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帝国復活  作者: 風羽洸海
第二部 エラード侵攻
34/85

二章 変容 (2)



「なんだかカゼスさま、元気がないですねぇ……」

 フィオは荷馬車の横をほてほてと歩きながら、横のアーロンにささやいた。

 マルドニオスが見付けてくれた隊商は、金さえ払えば快く荷馬車に乗せてくれた。兵役明けのアーロンと、その友人で医術を学んでいたカゼス、それに助手兼召使のフィオ、という名目にしたので、アーロンは護衛にもなるし、医者がいるのならなお良い、と歓迎されたのだ。もちろん、三人とも偽名を使っている。

 ニーサを発ったその日から、カゼスはめっきり口数が減っていた。アーロンとは極力目を合わさないようにして、何事かずっと物思いに耽っている。

(あー……どうなってるんだろうなぁ)

 カゼスは何度目になるか、同じ言葉を頭の中で繰り返した。感情を締め出し、何か理屈で片がつく事柄で頭をいっぱいにしていたくて、日がな一日、変化の原因やこれから向かう高地のことなどを考えていたのだ。

(カッシュから発った頃……と言えば、魔術を行っても最初ほどめまいを起こしたり気絶したりすることがなくなってきた時期、だよな。何か相関があるんだろうか)

 高レベルの魔術力場に触れることが、何らかの遺伝的形質を発現させる鍵だったのか。最近はもうすっかりここの力場レベルに慣れて、いつもと同じ呪文のまま術を行うことができる。とすれば、容貌の変化もそろそろ止まるのだろうか。

 止まらなければどうなるのか。まさか尻尾だの角だのが生えてきたりはすまいが。

(もう一人、正常なミネルバ人がいればな)

 そんな事をふと考え、カゼスは眉間にしわを刻んだ。自分を何だと思っているのだ?

(でも、それは事実だ)

 自分が正常な人間とは違う、ということは。対照になるものがなければ、まったく理由の考察が進まない。

 ……ため息。

「カゼスさま、具合でも悪いんですか?」

 心配そうなフィオの顔が視界に入り、カゼスはハッと我に返った。

「あ、いえ、そんな事は……。それより、すみません。私だけ馬車に乗せてもらって」

 ゴトゴトと揺られながら、そう答える。様々な箱や袋と一緒に荷台の上に座っていると、目の高さがフィオと同じだ。

「いいんですよ、お医者さまはいざという時に備えて休んでいなくちゃ」

 くすくす笑ってフィオは言い、ふと空を仰いだ。

「今日もいい天気ですねー」

 つられてカゼスも空を見上げ、目を細める。何の建物にも遮られることのない空は、圧倒的な広さだった。風が吹き抜け、草原がザアッと騒ぐ。

「……ここに来て、空の広さを初めて知ったような気がするんです」

 ぼんやりカゼスは言った。フィオが首を傾げたので、目を下ろして笑みを浮かべる。

「私が生まれ育った土地は、山に囲まれていましたし、建物がとても多くてね。いつも空は何かに切り取られていたから……」

 言いながら、また空を仰ぐ。

 何もかもがどうでも良くなるような、自分という存在の小ささを思い知らされるような、広大さ。宇宙に出たことはないが、青空だけでも充分世界の大きさを感じられる。

「そろそろパティラが見える頃だ」

 不意にアーロンが言葉を発した。幸いあまり意識することもなく、カゼスはそれを聞き流してから振り向く。

 アーロンは黙って行く手を指した。荷台の上で身をひねり、カゼスはフィオと一緒に草原の彼方を見やる。耕作地と放牧地が連なる向こうに、日干し煉瓦の黄土色の塊がうずくまっているのが小さく見えた。

 家に立ち寄るのか、と訊きたかったが、声を出すと不自然な緊張を悟られてしまいそうで、何も言えなかった。カゼスの問いを察したわけではなかろうが、フィオが無邪気にアーロンを仰ぎ見て言う。

「お家の人に会えるんですねぇ、楽しみだなぁ。どんな人たちなんですか?」

 だがアーロンは苦笑しただけで、何とも答えなかった。

 その理由は、パティラの町並みに入って隊商と別れてからすぐにはっきりした。アーロンは生家に立ち寄るつもりはなかったのだ。この町からも離れた辺鄙な所の生まれでね、などと言って、隊商のロバを一頭買い受けると、その足でさっさと街を出てしまったのである。

「えーっ、どうして寄って行かないんですか。ご両親に顔ぐらい見せたらいいのに」

 今夜はアーロンの生家でゆっくり休めると思っていたからか、それともこの仏頂面万騎長の家族を目にする機会を逸したからか、フィオが不満げに抗議した。

「そんな事をすれば、万騎長がわずか数人で何用かと騒ぎになってしまう。高地の境界にほど近い街で噂の中心になるのは避けた方が良かろう。我々が着くより先に噂が届いて、相手に歓迎の準備をさせることになっては悪いからな」

 少しばかり皮肉を交えてアーロンは答える。

 いつもなら苦笑するか、何らかの反応を見せるはずのカゼスが黙りこくっているので、さすがにアーロンもその面に不審げな色を浮かべた。

(まだ気にしているのか?)

 顔立ちが少々変わったぐらい、何をそこまで鬱々と考え込む必要があるのだろう。それとも、また何か我々ティリス人には想像もつかぬ事に思いを巡らせて、沈んでいるのか。

(参ったな……)

 なんとか元気づけてやりたくなるのだが、フィオがいる手前、カゼスの秘密に関りそうな事は迂闊に口に出せないし。

 何気なくそう考えて、はたと気付く。

(関係が、あるのか?)

 カゼスが男でも女でもないことと、容貌が変化したこととの間には。

 改めてカゼスの横顔を眺めると、受ける印象は確かに変わっていた。それも、単に凛々しくなったというだけではない。

(心なしか、女っぽくなったような……、いや待て、何を考えてるんだ俺は)

 自分に都合のいい期待をするんじゃない、と己を戒めたものの、一度抱いた考えはすぐには消えてくれない。もしかしたら、などと思いつつもう一度カゼスに視線を向け、その細い首が目に入った瞬間、自分の考えが恥ずかしくなって、慌てて目をそらす。

「もぉっ!」

 突然フィオが憤慨して言い、残る二人はそれぞれびくっと竦んで振り返った。

「お二人とも黙りこくっちゃって、どうしたっていうんですか? さっきから何べんも呼んでるのに、ちっとも聞いてないじゃないですか!」

「あ、ご、ごめん」

「……すまん」

 二人はもごもごと謝り、ばつが悪そうに目をそらす。フィオは大袈裟なため息をついてから、やれやれと腰に当てていた両手を降ろした。

「本当に、変ですよ。ほら、カゼスさま、これ」

 案じ顔のままフィオはカゼスの手荷物を受け取って、代わりに丈夫そうな一本の長い杖を差し出した。

 「これは?」とカゼスが首を傾げると、フィオは荷をロバの背に括りながら答える。

「街で貰って来ました。それも気が付いてなかったんですか? 山道は足場が悪いから、あった方がいいだろうと思って」

「……ありがとう」

 何の飾り気もないが、きれいに磨き上げられていて、手触りはなめらかだ。礼を言ったカゼスに、フィオは少し芝居がかった表情を見せた。

「カゼスさまが山道を転がり落ちたりしたら、大変ですから」

 返す言葉もない。と、アーロンが堪えきれなくなって失笑した。

「だんだん物言いに遠慮がなくなってきたな、フィオ」

「環境が悪いんです」

 いーだ、と即座に言い返すフィオ。これにはカゼスもふきだしてしまった。

 フィオは心持ち赤面したが、それよりも相手を笑顔にさせたことが嬉しくて、照れ臭そうに笑みを返したのだった。


 高地との境界には小さな関所があったが、エンリル直筆・印章つきの旅券は効果てきめんで、番人は親切にあれこれアドバイスをしてくれた。これこれという名の宿屋が良い、どこそこの辺りには泉があって休憩にはもってこいだ、等々。

「国境と言っても、取り立てて壁があるとかいうんじゃないんですね」

 ぼんやり周囲を見回してカゼスは言った。街道の端に小屋がある以外は、たいして目印らしいものもない。

「この街道はあまり人通りがないからな。もっと大きい道なら、関の周囲に街が広がっていて国境がよく分かるのだが」

 アーロンが答え、ロバの首を軽く叩いて先へ進ませる。

 道が登りになり、空気がだんだん湿気を帯びてくると、植生も驚くほど変化し始めた。常緑樹の茂みが消え、ほっそりした落葉樹が多くなり、柔らかな緑の草や潅木の茂みが道を覆い隠そうと手をのばす。

 空気はさらりとしているが、かなりカゼスの知っている森林に近い。長い間、これほど贅沢に植物が茂っているのを見なかった。滴る緑が目に染みる。サラサラいう葉ずれの音、鳥のさえずり、せせらぎのつぶやき……束の間、自分の家に帰ってきたような錯覚に陥る。

 ――と、前を行くアーロンがふと足を止めて振り返った。その視線はカゼスもフィオも素通りして、ずっと後ろの方に向けられている。つられて残る二人も振り返った。

「どうしたんですか?」

 フィオが目をしばたたかせて問うと、アーロンは眉をひそめて「いや」とつぶやいた。

〈何かいたのかい? リトル〉

〈誰かがついて来ているようですね。もっとも、たまたま行き先が一致しているのかもしれませんが。人物の特定までは、ちょっと出来ません〉

〈……まさか、王都からここまで追いかけてきた、って事はないだろうなぁ〉

 不安になってカゼスも眉を寄せる。

〈物理的には不可能ではありませんよ〉

 しれっとリトルが言う。こちらの不安など、どこ吹く風といった体だ。カゼスはこっそりため息をついた。

 高地の領土内に入ってから二日目、川に沿って進んでいたカゼスは、小さな淀みの縁に見覚えのある草が生えているのを見付けた。

「あ、あれは……すみません、ちょっと待っててください、採って来ます」

 言うやいなや、土手を滑り降りて、川辺に走って行く。呆気にとられて見ている二人の前で、カゼスはぷちぷちと草を摘みはじめた。

「ついてるなぁ、群生地なんだ」

 嬉しそうに独りごち、爪先が濡れるのもかまわず屈み込む。きれいな水辺にしか生えない薬草なので、ティリスでは滅多にお目にかかれなかったのだ。その効用は多岐にわたり、これひとつで常備薬的な役割を果たしてくれる。

「持って帰ったら、イスハーク先生が喜ぶだろうな」

 ふふ、と笑みを浮かべて、カゼスは夢中で手を動かした。遠く上の方から、「落ちるなよ」とアーロンの声が届いた。

「やれやれ、薬草となると見境がなくなるな」

 街道に残ってロバの手綱を持ったまま、アーロンはため息をついた。フィオも苦笑してうなずく。

「ご自分のことは、すぐに後回しにしてしまわれるんですけどね」

「ついでだ、少し休んでいるとするか。歩き通しで疲れただろう」

 アーロンが気遣うと、フィオは可笑しそうに首を振る。

「ちっとも。あたしの事は心配要りませんよ」

 そうこうして他愛ない話をしている内に、カゼスの姿は二人の視界から消えていた。より採取時の株を探して移動する内に、どんどん上流に行ってしまったのだ。

「おっと……なんだか遠くに来ちゃったな。そろそろ戻るか」

 背後を振り返り、よっこらせ、と年寄り臭い声をもらして立ち上がる。そして、淀みの向こう岸を何気なく眺めた途端、その青い目が大きく見開かれた。

 抜き身の剣を手にして、アーザートが立っていたのだ。

 一瞬の緊張の後、アーザートは岩場を跳んでこちら岸に渡ってきた。何か言葉をかける隙もなく、彼はカゼスに躍りかかる。愕然としたまま無防備に立ち尽くしているカゼスの目の前で、淀みの水が鎌首をもたげ、アーザートを直撃した。

 アーザートは吹っ飛んで岩に叩きつけられ、その手の剣が、水にもぎ取られて淀みの底に沈んでいく。

「何をぼんやりしておるのじゃ、せっかち者らしくもない」

 イシルの声がどこからともなく聞こえる。アーザートは咳き込み、声の主を探してずぶ濡れのままきょろきょろした。

「でも……」

 カゼスはどうしたらいいのか分からず、立ち尽くす。

〈相手を無力化できないんなら、さっさと逃げるんですよ!〉

 リトルの叱咤。だがその言葉がカゼスの脳で理解された時には、既に遅かった。

 アーザートが素手のままカゼスに掴みかかり、水の中に突き落とす。なんとか浮かび上がり、カゼスは向こう岸に逃げようとした。が、岸に上がる直前で髪を掴まれ、引き倒される。淀みの中でも岩棚になっているため、比較的浅い場所だったが、人ひとり溺死させるには充分だ。

 暴れるカゼスの手から、薬草がこぼれおちて流されて行く。

 下流でカゼスを待っていた二人の目が、その緑の漂流物を見付けた。

「ロバを頼む」

 短く言い置いて、アーロンは即座に土手を降り、川岸を走りだした。

「カゼス!」

 その声と足音を聞きつけ、アーザートはチッと舌打ちしてカゼスを離し、素早く逃げて行く。アーロンが駆けつけた時には、その姿はもう見えず、逃げ込んだ茂みの枝が揺れているだけだった。

 浅瀬に倒れているカゼスが視界に飛び込み、アーロンの背筋に冷たいものが走った。

 氷のような水などまるで意識せず、淀みに腰まで浸かって夢中でカゼスの方へ急ぐ。と、カゼスは咳き込みながらも自力で起き上がった。

 涙と水でにじむ視界にアーロンの姿が映り、カゼスは無事であることを見せようとしてその場に立ち上がった。途端に、岩棚から足を滑らせて深みにはまってしまう。

 結局アーロンに引っ張り上げてもらい、カゼスは弱々しく謝った。

「す……みま、せん」

 顔を上げ、そして、驚きに言葉を失う。アーロンがこれほど激しい感情を表しているのは、初めて見た。まるで殺されかけたのが彼の方であるかのような、苦痛に満ちた表情。大丈夫だと笑って見せればいいのか、もう一度謝るべきなのか。カゼスはそのどちらの反応も見せられなかった。

 ゆっくり引き寄せられ、一言も発せないまま、抱き締められる。痛いほど強く。

「……死んだかと……」

 つぶやくアーロンの声が震えていた。

 ほんの少し目を離した隙に、見えないところで殺されていたかも知れない。呑気に待っている間に、二度と言葉を交わせなくなっていたかも知れない。

 彼は自分の迂闊を呪うと同時に、腕の中の温もりがいかに大事なものかを痛感した。女でなかろうと、人間でさえなかろうと、もうどうでも良かった。

 ほんのすこし腕を緩め、何も言わずそっとこめかみに唇をつける。カゼスが驚きに身を竦ませ、逃げるように体を離した。

 ――と、思いきや。

「は、……っくしゅん!」

 立て続けに数回、小さなくしゃみを連発した。頭からずぶ濡れなのだから当然のことだが、何しろ状況が状況である。アーロンは一瞬ぽかんとし、次いで堪え切れずにふきだしてしまった。さすがに大笑いはまずいと堪え、声を殺し肩を震わせる。

 ようやくくしゃみがおさまったカゼスは、赤い顔で恨めしげにアーロンを睨んだ。視線に気付いたアーロンは、照れ隠しのような奇妙な苦笑でごまかし、手を差し出した。

「岸に上がらねばな。歩けるか」

「なんとか……」

 答えてから、「っぷしゅ!」おまけが一回。

 どうにか元の岸に戻った時も、まだアーロンはくすくす笑い続けていた。カゼスは恥ずかしいやら情けないやらで悄然としたまま、ぼそぼそ呪文を唱えて服を乾かす。

 全身が乾くと、アーロンは「便利なものだな」と感心してから、改めて問うた。

「大丈夫か? 怪我は……」

 カゼスの首についた痣を見付け、彼は険しい表情になった。首を絞めた人間の、指の形が赤く残っている。アーロンの胸に鈍い痛みが走った。こんな痣が残るほど痛めつけられて、どれほど苦しかっただろうか。

 ――自分が目を離したばかりに。

 片手をのばし、そっと首に触れる。彼の表情に浮かぶ罪悪感を見て取り、カゼスは慌てて治癒呪文を唱えようとした。この通りすぐ治るから大したことはない、と安心させようとして。だが、それはできなかった。

 首に沿ってアーロンの手が後ろに回り、カゼスの頭を包むように支えた。

 あまりにも予想外のことで、カゼスの思考と動作は完全に停止してしまった。その唇に、アーロンのそれが重ねられる。無理強いすることなく、ごく優しく。

 長い口づけの後、ささやくような声が一言、愛していると告げた。

 アーロンの手が離れると、カゼスは足の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。

 もう何がなんだかわけが分からなくて、カゼスは言葉も出て来ないままうつむいた。途端に胸の奥が熱くなり、涙があふれる。

 なぜ泣いているのか、はじめはカゼス自身にさえ分からなかった。だが動揺がおさまるにつれ、その理由が実感として理解されはじめた。

 アーロンが心配そうに何か言ったが、聞き取れなかった。どのみち、答えることもできなかった。カゼスは涙を拭き拭き、小さな声を洩らす。嬉しい――と。

 今までに経験したどんなことよりも、限りなく嬉しかった。ようやく自分という存在が現実に受け入れられたような、純粋な喜びが胸に満ちて行く。孤独が穿った穴の底から、泉が湧き出るように。

 アーロンはただ黙って、そっとカゼスの頭を撫でていた。


 ややあってカゼスが落ち着くと、二人は顔を見合わせて照れ臭そうな笑みを交わした。

 二人が流れの途中で岩や岸に引っ掛かっている薬草を拾いながら街道に戻った頃には、フィオがしびれを切らして自分も土手を降りようとしていた。

「カゼスさま! 無事だったんですね!」

 うわあん、良かったぁ、と叫んで、フィオはカゼスにしがみつく。しばらく彼女はカゼスの肩口に額を擦り付けるようにしていたが、じきにいつものしっかり者の顔に戻ると、不安げに訊いた。

「何があったんですか?」

 カゼスは答えるのをためらい、視線をさまよわせた。

 アーザートがここまで追って来た、という事実は明白だ。だが、そら見たことか、という反応を引き出すのが怖くて、言い出せなかった。

 また、口ごもったのはそれだけが理由ではない。

(どうして殺さなかったんだろう)

 確かに、彼はカゼスを殺そうとした。だが殺さなかったのだ。殺せなかった、のではなく。アーロンが駆けつけるまでにあれだけ時間があれば、もっと簡単に殺すことが出来たはずなのに、なぜかアーザートはそうしなかった。

 何か迷っているようなその表情が、目に焼き付いていた。

「王都から、追って来たのだな?」

 アーロンが代わって言った。仕方なくカゼスはうなずく。騒ぎを知らなかったフィオに事情を説明してから、アーロンは「やはりか」と唸った。

「でも……ちょっと違っていたみたいなんです。本当に殺すつもりだったなら、あの時みたいに離れた場所から吹き矢か何かで狙えば良かったのに、わざわざ出て来たし……」

 暗く敵意に満ちた目の中に、垣間見える奇妙な色。

「……何か言いたかったのかもしれない」

 そうつぶやいた途端、他の二人の猛反対にあってしまった。

「そんなのってないですよ! 言いたい事があるから殺そうとするなんて、変です! 絶対それは、とんでもない奴ですよっ!」

「生きのびられたからこそ、そのような善意的解釈もできるのだろうが、下手をすれば今頃そんな推測を言うことすら出来なくなっていたのだぞ」

「信じられない奴っっ! 今度もし出て来たら、ぶっ飛ばしてやるんだからっ!」

 憤慨するフィオをなだめることもできず、カゼスは曖昧に苦笑した。

 彼らの方が正しいのかもしれない。さっさと逃げるか、魔術で束縛してしまうべきなのかもしれない。ミネルバ人の甘い考えなど通用しないのかも。……だが。

「とにかく、ここまで追って来たとなると、確実にカゼスを葬るつもりだろう。数日中には片を付けねばなるまいな」

 そう言ったアーロンの眉間には、怒りのために険しいしわが刻まれている。待ったをかけられる状況ではない。「そうなるでしょうね」とカゼスはつぶやき、少し不安げな面持ちで川辺を見やった。

 もし、またアーザートが現れたら、その時、自分はどうするだろうか。

(殺されるとか何とかより、そっちの方が怖い気がするのは、現実認識が甘いからかな)

 そんな事を考え、こっそりため息をついた。


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