二章 変容 (1)
夕刻、膨張した太陽がティリス湾の水平線にじりじりと迫り、王宮の大理石や町並みの日干し煉瓦が郷愁を誘う茜色に染まる頃、カゼスはシャフラー尚書が呼んでいるというので、従士の少年に連れられて東棟の裏手へ急いでいた。
シャフラーは既にそこにいて、カゼスが声の届く距離に来ると、従士の少年を手振りで下がらせた。
「どうしたんですか? こんな場所に」
カゼスは怪訝な顔で問うた。何か厄介事でも持ち上がったのかと思ったのだが、そうではないらしい。シャフラーは何か言い出そうとしては止め、しばらく無意味に辺りをうろうろと歩き回った。
ややあってようやく彼は決意し、前置きなしに切り出した。
「この下に、部屋があるはずなんです」
は、とも聞き返せず、カゼスはただ目をぱちくりさせただけだった。
この下、とは、どの下だ? 部屋がひとつ埋まっているというのだろうか?
そもそもティリスでは、あまり地下に部屋を掘るということがない。食糧などの貯蔵窟ぐらいならば、ないわけでもないが。
カゼスがあれこれ考えていると、シャフラーは「本当です」と言葉に力を込めた。
「その……マティスの隠し部屋で、魔術によってしか入れないと」
ああ、とカゼスはうなずいた。午後の会議でシャフラーが告げた、例の部屋か。
〈確かに、空洞がありますね。元々あった地下室の通路を埋めることで、孤立した空間にしているようです〉
リトルがスキャンして教えてくれる。カゼスは自分の足元に目を落とした。
「私が見た時には、中に様々な魔術道具がありましたので……お知らせしておいた方が良いかと思いまして。よもや危険なものがあるのでは、と」
おずおずとシャフラーが続ける。マティスを殺し、今まで黙っていたくせに、何を虫の良いことを――そう怒られはすまいかと不安なのだろう。
だが、カゼスはあっさりうなずいた。
「分かりました、見てみましょう」
「あ、あの」思わずシャフラーは口走っていた。「私を責められないのですか」
「責めて欲しいんですか?」
苦笑まじりにそう返し、カゼスは小さく首を振る。
「私にあなたを責めることなんて、出来ません。家族を殺されたのはあなたで、私じゃないし……それに、血で血を洗う不毛な連鎖を自分のところで止められ、なおかつ正常な精神を保ち続けられる人間なんて、そう多いとは思えませんから。私だってそんな事は出来ないでしょうし」
「……………」
神妙な顔で沈黙したシャフラーに、カゼスはもう一度、軽くうなずいた。
「後はちゃんとしておきますから、ご心配なく」
「そうですか。それでは」
曖昧にシャフラーは返事をして、もぐもぐ言いながらその場を立ち去る。その後ろ姿を見送り、カゼスはやるせない思いをこめて、ふっと吐息を洩らした。
彼は気付くだろうか。復讐を果たしても、そのことによって自分の傷が癒されるわけではない、と。
家族を殺された経験などはないが、カゼスも少しは思い当たる節がある。嫌がらせをされたり、精神的苦痛を与えられたりした相手に、一度ならず手ひどい報復を与えたこともあるのだが、結局、その事によって思い出したくもない記憶が増えただけだった。
「あぁ、やだやだ」
小声でぼやき、自分の頬を軽くぺちんと叩いて気を取り直す。今は過去を振り返っている場合ではない。目の前の問題から片付けて行かなければ。
カゼスは短い呪文を唱え、マティスの残した隠し部屋に入った。
「うわっ、真っ暗だ。リトル?」
慌てて呼ぶと、リトルが蛍光を放って答えた。
「私は照明器具じゃないってこと、忘れてるんじゃないでしょうね?」
「黙っててくれたら忘れられるんだけどな」
皮肉に減らず口で応酬し、カゼスはぐるりを見回した。
「……何もないな」
ひんやりと寒い室内には、魔術道具どころか、何ひとつとして残っていなかった。壁際をぐるりと一周したリトルが、心持ち疑問符を表すような角度に傾いて言う。
「どうやら、そのカイロンとかいうシザエル人が、すべて持ち逃げしたようですね。配線工事の跡さえ消してしまう徹底した処分ぶりからして、神経質な人間かも」
「どうしてだろう……有用な物を持って行くのなら分かるけど、ここまで徹底的に痕跡を消してしまうなんて、まるで……」
言い淀み、カゼスは首を傾げた。
まるで、ミネルバの文明がここにあったという証拠を、消してしまおうとしたような。
しかしそうだとすると、カイロンは治安局員まがいの真似をしたことになる。
「分からないなぁ……」
「マティスが使っていたこの部屋の後始末をしたからには、当人ともつながりがあった筈です。十一条のことを彼女から聞いたかも知れません。だとすれば、証拠隠滅のための工作だとも考えられます。いずれにせよ、じきに対面することになるんです、訊けば分かりますよ。ただし、充分注意してくださいね」
「うん。それはわきまえている……つもりだよ」
壁にうっすらと残った何かの後ろ姿をなぞり、カゼスはつぶやいた。
ここ、デニスには、カゼスがどんな形で権力者とかかわろうと、本当の意味での敵味方は存在しない。命を狙われようと、それは『ラウシール』という奇妙な虚像の敵でしかないのだ。カゼス自身の敵となり得るのは、唯一シザエル人のみ。
「ま、とにかく、ここに時限爆弾だとか強力な毒性のある物質が残されているわけじゃないんだったら、もう用はないね。放っておこう」
軽く首を振って重苦しい考えを払い、カゼスは努めて明るい声を出した。リトルも珍しく反対したりせず、あっさりと同意する。
さて、地上に戻ろう、とカゼスは呪文を唱えかけ、ふと気付いて空中のリトルを振り仰いだ。
「そう言えば、最近リトル、おとなしいんじゃないかい? こっちが何も言わなくてもぽんぽん皮肉は飛ばす、厭味は言う、愚痴はこぼす……だったのに。気が付くとおまえの存在を忘れかけてることがあるよ。どこか調子が悪いのかい」
「だとしても、あなたに言ってどうにかしてもらえるわけじゃないでしょう」
即座にいつもの小馬鹿にした口調が返ってきた。が、その言葉が発せられるまで、優秀なリトルヘッドにしては不自然な、ほんの一瞬の間が空いた。まるでたじろいだような。
それを隠すように、リトルはいつもより早口に続けた。
「ちょっとばかり悟ったんですよ。いや、諦めの境地と言った方が正しいでしょうね。私がどんなに何を言ったところで、あなたの貧相な脳に届くのはその十分の一か百分の一でしかないんですから、無駄なエネルギーを費やすより、ここのデータを取る方に専念したいんです」
「悪かったね」
いじけた風にカゼスは答えたが、すぐに苦笑して見せた。
「ま、仕方ないね。私も何だかんだと忙しくなってしまって、精神波でさえ会話していられる余裕がなくなってたし……ごめんよ。こんな事に巻き込んでしまって」
「何を急にしおらしい事を。あなたが自分でこの時代に飛び込んだのならともかく、ほいほい謝られても何の足しにもなりませんよ。もっとも、あなたの存在そのものがトラブルを引き寄せると言うのなら、大いに謝って頂きたいところですがね」
そう言ってリトルは、合成音でいかにも本物らしく鼻を鳴らした。カゼスはおどけて肩を竦め、呪文をぼそぼそ唱える。
(そう、知りたいのはそこのところなんですよ。あなたという存在の性質)
リトルの回路がそんな言葉を紡いでいたとは、カゼスの知る由もなかった。
船旅は順調で、ティリス湾を北西に突っ切ってアレイア領の州都ニーサに着いたのは、王都を出てわずか二日後だった。
もちろん、イシルが船足を速めてくれたおかげもある。いまだに人間の感覚に慣れないこの水竜は、水域を通れば瞬く間にニーサにでも、高地のウルミア湖にでも出られるのに、と訝ったが、カゼスたちとしては、ずぶ濡れでいきなり人前に出てくるような真似はしたくなかったのだ。
先触れが領主館に走り、船の荷下ろしが終わる頃にはマルドニオスが三人を迎えに現れた。港は様々な商船でごった返しており、二、三人の供を連れた領主代理はあちこちで木箱や麻袋にけつまずいていた。
「これはこれは、アーロン卿……ラウシール殿までおいでとは。いや、申し訳ありませんな、何しろごたごたしておりまして」
彼自身も何やら仕事の最中だったらしく、あたふたと落ち着かない。
「一体何がそんなに忙しいんですか? お祭りでもあるみたいな雰囲気ですね」
周囲を見回して、カゼスは目をしばたたかせる。マルドニオスは彼らを館に案内しながら、またひとつ袋につまずいて、たたらを踏んだ。
「そういうわけではありませんが、何しろニーサも色々とありましたからな。軍を動かしたので物資が不足しておりますし、文句を言うわけではございませんが、エンリル様がいきなり占領してしまわれたもので……まあ、カッシュに比べればここなど、たいした被害ではありませんがね。おっと」
言われてやっとカゼスは、自分たちが一般市民の日常生活をかき乱した張本人であることに気付いた。街で忙しく日々の仕事をこなす人々の姿を眺め、彼らの胸中にある新王への思いは如何なものか、と不安になる。
誰が支配者でも、そうたいして違いはないのだ。とにかく自分たちの日常生活が保障されるなら、誰でも良い。戦だの何だので物資を接収されたり、兵士の乱入で平穏な毎日がかき乱されるのだけはごめんだ。
……そんなところではなかろうか。
(政治なんか興味なかったしなぁ)
故郷での一市民としての自分を思い出し、カゼスはこっそりため息をつく。まやかしで髪を黒くしているにも関らず、周囲の視線が突き刺さっているように感じられて、彼は首を竦めてこそこそと領主館へ向かった。
「パティラに向かう隊商をお探しとか。里帰りですか?」
三人を居間に通し、マルドニオスは用件を処理しにかかる。里帰り、と聞いて、カゼスとフィオが同時にアーロンを見上げた。
「いや、そうではない。目的地は高地のエデッサなのだが、さすがにそこまで便乗するとなると、こちらの目的や身分を詮索されて厄介なのでな。兵役が終わって故郷に帰るという名目にしてパティラまで荷馬車に乗せてもらい、そこから先は徒歩で進む」
アーロンが答え、マルドニオスがなるほどとうなずく。カゼスは目をしばたたかせた。
「あなたの故郷はティリスの近くじゃなかったんですか」
「違う。この領内の北端に近い、田舎の小貴族の生まれでな」
肩を竦め、アーロンはやや皮肉っぽく答えた。万騎長という地位でなければ、この領主館ではもっと小さくなっていなければならないところだ。
マルドニオスは苦笑して話を進めた。
「それでは、探させておきましょう。しかしアーロン卿は兵役明け、その娘は召使として、ラウシール殿をどうされるおつもりですか? 失礼ながら、兵士だったとはとても思われませぬぞ」
心配げにそう言ってから、彼はふいに悪戯っぽい笑みを浮かべ、言わずもがなの一言を付け足した。
「いくらお美しいと言っても、奥方だと偽るわけにもゆきますまい」
途端に、劇的な反応が生じた。カゼスは目を限界まで見開いて真っ赤になり、アーロンは石像のように固まってしまったのだ。
「馬鹿なことを言わないで下さい!」
思わずカゼスは怒鳴り、それから慌てて声のトーンを落とした。
「そんなに私は女っぽく見えるんですか?」
ため息をついて肩を落としたカゼスに、慌ててマルドニオスが「冗談ですよ」と言い訳する。気まずいその場の空気をごまかすように、あたふたと彼は続けた。
「ともあれ、信用できる隊商が見付かるまで館に滞在なさって下さい。客室の方に案内させますので……それでは、私はまだ仕事が残っておりますので」
曖昧に語尾を濁して、マルドニオスはそそくさと部屋から出て行く。カゼスはげんなりした顔で、深いため息をついた。
「何なんだ、もう……」
小さくぼやいて、ふと視線を下ろす。と、たまたまフィオと目が合った。ともかく雰囲気を取り繕わなければ、と思ったのだろう。彼女は急いで何か言おうとして、口を滑らせた。
「でも、カゼス様なら女装してもきれいかも知れませんね」
「……フィオ?」
「あっ、いえ、その、別に深い意味はなくって、つまり、ただカゼス様は、お顔の作りが優しい雰囲気だからと思って」
あわあわとフィオは言葉を続け、無意味に手をばたばたさせる。ちょうど館の召使が案内を申し出たので、これ幸いと一番に彼女は飛び出して行ってしまった。
この状況で取り残された二人が、気まずくならないわけがない。カゼスはアーロンの方を見もせずに、召使の後から急いで部屋を出た。案内される間も決して振り向かず、客室に入ってやっと息をつく。
「まったくもう……どうなってるんだか、デニス人てのは」
自分に対する照れ隠しもあって、一人ぶつぶつ言いながら旅装を解く。フィオはどうやら別室に連れて行かれたらしい。やれやれと頭を振りながら、彼は何気なく壁の方に目を向けた。
「…………?」
磨き上げられた黒曜石の壁には、珍しく何の布もタペストリーも掛かっておらず、一人の見慣れぬ人物がこちらを見返していた。
しばらくそれが自分の像だと分からず、カゼスはぽかんとした。それからやっと事実に気付くと、思わず息を呑む。
――誰だ、これは。
ぎょっとなって、彼は壁に駆け寄った。ひんやりと滑らかな表面に手を触れると、壁の中の人物も驚いた顔でこちらを見つめ返す。
「……リトル」
思わず声に出して呼んでいた。
まやかしで髪を黒くした覚えはあるが、容姿まで変えてはいないはずだ。
「私は最初からこんな顔だったか……?」
〈いいえ。ではこの変化は、あなたが意識して生じさせていたのではなかったんですね。私はてっきりあなたが、目立たない程度にゆっくり整形しているのかと思いましたよ〉
〈するもんか、そんな事!〉
言い返し、まじまじと彼は自分の姿を見つめる。
相変わらず中性的な雰囲気ではあったが、体つきは以前よりもすらりとし、身長も少し伸びたような気がする。顔立ちも、元はパッとしないのっぺりしたものだったはずなのに、今では、十人中五人はまずまず美人だと認めてくれるだろう程度に見えるのだ。
「どうなってるんだ」
自分が自分でない何かに変わっていくような恐怖に駆られ、カゼスは青ざめた。ドン、と拳で壁を叩く。のろのろと首を振ると、見知らぬ魔術師も愕然とした表情で同じ仕草を見せた。
「どうなってる……私は、いったい」
涙がこぼれそうになる。
ワタシハ、『何』ナノダ?
失われた記憶。突然開花した魔術の能力。変化する容貌。
リトルは何の答えも推測も与えてはくれなかった。ただ黙ってカゼスの反応を見ているだけ。もちろん、当のカゼスは動揺していてリトルの事など意識にない。
ドン。また、壁を叩く。打ちつけた手の感触が、夢でも幻覚でもないと告げている。何度その仕草を繰り返しても、結果は同じ。
と、壁を叩く音に気付いて、隣室からアーロンがやって来た。
「どうした? 何かあったのか」
「アーロン……」
振り返り、カゼスはつぶやく。アーロンなら分かるはず。自分の変化に気が付いていたはずだ。
「私は……いつからこんな顔になっていました?」
「今頃気付いたのか?」
呆れたような顔をしてアーロンは応じた。
「カッシュからフローディスに向けて出港した頃から、何となく最初の印象と違ってきているように感じてはいた。カワードたちとも、随分ラウシールらしくなったものだと話していたのだが……まさか本人が気付いておらなんだとはな」
「ここには、鏡なんてほとんどないから……」
呆然と、独り言のようにカゼスはそう言った。その内心の激しい動揺を察し、アーロンは安心させるようにちょっと微笑んだ。
「人の顔立ちは、置かれた環境によってかなり変わるものだ。醜くなったのならともかく、そう気にすることもあるまい」
そうして、カゼスの目に浮かんだ涙を親指で軽く拭ってやる。
気にすることはない、と言われても、その程度の説明で片がつくような変化だとは思われなかった。それでもカゼスは目を伏せて小さくうなずき、自分を納得させようとする。
「それに」とアーロンは続けた。「最初に見た時よりも、多分、かなり痩せた……いや、やつれたからな。無理もない」
涙を拭った指が、そのまま頬骨の上をなぞる。
その時になってやっとカゼスは、今の自分たちの構図がどう見えるかに気付いた。慌てて顔を背け、壁に映った自分の姿を再確認するように見せかけて、アーロンから離れる。
「すみません、ちょっと、一人に……してください」
どうにかそう言い、額を壁に押し付ける。心臓が激しく音を立て、こめかみや、壁に接している指の拍動が全身に響いて、平衡感覚を狂わせるほど。
アーロンは一歩こちらに近付く気配を見せたが、結局引き下がり、何も言わずに部屋を出て行った。
(どうかしてるぞ、落ち着け)
混乱する頭に、その言葉はむなしく空回りするばかり。
(どうかしてる、どうかしてる、どうか……ああ、なんてこった)
思いつく限りの慨嘆の言葉が洪水のように流れて行った。ただでさえ、自分の容貌がとんでもない変化を示していたという事実に直面したばかりなのに。
(何考えてるんだ、私は)
ずるずるとその場に座り込む。
物心ついて以来の十年ほど、親しい友人以外には『男』として通して来たし、その方が楽で良いと思っていた。なのに今になって、逆の選択をしていれば良かったと後悔することになろうとは。
(どうしよう)
自分の気持ちに気付くと、涙が溢れだした。
どうすべきか、は、分かっていた。取り乱した感情の向こうで、冷たく冴えた理性が平静な判断を下している。
そもそも、こんな問題にかかずらうこと自体が間違っている。今の自分が果たすべき役目に対し、邪魔にしかならない。こんなことで『ラウシール』の社会的な信用を失うわけにはいかないのだ。
今さら、実は女でしたと嘘の上塗りをすることもできないし、かと言って、その道の人間だというのも『ラウシール』には不都合だ。いくらデニスでは同性愛が宗教的禁忌ではないと言っても、やはり世間の見る目はどこか冷たい。
それやこれやと悩んで精神力を浪費するだけの感情など、今すぐ厳重に蓋をして、事象の地平の彼方か、永久凍土の下にでも葬り去るべきなのだ。
(第一、相手にされるわけがない)
アーロンは、カゼスが人間かどうかさえ分からないという事を、知っているのに。それだけではない、世間で言われるほど高潔でも慈悲深くもない事をさえ。
(やめておくんだ、考えるな、忘れてしまえ)
しかし、どれほど否定的な論理を重ねても、感情の波は鎮まらなかった。何を求めているのかはあまりにも明らかで、自分に対してすら隠しようがなかった。
(あの人が好きなんだ……)
心の中でその言葉が形作られると、カゼスは両手で顔を覆った。
自分自身でも気付かぬ奥深いところで、変化が生じていた。生まれて初めて、誰かに愛されたいと切実に願った。それも、『誰か私を愛して下さい』というような漠然としたものではなく、特定の一人に。
嫌われることこそあれ、好かれることなどありはしない――それで構わない。そんな風に自分を縛り付けていた無意識の鎖に、小さなヒビが入っていた。
構わない? 違う、本当は好かれたい。せめてあの人にだけは。
(……でも、駄目だ)
少し気分が落ち着いてくると、カゼスはいつもの癖で理屈をこね回し始めた。
(最終的に私はここに残らないで帰るんだし、根本的に女じゃないんだし、大体……)
――甘えている。
その一言が、すべての熱と混乱とを奪い去った。壁際に座り込んだまま、冷たい石に頭を預ける。
アーロンは優しくて、親切で、面倒見が良くて、自分を理解してくれる。だから、それに甘えてしまおうとしている……だけではないか。物理的・精神的に楽をしたい、それだけのことでは……?
ゆっくりと頭を上げ、女々しい表情を浮かべたきれいな顔に出会うと、吐き気がするほどの嫌悪をおぼえた。
(しっかりしろ!)
叱咤すると同時に、てのひらを壁に叩きつけて自分の顔を隠した。
もう、それ以上見ていたくはなかったのだ。




