一章 高地の姫君 (4)
陛下をこうも見事に絶句させることのできる人間がいるとはな。
場違いにもカワードはそんな感想を抱いた。高地の報告の前に、先刻の騒動の顛末を聞かせるようにエンリル自身が命じたのだ。その結果は、あんぐり開いたまま閉まらない口が多数、といったところ。
「……それで、その刺客が何者の命によって動いていたのかも、分からぬと?」
長い沈黙の後、ようやっとエンリルがそう言った。カゼスは開き直ってうなずく。
「はい。敢えて聞き出しはしませんでした。どのみち、陛下にとって都合の良い答えを引き出すまで痛め付けるだけなんでしょう?」
またしてもエンリルは言葉を失った。確かに、もし尋問によって引き出した答えが自分たちにとって厄介でしかないものならば、闇に葬るだけだ。役に立つ答えを聞き出す点に意義があるとさえ言える。
「しかし……、」
反駁しかけたものの、続きが出てこなかった。あまりのことに面食らって、どう考えたら良いのかすら分からない。
困惑した顔のまま、しばらく時間の外に放り出されたように動きを止める。それからエンリルは深いため息をついて、小さく頭を振った。
「そなたのやり方には時々ついて行けぬな。だが、狙われたのは私ではなく、そなただということが分かっているのか?」
「そのつもりです」
カゼスは答え、膝の上でリトルをぎゅっと握った。次からは、絶対に油断するまい。周囲に誰もいなくても、傷を負うはめになったりしないように。
その厳しい表情に決意を見て取ったエンリルは、かなり険しい顔のままではあったが、諦めて譲歩した。
「ならばこれ以上は言うまい。ひとつだけ、そなたの命はもはやそなた一人のものではないのだから、無謀な真似だけはするな、と言っておこう」
その言葉にカゼスはちらっとおどけた気配を見せたが、その場ではただ「はい」と畏まっておくことにした。「陛下を見習うことにします」とか何とか言いたいところだが、この場にはあまり親しくない貴族の面々もいるし、エンリル自身の表情も、茶化してはいけない心情をはっきりと示している。本当にカゼスの身を案じてくれているのだ。
「では、カワードの報告を聞こうか」
議事を進めるエンリルの視線に促され、カワードは高地の状況を一同に知らせた。
先代国王フラーダは既に他界しており、今は顧問官のカイロンが王女の後見人として実質上国王の務めを果たしていること。それに反対する勢力もなく、王女自身もカイロンに信頼を寄せている様子。
「しかもこのカイロンという男、同じ『赤眼の魔術師』でありながら、マティスとは似ても似つかぬ人格者でして……嘘か真か、エデッサを訪れた病人に癒しの技を施し、数多の命を救ったと評判です」
カワードが首を傾げながら言い、カゼスも眉を寄せた。もしそれが本当なら、シザエル人は一致団結してデニスの教化を図っているわけではないのだろうか? エラードではザール教の寺院を建造している様子だが、高地ではそんな気配もない。
と、視界の隅に、居心地が悪そうに視線を泳がせているシャフラー尚書の姿が映った。
「どうかしましたか? シャフラー殿」
怪訝に思ってカゼスが声をかける。すると彼は、大袈裟なほどびくりと竦み上がった。
「べ、別に、何も」
そう答えた時には既に遅く、その場の空気は冷たく張りつめていた。
「尚書は何かご存じのようですな」
真綿で首を絞めるかの如き声音の主はヴァラシュ。シャフラーの援護に回る者はいなかった。彼はしばらく無言の責めに耐えていたものの、結局おどおどと話し出した。
「実は……その人物には会ったことがあります。エンリル様とオローセス様が宮廷に戻られて、マティスの最後の抵抗によって宮廷内が大混乱に陥った時に……」
そこまで言い、一旦言葉を切る。今ここで、自分がマティスを刺したことを告げるのが果たしてどのような結果を生むか、不安になった。特にカゼスの反応が怖い。
だが、黙ってしまえば疑惑を招くだけだ。自分なら黙っているが、というカイロンの忠告を、いまさらながら思い出す。
「どういうわけか、彼は私をマティスの部屋に連れて行き、家族の仇を討たせてくれたのです。彼があの混乱を鎮める様も、私はこの目で見ておりました」
「何と……!」
ざわめきが広がる。カゼスは目を見開き、シャフラーを凝視した。相手はカゼスから逃げるように顔を背けている。
(ああ、でも、仕方がないのかもしれない)
ふとカゼスは悲しい気分で納得する。法の裁きが制度として確立した世界でさえ、復讐の怨念を鎮めることは容易でない。ましてやこのデニスで、家族の仇討ちを非難することなどできようか。
「何故かほど重要な事を、今まで黙っていたのだ?」
疑いの声が誰からともなく上がった。シャフラーは困り顔でぼそぼそと答える。
「マティスを倒すに同じ赤眼の魔術師の助力を得た、などと言えば、我が身に要らぬ嫌疑がかかると考えたからです。今まさに言われたように」
エンリルは感情の読めない顔でその話を聞いていたが、その場の動揺がおさまると、不意にカゼスに向き直った。
「そのカイロンとやらが暗示をかけている、ということはないか?」
言われてやっとその可能性に思い当たり、カゼスは慌てて席を立ってシャフラーのそばに行った。シャフラーはびくりと怯えて身構えたが、カゼスは少し寂しい微笑を浮かべただけで、怒りや非難の気配は見せなかった。「失礼」と軽く指先で相手の額に触れ、意識をさっと調べてみる。どこにも細工の跡はない。
「大丈夫です。……私見ですが、あの時にそのカイロンという人物がティリスにいたのが事実なら、彼はどうにでも戦況を左右できた筈なのに、私達の勝ちに終わった……ということは、同じ『赤眼の魔術師』と言っても、不協和音があるのかもしれません」
考えてみれば、『赤眼の魔術師』の内の一人がエンリル王に帰順して宰相になった、とか何とか聞いたような覚えがある。
カゼスの意見にエンリルは小さくうなずくと、おもむろに言った。
「ならば正式な使者として、カゼス、そなたに高地に赴いてもらいたい」
「は? 私ですか?」
自分の席に戻りながら、カゼスは目をしばたたかせた。
「それはまあ、もちろん……行かせて頂けるのなら助かりますが」
個人的にカイロンに会って確かめたいこともある。彼がもし味方についてくれるのだとしたら、これから先の展開が随分楽になるだろう。他のシザエル人の情報も得られるかもしれないし、もし味方につけるのが無理だとしても、ミネルバに帰るか、デニスに残るならば決して甚大な影響を与えることのないよう、説得を試みることは出来る。
だがエンリルの意図は、そんなカゼスの都合とは全く別のところにあった。
「そなたでなければ、誰がその顧問官の虚実を看破する事ができるのだ?」
エンリルが苦笑気味に言った。まさに、魔術師が他にいないのだからカゼスが行くより他に確かめる術はない。カゼスが納得してうなずくと、エンリルはシャフラーを一瞥してから話を続けた。
「ティリスにその者が現れたことがあるのならば、何が目的だったのか、またその者がティリスに対してどのような思惑を抱いているのか、探り出してもらいたい。尚書の仇討ちを手伝うだけが目的とは考えられぬゆえ」
ちくりと刺され、シャフラーは縮こまった。それには構わず、エンリルはてきぱきと話を進める。
「王女が存命なのであれば、その言葉通り、どの国に対しても高地が動かぬという保証を得ておきたい。エラードの動きも、そろそろ露骨になってきている。もうしばらくは復興に力を注いでおきたいところだが、どうなるか知れたものではないからな。さて、そなた一人で行かせるわけにもゆかぬが、護衛としては……」
そう言いかけ、視線を一同の上に走らせる。「私が」と応じたのは、アーロンとアスラーが同時だった。エンリルはちょっと考えて結論を出した。
「ふむ……アスラー、そなたがカゼスに対し特に忠誠を捧げているのは知っている。だが、王都や王宮内部の事情がまだ落ち着いていない今、近衛隊長に出て行かれてはいささか不安だ。ちょうどカワードが戻ってきたことでもあるし、今回はアーロンに任せてもらいたい。良いか?」
アスラーはいつもに輪をかけてむっつりした顔を見せたが、文句は言わずに了解した。カゼスはエンリルの心遣いに、感謝のまなざしを向ける。
恐らく、『ラウシール様』の護衛をと言えば、立場上軽々しく動けないこの場の面々は別として、志願者はいくらでも出てくるだろう。パレードが出来るほどの一行になってもおかしくはない。
だが、四六時中顔をつきあわせることになるのに、カゼス本来の姿を知らぬ者ばかり大勢いるのでは、気の休まる時がない。がさつで間の抜けた地が出るだけならまだしも、万が一、特異な身体のことを知られでもすれば大変なことになる。そもそも大人数で行くような任務でもない。
そんなわけだから、護衛としても申し分なく、かつ気の置けない間柄でもあるアーロンを指名してくれたのだろう。
(まあ、多分フィオが一緒に来てくれるだろうから、二人きりじゃないだろうけど)
何気なくそんなことを考えてホッとする。それから、何を安堵したのか、自分で自分に小首を傾げた。
別に、アーロンと一緒にいるのが嫌なわけでは、ない。ないはずだが。
(――???)
はてな、と訝っている間に、会議は終わっていた。
ガタガタと各自席を立ち、それぞれの職務に戻って行く。あたふたとカゼスも席を立ったが、出て行く前にアーロンに呼び止められた。
何かと思って振り返ると、いつもの真面目くさった顔のまま、来い来いと手招きしている。カゼスが不思議に思いながらも近くに寄ると、アーロンは声をひそめて問うた。
「馬には乗れるようになったか?」
ぎくり、とカゼスは身をこわばらせた。
高地に行くは良いが、移動手段をまったく考えていなかったのだ。アーロンと、恐らくはフィオも同行するであろうに、行ったことはおろか写真で見たことすらない高地へ『跳躍』するなど、危険が大きすぎて出来はしない。かと言って『風乗り』などは目立ちすぎるし、歩いて行くのは論外だ。
情けない顔で首を振ったカゼスに、アーロンは「やはりな」とため息をついて眉間を押さえた。長距離を行くのに、常に二人乗りをしていたら馬がへばってしまう。第一、道中どんな危険があるか知れないのに、二人乗りの不自由な体勢では対応が出来ない。
しばらく難しい顔で考え込み、やれやれとアーロンは顔を上げた。
「仕方がない。ニーサまでは船で行き、山裾のパティラまで隊商を見付けて便乗するとしよう。山道はどうせほとんどが徒歩になるのだから、これは諦めるしかあるまい」
「すみません」
自分が情けなくなって、カゼスはうなだれてしまった。これまでは、カゼス一人で馬に乗らねばならないような状況がまったくなかった。誰かに乗せて貰ったり、単独で『風乗り』や『跳躍』を利用していたのだが、それをいいことに乗馬訓練など頭から消し去っていた。怠惰の謗りは免れない。
(その内、暇を作って、せめてただ歩かせるぐらいは出来るようにならなくちゃなぁ)
馬を体の一部のように乗りこなすこの国の人々には、遠く及ばないまでも。
とは言えカゼスが移動手段を考えていなかったのは、育った環境が「どこへ行くにも転送機や列車が頻繁に通っている」という恵まれたものであったのだから、無理もない話なのだ。
(ここに来てもう随分経つってのに……)
ため息をついて鬱々と思考のループにはまっていると、アーロンがその頭を軽くぽんと叩いて苦笑した。
「フィオに頼んで荷造りをして貰え。俺の方はイスファンドに引き継ぎをしておけば安心だから、そう時間はかからない。明日にでも出発できるだろう」
「分かりました。……あの、フィオも……」
連れて行っていいか、と訊こうとして、ふと、改めてそんな質問をするのは奇妙だと気付き、もぐもぐと曖昧に語尾を濁す。アーロンは目をぱちくりさせた。
「いえ、何でもないです。それじゃ」
ごまかし笑いを浮かべて、カゼスはそそくさと会議室を出て行った。
(どのみち、いつもフィオは私の世話係としてくっついて回っているから、アーロンも考えに入れてるよな。あの人も王宮では従士に身辺の雑事を任せているようだし)
内心で自分に言い訳をすればするほど、妙に気恥ずかしくなってくる。せわしない足取りで歩いていたカゼスは、曲がり角でクシュナウーズと鉢合わせそうになって、慌てて後ずさった。
「あ、す、すみません」
「なんだ、お嬢ちゃんか。どうした、赤い顔して」
この男だけは、相変わらずカゼスを『お嬢ちゃん』呼ばわりして憚らない。一般人の耳に入りそうな時は考慮して、しかし皮肉っぽく『ラウシール殿』とかなんとか呼ぶのだが、王宮内では遠慮なしである。
「気を付けろよ。今日の刺客とやらがお嬢ちゃんの行き先を嗅ぎ付けたら、高地の森ン中まで追っかけて来るかも知れねえからな」
珍しく真面目にそんな忠告をしてから、彼は傷痕のある右頬を歪めて、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ま、あの野郎が四六時中べったり張り付いてるんじゃ、俺としちゃ刺客の方に同情したくなるがね」
あの野郎呼ばわりされたのが誰かは明白だ。途端にカゼスの頬に朱が加わった。その反応に、クシュナウーズは驚いたように目をぱちくりさせた。
「なんだ? なんでそんな……、ははぁ、分かった」
言いかけて、ニタッ、と笑みを広げる。続きはひそひそと小声になった。
「二人っきりなのをいいことに、イチャイチャしようともくろんでんだろ」
「だっ、誰がっ!」
思わずカゼスは大声を上げかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。それから、真っ赤になったまま、膨れたような拗ねたような口調でぼそぼそと続ける。
「そんなのじゃありませんよ。第一、私は女じゃないし……アーロンだってそんな風には……。あなたを基準にして物事を考えないでください」
「じゃ、何をそんなにうろたえてんだ?」
意地悪くクシュナウーズが追及する。カゼスは心底困った顔になってしまった。
「分かりません。別に、何も……こんな風に意識する理由なんてないし。ちょっと自意識過剰になってるのかも」
難儀な、とでもいうようにカゼスがそう答えたので、クシュナウーズは目を丸くして絶句し、次いで弾けるように笑い出した。
「わ、分からねえ、って……それ、本気で言ってんのか? え、お嬢ちゃん」
「何がそんなにおかしいんですか」
眉間にしわを寄せ、カゼスはぶすくれる。クシュナウーズはひとしきり大笑いしてからようやっと、目尻の涙を拭き拭き「分からんとはねぇ」と繰り返した。
「いやはや、まったく勿体ねえ話だぜ。お嬢ちゃんが女だったら求婚者の列が出来るだろうってのによ」
突然、カゼスには無関係に思われる話題に移ったので、彼は困惑顔で「は?」と聞き返すよりほかに反応できなかった。クシュナウーズはまだくすくす笑い続けている。
「俺だって飛びつくだろうし、あの野郎なんか花でも捧げ持っておまえの前にひざまずくんじゃねえか?」
「まさか」
カゼスは即座に苦笑でその予想を却下した。どういう発想の飛躍かカゼスには理解できないが、クシュナウーズの想像が的外れだということだけは分かったから。
「女だろうとなかろうと、私なんか、誰も相手にするわけがないでしょう。あなただって、冗談でもなきゃ……」
自嘲のこもった冷笑を口元に漂わせ、カゼスは小さく鼻を鳴らした。が、次の瞬間いきなり額を指で弾かれて、のけぞるはめになった。
「何するんですか!」
ヒリヒリする額を押さえてカゼスが抗議すると、クシュナウーズは、見下げ果てたと言わんばかりの冷たいまなざしをひたと当てた。
「冗談でもなきゃ、何だってんだ? 『本当は私のことなんか嫌いなんでしょう』とか、たわけた事を考えてやがるわけか」
「え……」
無意識に口にした言葉を追及され、カゼスは虚を突かれてぽかんとした。それから、ハッと自分が最前口にした言葉を思いだし、見る間に赤くなる。
相手にするわけがない――などと、ほとんど蔑むかのような言い方をした。どうせ誰も彼も私のことは嫌っているんだから、と不貞腐れているかのような。
その『誰も相手にするわけがない』自分と日々付き合ってくれている人間を前にして、あなただってそうなんでしょう、などとは。なんという無神経で残酷で失礼な言い草だったことか。
我に返ると同時に後悔と羞恥が怒涛の如く押し寄せ、カゼスは頭を抱えた。
「あ……う、うわ、しまったすみませんどうしよう、穴があったら入りたいっ。上から土かけて山で重しされてぺらぺらになってしまいたいぃっ」
うわぁ、と泣き出しそうな顔になったカゼスに、クシュナウーズは堪え切れず爆笑してしまった。そして、わしわしと青い頭をかきまわす。
「まったく面白ぇ奴だな。言っていいことと悪いことの区別ぐらいついてるのに、そこまで自分を貶めるこた、ねえだろうが。なあ、お嬢ちゃん、誰だって気に入る所も気に入らねえ所もあるさ。それを無視して自分を丸ごと否定すんのは、やめとけ。俺は結構、おまえのことが気に入ってんだからよ」
な、と諭されて、カゼスはしゅんとうなだれた。クシュナウーズはやれやれというように頭を掻いて、「実際なぁ」と口調をとぼけたものに変える。
「多いんだよ、『本当はあたしのこと嫌いでしょ』とか言う女が。反則だろ? そう思わねえか? 明らかな駆け引きだとか冗談なら、こっちもそれなりに対処できるさ。けど本気で言われてみろよ、どう転んだってこっちの負けだろが。またそういう奴に限って、そりゃおまえの方だろう、とか言い返そうもんなら『やっぱりあたしが嫌いなのね、あたしはあなたを愛してるのに』とかまくしたてやがる。そう信じてやがるから始末が悪い」
妙な声色まで使って言い、彼は辟易した顔でお手上げの仕草を見せた。
「どうしたって俺を悪人に仕立てなきゃ、気が済まねえのさ」
「はぁ……なるほど」
なんだか派手な痴話喧嘩の場面が目に浮かんでしまい、カゼスはつい失笑した。クシュナウーズは憮然として、大袈裟なため息をつく。それから彼は苦笑して、カゼスの肩をぽんと叩いた。
「おまえもな、落ち込んだりくさったりばっかしてっと、何回穴掘って飛び込んだって追っつかねえことになるぞ。少々自信過剰なぐらいに考えてた方が、人生すごしやすいもんだぜ。保証する、おまえは自分で思ってるほど救い難い奴じゃねえよ。それにな、ここいらの連中も、おまえが思ってるよりもよっぽどおまえのことが気に入ってんだぞ」
カゼスは素直にうなずき、小声でもう一度、すみません、と謝った。途端にクシュナウーズはにやっとして、じわりと肩に腕を回す。
「どうだ、惚れたろう」
「これさえなければね」
カゼスは苦笑して言い返し、クシュナウーズの手の甲を容赦なくつねった。いてて、とクシュナウーズは情けない声を上げ、大袈裟な仕草でとびのく。
「なんだよ、ケチくせえな」
「余計なことばかり言ってると、殴りますよ」
カゼスが拳を作って見せると、クシュナウーズは慌てて小走りに逃げて行った。廊下の角を曲がる直前に、ひらひらと手を振ったりなどして。
「なんだかなぁ……」
人気のなくなった廊下で、カゼスはひとり苦笑を洩らした。クシュナウーズほどの者ばかりではなかろうが、この国の人々は実にしたたかで前向きだ。
(少し見習わなくちゃな。少しでいいけど)
カゼスはそんなことを考え、とりあえずやるべき事をやってしまおう、と歩きだした。
部屋に戻るとフィオがパッと笑顔を振り向けた。
「あ、カゼス様。会議は終わったんですか?」
「ええ」つられて笑みを浮かべ、うなずく。「高地まで使者として出向くことになりました。すみませんが、手が空いたら荷造りをして貰えますか?」
「はい、分かりました、すぐに用意します」
フィオは手にしていた繕い物を仕上げ、てきぱきと裁縫道具を片付ける。
「あなたも来てくれますか?」
カゼスがちょっと首を傾げて問うと、フィオは驚いたような顔をした。
「もちろんです。カゼス様のお世話をするのがあたしの仕事ですよ」
さも当然とばかりに答えたその態度が嬉しくて、カゼスは口元に手を当てて照れ笑いを隠した。それから少しばかり意地悪く、
「仕事でなければ、のんびり王宮で骨休めしていたいところでしょうね」
などと苦笑しながら言う。途端にフィオはぷうっと膨れた。
「あたしは、カゼス様と一緒に行くって決めたんですよ。カゼス様がいないのに王宮に残ったって、骨休めなんて出来ません。……もしかして、あたしのこと怠け者だと思ってるんですか?」
最後の質問は、皮肉ではなく本気で心配している風だった。カゼスは慌てて首を振る。
「まさか! 私みたいに手のかかる人間の世話をしてくれているんですから、いくら感謝しても足りないぐらいで……たまには、あなたにも休ませてあげたいんですけど」
今度はフィオが照れ笑いを浮かべる番だった。彼女はそれを隠そうともせず、真っ赤になって嬉しそうに目を細める。
「えへへ、褒められると嬉しいです。実際のところは、そんなに仕事がしんどいわけじゃないんですよ。カゼス様はあんまり用事を言い付けたりなさらないから、時々暇なぐらいで。それにあたし、動き回るの、好きですから」
そんなことを言って、フィオはいそいそと立ち上がり、旅の荷造りにとりかかった。まめまめしく立ち働く姿を眺め、カゼスはほのぼのした気分になる。
(この子を失望させないようにしなくちゃなぁ)
彼女が抱いている『ラウシール』の幻影は、カゼスを直接に知らない一般人のそれに較べればかなり現実に近かろうが、それでもカゼス本人からすれば過大評価もいいところだろう。だが、これだけ明けっ広げで打算のない好意を、勘違いだとはねつけるような真似はできない。
(どうせ考えたって、性格なんて簡単に変わりゃしないんだもんな。せいぜい、この子に恥じない行動を心掛けよう)
珍しく前向きに自戒し、カゼスは早速と今日中に片付けるべき問題を整理しにかかったのだった。




