一章 遭遇 (2)
テマの東に広がるキスラ砂漠は、砂よりは露出した岩だらけの地帯で、規模も小さい。が、歩いて渡るには充分苦しいだけの広さがあり、東海岸の港から荷を運ぶ隊商が稀に通るぐらいで、普通の旅人は遠回りでも安全な迂回路をとって移動していた。
中にはなにがしかの事情があって、この乾燥地帯のただ中に踏み込む者もいないではない。たまに出会う骸がその証拠だ。
「でも、人間がいるって安心できる証拠じゃないよな、これはさ」
白骨化した骸から衣服をはぎとりながら、明らかによそ者の青年がぼやいた。屈むと地面につきそうな長髪は、鮮やかな海青色。よれよれのジーンズとシャツは砂まみれになっている。即ち、カゼスだ。
すぐそばの空中には、水晶球のような物が所在なさげに浮いていた。
「ここ、どこかなぁ……リトル、まだ場所の特定はできないかい?」
なんとか着られそうだ。一応周囲を見回してから、そそくさと着替え始める。
「ミネルバ上の地点でないのは確かですね。異世界には違いないと思われますが、何しろデータが不足していますから。カゼス、本当にそれ、着るんですか」
慣れない衣服に四苦八苦している不便な人間という奴を眺め、リトルは複雑な声を出した。なんとか格好をつけ、カゼスはリトルを振り返る。
「仕方ないだろ、ここがどこかも分からないんじゃ、帰り道も開けない。こんな衣服の世界をウロつくのに、ジーンズやらスニーカーやらは反則だろ?」
「それはその通りですが、気持ち悪いとか縁起が悪いとか、いつもの素敵な感情論をひとくさり聞かせて頂けるのではと期待していたものですから」
「ヤな奴だね、おまえは」
カゼスは苦い顔でリトルを眺め、それから骸に目を落とした。
白骨化していて良かった。まだ新しい死体だったら、気味が悪くて追いはぎまがいの事は出来なかったに違いない。まやかしの術で見た目をごまかす事も出来るが、未知の世界で不用意に魔術を使いたくはなかった。
「さて……どっちに行こうかな」
改めて辺りを見回す。最初に落ちて来た地点は、ほんの十歩ばかり離れた岩陰だった。誰か、あるいは何か、がいると思って近付いたら、死骸だったというわけである。
リトルは少し上空に飛び、くるりと回って降りて来た。
「希望的憶測ですが、南西へ向かえば何らかの文明的な活動に出会えるかもしれません。微かにではありますが、熱源を感知できます」
「了解。どっちに行っても賭けには違いないんだ、ちょっとでも分のありそうな方にしておくよ。ところで南西ってどっちだい?」
衣服に染み付いた妙な匂いに、顔をしかめながら問う。リトルが先に飛んで行くのに従い、カゼスもてくてく歩きだした。履き慣れないサンダルの革紐が、やわな肌に食い込んだ。
同じ頃、テマの街ではエンリルたち一行を街の議長が出迎えていた。
テマはケルカ川が支流と合流する地点に位置しており、地方総督の下である程度の自治を認められている。本来ならばまず総督が出迎えるべきなのだが、軍を要請したのは議会の方であったし、また総督府は川を挟んで西側の街外れにあり、エンリルたちの第一の目的には不都合だった。
まずは怪物とやらを確かめてから、総督府の方へ視察に行けば良い。
エンリルの言葉で、彼らは東側にある議長の家を訪れたわけである。
まさか王太子自らが出向いて来ようとは夢にも思わなかった議長は、大いに焦った。しかも、従うのはたった五人。本気なのか悪い冗談なのか、議長には判断がつきかねた。
しどろもどろに挨拶を述べる議長に対し、エンリルは鷹揚に苦笑した。
「そう驚かずとも良い。我々は怪物の話が真実か否か、見極めに来たのだ。もし我々の手で片付けられるほどであれば、その場でそなたらの憂いの元を断ち切る。手に負えなければその時こそ、軍勢を動かそう」
「は、はあ……しかし、見極めると仰せられましても、失礼ながらお供の方がこれだけでは……この街には兵の真似事が出来る者の数など、片手で足りるほどで」
「案ずるな。確かに人数は少ないが、選りすぐりの者ばかりだ。かの有名な万騎長アーロンも出向いておる」
有名な、と言われて、カワードとアーロンが複雑なまなざしを交わした。議長は驚きに目をみはり、従う五人の顔を次々と眺める。
「おお……ティリス一の剣士と名高い万騎長殿が? 畏れ多うございます」
その視線はカワードの上に止まり、議長は彼に対して深々と頭を下げた。カワードは、またかと言わんばかりの苦笑を浮かべる。
「いや、議長殿、俺ではない。腕の方は引けを取らぬつもりではあるが」
「は……? では、その」
一番立派な体躯の男が、そうではないと言う。ならば一体、と議長はうろたえ、きょろきょろした。その目に、カワードの後ろで失笑を堪えているのか苦笑なのか、複雑な表情をした若い武将の姿が映る。
「まさか、あなた様が……?」
一瞬ぽかんとなり、それから慌てて再度低頭した。
「も、申し訳ございません、何分卑賎の身にて尊顔を拝する機会に恵まれず……」
「構わぬ、議長殿。いつもの事だ。私が勇猛な戦士に見えぬのも事実なのだし」
アーロンの口調が穏やかだったので、議長もほっとして、一行を家の中へ案内した。
元々アーロンは、田舎の小貴族の家に生まれた学問好きの子供だった。
それが、都の高官に嫁いだ姉によって、王宮の図書館を餌に王太子の守役として釣り上げられてしまったのだ。アーロンは十四歳、エンリルは七歳の時だった。
数年の間は、どうしようもなく泣き虫だったエンリルの為に、とても他の事をする余裕がなかった。騙されたと思ったが既に遅い。アーロンはエンリルの性根を叩き直し、その後でやっと念願の図書館に入り浸ったのだ。
そのかたわら兵の教練にも参加し、めきめきと剣の腕を上げた。
本人も自覚している通り、彼の体格はカワードのようなタイプとは異なり、どうやっても人並み以上の筋肉と破壊力とを身につけることはできなかった。その為に彼はより技術面を磨き、持ち前の頭脳で戦うようになったのである。
そして弱冠二十歳にして国境付近の小競り合いを一気に片付け、その名を全土にしらしめたのだった。
そうなってもなおやはり、学問好きの傾向は変わらなかったが。
「なんだ、おぬし、こんな時にまで何を読んでおるのだ」
カワードは呆れ顔になった。しばしの休息を、と通された広間で、アーロンは一人黙然と薄い書物を繰っていたのである。
旅の無聊を慰める為に、わざわざ持参したらしい。遠方に持ち出すのに王宮の図書館のものでは都合が悪いからであろう、アーロンが自分の給料で買った、数少ない私物の本のひとつだ。
「俺には分からんよ。王宮には美しい女官も大勢おる。おぬしはと言えば、小なりと言えど貴族の出自の上に、いまやティリス一の剣士と謳われる身だ。一声かけさえすれば靡く女も多かろうに、何を好んで書物なんぞに顔を突っ込んでおるのかねぇ」
絨毯の上を膝で移動し、カワードはアーロンの手元を覗きこむ。アーロンは鬱陶しそうに、胡座をかいたまま少し体の位置をずらして背を向けた。ちょうど、興味深い数学定理の話にさしかかった所だったのだ。
数字の羅列を見て、カワードは口を曲げた。
「恋歌や叙情詩ならば、まだ女を口説くのに使えようものを」
「今度おぬしにも読めそうなその手の本を見付けたら、一冊進呈する。今は黙ってどこなりと他所へ行ってくれぬか」
顔を上げもせずにアーロンは言い捨てた。カワードは大袈裟なため息をついて、いったんその場を離れる。が、アーロンの平安は長くは続かなかった。
不意に背中にどっしりと重圧がかかり、集中が途切れてしまったのだ。ムッとなって、乱暴にそれを押し返す。巨体の主が背中合わせにもたれかかっていた。
「カワード! おぬし、それほどまでに俺の邪魔をしたいのか?」
うんざりとアーロンは抗議した。が、カワードは退屈そうに目を天に向け、アーロンを二つに畳んでしまおうというのか、ますます圧力をかけて来る。
「おぬしの邪魔をしたいわけではなくて、俺が退屈を紛らしたいだけだ」
「同じことではないか! ええい、鬱陶しい、どけ!」
「人聞きの悪いことを言うな。俺が退屈のあまり悶死すれば、ティリスにとって重大な損失だぞ。おぬしが退屈しのぎに付き合うのは、半ば義務ではないか」
「おぬしが悶死した場合と、退屈しのぎを始めた場合とで損失を比較すれば、俺としてはおぬしを見捨てる方に賛成する」
真面目くさってアーロンは言い返し、カワードは表現力豊かな顔で落胆して見せた。他の三人が、いつもの舌戦が始まった、と忍び笑いをもらす。エンリルは議長から詳しい話を聞こうとしてここにはいなかったが、いれば遠慮なく大笑いしただろう。
この事態を冗談事でなく憂えているのは、被害者である自分だけか。アーロンはむっつりと本を閉じて立ち上がった。
革のサンダルを履き、カワードの抗議を無視して部屋を出る。静かに読書のできる場所を探し、彼はしばらく議長の邸内を逍遥した。中庭では女が洗濯物を干しており、子供たちがかしましい。
向かいの棟の二階に金色の頭が見えて、アーロンはそちらに足を向けた。二階の廊下の手すりにもたれかかり、エンリルは子供たちの遊びを見ている。
「こちらにおいででしたか。何をご覧になっているのです?」
「いや、昔よく遊んだな、と思ってな。そなたこそどうしたのだ?」
振り返り、相手の手に本を見付け、エンリルは破顔した。
「ははあ、書を愛する者の聖域を探しているのだな。カワードがいてはうるさいか」
「ええ、まったく。陛下が犯された過ちの中で最大のものは、あの男を武将のひとりに取り立てられたことでしょうな」
ため息をついたアーロンに、エンリルは屈託なく笑った。
「そう言うな。私は彼が気に入っているぞ」
「それが問題なのです」
あの男の悪影響を確実に受けられている、と声には出さず、かつての守役はぼやく。その表情から言いたい事は読み取れるのだろう、エンリルはやや皮肉めかした顔をした。
「そなたが言うと、本気なのか冗談なのか分からぬな。冗談ならそれらしい顔を見せてくれればよいのに、そなたはいつでも真面目くさった顔をしている」
「俺はいつでも真面目なつもりですが」
アーロンは憮然としたが、エンリルは余計に笑っただけだった。
――と、不意にエンリルは笑いを消し、あらぬ方を振り返った。アーロンは目をしばたたかせ、相手の視線を追う。だが、そこにはただ何の変哲もない建物と、青空とが見えるだけだった。
「殿下? 何が……」
問いかけて、言葉を飲み込む。エンリルの青褐色の瞳が、わずかに紫色を帯びていた。聖紫色の、透明に光る彩り。
初めて見たときは何事かと驚いたものだが、今までに幾度となく皇族の能力を目にしてきたので、アーロンはただ黙って様子を見ていた。
「……来る」
エンリルはつぶやき、眉を寄せる。
「何だ……? 青い……大きな」
正体がつかめないのに予感だけがする。もどかしげにエンリルは頭を振った。
その瞳が元の色に戻っているのを確かめ、アーロンが声をかける。
「怪物、ですか」
「いや……分からぬ。ともあれ、行かねば。そう遠くはない。アーロン、皆を集めろ」
承知、と応じてアーロンは広間へとって返す。エンリルも階下へ戻り、一足先に廐へ向かった。
(邪悪なものではない……が、何だと言うのだ?)
どうせなら、もっとはっきりと分かれば良いのに。
彼はそのものが近付いて来る東の方、砂漠の広がる辺りを振り返って、顔をしかめた。
エンリルの視線のはるか先で、カゼスは岩の陰に身を潜めて、じっと太陽が去ってくれるのを待っていた。
「こう暑くちゃ、歩くどころじゃないよ」
ぶつぶつ一人でぼやく。ただでさえ履き慣れないサンダルなのだ。どうやら元の持ち主は馬か駱駝にでも乗っていたらしい。でなければ裸足にサンダルでは、灼けた砂の上など歩けるものではない。足が埋まるほどではなくとも、熱い砂が隙間に入り込んで来る。
最初に落ちた場所からほんの数分歩いただけで、その事を悟った。機械のリトルは転がって行っても平気だろうが、人間の自分では苦行にしかならない。
「飛んで行けば楽なんだけどなぁ……風も通りやすい地形だし」
はあ、とため息。周囲には少しずつ風化しつつある岩が林立していたが、全体に風通しは良い。カゼスの得意な『風乗り』の呪文を唱えれば、足を焼かずとも西へ向かえる。
だが力場位相を調べもせずに魔術を使うのは無謀だったし、今はその調査に使うカードがないのだ。たまにはと思い立って庭の手入れに出た所を、落雷の衝撃で異界に吹き飛ばされた為、役立つものなど何一つ持っていない。
「珍しい事をするもんじゃないってわけだね、よーく分かったよ」
「さっきから何を一人でぶつぶつ文句ばかり言っているんです? 非生産的ですね。どうせ待つしかないのなら、その間に小さな魔術を試してみるとか、精神体を飛ばして様子を探るとか、できることをやってみたらどうなんです」
「やだよ」
カゼスは即答し、渋面を作った。
「もしこの世界の力場が異常に高レベルだとか、全く構造が違っているとかで、ちょこっと精神世界に入っただけでそれこそ落雷に遭ったみたいにこんがり焼き上げられたら、どうするんだよ。おまえは確かに優秀なリトルヘッドだけどね、もしここで私がローストされたら何が出来るって言うんだい? せいぜい、『表面温度は何度、中心温度は何度、ミディアム・レアーですね、カゼス』なんて言うのが関の山だろ」
そうなる心配のない唯一の呪文が翻訳の呪文で、どんな界でも意志の疎通がほぼ間違いなく可能になるのだ。それは最初に唱えてあったが、相手が死骸ではどうしようもなかったというわけである。
「マイクロウェーブでお好みの焼き加減にするぐらいは出来ますよ。ウェルダンでも、消し炭でも」
しれっと言い返されて、カゼスはげっそりした。
「要するに、事態を悪い方になら変えられるってわけだ。医療機能もなければ、私を街まで運ぶこともできない。そんな相棒しかいないのに、危険は冒したくないね。まったくおまえは、攻撃はできても治療は人間の手がなきゃできないんだもんな。なんでだろう?」
いまさらながらに、カゼスは首を傾げてしまう。
リトルヘッドというのは『陽電子回路と、特殊な環境で培養した精神素子の網目によって形成される疑似人格を有する自律的な情報処理端末』と定義されている。大陸全土を覆うネットワークに接続し、その置かれた環境や目的によって様々な能力・形態を有し、医療や危機管理、産業の面でも、大きな役割を果たしている。
当然高価で、一般人が簡単に手にすることはできない。リトルのように完全に独立しているというのも珍しい話だ。なぜ、いつから、カゼスの物になっているのか。それはカゼス本人にも分からない。リトルに聞いても、
「私にはその情報に関するメモリが欠落していますから、何ともお答えできません」
という言葉が返ってくるだけだ。今回と同じように。
「やれやれ。どうせ、作った人の趣味なんだろうけどさ。夕方になるまで寝てようかな」
カゼスはぼんやりと空を仰いだ。
と、その時ふいに、日が翳った。
「!? 何だ、あれ……」
思わず立ち上がる。巨大な生き物が太陽を隠して飛んでいるのだ。いっそ鈍重とも言えるほどゆったりと。
「奇怪な生物ですね」
少し間を置いてリトルが言った。この場合は呆気に取られていたというわけではなく、外観や光線の透過率や反射率、その他諸々から分かるデータを集めていた為の間だが。
「キメラという表現が一番ふさわしいでしょう。なぜこんな生き物が棲息しているのか、推測できません。これが普通なのだとしたら、この世界は私達にとっては発狂ものです」
「既に発狂してるんじゃないかって気がしてきたよ……」
かすかな羽音を立てて飛んでいる生物を仰ぎ、呆然とカゼスは言った。
巨大なカマキリのような胴体に、しかし足は不必要に多く、サソリのものに似た長い尻尾がひらひらと揺れている。
「でも、一番ぴったりくる形容なら分かる。『醜悪』だ」
うぷ、と顔を歪めてカゼスはつぶやく。その悪口が聞こえたわけではなかろうが、怪物は突然向きを変えた。
「げ……う、わぁっっ!」
慌ててカゼスは逃げ出す。直後、今まで隠れていた岩陰をサソリの尻尾がなぎ払った。
「うわわわわ、冗談じゃないっ!」
青ざめ、全速力で走りだす。この際、サンダルの紐が痛いとか、砂が熱いとか言ってはいられない。足に血がにじむのも構わず、走りに走った。
悠々と横を飛びながらリトルもついて来る。
「マイクロウェーブでこんがり焼きましょうか? 食べられるかも」
「こんな時に冗談言うなっ! どうにか追い払うぐらいで、いいんだけどな、うっかり殺して、しっぺ返しをくうのは、嫌だし、でも、わっ!」
走りながら答え、カゼスは語尾でつまずいてこけた。手をついて顔面衝突だけは避けたが、代わりにてのひらの皮が砂を食ってめくれ、血がにじんだ。
反射的に振り返り、怪物の所在を確かめる。
(真上――!)
黒い影が視界を覆い、複眼の巨大な格子模様が迫り……
(来るな!)
防げる筈もないのに、両手を頭上にかざす。
瞬間、精神の壁を破って『力』がどっと流れ込んだ。意識が真っ白に光り、弾け、そのまま奈落の闇へと落ち込む。
カゼスの体はぐらりと傾ぎ、その場にくずおれた。砂地の上には巨大な氷の柱が水晶のようにそびえ、その中に怪物を封じ込めていた。
街を出たエンリルたちが見たのは、何もない岩だらけの砂漠に突如として氷柱が生えるところだった。
「何だあれは!?」
「怪物か!」
ぎょっとなりはしたものの、彼らは急いで馬を疾走させた。もし誰かが襲われているのだとしたら、悠長に様子を窺ってはおられない。
だが、彼らがその場所にたどり着いた時に目にしたのは、怪物を封じ込めた氷柱の下に倒れている青い髪の人物と、その横に転がる水晶球だった。
「誰だ? いや……何者なんだ? 彼は」
エンリルは近付くのをためらい、少し手前で馬を下りた。アーロンもそれにならい、謎の人間を眺める。うつぶせになっているので顔は見えず、彼は眉を寄せた。
「彼? 彼女では?」
「女だったら何者でも構わんがねぇ」
軽口を叩いたのはカワード。エンリルは数歩進み、倒れている人物が負傷していることに気付いた。
「傷を負っているようだ。何者かは分からぬが、この……」
と、炎天下でも溶けない氷を見上げて、忌まわしい姿に顔をしかめる。
「怪物に、襲われていたのだろう。とりあえず、手当をせねばな」
来る、と感じたのは、この事だったのか。あの時に予感した澄んだ青い輝きは、この髪の色によく似ている。
用心しながらエンリルはカゼスに歩み寄り、そっと膝をついて抱き起こした。サンダルを履き慣れていない足だというのは一目で分かった。日焼けしていないから白く、紐の当たる部分がこすれて赤くむけている。手のひらの傷は、もう乾いて固まりかけていた。それ以外にはさしたる傷はない。
「妙だな……何があったと言うのだろう?」
気を失っているだけなのか。服は男物のようだが、着方が多少おかしい。ティリスの者でない事だけは確かだが、青い髪の人間の国など聞いた事もない。第一、この氷柱は何なのだ。
「水を」
呼ぶと、カワードが興味津々と寄って来て、革袋を差し出した。
「ふむ……残念。並といったところですな」
何を考えているのやら、カゼスの顔を眺めてそんな評価を下す。エンリルは苦笑して、袖口を少し濡らすと、カゼスの顔をまず拭いてやった。
(なんだろう……涼しい風だ)
カゼスはぼんやりとそれを感じた。相変わらず意識は水底のような闇の中に漂っていたが、ゆっくりと浮上して行くのが分かる。
涼やかな気配。青空と草原のイメージ。眩しい日の光――
「………? まぶし……っ!」
薄目を開けたことを自覚しない間に、光が目を刺した。顔をしかめると、鈍器で殴られたような痛みが頭に響いた。脳細胞がすべてバラバラになったのではと思うほどだ。限界以上の無謀な術を行った時と同じ、内臓がひっくり返りそうな吐き気に襲われる。
「大丈夫か?」
気遣う声と同時に、額に手が触れた。瞬間、意識にすっと淡く紫がかった光が射し込み、頭痛が見事に消え去る。吐き気もおさまり、体が正常に機能し始めるのが分かった。
それでもカゼスは用心しながら、ゆっくり目を開き、なんとか自力で体を支えて起き上がる。すぐそばに金髪のごく若い青年がしゃがんでおり、あとはまわりに何人か黒髪の男が立っている。
「あなた方は……?」
呆然とそう問いかけ、はとカゼスは自分が助けられた事に思い当たった。
「ああ、その前に……ありがとうございます。助かりました」
このままここで気絶していたら、干物になっているところだ。ぺこりと頭を下げたカゼスに、エンリルは屈託のない笑顔を見せた。カゼスがあんまりぼんやりしているので、警戒するよりも可笑しくなってしまったのだろう。
「我々はこの砂漠に出る怪物とやらを調べに来た者だ。どうやらそなたに先を越されたようだが……これはそなたがやったのか?」
立ち上がり、氷柱に近付いてコンと叩く。カゼスは言われて初めてその巨大なオベリスクに気付き、首をのけぞらせて見上げ、ぽかんとなってしまった。
「ええと……多分、そう……か、な?」
リトルにこんな機能はついていない。と言うことは、咄嗟に何らかの魔術を行ってしまったに違いない。その結果、ここの魔術力場に圧倒されて気絶した、というわけだろう。
そう理屈が通ると、カゼスは改めてぞっとした。気絶するほど高レベルな力場なのだとしたら、自分のような並の魔術師では、意識までバラバラに崩壊して廃人になってしまいかねないのだ。
「要領を得んな。一体何があったと言うのだ?」
不機嫌な声に振り向くと、アーロンが睨んでいた。その他の面々も、不可解そうな、あるいは不審げな顔をしている。
「いや、その……咄嗟の事だったので、自分でも何がなんだか……この怪物にいきなり襲われて、逃げようとしたんですが逃げ切れなくて」
ぽり、と頬を掻く。そのてのひらに赤黒く血がこびりついているのに気付き、カゼスは小さく「わっ」と声を上げた。子供っぽい仕草にカワードがふきだし、革袋を渡してくれた。
「そら、水だ。拭けよ」
ここの気象条件からして水は貴重だろう。カゼスはそう考え、恐縮しながらちびちびと水を使い、手のひらに食い込んだ砂粒と固まった血を落とした。
「そなた、名は?」
氷柱を見上げていたエンリルが、ふと振り返って問うた。カゼスは顔を上げ、慌てて答える。
「カゼス、です」
姓まで名乗る必要はないようだった。続きを言う前に、エンリルが口を開いたので。
「そうか。私はエンリル。ティリスの……なんだ? どうした」
途端にカゼスが愕然とした顔を見せたので、エンリルは言葉を飲み込んだ。目をしばたたかせて問いただすと、カゼスは絶望寸前といった表情で、おそるおそる訊く。
「もしかして……ここはデニスなんですか?」
「デニスの中の一国、ティリスだ。正確に言うなら、その北部のキスラ砂漠、という事になるが。ここがどこだか知らずに来たと言うのか?」
エンリルは親切に説明し、一体何をそんなに驚くのか、と訝しげになった。カゼスの方はそれどころではない。
「デニスの中の一国!? てことは、もしかして今は四国分裂時代……? じゃあエンリル様って、まだ王様ではないとか?」
さすがにこれは不躾に感じられたらしい、当のエンリルを除く武将たちが一様に顔をしかめた。
「それを言おうとしていたのだ。ティリスの王太子だ、と。妙な口ぶりだな、まるで未来から訪れたとでも言うようではないか」
エンリルはけろりとそんな事を言った。カゼスはぎくりとして、意味もなく手をばたつかせる。
「いやその、違うんです、そうじゃなくて……ああでも、どう説明したらいいのか」
カゼスが困り果てていると、エンリルが苦笑を浮かべた。
「後でゆっくり聞かせてくれ。こんな所でじっくり話し合っている暇はないからな。とりあえずこの怪物をどうにかしてから、街に帰るとしよう。カゼスと言ったな、この氷柱はどうにかならぬか? まさかこの世の終わりまでこのままとは行くまい」
「あ……ええ、そうですね、ええと……殺してしまっていいものなんですか?」
カゼスはホッとして、改めて氷柱を見上げた。確かに、このままにしてはおけない。一体どうやって作り上げたのか我ながら不思議だが、溶けもせずに氷が立っているなど、どこかで力の循環が狂ってくるに違いないのだから。
「むろん、その為に我々は出向いて来たのだ。だがこの状態では手も足も出ん」
カゼスの物分かりの悪さにうんざりしているのか、明らかに苛立ちのこもった声でアーロンが答える。カゼスは慌てて周囲を探った。
「そうですか、それじゃ、ええと」
やっとリトルを見付け、膝に乗せる。これが独立した知性体だなどと知らせて動揺させるのは得策とは思えないので、他人に聞こえないように精神波を使って話しかけた。
〈リトル、もっぺん魔術を使うのは勘弁してほしいから、これ、なんとか片付けてくれるかな? 消し炭にするとか〉
〈分かりました。では、少し離れていてください。他の皆さんも〉
リトルはあっさり了解し、ふわりと浮き上がる。
さすがにぎょっとなって、ティリス人たちは後ずさった。カゼスはよたよたと立ち上がり、エンリルに言う。
「ここから離れた方がいいでしょう。巻き添えを食いますから。街はどっちですか?」
足を踏み出そうとして、よろける。咄嗟にアーロンがそれを支えた。
エンリルは飛んでいる水晶球を不思議そうに見上げていたが、カゼスの言葉に従って馬にまたがった。カゼスはアーロンの後ろに乗せられ、その背中にもたれかかる。
「離れると言っても、どのぐらいだ?」
馬首を街に向け、アーロンが問うた。返事がないので背後を肩越しに覗くと、当のカゼスはうとうとしかかっているではないか。
「寝るな! 答えろ、どの程度離れたら良いのだ」
カゼスはまた水底へと沈んでいきそうな意識を懸命に引き上げ、リトルが精神波で答えるそのままを口にする。
「適当な……頃合いに、破壊します……から、街へ……」
そこまでが限界だった。抗い難い力に引かれるように、カゼスの意識は暗闇へ落ちて行く。忌々しげに眉を寄せたアーロンを眺め、カワードがくくっと笑った。
「昔の殿下と守役殿を見ておるようですなぁ」
渋い顔をしたのはアーロンだけだった。他の面々は笑いをこぼし、不機嫌になったアーロンに八つ当たりされてはかなわぬとばかり、さっさと馬の歩を進める。
そうして、時折後ろを振り返りながらも無言でしばらく進み、視界の氷柱がかなり小さくなった頃、いきなり大気が振動した。
ハッとなって振り返った彼らの目に、氷柱が怪物もろとも一瞬で消し飛んでしまったのが映る。氷は蒸気となり、怪物の体は灰燼に帰した。
一行が唖然となっていると、リトルが飛んで来て、持ち主の懐にすっぽりと収まった。背後を取られたアーロンは気味悪そうに身じろぎし、ため息をつく。
「怪物退治に来て、よりいっそうの怪物を拾ってしまったようですね、殿下」
もちろん、その発言にリトルが皮肉な思いを抱いているなどとは、夢想だにしない。
エンリルは楽天的に笑って答えた。
「目的の怪物は退治できたのだから、良いではないか。そなたの背後にいるものが怪物だとしても、野放しにするよりは飼い馴らす方が有益であろう?」
「飼い馴らせるものならば良いのですが」
「悲観的だな。案外簡単に馴らせるように思うが……少なくとも、警戒せねばならぬほどのものとは思えぬぞ」
本人が聞いていないので、言いたい放題である。
(ええ、食べ物と寝床を与えてやれば、誰にでも懐きますとも、この馬鹿は!)
そう言ってやりたいのを堪えるのに、リトルはかなり努力しなければならなかった。