一章 高地の姫君 (3)
アーロンの言葉を聞いてはいたものの、現実を目の当たりにすると、さすがに呆然と立ち尽くすしかなかった。カゼスは言葉をかけることもできず、顔をひきつらせたまま彫像と化してしまう。
長旅でどうしても薄汚くなっている上に、元からあまり身なりに構わないカワードなどは、髭も頭ももさもさで、文句なしに浮浪者そのもの。それが、運ばれる料理を片っ端から平らげ、葡萄酒などは卓上用の瓶から直接呷っている始末。公用の旅を終えた高名な武将が馴染みの兵舎で一休み、などと言うよりは、無一文で世界をさまよった罪人がようやく故郷へ辿り着いた場面、とでも言った方が、よほどしっくりくる。
「ん? おお、ラウシール殿ではござらんか、出迎え恐縮、恐縮」
もがもがと口いっぱいにものを詰め込んだまま、カワードがおどけて言った。
いっそ気付かずにいて欲しかった、などとカゼスはげっそりする。これでは再会を喜ぶにも喜べない。
「はぁ、何とも……アーロンの言った通りですね。椅子までとは言わずとも、お皿ぐらいなら食べてしまうかも……」
ぼやいても、カワードはまるで堪えた気配がない。隣でウィダルナが赤面した。カゼスは苦笑し、彼らの前に腰を下ろす。
「ま、ともあれご無事で何よりでした」
そう労ったと同時に、別の声が揶揄した。
「しかし、勇者の帰還とは言いかねる姿だな、二人とも」
その声に、室内にいた者全員がぎょっとなって立ち上がり、次いでその半数以上がひざまずいた。声をかけられた当のカワードは、平気でもりもり食っているのだが。
現れたのはエンリルだった。畏まっている面々に「気にせず立て」と言い置いて、いつも通りのくだけた態度でカゼスの隣に腰を下ろす。
「これはこれは、国王陛下御自らお出ましとは、恐れ入りますな」
カワードは申し訳程度にすまなさそうな顔をして、ぺこりと頭を下げた。エンリルはくすくす笑って鷹揚にうなずく。
「そなたに恐縮されても気味が悪いからな、気にするな。遠路ご苦労だった」
「帰って来るなり厳しいお言葉に迎えられようとは。何かお気に障ることでも?」
カワードは、もぐもぐやりながら憮然として言い返す。と、頭上から不機嫌な声が降ってきた。
「万騎長と千騎長が揃って逃亡すれば、気に障るも障らぬもなかろうが」
もちろんこれはアーロンだ。
「おぬしには訊いておらん!」
「ほう、随分な態度だな。誰のおかげでひと月近くも王都を留守にできたと思っている」
「もちろん、優秀な俺の部下のおかげだ」
「おぬしの小型版じみたあの連中か?」
「人の部下のことに口出しせんで貰おう。おぬしが要らぬちょっかいを出すから、ウィダルナまで小舅じみてきおったではないか。道中おぬしの影をつれ歩いておるようで、気苦労が絶えなんだわ」
「その割には食欲が落ちるでもなく、ピンピンしておるな。ウィダルナの方がよほどやつれたように見受けられるのは、気のせいか?」
この辺りで、そろそろ堪えきれなくなった見物人が肩を震わせはじめ、さざ波のような笑い声が広がりだした。何しろ早々とラウシール様が机に突っ伏しているのでは、歯止めになるものがない。
「そなたらは実に息が合うな」
しみじみエンリルがそう言ったので、途端に爆笑が巻き起こった。アーロンがこれ以上はないという渋面になり、カワードも出来るなら唾を吐きたいといった顔をする。
自分の言葉の成果を苦笑しながら眺め、エンリルは席を立った。
「ともあれ、カワード、ウィダルナ、飢えがおさまり次第、身なりを整えて報告を聞かせてくれ。休む間もなくて気の毒だが、頼んだぞ」
「承知致しました」
まだ憮然としたままカワードが言い、ぞんざいな敬礼をする。エンリルが出て行くと、やはり多少は緊張していたのだろう、その場の空気がホッと緩んだ。
「高地の方はまだ寒かったんじゃありませんか?」
カゼスが話しかけると、ウィダルナが実感のこもった表情でうなずいた。
「早朝など、息が白く見えました。そんな中、湖で泳がされるところだったのですよ」
「過ぎたことをぐちぐちとしつこく言うな、女々しいぞ」
カワードが鼻を鳴らす。ウィダルナは横を向いて「あなたは良いでしょうがね」などと独白した。途端に足を蹴られてうめく。もはや日常と化したそんなやりとりを眺め、アーロンがしみじみ気の毒そうに言う。
「なるほど、ひと月もの間、猛獣の隣につながれて逃げ場もないままでは……」
と、突然彼はごく小さな物音を聞き付けてハッと振り返り、カゼスの上体を押さえ込んだ。反射的にカワードが、空の皿を構える。
キン、と甲高い音が響いた。外から飛んできた鋭い針が、陶器の皿に弾かれて落ちたのだ。カゼスは何が起こったのか把握出来ないまま、椅子からずり落ちて呆然と床にへたりこむ。その間に、他の兵士がわっと針の飛来した方向へ殺到した。
「曲者だ! 逃がすな!」
口々に叫びながら、手分けして侵入者を捕らえに出て行く。アーロンは彼らに指示を出した後も閑散とした食堂に残り、兵の手を逃れた侵入者が再度こちらを狙ってくるのに備え、剣の柄に手をかけたままじっと待ち構えていた。
「……あの、いったい、何が」
食堂に残っているのがアーロンとカワード、ウィダルナだけになって、ようやくカゼスは言葉を発した。恐る恐る体を起こそうとしたが、伏せているよう手で制されてしまう。
まだ羊肉の串焼きを頬ばりながら、カワードはテーブルに落ちた針をしげしげと眺めた。羽のついた妙な針だ。
「毒を塗った吹き矢だろうな。そんなに遠くからは狙えなかったはずだ。多分、じきに見付かって引っ立てられるだろう。心配いらんさ」
「だと良いが」
ややあって、もう大丈夫だろうと判断し、アーロンはカゼスに手を差し出した。
「怪我はないか?」
アーロンの手を借りて起き上がり、カゼスは曖昧にうなずく。椅子から落ちた拍子に床で打った肘の痛みより、精神的な痛撃がまさった。
「まさか、今のは……私、ですか?」
血の気が引いた顔で、つぶやくように問う。リトルを部屋に置いてきたことを、生まれて初めて心底後悔した。
「恐らくな。ラウシール殿も有名になったものだ」
カワードが忌々しげに唸った。先の内乱の残り火か、それともエラード辺りが差し向けた者か。光には影がつきものとは言え、せめてもうしばらくは平穏な日々が続いてくれるものと期待していたのだが。
アーロンは黙ってまだ油断なく周囲に気を配っていたが、カゼスが小さく震えているのに気付くと、その肩にそっと片手を置いた。
「大丈夫だ」
誰に対する言葉か、彼は小さくそうつぶやく。手に少し力を込めると、その下で細い肩の震えがおさまっていくのが分かった。
カワードの言葉通り、間もなくわいわいと外が騒がしくなり、兵士の一団が一人の男を連行して来た。自分の命を狙った相手を眺め、カゼスは思わず目を丸くした。
少し険しい顔付きのせいで老けて見えるが、実際はまだ二十歳になるかならぬか、といったところだろう。自分とそう歳も変わらぬ人間が、片やラウシール様と誉めそやされ、片やその命を狙う暗い立場にある。その差があまりにも痛烈に感じられた。
「よくやった。牢につないでおけ、すぐに洗いざらい吐かせてやる」
静かな怒りのこもった声でアーロンが命じ、兵士たちも当然とばかりうなずく。殴る蹴るの手荒い扱いを受けたのだろう、青年の顔には痣や傷がつき、砂にまみれていた。それでも彼は萎れるでもなく、ただ馬鹿にした目付きでカゼスを見上げていた。
立て、と乱暴に引きずられ、青年が唸る。ハッと我に返り、カゼスは叫んだ。
「いけません!」
突然の言葉に、その場の誰もがぎょっとなった。カゼスは首を振り、声が震えるのを抑えようと深く息を吸ってから青年の前に進み出る。警戒の表情を見せた青年の頬に手を伸ばし、傷にそっと手をかざす。
青年はぎくりと身を固くしたが、続いて起こった現象には唖然となった。傷が癒されていくのだ。瞬きひとつの間に、痛みが引いて行く。
それをお情けと取り、彼は口元を歪めて嘲笑した。結局この聖人様がどう振る舞おうと、この後は牢にぶち込まれて拷問の挙句、殺されるに決まっているのだ。
「あなたの名前は?」
その聖人様が発した問いは、しばらく意味を成さなかった。ようやっと、それが自分に対する質問だと気付いた時には、彼は答えるかわりに聞き返していた。
「あんた馬鹿か?」
途端に、押さえ付けている兵士に力いっぱい蹴られる。「やめなさい!」とカゼスが厳しく叱責する声が、痛みで遠のきかけた意識をつなぎとめた。
「名前を教えてください」
再度そう訊かれ、彼は投げやりに「アーザート」と答えた。自分の名前など訊いてどうするのだ、いや、もしかしたら名前さえ分かれば魔術とやらで何か……
「アーザート」とカゼスが繰り返した。「あなたが狙ったのは、私ですか?」
がく、とアーザートは頭を垂れた。どうやらこいつは本当に馬鹿らしい。答える必要は感じられなかったが、彼はため息をついて一応うなずいた。
「どうしてですか?」と、またカゼス。
「いい加減にしろっ!」
思わずアーザートは怒鳴った。殴られたり蹴られたりするよりも、この阿呆くさい会話の方がはるかに腹立たしい仕打ちだ。
「拷問でもなんでもすりゃぁいいだろう! こんな茶番に付き合わせるな!」
「同感だな」カワードが冷たく言い放った。「カゼス、こ奴に情けをかける必要などないぞ。おぬしを狙ったのだ、それなりの報いは端から覚悟の上だろうよ」
だがカゼスは首を振り、もう一度アーザートに問うた。
「どうして、私の命を狙うんです? 誰かに頼まれたのなら、すみませんがその仕事は請けなかったことにしてください。何か私に個人的な恨みがおありなら、出来る限りの償いはします。私はここで死ぬわけにはいきませんし、第一、私ひとり殺したところで何が解決するわけでもないでしょう?」
「……………」
返す言葉がなかった。
いったい、こいつは何を言っているんだ? 実は頭がおかしいんじゃないのか?
呆然となったのはアーザートだけではなかった。周囲の人間全員が石像になってしまったかのような、しんと冷たい沈黙が降りる。
「手を、離してください」
カゼスの指示に、アーザートを捕らえていた兵士が目を限界まで見開いた。彼が反論しようと口を開きかけた途端、カゼスはぴしゃりとそれを遮った。
「この人を解放してください」
兵士は困って視線をさまよわせ、助けを求めてアーロンやカワードを見つめる。アーロンがため息をつき、油断なく剣の柄に手をかけて、小さくうなずいた。仕方がない、と言うように、カワードとウィダルナも立ち上がって万一に備える。
それからようやく、渋々と兵士はアーザートの縛めを解いた。武器の類は当然すべて取り上げてあったが、何をしでかすか分からない猛獣だ――が、どうやら獣の方もあまりのことに面食らっているようだった。
放心気味にアーザートは背を伸ばし、自分より少し背の低いカゼスを見下ろした。青い双眸が揺るぎなくこちらを見上げる。目をまっすぐに見据えられたのは、生まれて初めてだった。正面から自分のような卑しい人間を見る者など、いないと思っていたのに。
「雇い主がいるなら、帰って伝えてください。何か私に言いたいことがあるなら、自分で言いに来るように。いつでも受けて立ちましょう。あなたが自分の意志で私を殺したいと思ったのなら……理由を、聞かせてください」
さすがにカゼスも、言葉の後半は口にするのが辛かった。疎んじられ、嫌悪されるのには慣れているが、気分の良いものではない。しかも殺したいほど憎まれるとは。
アーザートは黙って立ち尽くしていた。どうしたらいいのか分からなかった。カゼスの視線に耐えられず、顔を背ける。
ややあってカゼスが言った。
「あなたが人を殺す必要はないと思います。……もう、帰った方がいいですね」
そっとアーザートの手を取り、ぽんと叩く。カゼスには想像もつかない辛酸と労苦を重ねてきた者の手。
カゼスが手を離すと、アーザートは逃げるように身を翻して走り去った。追いかけようとした兵士を、カゼスの声が止める。
「追ってはいけません」
「しかし!」
口々に反論の声が上がる。カゼスは厳しい表情で言った。
「追って、捕らえて、そして何になるんです? 戦いを口実に暴力をのさばらせるのが、果たして良いことですか?」
守ろうとした相手に非難されて嬉しい者のいようはずもない。不満げに兵士たちが顔をしかめ、ぶつぶつぼやく。カゼスはため息をついた。
「あなた方が私の身の安全を考えて下さるのは分かります。でも、彼一人を捕らえて殺したところで、新たな敵を増やすだけです。その場しのぎの対症療法だけでは、病を根治することはできない……そうでしょう?」
それから彼は口調を和らげ、微苦笑を浮かべた。
「実際のところは、あなた方がきちんと仕事をこなして下さるから、私もあんな無謀な真似が出来るんですけどね。心配させて、すみませんでした」
ぺこり、と頭を下げる。途端に空気が変わり、文句を言っていた者が慌てて「そのような、もったいない」などと言い出す。カゼスは小さな笑いをこぼし、アーロンやカワードの方に向き直った。
「あなた方にも、余計な気苦労をかけましたね。すみません」
「次からは勘弁してくださいよ」
ウィダルナがふうっと息をついて、抜きかけていた剣を鞘に戻す。隣でカワードが、一気に脱力してどかっと腰を下ろした。
「まったく、冷や冷やさせんでくれ」
カゼスはもう一度「すみません」と苦笑し、また後で、と言い置いてその場を立ち去った。落ち着いた足取りで出て行くカゼスを見送り、カワードは首を傾げる。
「まったく、分からぬな。青くなって震えていたかと思えばあれだ」
そのぼやきには答えず、アーロンは何を思ったか急ぎ足で出て行ってしまった。言葉が空振りしたカワードは、口をへの字に曲げる。
「最近は、あ奴もよく分からん」
「私はカワード殿の方が分かりませぬよ。この状況でまだ食事を続けられるとは」
要らぬ一言を発してしまい、ウィダルナは爪先を踏まれて悲鳴を上げたのだった。
アーロンの読みは当たっていた。
カゼスの部屋へ向かう途中、人気のない廊下の隅で柱にもたれかかって動かない人影があった。案の定、カゼスが我が身をきつく抱き締めて、歯の根がカチカチいうのを必死で抑えようとしている。
「無茶をするからだ」
ため息とともにアーロンが言うと、カゼスは振り返り、ホッとしたような顔をした。次の瞬間、膝から力が抜けてその場に座り込んでしまう。慌ててアーロンが助け起こそうとしたが、カゼスはまるで泥になったように立ち上がれない。
「あ、はは、は……なんだか、安心したら、力が」
情けない笑みを浮かべ、恥ずかしそうに言い訳する。緊張が緩んで、意識する間もなく涙が次々にこぼれだした。
「うわ、みっともな……はは、ま、参ったな」
真っ赤になって、慌てて袖で涙を拭う。あれだけ見栄を切っておいて、いまさらこんな醜態を晒すとは。内心自分を叱咤しながら、言うことをきかない膝を従わせてなんとか立ち上がる。とにかく、早く自分の部屋に隠れてしまいたかった。
が、その場から逃げ出すことは出来なかった。
一歩踏み出すや否や、また膝が萎えそうになり、大きく体勢を崩す。それを受けとめたアーロンが、そのままカゼスを引き寄せて腕の中に包み込んだ。
(うわ……っっ!?)
突然のことに、カゼスの頭の中は真っ白になる。次いで羞恥がどっと押し寄せ、首まで真っ赤になるのが自分でも分かった。
「あああのっ、アーロン、そのっ」
「いいから、無理をするな」
アーロンはカゼスの頭を軽く撫で、そっとささやく。途端にカゼスの中で、ぎりぎり堰き止めていた感情が決壊した。とめどなく涙が溢れ、羞恥心もどこかへ消え去って、震える体を支えようと相手にしがみついてしまう。
言葉は出てこず、カゼスはただ小さなうめきを洩らして泣き続ける。
怖かった。身が竦んだ。自分を見る暗い双眸。解放した瞬間、自分の方が命を断たれてしまうかもしれない恐怖。向けられた殺意。理性では抑えきれない、本能の脅えが他のすべての感情を押し流した。
しばらく泣いて少し恐怖がおさまってくると、ふと、妙な感覚が胸をよぎった。
――前にも、あったような気がする――
ずっと昔。殺してやる、と言われた……
(あの夢だ)
いや、夢ではない、現実にあった事だ。ぼんやりした記憶しかなかった筈なのに、突然意識が過去に逆行したように、一瞬、鮮明な光景と悪意に満ちた声とが、よみがえった。
(コノ化ケ物!)
寒気がして、ブルッと身震いする。
「大丈夫か?」
ぽんぽん、と背中を軽く叩く手の温かさが、心底ありがたかった。ホッと安堵し、小さく息をつく。と同時に、忘れ去っていた羞恥心が猛烈な勢いで戻ってきた。噴水のように顔に血が上ってくる。
「――っ、すっ、すみませんっっ!」
大慌てで相手をふりほどき、カゼスは真っ赤な顔で後ずさった。アーロンは一瞬きょとんとなったが、これが普段の状態に戻った証拠か、と苦笑を浮かべた。
「謝ることはない。正直、あの状況でおぬしがあそこまで出来るとは思わなかった」
「う……じ、自分でも何をしたのか記憶がないです……」
意識が真っ白に飛んでいたので、何か大それた事をしでかした気はするが、しゃべった言葉の詳細まではほとんど覚えていなかった。ごにょごにょ言ったカゼスに、アーロンは堪えきれず失笑する。カゼスは情けない顔で目をしばしばさせた。
また少し笑ってから、アーロンは真面目な顔に戻って言った。
「しかし、また奴がおぬしの命を奪いに戻ってくる可能性は大いにある。いや、戻って来ぬ方がおかしい。用心せねばな」
「やっぱり、また来ると思いますか?」
「あの手の輩を信用すると痛い目に遭うぞ。仮にあの男が諦めたとしても、別の者が差し向けられるだけだろう。我々も出来る限りの手段を講じるが、当のおぬしに無謀な行動を取られると、すべて水の泡だ」
「……すみません」
しゅんとうなだれ、小さな声で謝る。アーロンは何か言いかけて一旦口をつぐみ、それから小さなため息をついてカゼスの頭をくしゃっとかき回した。
「この手の苦労は慣れているが、もう少し自分を大事にしてくれると助かる」
「慣れている?」
「宮廷に来て以来、十年余りだからな」
やれやれ、とアーロンが言い、カゼスも誰のことか察して失笑した。確かにエンリルもかなり、我が身の安全を無視して突拍子のないことをしでかす傾向がある。
「まあ、それがあの人の良いところでもありますし」
苦笑まじりにそう取り成す。エンリルに身の安全を優先させて、のびやかなところを抑圧してしまうのは、あまりにもったいない。
「ああ、そうだな」
アーロンは笑いを堪えて相槌を打った。その言葉がそのままカゼス自身にもあてはまることに、当人は気付いていないらしい。それが微笑ましかった。
「……何か私、おかしな事を言いましたか?」
「いや、別に」
「???」
カゼスは不審げな顔をしたが、結局、苦笑ではぐらかされてしまった。
「部屋に戻って顔を洗ってきた方がいいぞ。あの水牛の報告を聞く前にな」