一章 高地の姫君 (2)
「ティリスでは相当人手が不足しているのですかな。名高い万騎長カワード卿自らがわざわざエデッサまでお出ましとは」
皮肉なのか本心から呆れているのか測りかねる口調で言い、カイロンは深紅の目で二人の武将を交互に眺める。その言葉に彼らが反応するよりも早く、アトッサが素っ頓狂な声を上げた。
「万騎長!? このむさくるしい男が、まこと、ティリスの万騎長だと言うのか?」
「失礼ですぞ、姫」
カイロンがたしなめると、今度はカワードの方があんぐり口を開けた。
「本当に姫君なのか? グルになって俺をかつごうってんじゃないだろうな!」
堪えきれずにウィダルナがくすくす笑いだし、他方カイロンは天を仰いだ。そんな外野には頓着せず、アトッサはカワードに向かって憤然と言い返す。
「だから先刻、言うたであろうが!」
「その格好と態度のどこが王女だ、城で淑やかに縫い物でもしておればまだしも!」
「そなたこそ、万騎長ならばもう少しそれらしい物腰というものを……」
言い争う様は、どちらも身分不相応としか言いようがない。カイロンはため息をつき、仲裁に入った。
「お二方、今は口論をする場ではありませんぞ。カワード卿、何ゆえ高地においでになったのか、お聞かせ願えましょうな」
その言葉でようやく眼前の問題に意識を戻し、カワードはカイロンに視線を向けた。皮肉っぽく肩を竦め、小さく鼻を鳴らして答える。
「どう答えたら、首と胴体がつながったままここから帰らせて貰えるのかね。ティリスの新王のために避暑の別荘を物色しに来た、とでも?」
「エンリル王は高地に住まいをお求めですか」
冷ややかな硬質の声が応じる。カワードは憮然として口をへの字に曲げた。
「冗談の通じぬ奴だな。別に高地をぶんどるつもりがあるのではない。ただ、あまりにも雲上の様子が不明なので、下界で騒いでおる身としては不安になっただけだ」
カワードにしては結構辛辣な物言いをしたつもりだったが、相手には冗談どころか厭味も通じないらしい。カイロンは眉ひとすじ動かさなかった。
「それだけの理由で万騎長ともあろう方がお出ましになるとは、高地も随分と重要視されたものですな」
皮肉を返され、カワードはカチンときて思わず声を大きくした。
「当たり前だ、『赤眼の魔術師』が居座っているというのに、気にならぬわけがなかろう。来てみれば案の定、国王フラーダは既に崩御され、おぬしが王女の後見をしていると言うではないか。不穏な空気がぷんぷんしおるわ」
赤眼の魔術師、と言われ、カイロンはわずかに眉を寄せた。ティリスで自分の存在を知っているのは、死んだマティスを除けば、あの男――元総督のシャフラーしかいない筈。自分が訪れたことを話したのだろうか? もっとも、別段こちらは痛くも痒くもないが。
「カイロンの噂は下界にまで広まっているのか。さすがだな」
場違いに感心した声でアトッサが言った。その反応に、二人のティリス人は不審な顔をする。赤眼の魔術師と言えばマティスと同じような、偏執狂じみた危険人物でしかあり得ないと思っていたのだが……?
「なんだ、名声を聞き付けて様子を見に来たのではないのか?」
アトッサは目をぱちくりさせ、険しい顔をしている二人を交互に眺めた。ウィダルナは戸惑った表情になり、首を傾げて答える。
「そういうわけではありません。が、確かに、エデッサに着いてから耳にした限りでは、カイロン殿を悪しざまに言う者はおりませんね。治安も良く、正直ここにいるとティリスでの騒乱が嘘のように思えるほどです」
そうだろう、とアトッサは得意げに胸を反らせる。対照的にカワードは、敵かも知れぬ相手を褒めてどうする、と苦い顔になった。だがウィダルナの言葉には続きがあった。
「とは言え、カイロン殿が『赤眼の魔術師』であることを考えると、この平穏を見たままに信じることは出来かねます。我が国の内乱を煽った女狐と同じように、人の心を操る術を用いている可能性もあるのですから」
その指摘に、アトッサはぎょっとなってカイロンを振り返り、次いで自分の反応に腹を立てたように、激しい口調で言い返した。
「私が操られていると言うのか?」
「その可能性もある、と申し上げたまでです」
ウィダルナは真っ赤になっているアトッサには目を向けもせず応じ、当のカイロンの返事を待った。
(催眠暗示のことを見抜いたのか? 誰が? 王太子……いや、現国王か、それとも例のラウシールが?)
だとすれば、彼は何者なのだ。まさかキューブの存在を知っているわけはないだろうから、暗示を見抜くだけの魔術的な能力を持っているということか。これは思った以上に危険な存在かもしれない……。
しばしカイロンは物思いに沈む。いずれにせよラウシールとは一度顔を合わせなければなるまい、と決めて、彼はウィダルナに目を向けた。
「そのような真似をしてまで、高地の支配権を手に収めたいとは思いませぬよ。お疑いなら気が済むまで逗留し、この街を視察して行かれれば良い。ただし、ティリス王がこの地に手を伸ばすつもりであれば、お二方の報告は下界に届かぬ事となりましょうが」
「忠実な摂政の言葉と受け取って良いのか、己の庭を守らんとする僭主の言葉と取るべきなのか、ちと迷うところだな」
カワードが小さく嘲笑をもらす。だがカイロンは挑発に乗らなかった。相変わらず淡々とした態度のまま、平坦な口調で応じる。
「この国を平穏無事に保つことが私の使命ですからな。先王より託された王女の為に」
「まだ言っておるのか?」
呆れ口調でアトッサが割り込んだ。
「私よりもそなたの方がよほど我が国のことを知っておるし、政治にも明るいではないか。私が女王となるか、国王となる夫を迎えるか……などと言うよりは、そなたが王位に即く方が民も喜ぶと思うがな」
カイロンがたしなめようとしたが、アトッサはティリス人の方に向き直り、肩を竦めてぽんぽん言葉を続けていた。
「そなたらの国王が我が国に対してどのような感情を抱いておるのかは知らぬが、現在のところカイロンのお陰で騒乱もなく、安定している。下界の国々のいずれかが攻め込まんとすれば、むろん我々も戦う覚悟はあるが、見ての通り我が国は貧乏だ。こちらから戦を仕掛けるつもりなど毛頭ないぞ」
世間話のような口調で言われるので、ウィダルナもカワードも、すぐにはそうかと納得できず、ただ目をしばたたかせるばかり。
「戦などするだけの余裕はない。だから、仕掛けるつもりもないし、他所の戦に巻き込まれるのも御免こうむる。そなたらの王には、そう伝えておいてくれ。もっとも、カイロンがそなたらを帰してくれたら、だがな」
言葉尻で悪戯っぽく笑い、アトッサはちらっとカイロンを一瞥する。元気の良すぎる王女に、カイロンは隠そうともせずため息をついた。
そんな二人の様子にエンリルとアーロンの姿を重ね、カワードは思わずにやにやした。
「うちの陛下も大概だと思っていたが、ここにもよく似たのがおるとはな。どうせこちらは正式な使者というのではないから、正直に言ってしまうが……うちの国も今のところは復興に力を注いでいて、他国に手を出すどころではない。第一、陛下にはそのつもりもないようだしな」
そこでちょっと頭を掻き、「もうちょっと覇気があっても良さそうなもんだが」とかなんとかぼそっと付け足す。
「とりあえず、あまりにも状況が不透明なので迂闊に使者も立てられんとかで、ちょいと覗きに来ただけだ。五体無事に帰して貰えるとありがたいんだがね」
そう締めくくって、彼は幅の広い肩をちょっと竦めた。
「……致し方ありませぬな。その言葉に偽りがないことを祈るとしましょう」
カイロンは渋々そう言い、召使を呼んで部屋を用意するよう命じる。不本意げな態度を装いながら、実際のところ彼は、カワードの言が嘘ではないと確信していた。アトッサが二人に対して警戒を解いたのだから、まず安全と見て良いだろう。彼女が幼い頃から見守ってきた経験上、その行動がきわめて的中率の高い予感に基づいていることに、もはや疑念のかけらも抱いていないのだ。
むろんそんな事を知らぬ二人は、牢獄ではなく、ちゃんとした客室に通されると、ホッと安堵して胸を撫で下ろしたのだった。
「はあ、どうなるかと思いましたよ。ひとまずは安心して良いのでしょうね」
ソファに腰掛け、ウィダルナは深く息をつく。カワードはベッドにひっくり返ると、天井を睨んで答えた。
「当面は、多分な。しかし、どうなっておるのだ? カゼスの言葉が本当なら、他国にちらばっておる何人かの『赤眼の魔術師』は、殿下……じゃない、陛下の敵になるんじゃないのか?」
険しい表情のままむくりと起き上がり、やってられないと言うように頭を振る。
「それなのに、まるでこちらが悪人になったような気にさせられるんだからな。あの顧問官、タヌキだとしても相当筋金入りだぞ」
「確かに立派な人物ですね。とは言え、ティリス以外の二国がそう長らくこの国を放っておいてくれるとは思えませんよ。高地を押さえておけば、ここを経由してどこにでも攻め込めるのですから。産業的にも価値の高いものが中心ですしね。エラードかアルハンが手を伸ばしてきたら、彼はどうするつもりでしょうね」
考えながらウィダルナが独り言のようにつぶやく。カワードはうんと伸びをして、またベッドに転がった。
「まぁ、当面は険しい山並みが守ってくれるだろうが……本気で攻め落とす気になれば、山だろうが谷だろうが、あまり関係はないからな」
「物騒な話をするな」
いきなり割り込んだ声に、二人は驚いて顔を上げた。ちょうど、カーテンをくぐってアトッサが姿を現したところだった。
「おやおや、王女様がお出ましとは、何用ですかな」
カワードが大仰におどけ、アトッサは拗ねたように顔をしかめる。が、ここで言い返しても互いの足元に墓穴を掘り広げるだけなので、彼を無視してウィダルナに話しかけた。
「そなたらがエデッサの様子を見物できるのに、私がティリスに行けないのは不公平だと思わぬか? だから、少し話を聞かせて欲しいのだが」
王女に椅子をすすめ、ウィダルナは小首を傾げる。
「これと言って、特にお話しするほどの事は……何をお聞きになりたいのです?」
「うーん、そうだな」
アトッサは片手を口元に当てて少し考え、それから、王女の前でも平気でベッドに寝転がっているカワードを目にして、うん、とうなずいた。
「あのような男でも万騎長として麾下に加えているとは、そなたらの王はどのような人となりなのだ?」
不意打ちをくらってウィダルナは大笑いしてしまい、カワードに椅子の脚を蹴られてひっくり返るはめになった。部下を転がしておいて、カワードは忌々しげに唸った。
「それを言うなら、こいつのような奴でも千騎長にしておくとは、だろう。まったく、ティリス軍にはろくな人材がおらん」
「まあ、国王からして私とそう変わらぬ歳だと聞くしな」
大真面目にアトッサが言ったので、慌ててウィダルナが立ち直って反論した。
「陛下は非常に優れた方ですよ。聡明で、実に……その、寛容な方です」
寛容、と聞いてアトッサは「なるほど」とうなずく。カワードが口をひん曲げた。
「何やらひっかかる納得の仕方だな。だがまぁ、確かに寛容には違いない。お人好しだと言いたくなるほどだ」
「この上、陛下まで人が悪くなられてはたまりませんよ」
ついウィダルナはそんな言葉をもらした。この前も、ヴァラシュにちくちくと苛められたばかりなのだ。
「なんだ、その言い草は。俺に対する当てこすりか?」
カワードが唸ってウィダルナの方を睨む。
どっちもどっちだ、とばかり、アトッサは深いため息をついた。
「分かった。少なくとも、そなたらを正式な使者に立てないだけの分別はあるらしいな」
これには二人とも言い返せず、憮然として顔を見合わせたのだった。
真っ青に晴れた空はいつものように雲ひとつなく、乾いた風が回廊を通り過ぎると、窓や出入り口のカーテンがふわりと踊った。
頬をなぶる風の心地よさに目を細め、カゼスはふと足を止めて中庭を眺めた。海青色の長い髪が少しもつれたが、気にしない。
宮廷魔術師としての仕事は、思っていたよりは楽なものだった。政治の実務は有能な官吏が大勢いるし、第一あまり口出しをして大きな影響を与えることも出来ないから、彼の立場は相談役程度のものだ。
決まった時間帯には部屋にいて、相談事や訴状を抱えた者たちの相手をし、たまにエンリルやオローセスと机を囲んで討議したり。それ以外の時間は、主にイスハークの手伝いをしていた。フィオも助手としてよく働き、今では簡単な手当ぐらいなら一人でも出来るぐらいになっている。
暇ができると、ぶらぶらと宮廷の敷地内を散策したり、まやかしで姿を変えてから街に出て買い物をしてみたりもした。
とは言え、実際はあまりそんな余裕はない。思ったより楽、というのは、あくまでカゼス自身の予想よりはという話で、のんべんだらりと過ごしていた昔の生活とは比較にならない忙しさなのだ。
それでもカゼスは苦痛に感じたことはなかった。ここでは、目立たないように、嘲笑われたり攻撃されたりしないようにと、声をひそめ息を殺して過ごす必要はない。必要と思われることをした結果、白い目を向けられることもない。むしろ他人任せにしていては、その『必要』が満たされることはないのだ。
無理せず自然に、自分の考えに従って行動することができる――それがこんなに居心地の良いものだと、カゼスは今まで実感したことがなかった。
(妙な話だよな)
ふとそう思うこともある。本来自分は異邦人である筈のこの国で、生まれ故郷よりも馴染んでしまうとは。だがここは、この国の人々は、カゼスを受け入れてくれる。最初から彼を特殊な存在だと認識しているためかも知れないが。
……そんなことをとりとめもなく思い耽けり、空を仰ぐ。
と、ちょうど誰かが「ラウシール様!」と呼んだ。最初は抵抗があった呼ばれ方も、もうすっかり慣れてしまっている。
誰かと振り返ると、シャフラーが急ぎ足にやって来るのが見えた。
「どうしたんですか?」
目をぱちくりさせていると、書状や羊皮紙の巻物などを抱えたシャフラーは、ガサガサと危なっかしい手つきで一連の書状を取り出し、カゼスに差し出した。
「こんな所で呼び止めてすみません、ちょっと目を通して頂けませんか」
「あなたに扱えない問題を、私が解決できるとは思えませんけどね」
苦笑しながらも、カゼスはその書状に目を走らせる。文字とは思えない記号が並んでいるが、カゼスの目はそこに記された意図を読み取っていた。修飾も婉曲も無視して内容を理解した途端、思わず彼は「はあ!?」と声を上げていた。
ラウシール様には不相応な声に、シャフラーの助手らしい官吏が目を白黒させる。だがカゼスはそれに構っていられる心境ではなかった。
「何ですか、これは。いったい誰がこんな事を言い出したんです?」
「お気に召しませんか。では、何と言って中止させましょう」
困惑しながらシャフラーが問う。カゼスはもう一度、間違いではないか、と内容を確認した。やはり間違いない。王都の住民の一部が、カゼスの廟だか聖堂だかを建立したいと言っているのだ。自発的に、無償で。
「こういうものは、せめて当人が死んでからにして貰いたいですね」
やれやれ、とカゼスはため息をついた。死後であっても、社会情勢の変化によっては、群衆の手で破壊される運命になると言うのに。
「こんな事に割くだけの労力が今のティリスに余っているとは思えません。くだらないものを造るよりも、もっと他に……」
カゼスは書状を突き返しかけ、はたと思いついて手を止めた。
「あ、いえ、ちょっと待って下さいね。これは……使えるかも」
ふむ、と小首を傾げてから、小さくうなずく。
「この書状、預かっても構いませんか? ちょっと考えついた事があるんです。エンリル様とも相談したいんですが」
「え? あ、はい、そちらで何か対処をされるのでしたら……しかし、何がそんなに気に入らないんです?」
シャフラーは目をぱちくりさせて言った。いつぞやのウィダルナではないが、してくれるというものを断る必要はなかろうに、という気分なのだろう。デニス人とカゼスとの決定的な違いは、ここにあるらしい。基本的に「くれるものは貰う、あるものは取る」という彼らに対し、カゼスは「タダより怖いものはない」というわけだ。
カゼスもその辺りを理解し始めていたので、今回も苦笑するしかなかった。
「どうも私は、何かをして貰うと落ち着かないんですよ。それじゃ」
ごまかすようにそう答え、カゼスは足早にその場を離れ、エンリルの執務室へと向かった。その後ろ姿を見送り、シャフラーの助手が嘆息した。
「相変わらず風変わりな方ですね。あんなに美しいのに、もったいない」
もしこの言葉がカゼスの耳に届いたら、ショックのあまり転がってしまうところだが、これは厭味でもなんでもなく、宮廷内はおろか街での共通の認識となっていた。
この時代はまともな鏡がほとんどないので、カゼスはまだ自分の変化にまったく気付いていない。自分で身支度をする必要がなくなったせいもある。顔を洗って服を着るぐらいは自分でするが、仕上げと点検はフィオの仕事なのだ。
今では、奥二重だった目はすっきりと二重になり、地味としか形容しようのなかった顔立ち全体が、どことなく凛とした気品を漂わせている。
それは、アーロンとカワードが首を傾げていた頃と比べても、はっきりと違っていた。人々の間に『ラウシール』の風評が広まるにつれ、それに合わせるかのように、徐々に変化していったのだ。
ともあれ、本人はそれに気付いていないので、いたって呑気なものであったが。
「エンリル様、いいですか」
カゼスがちょこっと執務室に顔を出すと、険しい顔でオローセスと何やら討議していたエンリルは、パッと顔を上げて笑みを広げた。
「どうした?」
問うた声が期待に弾んでいるのは隠せない。カゼスは失笑し、気の毒そうに首を振る。
「生憎ですが、遊びましょうと誘いに来たわけじゃないんです。今、お忙しいのでしたら出直しますが」
「ああ、いや、いいんだ。この際、何でも気分転換になるだろう」
自分の反応に照れたように苦笑し、エンリルはカゼスを招き入れた。本当にいいのかな、と、やや遠慮がちにカゼスは入室し、オローセスに会釈してからエンリルに件の書状を渡した。
「こんなものを受け取ったんですが、ちょっと計画に変更を加えたくて……」
「うん? ああ、これか。この話なら私も耳にしたな。ラウシール様の人気はたいしたものではないか。何が気に食わない?」
けろりと笑ってエンリルまでが言う。カゼスは情けない笑みを浮かべた。
「こういうのは嫌なんですよ、私は……だいたい、私は拝むだけで御利益のある神様か聖人ってわけじゃないんですよ? 廟なんか建ててどうするんですか」
「つくづく名声欲のないことだな。ではこれをどうすると?」
目をしばたたかせたエンリルに、カゼスは表情を改めて説明を始めた。
「役に立たない廟ではなくて、そこが実際に人々の助けとなる場にしたらどうかと思うんです。有志の人々がこんな事をしたいと言い出すぐらいなんですから、聖堂だかなんだかを建てて終わり、じゃなくて、そこから新たな活動が出来るように」
「……つまり、施療院などにしろ、と?」
エンリルは多少困ったような顔になった。現在のところ、怪しげな自称医師や薬師などの店とは別に、それなりにまともな国営の救済施設があるにはある。施療院と呼ばれ、無償でごく簡単な治療や食事の配給などを行う施設だ。
しかし、海の民の侵略以前の帝国全盛期ならいざ知らず、今ではそのほとんどが廃れてしまっている。それを復興させるだけの余力は、今のティリスにはない。
「ええ。それも、国に頼るのではなく、自分たちの手で運営するものです」
エンリルの懸念を察したように、カゼスは力を込めて言った。その意図が読めず、エンリルとオローセスは揃ってきょとんとした。カゼスは考えをまとめながら言葉を続ける。
「つまり……偉い人が何かしてくれるのを待っていたら、今回みたいに『それどころじゃない』状態になったり、権力者が交替したりすると、簡単に廃れたり変質したりするでしょう? だから、自分たちでなんとかする組織を作れないか、と思うんです。ほら、デニスの人はわりと『ある所から取る』のに抵抗がないでしょう。だったら、裕福とまでは言えなくても、余りの部分をより貧しい方へ自ら差し出してもいいんじゃありませんか?」
「ふむ、それはそうだ」オローセスがうなずく。
「余力のある者が物資や労力を出し合って、より貧しい者を助けるわけか。しかし、それだけでは大したことは出来ないだろうな」
エンリルが唸った。カゼスもうなずく。
「もちろん、特別に裕福な人の協力は必要です。国王とか、大商人とか、貴族とか。でもそういった人たちの思惑に左右されていたら、分け隔てのない無償の助けが本当に必要とされる時に、救いの手を差し伸べて貰えない人が出て来ることになります。権力者の気分ひとつで変えられることのない、根本的に非営利で公平な救済施設として役立てるのであれば、廟だろうが聖堂だろうが構わないんですが」
「……難しそうだな」
正直に言ってエンリルは複雑な顔をした。が、すぐににこりとしてうなずく。
「だが、聖堂ひとつ無償で建てようという連中だ、乗って来るやも知れぬ。こちらの方からも、シャフラーにまた無理難題を押し付けることになるが、出来る限りの援助はさせて貰おう。民が自力で互いを助け合うことが出来るのであれば、将来的には我々の手間も省けるのだしな。長期戦になりそうだが、よかろう」
カゼスがパッと笑顔になったので、エンリルは可笑しそうにくすっと笑った。
「施設にそなたの名をつけられるぐらいは覚悟しておけよ」
「その名前なら、知っています」
苦笑してカゼスは答えた。『ターケ・ラウシール』――青い家、という慈善団体。二百年後には立派に機能していたから、なんとかなるのだろう。たとえカゼス本人には組織の創設・運営能力が皆無であっても。
エンリルは怪訝な顔をしたものの、問いただしはせず小さくうなずいた。
「よし、ではこの件は私の方で預かろう。適切な人材を探すとして、目的は……施療院と同様のもので良いか? 傷病者の救済、貧窮者への食料提供……」
「ゆくゆくは孤児の養育や職業訓練、学業の場としても機能してくれると嬉しいですね。医療も一方的に治してあげておしまい、じゃなくて、訪れた人が次からは自分である程度の手当や予防をできるように知識と技術を提供する、とか。身寄りのないお年寄りの為に憩いの場を提供すると同時に、様々な人が先達の知恵を借りられるようにしたり」
つい熱を入れて語ってしまい、はたと我に返ってカゼスは苦笑した。
「まあ、とりあえず、出来る事から……ですけどね」
「そうだな」エンリルもにこっとする。「そう言えば、そなた、俸給をほとんど使っていないようだが、まさかこの為に貯えていたのか?」
「え? ああ、いえ、別にそういうわけではないんですが」
自分の給料の使途にまでエンリルが気をつけているとは思わなかったので、カゼスは驚いて目をぱちくりさせた。それとも、気をつけていなくても分かるぐらい、自分は貧乏臭い生活をしているのだろうか?
「基本的な衣食住は面倒みて頂いてますし、本が必要なら図書館に行けばいいんですし、あまり私には使い道がなくて。別にためこむつもりはないんですけど」
ミネルバと違って、気軽に何でもほいほい買えるわけではない。衣服はほとんどが受注生産だし、本も手で書き写すしかない為、貴重品だ。日常の身の回りのこと――たとえば紅茶の葉だとか、割れた茶碗を買い替えるとかいったことは、フィオが一定した額を預かってやりくりしてくれている。
カゼス自身が何か購入する、ということはほとんどない。
「そうですね、フィオに何か買ってあげたりするぐらいかな……今どのぐらい貯まってるのか、私もよく知らないんです。でも余裕があるなら、私も出資したいですね」
呑気な言い草に、エンリルとオローセスは呆れ顔を見合わせた。やれやれ、とエンリルはため息をつく。けっこう高額の俸給を出しているのだが、相手はその恩義を感じていないらしい。減額しても気付かないだろう。
「まったく、そなたは物欲の薄いことだな。貯蓄が楽しみなのかと思いきやそうではなく、ぽんと財産を投げ出してしまうとは」
「あんまりたくさんお金を持っていても、仕方ありませんから。どのみち私はいずれここからいなくなる身ですし……それに、茶碗に溢れるほど紅茶を注がれても飲みにくいだけでしょう? 八分目ぐらいがちょうどいいんですよ、何事も」
笑顔でそんな事を言って、「それでは」とカゼスは部屋を出て行く。残されたエンリルは卓上に置かれた茶碗を見下ろし、ふむ、と小首を傾げていた。
自室に戻る途中で カゼスはばったりアーロンと出くわした。
「どうしたんですか? 急ぎ足で」
行き違いに声をかけるぐらいの気分でカゼスが言うと、相手は「ああ」と足を止めた。
「例の水牛万騎長がな、いっそ戻らぬでも良いものを、ぴんぴんして帰り着いたのだ。一応、殿……陛下にお知らせしようと」
言い間違いを慌てて訂正したアーロンの様子が可笑しくて、カゼスは押し殺した笑いをもらす。アーロンだけではなく、即位してもうひと月は経つというのに、いまだエンリルを『殿下』と呼びそうになる者が多い。
「そのうち、エンリル様が拗ねるかも知れませんね」
くすくす笑ってからかう。アーロンはごまかすようにちょっと頭を掻いた。カゼスはそれ以上は追及せず、「それで」と本題に戻った。
「あの二人は今、どちらに?」
「兵舎の食堂だ。あの調子では、椅子まで食い尽くされるやも知れぬな」
げっそりした風情でアーロンは答えた。ここしばらくカワードがおらず、混雑する食堂もそれなりに秩序が保たれていたのだが。
「それじゃ、私は一足先に行って破壊の様子を見物するとしましょう。随分久しぶりですね、あの二人と話をするのも」
そしてまた、アーロンとの舌戦を聞くことができるのも。
「おぬしとこうして言葉を交わすのも、随分久しぶりのような気がするな」
ふとアーロンが言い、カゼスも小首を傾げた。言われてみれば、エンリルが即位してからお互いの仕事があれこれと忙しく、あまりゆっくり話をする時間もなかった。これはアーロンに限らず、カゼスが最初に出会った面々の全員が同様だ。
カゼスはあまり兵舎の方に行く機会がないし、エンリルの従者だったダスターンも現在は近衛隊に配属され、アスラーにしごかれている。元視察団一行が顔を合わせるとしたら、たまたまエンリルの前で鉢合わせした時ぐらいだった。
「そうですね。初めてここに来た頃は、ごく少人数で行動していましたから、色々と話もしましたけど……最近はなんだか落ち着かなくて、ちょっと寂しいですね」
ダスターンなどはせいせいしているかも知れないが。
「またその内、ゆっくり酒でも飲むとしよう」
アーロンは少し笑みを浮かべると、カゼスの頭をごく軽くはたき、エンリルの執務室へと走って行った。
それを見送ったカゼスは頭に手をやり、情けない顔でため息をつく。相変わらず、餌付けされたペット扱いか。やれやれ……。
(もうちょっと対等に話ができるといいんだけどなぁ)
ぼんやりそんな事を思いながら、彼は兵舎へ向かってとぼとぼ歩きだした。




