七章 王都奪還 (3)
王都の三方を囲む海の上もまた、乳白色に塗り込められていた。ティリス湾に突き出た小さな岬の上に建つ王都から、崖を下って港に達する長い階段は、白い波の中に消えているように見える。
クティルと、ラームティンとその配下のシャーヒーン率いる兵とが階段を埋め、ナキサーと顧問官マティスは港に降り立っていた。
波が桟橋を洗う微かな水音を除いて、何の物音もしない。だが突然、兵士達のどよめきがしじまを乱した。
何の前触れもなく霧の幕を割って、軍船がぬっと姿を現したのだ。櫂の音ひとつ立てず、さながら幽霊船のごとく静かに。もちろんこれはイシルのお陰だ。
「これが……ラウシールの力なのか」
櫂にも帆にも頼らず入港してきた船を見上げ、ナキサーは喉の奥でうめいた。マティスも険しい目で船を見上げたきり、何も言わない。もっとも彼女の場合は、驚嘆したためではなかった。
(違う。これは魔術じゃないわ……一体どういうこと?)
城門をミシミシ言わせているのが魔術であるのは分かる。その外に控えているのであろう幻影の軍団を生み出している呪文も、力場位相の変動から見当がついた。
だが、この霧は違う。霧を発生させたのも、船団を導いてきたのも、魔術ではない。
(やはり裏切り者がいるのね)
エリアンか、カイロンか。魔術師でない二人を思い浮かべ、マティスはぎりっと唇を噛んだ。気象制御装置があるのはカイロンのいる高地だ。王太子を片付けたら、奴を潰さなければなるまい。
マティスがそんな事を考えている間にも、ナキサーは命令を下して船のまわりをかためさせ、一人も降ろすまいと弓を構えさせていた。
「残念だったな、反逆者エンリル!」ナキサーがよばわる。「不意を突いて王宮まで攻め込むつもりだったのであろうが、そうはさせぬぞ! おとなしく首を差し出すがいい!」
すぐには返事がなかった。シンと静まり返ったその場に、船が波に揺れるきしみだけが不気味に響く。濡れそぼって火勢のあがらぬ松明が、ジジッ、と唸った。
本物の幽霊船ではないのか、と兵士達が不安を感じる頃になって、ようやく応えが届いた。霧の中でさえよく通る、人を惹きつける力に満ちた声が。
「我らの策を見抜いたことは褒めてやろう! だが港を封鎖され、城門には騎兵が迫っている現況で、首を差し出すべきはどちらかな?」
久しぶりに耳にするエンリルの声に、思わず顔をほころばせた兵士は一人二人ではなかった。反逆者とされはしたものの、その声はやはり、王宮に明るい空気をもたらしていた人物のものと変わりなかったのだ。
誰もが不気味な船団とその指揮官の声に注意を傾けていた。霧の中をこそこそと動き回る人影に気付く者はいない。
ラームティンも例に漏れず下方の声にじっと耳を澄ませていた。すぐ後ろで「彼だ」と低くささやく声がしてハッと振り向いた時には、それが誰かと確かめる間もないまま、深い海青色の瞳が彼の視線を捉えていた。
意識の中に何か冷たいものが流れ込む。だがそれは不快なものではなかった。銀色の魚が暗い川をなめらかに泳いで行くイメージが浮かぶ。ねじ曲げられていた流れがまっすぐになり、水をせき止めていたしがらみがバラバラに崩れて消えていく。
ほんの一瞬のことだったのか。がくんと膝の力が抜け、慌てて体勢を立て直した時、周囲には何の変化もなかった。怪しい人影もない。
(何だったのだ……?)
霧の精霊にいたずらでもされたか。
はて、と首を傾げた彼は階段の下に目を戻し……もう一度、首を傾げた。
なぜ自分はエンリル様を反逆者と決めつけているのだろう? そんな筈がないのに。あれほど仲の良い親子が他にあろうか? なぜナキサーや顧問官の言うなりに従っているのだろう? 騎兵団長であるナキサーはともかく、顧問官など毛嫌いしていた筈なのに。
考えても、答えは出てこなかった。
階段の下では儀礼的な罵り合いが続いている。はてな、とラームティンは頭を掻いた。いつ頃からなのか、どうも記憶が曖昧になっているようだ。
(ともかく……様子を見るか)
まだ和解の余地はあるだろう。ナキサーや顧問官が横車を押そうとしたら、止めることにしよう。そう考えて、彼は配下の兵にむやみと攻撃を仕掛けぬよう命じた。
その頃には、同じ変化がクティルの身にも起きていた。
なんとなく背後のいやな気配を感じ取り、ナキサーは早いうちに罵詈雑言の応酬にけりをつけようと声を荒らげた。
「城門の兵が幻であることは分かっておる! 虚勢を張るのはやめて……」
まさにその時だった。
一段と激しい轟音が響き、空気と大地がビリビリ震えた。同時に、あれほど濃く立ち込めていた霧がザアッと風に吹き散らされて消えて行く。
「はたして幻かな?」勝ち誇った笑い声が響く。「我が方の魔術師はまさしく一騎当千、ガラ空きの王宮を腕の一振りで打ち壊し、その瓦礫をそなたらの頭上に降らせることもできるのだぞ!」
カゼスが聞いたら真っ赤になってじたばたするところだ。だが、当のカゼスは幸か不幸か城門前に戻って割り振られた役目を果たしていた。
すなわち、大音響を立てて城門を破壊し、残っていた兵の士気を完全に殺ぐと同時に、幻影の軍団を門の中に招じ入れたのだ。
しかもその軍団は、完全な幻ではなかった。わずか数騎ではあるが、街道の封鎖を突破した本物の騎兵が、幻の元を作るためにまじっているのだ。ウィダルナはじめ、選りすぐりの精鋭たちが。
威圧と退路の遮断が目的なので、カゼスは魔術で見えない壁をつくり上げ、自分たちを防御すると同時に、市街地方面への逃走を阻んでいた。
実際のところ、百にも近い騎兵を背後に従えた魔術師が青い髪を月光に晒し、ハッタリをきかせた自信満々の笑みを浮かべて立っているだけで、充分にその効果はあった。当人が内心、恥ずかしさのあまりのたうちまわっているとしても。
そんなわけで王宮の騒ぎは崖下の港まで届くほどとなった。ナキサーはエンリルの言葉が嘘ではないと認めざるを得なくなり、悔しさにギリッと歯噛みする。
そこへ畳みかけるようにエンリルが言った。
「ナキサーよ、そなたもかつてはティリスを大いに助けた武人であった。その功に免じ、死に際ぐらい名誉あるものにしてやろう。一対一の勝負を受けるがいい!」
「―――!」
これにはさすがにナキサーも驚いて息を呑んだ。
「ナキサー卿。ここは譲歩した方が良いのでは?」
上から降りてきたラームティンがささやいた。何を馬鹿な、とナキサーは振り返り……相手が既に己の味方ではないと悟って愕然とした。ラームティンとクティルは共に戦意の喪失した顔で、そこに立っていた。その目が、降伏とまではゆかずとも和平の交渉をすべきだ、と訴えている。
ここまで来て裏切りに遭うとは! ナキサーは怒りのあまり蒼白になり、くるっと船団に向き直るや怒鳴り返した。
「受けて立とうではないか、小童が!」
「ナキサー殿!」
たしなめるように二人が何か言いかけたが、ナキサーはそれを睨みつけて黙らせた。
「貴公らは良かろう、だがあの小伜が儂を許すと思うのか? 奴がいなければすべてが収まるべきところに収まるのだ! でなければ儂の未来はない!」
よしんば命が助かったとしても、屈辱に満ちた苛酷な暮らしが待っているだけだ。
「まんざら頭がないでもなかったわけだな、ナキサー」
皮肉な声がして、ナキサーは再び船団の方を振り向いた。エンリルが、護衛とおぼしきマント姿の者を三人連れて下船してくるところだった。マントとフードで顔はよく見えないが、恐らくはアーロンとカワード、それにヴァラシュか誰かだろう。ナキサーはそう踏んで、手出しは無用ぞ、と彼らに念を押した。三人は無言でうなずく。
「ここでは戦いにくい。中庭へ」エンリルが言った。
「よかろう」
唸りを返し、ナキサーは先に立って階段を上り出す。
(顧問官は何をしているのだ?)
ふとその疑念が胸をよぎった。周囲に視線を走らせたが、どこにも姿が見えない。ラウシールとやらの魔術に対抗するべく、既に上に行ったのだろうか。
いずれにせよ、あの女狐を当てにすることはできないのだ。彼は霧を吸ってじっとりと濡れた剣の柄をぎゅっと握りしめ、心の中で戦の神に勝利を祈った。
中庭は膠着状態になっていた。誰もがラウシールを恐れて身動きが取れず、頼みの顧問官は戻ってくるや否や、ラウシールを一瞥しただけでどこかに雲隠れしてしまったのだ。これにはカゼスも驚いたが、マティスの後を追って持ち場を離れるわけにもいかない。
ヴァラシュの計画では、ダスターンとウィダルナ配下の兵幾人かが、彼女を取り押さえるはずだった。エンリルとナキサーの一騎討ちともなれば、マティスは必ずや何らかの細工をせんとしてその場に現れるであろうから。
だがそうはならなかった。カゼスはリトルにも後を追わせていたが、マティスは十中八九、転移魔術で行方をくらますだろう。彼女を捕らえるのはナキサーを倒してからになりそうだが、果たして見付けられるものだろうか。
カゼスが不安に眉を寄せたその時、中庭にナキサーとエンリルが現れた。
周囲に松明が並べられ、庭の中央を明るく照らし出す。ナキサーは動きにくいマントを外し、剣を抜いて進み出た。エンリルは……黙って、後ろへ下がった。
「何の真似だ」
目をすがめたナキサーの前に進み出たのは、マント姿の一人。
「そなたと戦うのは、私だ」
落ち着いた声がそう言い、バサリとフードを外した。
「あっ……!」
叫びが上がった。誰もが驚きに息を呑み、目を見開く。
そこに立っていたのは、誰あろう、国王オローセスその人だったのだ。
「へ、陛下……」
愕然としているナキサーの前でオローセスはマントを脱ぎ、エンリルに手渡す。
病床にあるどころか、往年の活力をすっかり取り戻しているではないか。
「余はここに宣言する! わが息子エンリルは断じて反逆者ではない、今までも、そしてこれからも!」
驚きが沈黙を生み、続いてすぐに、歓喜が王宮を揺るがした。わあっ、と兵士の大半が歓声を上げる。目端の利く者は早々に持ち場を離れ、明らかに有利な王太子側に紛れ込もうと動き出す。
興奮が収まるのを少し待ち、オローセスはナキサーに向き直った。
「……これでもまだ、我らに刃を向けるか?」
ナキサーはしばらく答えられなかった。あまりのことに足元から世界が崩れていく気さえして、立っているのがやっとで。
衝撃が去ると、次いで暗い絶望が津波のように襲いかかった。
「なるほど、すべてお見通しだったということか」
追い詰められた手負いの獣が牙をむくように、ナキサーは剣を構えた。戦いは避けられない。もはや、自分がオローセスの命を狙っていたことは知られてしまったのだ。王位纂奪をもくろむ者だと明るみに出てしまった。
ならば、取るべき道はひとつ。
「ここで貴様を倒し、エンリルを殺し、私が王となる!」
「なぜだ?」
オローセスが問うた。その面に苦しそうな色が浮かぶ。
「そなたは長年私に仕えてくれた。かつてデニスがひとつの帝国であり、私もティリスの領主にすぎなかったあの頃から……そなたはこのティリスの為によく働いてくれた。痩せた土地が多くとも、この地をこよなく愛しておったのではないのか?」
ナキサーは答えなかった。口を開くと決意が揺らぎそうで、ただ沈黙の内に首を振る。
一時、己とオローセス二人の時間が巻き戻され、かつて共に肩を並べて戦った日々の記憶がどっとよみがえった。
オローセスが今のアルハン領レムノスにあった帝国の都へ出ている間は、自分がティリスの土地を守っていた。州の首長に成り代わらんとする他の領主たちを牽制し、また協力し合って、貧しいティリスを少しでも豊かにしようとしてきた。
そこに現れた、海の民――オローセスが不在の間に、ティリスは彼らに蹂躙された。逃げ惑う人々を避難させようと必死になっていた時の焦燥。同様に襲撃されて崩れ落ちた都から、命からがら逃げ出して来たオローセスと再会した時の、至上の歓喜。
すべてが一度によみがえり、胸がつかえ涙がこぼれた。
「……そうだ。私はティリスを愛していた」
かすれ声でナキサーはつぶやく。
海の民を退け、統治機能を失った帝国を見限ってティリスはひとつの国となった。それは決して平坦な道ではなく、茨に阻まれた苦難の道程だった。二人は互いに命を預けて戦い、混乱を極めるティリスに平和と秩序をもたらすことを夢見て、続く苦境に耐え、そして努力を続けた。
その結果――ティリスは彼らが目指した平和を取り戻したのだ。同時にオローセスはただの領主ではなく、国王となった。それは、ナキサー自身にとっても、頂点が近くに降りてきたことを意味していた。
あと一段。
その段を上れば、そこは頂点なのだ。王という冠を戴くことができる。遠い都から自分たちを支配していた皇帝は、もういない。海の民の脅威も去った。
……ならば、なぜ手を取り合って仲良しごっこをしている必要がある?
「今でも、ティリスの地を愛しているとも。統治者となるに相応しい程度にな」
そう言い切り、ナキサーは剣を構え直した。
「王者とならねばおさまらぬか、ナキサーよ」
「貴様が悪いのだ! 貴様が顧問官をのさばらせ、呪われた子供を甘やかし、国を乱れさせた。儂に機会を与えた貴様が悪いのだ!」
それ以上は聞かぬとばかり、ナキサーは半ば狂ったように喚いた。その言葉の不吉な内容に、エンリルがぎくりと身を竦ませる。
だが、どういう意味かと問うには、既にナキサーは心の平衡を失い過ぎていた。
「うおおぉぉぉ!」
雄叫びと共に剣を振りかぶり、力任せにオローセスめがけて斬りかかる。
オローセスはすっと身を横に滑らせてそれを避け、鋭い突きを繰り出した。が、ナキサーの剣が一瞬早くそれを弾き返す。
誰も、何も言わなかった。
ただ剣の噛み合う激しい音だけが響く。時が凍ったように周囲の人間は身じろぎすらせず、戦いの行方を見守っていた。
じきに勝敗は明らかになった。捨て鉢な攻撃を繰り返すナキサーは瞬く間に消耗し、汗だくになって息を切らせ始めた。対するオローセスは、まだほとんど息も上がっていない。勝負は見えていた。
だがオローセスは、明らさまな好機を何度も見逃した。ナキサーが消耗するに任せ、もう一度説得しようと考えているかのように。その機会はほどなく訪れた。ナキサーが、何に足を取られたのか、がくりと片膝をついたのだ。
「ナキサー……」
ためらいながらオローセスが歩み寄る。刹那、ナキサーが吠えた。
「――!」
膝をついたのは演技だったのだ。杖代わりにしていると見えた剣が、唸りを上げた。
間一髪、オローセスの剣が刃を弾く。そして、そのまま手首を返して、
――ゾブッ、と、くぐもった音がした。
思わずカゼスは目を背け、片手で顔を覆った。彼は見ていなかったが、ナキサーの喉に食い込んだオローセスの剣は見事に頸動脈を切断していた。たとえ魔術師がいても助けられない、必殺の一撃。
見開いたままのナキサーの目が、見る間に光を失っていく。そこにオローセスの姿を映したまま。やがてズルッとその体が崩れ、ドサリ、地面に倒れた。
何を思ってか、オローセスは寂しい顔でじっとその白髪頭を見下ろしていた。
長い、深い沈黙。それからようやっと、オローセスは血に濡れた剣を高々と掲げた。
「反逆者ナキサーは討ち取ったり! すべての兵は武器を収め、余に誓いし忠誠を思い出すのだ!」
朗々たる声が王宮に響く。続いて、今度こそ天をも揺るがすほどの大歓声が上がった。
ラームティンとクティルが進み出て、剣をオローセスの前に横たえ、跪く。改めて忠誠を誓う二人の領主に、オローセスは寛容な笑みを見せた。
これでティリスの内乱も決着がついた……
誰もがそう思い、ホッと息をついた時だった。
「うわっ!」
「何だ、まぶし……ッ!」
中庭の上空に、突然、虚空のひだを割って赤い光が輝いた。神の怒りを思わせる、激しい雷鳴と共に。
「愚かな獣たちよ、この地上をおまえたちの好きにはさせぬぞ!」
怒りに満ちた厳しい声が響き渡る。一度も直に会ったことはなくとも、カゼスにはそれがマティスの声だとはっきり分かった。傲岸で権威主義的な、頑なに冷たい声。
〈リトル? リトル! 発信元はどこかわからないのか?〉
〈だめです、途中でマティスは転移魔術で移動したんです! 私には移動先が特定できません。しかもこのホロを投影している電波まで、探査妨害がかけられて……まさか、私の存在を察知されたのでは〉
珍しくリトルが焦って答える。カゼスたちは知る由もなかったが、マティスはカイロンかエリアンが裏切ったものと思い込み、彼らの機器を無効にせんとしてそんな対策をとっていたのだ。
さすがにシザエル人より一世紀後のリトルヘッドだけあって、機能障害までは起こさなかったが、リトルの精巧なセンサーでもってしても、マティスがどこからこの光を投影しているのかを探り当てることはできなかった。
場所が分からなければ、カゼスも『跳躍』してマティスの首根っこを押さえることは不可能だ。
「獣には獣にふさわしいふるまいを教えてやる!」
咆哮のような声が告げると同時に、赤い光は一際明るく輝きを増した。
「――――!」
咄嗟にカゼスは目を瞑り、腕で光を遮ってうつむく。
(やばい、催眠暗示だ!)
瞼越しに、光が複雑なリズムで明滅するのが感じられる。カゼスは慌てて意識に壁を作り、その光を追い出した。
束の間、世界から一切の物音が消失した。
王宮の一隅に避難した文官や女官たちは騒動に巻き込まれずにすんでいたが、その光景を見たら、何事かと驚き恐怖したであろう。
実際、ただ一人安全な避難場所から出てきて、突然静かになった中庭を通廊から見下ろした文官は、あまりのことにぎょっと後ずさっていた。
中庭に詰めかけているティリスの全軍が、ぽかんと口を半開きにして、虚ろな目を上に向けているのだ。異様な光景だった。
「な……何があったんだ?」
震え声で彼、シャフラー元総督が言い、さらに一歩後ずさったと同時に――止まっていた時が動き出した。
ギィン!
「うわっ!」
カゼスは顔をあげ、次の瞬間また頭を沈めた。間一髪、目の前で、振り下ろされた剣をリトルが受け止めてくれたのだ。
甲高いガラス音と共に、こぼれた鉄の刃が飛び散る。
〈間一髪でしたね。とにかくこの場は逃げることをおすすめします!〉
いつもなら玉の肌に傷がついたとかなんとかひとくさり文句を言うところだが、さすがに状況が状況だけあって最低限の内容で言葉を切る。
カゼスは周囲を見回して、息を飲んだ。
誰も彼もが我を忘れ、とにかく手当たり次第に殺し合っていた。正気なのはカゼスとエンリルぐらいのもので、あとは全員、周囲の者すべてが敵であると思い込んでか、武器を振り回している。
「リトル、陛下を頼むよ!」
声に出して言い、カゼスはエンリルの方へと走って行く。どこか上空から自棄のような高笑いが聞こえていたが、仰向いて確かめる余裕はなかった。
「エンリル様!」
カゼスが呼んだ時、ちょうどエンリルは一人の兵士を剣の柄で殴って昏倒させたところだった。
「そなたは正気か? これはどうしたことだ!」
「顧問官の催眠暗示です! うわっ!」
突き出された槍の穂先を辛うじて避け、自分を殺そうとしたのがクシュナウーズだと気付いてぞっとする。
(これだけ多くの人間の暗示を解くなんて、一度には到底無理だ)
どうしたらいい?
焦って思考がまとまらない。無意味におろおろと周りを見回し、それから思い切ってカゼスは短い呪文を唱えた。
途端に、すべての人間がピタリと動きを止めた。
「ふう……、と、とにかくこれで一息……」
とりあえずカゼスはホッと息をつく。が、その安堵も長くは続かなかった。
「随分ぶざまだこと」
せせら笑うマティスの声がした。夜空を振り仰ぐと、彼女の立体映像が宙に浮いている。相手がこれでは手も足も出ない。
「あなたが……マティス、ですね。シザエル人の」
唸るようにカゼスが言う。マティスはすっと目を細め、束の間、探るような表情をしたが、じきに得心がいったらしく、嘲笑を浮かべて鼻を鳴らした。
「カイロンかエリアンが送り込んだ邪魔者ではと思ったけど……どうやら違ったようね。まさかこんな無能な『狩人』がいるとは驚いたわ。それとも、私たちが誰も『狩り』のことを知らないと思っていたの? 残念だったわね、私は少し遅れて出発したから、おまえ達が力にものを言わせて何をしたか、知っているのよ」
「私はシャナ公安部とも『狩り』とも何の関係もない、テラの治安局員です。あなた達を狩り出すために、ここに来たわけじゃありません」
嫌々ながらカゼスはそう答えた。マティスは眉を片方吊り上げて疑惑の表情を見せた。が、それはカゼスの期待した方へとは変化せず、元の酷薄な笑みに戻ってしまった。
「どちらにせよ、私の邪魔をするならここで原始人たちと一緒に死んで貰うまでよ」
「こんな事をして何になるんです!」
思わずカゼスは怒鳴り返した。映像に向かって怒鳴る自分が無力で滑稽にしか見えないとは承知の上で。
「人を殺すことを何とも思わないんですか、あなたは! あなたの信仰がどんなものか知らない。でもこんなに大勢の人間を殺すことに、正当な理由なんてある筈がない!」
「人間?」
聞き返すようにそう言ったマティスの表情は、もはや正気とは思えなかった。カゼスはぞっとして、我知らず後ずさる。
「人間というのはね、神に対する敬虔な心を知り、まっとうな知能や社会性をもつ生き物を指すのよ。こんな下らない社会に満足して、富を貪り安逸を求めるばかりの愚鈍な動物は、人間とはとても呼べないわ! 動物を人間にしてやろうって言うのよ、感謝してほしいぐらいだわね」
「なん……、本気ですか」
愕然として、カゼスは言葉を詰まらせる。その表情の何が可笑しいのか、マティスはくすくすと笑いをこぼした。
「最初からこうしていれば良かった……下手に情けをかけたりするから、手間取ってしまったわ。動物は動物らしく、混沌と無秩序に返るがいい。比較的マシな動物たちに支配されれば、少しは導きやすくなるというもの」
「マシな動物……?」
それがエラードのことを指すとは知らぬカゼスは、不審げに眉を寄せる。だがマティスは聞いていなかった。
「さて、おまえの幼稚な魔術を解いて、獣たちを自由にしてやるとしようか」
ちょうどその少し前、兵士が出払い文官や召使たちは避難して人気のなくなった王宮内に、一人の部外者が姿を現していた。
銀髪のその男は、中庭の騒動をちらと眺めてため息をつく。
と、その目が時を止められたままの一人の文官にとまった。中庭に面した通廊の手摺りから身を乗り出し、映像のマティスに向かって不器用な手つきで矢を射ようとしている、小柄で小太りの男――すなわち、シャフラーに。
「……ふむ」
小さくつぶやくと、銀髪の男はシャフラーに近付き、軽くその肩に触れた。
「この程度の術なら私にも何とかできるな。ラウシールが穏やかな性格で助かった」
小さく笑みを浮かべ、彼は一言二言、唱える。と、自由になったシャフラーは体のバランスを崩して、どたりと尻餅をついた。何が起こったのかときょろきょろし、銀髪の男に気付いてあわあわと後ずさる。
「な、何者だ……っ! 顧問官の仲間か」
怯えながらも弓を手探りし、構えなおす。銀髪の男は平静に応じた。
「私はカイロン。あの女の仲間かと問われたら、かつての返事は是だった。だが今はそう答える気はない」
「…………?」
「彼女に個人的な恨みでもあるようだが、手助けは必要ないかね」
穏やかに申し出られて、シャフラーは目を丸くした。
「なぜ、そんな事を……」
「詳しい話はできない。だが、本気であの女を葬ろうとしているのならば、その望みが叶えられるよう手伝おう」
突然そんなことを言われても信用できるはずがない。シャフラーは戸惑いと疑念のまじったまなざしでカイロンを見つめた。
「私のこの容貌では、信じろと言う方が無理な話だとは思う。だが、今現在この国が最悪の事態に陥ろうとしているのは確かだし、私はあの女とは違う。どうだろう」
微苦笑してそう言ったカイロンに、シャフラーは意を決してうなずいた。
「そこまでおっしゃるのなら信用しましょう」
「ならば、ついて来られよ。あの女がいるのは空の上ではない」
「えっ? あ、あの……」
言うなりさっさと歩きだしたカイロンに、シャフラーは目を白黒させながらも慌ててついて行く。
少し歩いて裏庭に出ると、カイロンは足を止めた。
「この真下に秘密の部屋がある。そこに送り込んで差し上げよう。あとは迷わぬことだ」
端的に言い、彼は短剣をシャフラーに渡した。
シャフラーはためらうようにその柄を凝視していたが、じきにごくりと唾を飲んでそれを受け取る。カイロンは相手がしっかりと柄を握ると、小さくうなずいた。
「では、行こうか」
「やめて下さい! 本気で皆殺しにするつもりですか!? あなたはそんな事がしたくてここに来たんじゃないでしょう!」
必死になってカゼスは叫んだ。一瞬、マティスの表情が翳る。
「……そう、こんな筈じゃなかったわ」
つぶやいた言葉は、カゼスには聞き取れなかった。が、相手が少し人間らしい顔を見せたので、カゼスはここぞとばかりに力を込めて続ける。
「私は狩人じゃない。だから……だから、出来るならあなたを傷つけたくはないんです」
傷つける、という言葉が、単に文字通りの意味ではないことはマティスも分かっていた。こんな状況になっていれば、カゼスの選択肢は二つしかない。殺すか、殺されるか。だが、彼はそのどちらも選びたくはない、と言ったのだ。
短い沈黙の後、マティスは自嘲のような諦めのような笑いをもらした。
「何をいまさら、甘いことを」
そして、もはやこれ以上のやりとりは無意味と決めたか、カゼスの術を解く呪文を唱え始めた。
……が、その言葉が途切れた。
彼女に何が起こったのか分からず、カゼスは眉を寄せて宙を見上げる。
マティスは愕然とした顔になり、そこに映っていない何かを振り返った。その唇が紡ぐ言葉を読み取る前に、映像は乱れて消えた。
同時に、何者かが解呪の術を行うのが分かった。
「どうなってるんだ!?」
言ってどうなるものでもないが、カゼスは声に出して叫んだ。だがとにかく、このままではまた元の混乱が始まるだけだ。慌てて解呪を中断させようとしたが、その瞬間、石像と化していた人間たちに時間が戻った。
息を飲む間もなく、次の変化が現れる。催眠効果を打ち消す特殊な音が響き、人々が我に返るのを見計らったようなタイミングで、カゼスのすぐ近くに光の柱が生じたのだ。
光が消えた時、そこにはマティスが立っていた。
脇腹を押さえた手の下に、深紅の花のような染みが広がっている。
何がどうなっているのか分からず、誰もが呆然と彼女を見ていた。が、苦しげに顔を歪めて彼女がくずおれると、カゼスがハッと我に返って駆け寄った。
「来るなッ!」
嗄れた声でマティスが怒鳴り、その一歩手前でカゼスはたたらを踏んだ。
エンリルがゆっくりカゼスのそばに来て、不可解な顔でマティスを見下ろす。
「そなたがやったのか?」
問うたエンリルに、カゼスは無言で首を振った。地面にうずくまったまま、マティスはくっくっと低く笑い出す。
「まさか……あの男が……くく、くくく」
かすれ声でささやき、彼女は額を地につけた。血が失われると同時に命も流れ出ていくのがぼんやりと分かる。
ふと肩に人の手が触れ、マティスは顔を上げた。
霞んだ視界に、泣き出しそうな顔が映る。治癒呪文を唱える声は聞こえなかったが、脇腹の傷に『力』が集まるのが感じられた。
「やめておけ」
マティスはにやりと口元を歪めた。薄れかけた意識の中で、呪文を組み立てながら。
「そんなことを……している間に……そら」
もうほとんど声になってはいなかったが、彼女はゆっくり呪文を解放していく。
遠雷のような地鳴りが響き始め、足元が揺れる。兵士たちは不安にまとまりを失って、てんでんばらばらな行動を始めた。知らぬ間に傷を負っていた者も、いつの間にか剣を抜いていた者も、得体の知れぬ恐怖に取りつかれて外へ逃げようとする。
人を押しのけようとして袋叩きにされる者、つまずいて前の者を押し倒し、後ろの者に踏みつけられる者。混乱がさらなる混乱を招き、群衆を破滅へと追い立てる。
どうせ死ぬのなら。そんな気分でマティスは半ば無意識に呪文を唱え続ける。
「……どうして」
震える声がささやき、手に熱いものが落ちた。マティスは自分の手を取った者を、目だけで見上げる。
「どうしてこんな事に……どうして」
カゼスは地鳴りも揺れも感じないかのように、マティスの手をぎゅっと握って額に当て、泣いていた。
(どうして……? そう、どうしてこんな事になってしまったのかしら)
ぼんやりとマティスは思った。呪文を唱えていた唇が、動きを止める。
いつから、憎むことしか出来なくなったのだろう。どこで選択を誤ったのだろう。
……どうして、私はこんな風になってしまったのだろう……?
ふとマティスはカゼスを見上げた。彼女の顔は既に表情を作る力を失っていたが、目だけはまだ生きており――そこには、うっすらと涙が浮かんでいた。
地鳴りは徐々に小さくなり、揺れがおさまっていく。
やがて恐慌を起こしていた人々が落ち着いた時には、もう何の物音もせず、静寂が辺りを支配していた。
地面に血の染みを広げたまま、ゆっくり冷たくなっていくマティスの傍らに膝をつき、カゼスはじっと動かなかった。
「……カゼス、その女は殺されて当然のことをしたのだ」
そっと、気遣うようにエンリルが声をかけた。言葉の内容に相応しい冷徹さも厳格さも、まるで感じられない声を。
「分かっています」
涙声のままカゼスは答える。リトルがふわりと飛んできて、彼の足元に軽くぶつかってから落ちた。
〈あなたも殺されるところだったんですよ。あなたが無条件に同情するのは自由ですが、私としてはあなたが死ぬよりは良かったと思いますね。どちらにせよ十一条違反でミネルバに帰ったとしても極刑は免れませんし〉
「分かってる!」
強く言い返し、カゼスは唇を噛む。
かける言葉を失って立ち尽くすエンリルの耳に、小さな声が切れ切れに届いた。
「分かってる……この人が多くの人を傷つけたことも、殺したことも……でも……どうして、どうしてこうなる前に……」
――救いはなかったのか。
人の手でも、神の手でも。こんな事になる前に、どうして誰も……何も、止められなかったのか。
「起こってからじゃ、遅すぎるんだ……っ!」
押し殺した声は、しかし叫びにも似ていた。




