうして、と問われてもな」
生真面目にそんなことを言って、困り顔になる。それからふと彼は、何かを思い出したように言った。
「信じられぬか」
問い返され、カゼスもまた思い出す。フローディスに向かう船の上で交わした会話を。
「いえ、あの……その、あなたの言葉を疑ってるわけじゃないんです」彼はうろたえて首を振った。「でも……、だってほら、実際問題、私は女じゃないわけですし……最近、人間かどうかも怪しいし、それに、時も場所もあまりにかけ離れた所の住人だから、考え方も違うし。不精だし、ぐじぐじしてるし、ひねくれてるし、頭悪いし……」
言い訳がだんだん悪口の大安売りじみてくる。アーロンは黙って聞いていたが、最後には堪えきれなくなって笑いだした。
うう、と恨めしげな顔になったカゼスに、彼はなんとか笑いをおさめて答える。
「おぬしは自分で思っているほどひどい人間ではないぞ」
とりあえずそう言いはしたものの、その後が続かなくなったらしい。アーロンは黙ってちょっと頭を掻き、それから手を組んで、その上に目を落としてしまった。
(うああ、妙なこと訊くんじゃなかった)
カゼスは既に後悔しはじめていた。たとえばこれがヴァラシュなどであれば、美辞麗句と耳に心地よい褒め言葉で、いくらでも気分良くしてくれるだろう。なぜ私を、と問えば、あなたに惹かれない男はいませんよ、とかなんとか頭が発酵しそうな台詞で応じるに違いない。
だが同じ芸当をアーロンに求めるのは、無茶というものだ。ヴァラシュと違ってアーロンは、適当な受け答えで質問を煙に巻くことすら出来まい。それが証拠に、いまや本気で考え込んでいる。
(しまった、どうしよう、やっぱり今のナシって言ってごまかせる……わけないか)
カゼスがおろおろしている間に、アーロンはとうとう頭を抱えてしまった。
「あ、あの、すみません……やっぱり答えなくていいです」
沈黙に耐えかね、ついにカゼスはそう口走った。アーロンが顔を上げ、複雑な目でこちらを見つめる。カゼスは視線を避けるように慌てて言葉を継いだ。
「本当にすみません、馬鹿なこと訊いて。その、つまり、ただ、あううう」
自分でも何が何やら分からなくなり、真っ赤になってもごもご言う。
「や……やっぱり、なんだか夢みたいで。私なんか、あなたにとってはお荷物にしかならないでしょう?」
そんな煮え切らない態度にアーロンも腹をくくったらしく、改まった口調で「確かに」と答えた。
「最初は、放っておけない、手のかかる奴だと思った。ぼんやりしていて、隙だらけで、一人で放り出したら三日と無事に過ごせまい、とな」
そこで彼は、何とも言い難い顔になっているカゼスに、ちらっと皮肉めかした視線を投げかけた。聞きたがったのはおぬしだぞ、とばかりに。
「それが実はとんでもない力をもっていると知って、正直、愕然とした。おまけに、ただぼうっとしていて利用されやすい人間かと思いきや、信じられないほど強い意志を秘めてさえいる。だが、そうと知れば余計におぬしが危うく見えた」
「危なっかしい、ですか」
思わずカゼスは辛辣な声を洩らしてしまった。やはり甘えているのだ、と感じて。だがアーロンは、その反応を予想していたらしい。黙って立ち上がるとカゼスの隣に座り直し、その手を取った。
「そうだ。おぬしは強さゆえに脆い。この手ひとつで支えられる重みには限りがあることを忘れ、『ラウシール』として頼られるがまま、己の信念と周囲の期待との為に義務を負い続けている。それも際限なく」
「まさか。私がいかに怠け者か、あなたなら知っているでしょうに」
「今のおぬしを見て、誰が怠け者だなどと言える? 今までおぬしを見てきて思ったことだが……おぬしはたまに、あまねく者に許しを乞う罪人のような顔をしているぞ。誰かに失望されはせぬか、役立たずと思われてはおらぬか、そして……自分はまだ生きていて良いのだろうか、とな。おぬしを崇拝し、おぬしを求める者が増えれば増えるほど、おぬしは奴隷の身に堕ちて行くように見える」
カゼスは反論しかけたが、声が出なかった。何か言えば泣き出してしまいそうで、ただきつく唇をかむ。アーロンはそっとカゼスの手を離し、軽く頭を撫でた。
「なぜと問うたのは、理由なく人から求められはせぬと思っているからか?……ならば言おう、理由などない。おぬしは充分よくやっているし、そうでなくとも俺は構わぬ」
カゼスは目をみはり、時が止まったようにただ呆然とアーロンを見つめた。何を言われたのか、すぐには解らなかった。空耳か、夢でも見ているのではないかと自分を疑う。
「……いいんですか?」
ようやっと口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
アーロンは微笑してうなずき、「それに」と少し冗談めかして付け足した。
「俺は守り助けること以外に能がない。だからおぬしが俺を頼ってくれなければ、どうして良いものやら途方に暮れてしまう」
思わずつられて小さく笑い、カゼスは目の端に浮かんだ涙を慌てて拭った。
(ああ、この人は本当に、なんて……)
なんて多くのものを惜しみなく与えてくれるのだろう。信頼も好意も助力も、そして庇護までも。何かの代償としてではなく、ただ与えてくれる。
この恩恵に何をもって報いることが出来るのか、想像もつかないが、
「それであなたが喜ぶのなら……頼りにさせて下さい」
そしてふと、いつぞや相手に言われた台詞を思い出して「ほどほどに」と付け足す。アーロンも覚えていたらしく、片眉をちょっと上げて皮肉めかした表情を見せた。
「是非ともそうしてくれ」
しかつめらしくそう応じたものの、間を置かず失笑してしまう。二人は額をくっつけるようにして、くすくす笑い続けた。
と、ちょうどそこにフィオが戻って来た。
「カゼスさまっ! すごいんですよ、ここっ」
興奮して、偽名を使うのを忘れている。慌ててカゼスが「シーッ」と人差し指を立てると、彼女も気付いて口を覆った。聞かれていなかったかと、しばし階下の物音に耳をすませる。幸い何の変化もなかったので、フィオは声を落として続けた。
「露天風呂になってるんですよぉ、それが広いし、温かいし、なんだか不思議な匂いもして落ち着くし……うーっ、王宮にもあんなのがあったらいいのになぁ」
握り拳をつくって感動しているフィオに、カゼスは目をしばたたかせ、次いで笑いだしてしまった。フィオは湯上がりの頬をますます上気させたが、膨れたりせずに続けた。
「本当に、気持ちいいんですよ。カゼスさまも入れば分かりますから、ほら」
ぐいぐいと腕を引っ張って、浴場の方に連れて行く。アーロンの事などこれっぽっちも念頭にないらしい。カゼスは勢いに押され、結局浴場に放り込まれてしまった。
小屋の裏手に掘られた露天風呂は、どうやらどこか別の場所から温水を引いているらしい。少しぬるいが、鉱物の不思議な匂いが漂っており、フィオの言う通り浸かり心地は良さそうだ。
一応、岩で囲まれるような形になってはいるが、開けた場所である。カゼスは落ち着かずに周囲を見回し、急いで服を脱ぐと湯に入った。万一誰かに見られでもしたら、大事である。カゼスがどちらかの性をもっていれば、ただの覗きで話は片付くのだが。
(どっちかだったら、か……そうだよなぁ)
こんな体でなければ、あるいはいっそミネルバの社会が例外的存在に非寛容で、幼い時にどちらかに矯正されていたなら。
(こんな中途半端な気分にならずにすんだかも知れないのにな)
顎まで湯に浸かり、ため息をつく。
男だったら、カワードのように、毒舌の応酬をしながらも深い信頼で結ばれた友人になれたかも知れない。今頃は酒を酌み交わしながら、男同士の話とやらができたかも。
女だったら、もう少し簡単に自分から歩み寄れるのではないか。たとえば、
(手、つなぐぐらいは出来るのにな)
……馬鹿か私は。
自分で恥ずかしくなって、カゼスは膝を抱えた。
だが、単に手に触れるという行為だけでも、そこに絡む感情は複雑なのだ。アーロンが自分を想ってくれているのがどんなに嬉しくても、自ら相手の懐に飛び込んで行くには、とてつもない勇気を要した。
(女だったら……)
そう考えた時、ふと妙な感覚が胸をよぎった。
(ん? でも……私は……)
七歳そこら以前の記憶はほとんどないのだが、フィルムの一コマのような形でなら、少しは覚えていることもある。そんな記憶のひとつが、突然鮮やかによみがえった。髪を黒く染め、ワンピースを着た幼い自分の姿が。
(そう言えば、幼児の頃は女で通してたんじゃなかったっけ?)
体型を考えても、その方が理に適っている。親が昔の話をしたがらないので聞いたことはないが、まず間違いないだろう。
(すっかり忘れてた……そうか、そうだったっけ。ま、今となっちゃ意味もないか)
湯気で白くけむる水面に目を落とし、ぼんやり自分の足を見る。と、何か不自然な気がして、彼は眉をひそめた。
「あれ?」
声に出してつぶやき、湯の中で足をのばす。自分の記憶にあるものと、少し違う。
まさか。
カゼスはぎょっとなって立ち上がると、自分の体を見下ろした。小さく首を振り、震える声で小さく呪文を唱え、水面を鏡にして己の見たものを確かめる。
「…………!」
映った姿に、息を呑んだ。それは、ニーサで黒曜石の壁に映った像よりもはるかに鮮明で、考えていた以上の変化を見せつけていた。
変容していたのは、顔だけではなかったのだ。
「そんな……、どうして」
そこに映っているのは、疑いようもなく『女』だった。
同年代の女性とは比べものにならないが、顔立ちも身体のバランスも、女と言われてどうにか納得できる程度になっている。今までの状態からは想像もつかないほどの変化だ。
なぜ今まで気付かなかった? いや、そもそもいつこんな変化が?
愕然としていたカゼスは、カラッと石が転がる音でハッと我に返った。反射的に肩まで湯に沈み、音のした方を振り向く。
裏手から回ってきたのか、そこにはやはり驚いた顔で、アーザートが立っていた。
(見られた……!)
しばらく、どちらも無言だった。アーザートは浴場を囲む岩の上にのろのろと腰を下ろし、信じられないというように小さく頭を振る。それから、泣き出しそうな顔をしているカゼスに目を向け、ため息をついた。
「最初は……あの万騎長との関係をネタに強請ってやろうと思ってたんだが」
カゼスはぎょっとなり、次いで見る見る真っ赤になった。
アーザートはもう一度ため息をつき、横を向いてぼそっと付け足す。
「随分と貧相な女が好みなんだな」
ムッとしたものの、カゼスは何も言い返せなかった。
またしばらく沈黙が続く。だが今度のそれは、驚きに言葉を失ったがゆえのものではなく、アーザートは何やら打算を働かせている様子だった。
ややあって彼は、唐突な事を言い出した。
「あんた、俺を護衛に雇うつもりはないか」
「…………は?」
あまりに突拍子もない申し出に、カゼスはどうにかそう答えただけだった。
「どうやら、あんたを殺すのは並大抵では無理みたいだからな。あんたの側についた方が金になりそうだ」
「そんな、いい加減な」
「俺みたいな性質の人間に、信義だの忠誠だの求める方が間違ってるだろう。殺さずにおいてやるって言ってんだ、もっと感謝してもいいと思うがね」
「自分で信用できないと言っておきながら、雇えと言うんですか」
カゼスは険しい表情になり、相手を睨みつける。アーザートは皮肉な笑みを見せた。
「金さえ払ってくれりゃ、それなりの働きはするさ。第一、あんたは俺の要求を呑まなきゃならん立場なんじゃないか?」
ぐっ、と言葉に詰まり、カゼスは唇を噛んだ。女だと暴露されると、非常に困ったことになる。それを人が信じるか否かは別としても、どんな噂が流れるか知れたものではないからだ。
カゼスが黙っていると、アーザートはにやにやしながら続けた。
「かと言ってあんたは俺を殺せないだろう。あんたが直接手を下さなくても、誰か他人が俺を殺すのを見過ごすことも出来ない以上、俺の口を封じるのは無理だな」
嫌な指摘をされ、カゼスは奥歯で唸りを噛み殺した。そして、
(あ――まただ)
ふと気付く。アーザートの瞳の奥にちらつく、奇妙な色。言動に反したその気配は、アーザート本人さえ気付いていないのかも知れない。カゼスは少し考え、深くうなずいた。
「分かりました。あなたが満足できるだけの報酬を支払えるかどうか自信はありませんけど、あなたを護衛に雇います」
「そうこなくっちゃな」
アーザートは口元の笑みを広げると、「また明日」と短く言い残して岩の向こう側へと姿を消した。
(なんだろう……何かが引っかかるんだよな)
のぼせてしまった頭で、カゼスはぼんやりと思う。
〈いいんですか、あんなむちゃくちゃな要求を呑んで。強力な暗示をかけて追い払えばすむ話でしょうに〉
呆れた気配をにじませてリトルが言い、はじめてカゼスはその手段に気が付いた。
〈そういう事は先に言ってくれよ。考えつかなかったんだ〉
だが、もし考えついたとしても、そのまま彼を追放しただろうか。
何となく、あの奇妙な気配には覚えがあるような気さえして、カゼスは首を傾げた。
(なんだかいっぺんに色んなことがのしかかってきたなぁ)
女性化の原因もなんとかして突き止めないと、このまま女になってしまうのであれば、常時まやかしをかけてごまかさざるを得なくなる。
服を身につけながら、もう一度自分の体を見下ろして、カゼスは長々とため息をついたのだった。
翌日、宿を出て街道を再び登りはじめた三人の前に、アーザートが堂々と姿を現した。
「貴様っ!」
即座にアーロンが剣を抜く。が、アーザートは素早く安全圏まで跳びすさった。
「おいおいラウシールさんよ、ゆうべの内に話しといてくれなかったのか?」
厭味っぽくアーザートが言い、どういう意味かとアーロンはカゼスを振り返る。フィオとアーロンの刺すような視線に身を竦ませながら、カゼスは恐る恐るといった風情で切り出した。
「言い出しそびれてしまって……実は、彼に護衛を務めてもらうことにしたんです」
「何だと!?」
「何ですかそれっ!」
二人は同時に叫んだ。フィオは怒りに青ざめ、唇をわなわなと震わせる。それからくるっとアーザートに向き直ると、びしっと指を突き付けた。
「あんたがカゼスさまを脅したのねっ! この、極悪人っ!」
「なんでそうなるんだよ。さては、てめえの大事なラウシール様は、何があっても絶対に正しいと思ってんだな?」
「あんたみたいなのに比べれば百万倍も正しいわよっ! このロクでなし、鬼畜生、」
続けて、翻訳呪文が麻痺するほど強烈な罵詈雑言が、少女の口から山ほど飛び出す。さすがにここまで痛烈かつ口汚い言葉を聞くのは初めてだったので、カゼスは唖然となってしまった。その耳に、アーロンが険しい表情でささやく。
「何か弱みを握られたのか」
「……実は、ゆうべお風呂に入っている時に……見られたんです」
カゼスもごく小声で答えた。瞬間、アーロンの表情が凍りつく。激しい怒気が立ちのぼり、肌にチリチリと痛く感じられるほど。思わずカゼスは腕で我が身を庇い、「すみません」と謝りつつこそこそと逃げ出した。
「秘密もろとも墓場に葬ってくれる」
低い声でつぶやき、アーロンは再びアーザートに剣を向ける。フィオと不毛な悪口の応酬をしていたアーザートは、それに気付くと唇を歪めた。
「ラウシール様は、人殺しは好かんらしいぜ」
「貴様は人どころか畜生にも劣る下衆だ、構わぬ」
手厳しくアーロンが言い返す。慌ててカゼスは二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「こんな奴、庇うことありませんよっ!」
フィオがアーロンに味方する。カゼスは困った顔になり、ちらっとアーザートを振り返った。彼が聞いたらますます態度を硬化させそうなので、アーロンとフィオを引っ張って少し離れ、ひそひそとささやく。
「昨日の昼間にも言いましたよね、何かが違うような気がする、って。やっぱり今もそう思うんです。ただ、彼が……言葉を失っているんじゃないかと」
「とてもそうは見えぬがな」
極めて不機嫌な顔でアーロンが唸る。フィオもこくこくとうなずいた。が、カゼスは真摯な目で二人に懇願した。
「お願いです、私にしばらく時間をください。彼をきちんと理解するための時間を」
彼は自分自身を伝える言葉を失っている、そう感じられるのだ。それは我が身にも覚えのあることだった。何を言っても疎んじられ、誰にも相手にされず、そうして言葉を発することを周囲から禁じられ続ける内に、伝達能力そのものを失ってゆく。
「彼から本当の言葉を引き出すには、うんと長い時間が必要かも知れません」
カゼスは精神科の医者でもないし、心理療法や精神分析の手法を修めているのでもない。もしかしたら、これはただの思い込みで、アーザートはどうしようもない天性の悪人なのかもしれない。
「でも、このままにしておいてはいけないと思うんです」
救いたいとか、可哀想だとかいったものではない。ただ、そうしなければならないと感じるだけ。
言い切ったカゼスを、二人はまじまじと見つめた。
しばらく沈黙し、結局、先にため息をついたのはアーロンの方だった。
「おぬしは言い出すと聞かぬからな。仕方がない……だが、おぬしの命に危険が及ぶようであれば、俺はいつでもあ奴を斬り捨てる。それは構うまいな」
彼にしては最大限の譲歩だろう。カゼスは感謝しながら自分も譲ることにして、うなずいた。フィオはカゼスの言うことがあまり理解できないせいもあって、まだぶすくれていたが、最終的には渋々ながら「分かりました」と従った。
「でも、あいつが変な真似したら、あたしだってただじゃおきませんからね」
「ありがとう、二人とも」
カゼスはホッとして笑顔を見せると、アーザートを振り返った。
「お話し合いは終わったかい」
「ええ。それじゃ、行きましょうか」
そうして、不安を残したまま四人はエデッサ目指して歩みを再開した。