七章 王都奪還 (1)
「カッシュ奪還の軍勢が逃げ戻ってきた?」
王宮の会議室でラームティンは険しい顔になった。その場にいた他の面々も嫌な予感にしかめっ面をする。
「怖じ気付いたか」
言葉と共に苦虫を噛み潰し、ラームティンは伝令に問う。
「シャーヒーンは戻っておるのか」
「は、すぐに報告に参るとお伝えするよう、命じられました」
伝令がそう答えると間もなく、靴音が廊下の向こうから足早に近づいてきた。バサリとカーテンをはねのけて金髪のまだ若い武将が現れ、膝を折って礼をする。
「シャーヒーン、戻りました。お怒りとは存じますが、まずは報告をお聞き下さい」
高地系の顔立ちをした青年は、ほとんど仏頂面とも言える冷静な表情で述べた。ラームティンが先を促すと、シャーヒーンは背を伸ばし、顔を上げた。
「カッシュまであと半日というところで、斥候が大軍を見たと報告しました。さらに接近し、再び斥候を放ったところ、間違いなく陸海ともに王太子軍に制圧されております。私のわずかな手勢では到底戦にならぬほどの規模でした」
一同がどよめいた。マティスも当然その場におり、相手の素早い行動に舌打ちしていた。カッシュが敵の手に落ちたままとなると、戦力が圧倒的に不足する。
ティリスは全体的に乾燥した気候だが、高地の南を抜けた風が届くアラコシア、アレイアの二州は比較的豊かだ。高地の真東にあたるキスラとカルマナ、すなわちクティルとラームティンの所領は、半砂漠の地域や地味の貧相な土地が大半で、人口もさほど多くない。つまり、それだけ兵力も少ないということなのだ。
今現在この場にいる貴族達の領地をすべて合わせると、王太子側の勢力範囲よりも面積は広くなる。だが広いだけで、軍事力も経済力も向こうの方が勝っているのだ。せめてカッシュが取り返せたなら、少しはこのバランスが傾いたのだが。
「それでそなたは尻尾を巻いて逃げ戻ったというわけか」
ラームティンが忌々しげに問う。シャーヒーンは表情を崩さないまま、「籖で負けましたので」と短く答える。不可解な顔になったラームティンに、彼は淡々と説明した。
「カッシュに潜入させた斥候の報告では、すぐに動く気配はないとのことでした。が、念のため街道にバームシャードが大半の兵を率いて残り、警戒に当たっております。指揮をとれる者が私と彼の二人しかおりませんでしたので、籖で役割を決めたのです。私とておめおめ舞い戻るのは不本意でございましたが、致し方ありませぬ」
理路整然と答えられ、ラームティンは「うむ」と唸ったきり、黙り込んだ。
「報告は以上です。差し支えなければ、次の指示をいただくまでの間に兵を休ませてやりたいのですが」
「分かった。下がって良い」
ラームティンはやれやれといった風情でシャーヒーンを退出させた。クティルがそれを見送り、隣で憂鬱な顔をしているラームティンにささやく。
「あれが卿の『隼』か。懐かぬところもその名の通り、というわけだ」
「本物の隼とて、十年から手元におけば少しは可愛げも出てこようものを」
ラームティンは、何がいけないのか分からない、といった風情でげんなりと答える。
十五年ほど前、まだ海の民がデニスを蹂躙しており、巻き返しのためにも人材が求められていた時期に、ラームティンはシャーヒーンを見付けたのだ。娼婦たちの街で誰が母親ともなく育てられていた少年だったが、似たような境遇の子供たちをまとめる様子を見て才能があると気付き、ラームティンが養子として引き取った。
以来、数少ないカルマナの武将の一人として重要な役割を果たしている。が、彼の態度は何年経っても、人に懐こうとしない野良猫か何かのようなままだった。
「ともあれ……カッシュが制圧されたということは、王都まで彼らが攻めのぼるのは近日中のこととなるであろう。こちらも軍勢を繰り出してそれを阻止せねば」
地図を広げ、戦力の分配を考える。
(何か、忘れているような……)
ラームティンとクティルの脳裏を、そんな思いがちらとよぎった。その言葉の後ろにつながっている細い記憶の糸を手繰るには、今はあまりにも切迫した状況だった。が、彼らが思い出すまでもなく、それは向こうから飛び込んできた。
「マティス様!」
息を切らせて、入室の許可も待たずに伝令が飛び込んできた。
「何事だ、騒々しい!」
マティスがぴしりと叱りつけると、伝令は慌ててなんとか礼の姿勢をとったものの、目は興奮と動揺とで、室内の面々の上を跳び回っている。
「そ、それが、バームシャード殿の伝令が、知らせを……国王陛下の密使が一名、反乱軍から脱走してきたと……それによれば、陛下は我々の庇護を求めておいでだとか」
「何と!」
異口同音の叫びが上がった。ラームティンとクティルも、唖然としたまま互いに顔を見合わせる。そうだ、国王陛下のことを忘れていたのではなかったか? 王太子にばかり気をとられて、肝心の陛下の身がどうなったのかさえ……
「それは確かか?」
マティスの凍りつきそうな声が、室内に響く。その瞬間、二人の意識にぱちんと何かが弾け、彼らはいったい自分たちが何に驚いていたのかを忘れてしまった。
「はい、王太……いや、反乱軍の追撃を振り切って、バームシャード殿の陣に駆け込んで来たそうです。現在、その密使は城門の外で待たせてありますが」
「分かった、連れて来い。だがくれぐれも慎重にせよと伝えるが良い。それがエンリルと配下の魔物めが弄した策であるやも知れぬゆえ」
眉間に険しい皺を刻んだまま、マティスはそう言った。
伝令が退出し、会議が一旦終了すると、彼女は苛立ちを足音に出さぬよう気を付けるのも忘れ、荒々しく廊下を自室へ突き進んで行った。
(くそ、なぜ今頃になって! 庇護を求めている? そんな馬鹿なことがあるものか)
何をもくろんでいるのだ。それとも、それが本当なのだとしたら……
(デニス人という奴らは何を考えているんだ!)
思考が読めない。デニスに来たばかりの時もかなり戸惑うことが多かったが、八年間ここで暮らしてきて少しは連中の考え方も理解できるようになったつもりだ。が、しかし。
(所詮未開地の愚民、我々とは次元が違うということか)
はあっ、と、大きなため息。エリアンによれば、ザールの教えも国教化するには、かなり変則的なものにしなければならなかったらしい。そもそも、こんな原始的な連中に崇高な教理を理解させること自体が無理なのだ。有無を言わさず従わせるか、奴隷の地位に落としてしまえばもっと効率的なのに。
出来ない話ではない筈だった。マティスとカイロン、エリアン、キースの四人ものシザエル人が偶然このデニスに流れ着いたのも、神の導きだったのだろう。四人で協力すれば、すべてのデニス人を自分たちの教理に基づいた階層構造に従わせることも出来た筈だ。もちろん、頂点に立って無知蒙昧な有象無象を導いてやるのが、自分たちの勤めだ。
そんな理想の王国が実現するかも知れなかったのに――
(奴らが私に従わないから)
眉間の皺が深くなる。他の同胞が自分の思い通りに動いてくれないのが、前から不満だった。それが今回、こんな形で自分にツケが回ってきたのだ。それみた事か、と思う反面、なぜ私のところがこんな面倒な事態に陥られなければならないのだ、と理不尽に思う。
やり場のないどす黒い怒りが、胸の内に渦巻いていた。
それもこれも奴らのせいだ、と。
部屋のカーテンをくぐった瞬間、マティスはぎくっとして立ち竦んだ。
誰だと直感したわけでもなく、そこに人がいたことにおののく。だが瞬きひとつの間に彼女は平静を取り戻していた。
「ナキサー卿、なぜここに? ここは私の部屋。いかに騎兵団長と言えど、断りなく女人の部屋に入るなど、あってはならぬ事ではないか」
そう、だからこそ彼女は安心してこの部屋に、頻繁に使う魔術道具や機器類を置いているのだ。催眠キューブ、それに簡易注射器なども。
だが、デニス人の目には、それら得体の知れない物は手出しすべきでないと映ったらしい。ナキサーは何一つとして室内の物には手を触れていなかった。
シザエル人と紛らわしいほど髪の白くなりつつある騎兵団長は、陰鬱な顔を向ける。
「私とおぬしとが密談するというのも、あってはならぬ事ではないか? とりわけ、陛下が我が方に戻る事を切望されていると聞いて、大義は我らにありと勇み立つべき時に、かように険しい顔を突き合わせては」
皮肉まじりに言い、彼はごくわずか肩を竦めた。年はもうそろそろ六十が近い。騎兵団長と言っても実戦からはほとんど退いて、人事や作戦指揮といった方面に力を注いでいる。大貴族の家に生まれ、華やかな経歴を持つ彼にとって、このままおとなしく引退して子や孫の世話になるというのは、我慢ならなかった。
あともう一歩で最高の地位に手が届くのだ。ここまでティリスの為に働いてきたのだから、それを望んで何が悪い?
「今、陛下に戻られては困る」
ささやき声でナキサーは言った。マティスは眉をひそめただけで、返事は控えておく。警戒している彼女を一瞥し、ナキサーは薄く嘲るような笑みを浮かべた。
「おぬしとて同じであろう? おぬしが狙っているものが玉座でないことは知っている。己が意のままになる統治者を求めているのであろうが」
いつの間に観察していたのか。正確にとはいかずとも、彼はマティスの計画を察知していた。マティスは不愉快な気配を眉間に漂わせる。ナキサーは彼女につと近付くと、一段と声をひそめた。
「私も陛下も、おぬしの傀儡にはならぬ。だが、私には妥協の余地がある……少なくとも、そう考えている。利害は一致するものと思うが?」
「どうかな」マティスは冷たく応じた。「陛下が本当にエンリルの手から逃れたいと望まれているのであれば、陛下を救うことによって私にも恩賞が下されるだろう。私にすればその程度の取引で充分だ」
「おぬしの望みは富だと言うのか? いまさら何を」
ナキサーが鼻を鳴らす。が、マティスは底冷えするほどの無表情になった。
「私が本気になれば、抗し得る者などおらぬ事、忘れるでないわ。オローセスだろうとそなただろうと変わりはない。玉座が欲しくば己が手で奪い取るのだな」
そう、マティスがどう出ようと、この男がオローセスを排除するのは間違いない。以前ならばともかく、王太子が追放されており、玉座を確実に我が物にできるという夢を見てしまった、今となっては。
この男に有利を与えてはならない。
「出て行って貰おうか」
深紅の瞳で相手を睨み据え、マティスは言い放った。ナキサーはぎりっと歯がみしたものの、睨み返しただけで何も言わずに部屋から出て行く。
(フン……俗物が)
見え透いた名誉欲と物欲の塊。理想も崇高な目標もない、身分の階段を上ることしか考えていない汚れきった人間。
なぜか無性に苛々して、部屋の中の何かを壁に投げ付けたい衝動をぐっと抑え込まなければならなかった。
(何をしているの? こんなところで)
唐突にそんな思いが湧き上がる。こんな、俗物だらけ、誰もザールの教えなど知らない、自分の言葉を理解してくれる人間もいない、こんな場所で。自分はいったい何をしているんだろう。
(帰りたい――)
もう一度、あの頃に戻れたら。
周囲の仲間たちは皆、使命感に燃え、理想の実現を論じ合って日が暮れるのも気付かなかった。世界には希望があり、ザールの教えを広める事こそが生涯の仕事だと信じていた。そして、そんな彼女を励ましてくれる者が大勢いた。
(これも試練なのよ。耐えなければ……かつての使徒たちと同じ労苦を味わっているのだから、むしろ喜ぶべきなのよ)
ぎゅっと目を瞑り、こめかみを押さえる。異教徒という以前にまったく文化土壌の違う人々に対する嫌悪感が、理性の説得に反抗するように、どこか深いところでふつふつとたぎっている。
誰もいなくなった室内で、マティスは一人、じっと凝ったようにうずくまっていた。そうしていればいつの間にか時が戻っており、顔を上げた時にすべてが夢になっている……そんな奇蹟をじっと待っているかのように。
「本当に、一人で大丈夫なのか?」
アーロンが眉間に不安を漂わせて念を押す。カゼスは苦笑したいやら、笑っては悪いやらで複雑な顔になった。
「大丈夫にするしかないでしょう。面の割れていない人はほとんどダスターンについて行きましたし、何人もぞろぞろ一緒に行動できるようなことでもありませんからね。少しの間のことですし、なんとかなりますよ」
安心させるように、単独行動を割り振られた当人はそんなことを言った。顧問官が魔術師である以上、リトルに頼れない場面も多いだろうから、実際はカゼスとて不安には違いなかったが、そうは言っても仕方がない。
まだ心配そうな顔のアーロンに、カゼスはわざと意地悪く訊いた。
「そんなに私は信用できませんか?」
「え、いや……」
もごもご言ったきり、沈黙。しばし続きを待ってみたが、それ以上の言葉はない。
「なんで黙るんですか、失敬なっ」
思わずカゼスは軽く殴りかかるふりをする。アーロンは例によって真面目くさった顔つきのまま、それを防ぐふりで応じた。
「全面的に信用していると言ったら嫌がるだろう?」
「だからって黙らなくてもいいじゃないですか、こーゆー時はお世辞でも『信用してる』って言っておけばいいんですっ」
カゼスがじたばたしていると、廊下の向こうから呆れ声が飛んで来た。
「おーい、じゃれてねえでとっとと来いよ。置いてくぞ」
誰かと振り返ってみるまでもない、特徴的な柄の悪さはクシュナウーズだ。アーロンは彼に向かって「すぐ行く」と応じ、もう一度カゼスの方を見た。
「分かった、ほどほどに信用しておこう。だが無理はするなよ」
そう言い残し、アーロンはクシュナウーズが待っている方へ走って行く。カゼスは目をしばたかせてそれを見送った後、自分も移動を始めた。
クシュナウーズはアーロンが来るのを待たず、港の方へと歩きだした。走って追いついたアーロンが小声でも充分聞こえる間合いに来ると、彼はぼそっと毒づいた。
「まったく、何をいちゃついてんだか」
途端にアーロンが赤面し、「誰が!」と言い返す。思わず大声になったので慌てて周囲を見回し、彼は声を低くして続けた。
「何でも彼でもそういう目で見るのは止して貰おうか! カゼスが女でない事は、おぬしも承知していよう」
「男でもねえぞ」
しれっと言い返し、クシュナウーズはアーロンの反応を見る。アーロンは奥歯を噛み締めて目をそらし、黙り込んでしまった。
自分でも、どう言えばいいのか分からなかったのだ。恋情ではない――少なくとも、今まで抱いたことのある感情のいずれでもない。簡単な言葉では片付けようのない、曖昧で捉えどころのない感情。
(せめてどちらかはっきりしていてくれたら)
アーロンは、これまでカゼスに接して戸惑いをおぼえてきた多くの人間と同じように、そんな思いを抱いていた。当たり障りなく通り過ぎるのがほとんどだった彼らよりも、ずっと強く、切実に。
男なら男なりの、女なら女なりの接し方があるのに。少なくとも、態度は決められる。そこに絡む感情がどのようなものであれ。
しかめっ面になったアーロンの横顔を一瞥し、クシュナウーズは相手の考えが読めるのか、やれやれといった風情でため息をついたのだった。半ば面白がっているような気配は隠しきれていなかったが。
一方カゼスは、生まれて初めて言葉にして「信用する」などと言われたので、妙にご機嫌になっていた。なんだか何でも出来そうな気さえしてしまい、用心しろと自分に言い聞かせなければ、歌でも口ずさみかねないほどだ。
人払いをさせておいた広い部屋に来ると、カゼスは一応周囲を確認し、よし、と小さくうなずいた。
ミネルバでは、転移魔術は呪文を記した円陣から円陣へと、ほとんど自動的に移動するようになっていた。もちろん利用出来るのは魔術師だけだ。一般人には、都市と都市とを結んでいる転移装置をご利用いただくしかない。
魔術師でも、転移魔術であれば行先に円陣を、跳躍魔術であれば目印を、それぞれ用意しておかなければ安全な移動は望めない。が、カゼスはフローディスの島から王都へいきなり跳んだ経験から、目印がなくてもなんとかなることを確信していた。
一度訪れたことがありさえすれば、最初の時よりずっと簡単にその周辺に移動できる。
「自分にこんな才能があるとはね」
意識の中に円陣を思い描きながら、カゼスは独りごちる。ミネルバにいる頃は、試験の成績はペーパーも実技もパッとせず、これと言って得意な魔術分野があるわけでもなく、本当に平凡な魔術師の一人でしかなかったのに。
ショック療法が効いたのかな、などと考えて、思わず口元を歪めた。デニスの高レベルな力場に触れることで、冬眠していた能力が目覚めたのかもしれない。
意識の筆が最後の魔術文字を記した瞬間、それまで何もなかった床の上に光の円陣が浮かび上がった。何ひとつ声に出して唱える必要はなく、円陣の縁を光の壁がスッと一周すると同時に、カゼスの姿はそこから消え失せていた。
次に現れたのは、王都ティリスの外れだった。先頃滞在していた折によく薬草を摘みに来た辺りだ。海に突き出したごく小さな岬に、王宮と街がうずくまっているのが見える。この辺りまで出てくる街の住民は、まずいない。
「さて、と……あとは相手が針にかかったタイミングを狙って釣り上げなくちゃな」
つぶやいて、彼は無意識に片手で髪を撫でる。風に遊ぶ髪が、先から黒く染まった。
太陽はまだ高い。これが西へと傾き、高地の山陰に隠れる頃には、霧が一帯を覆うだろう。それまでダスターンがうまく顧問官を騙し続けられるよう、今は祈るしかない。
(できるだけ、さっさと片をつけよう。シザエル人を説得して送還できればいいけど……多くは望まない方がいいんだろうな)
カゼスはきゅっと下唇を噛んだ。シザエル人を助ける為に戦闘が長引いたら、この時代の本来の主役である住人が犠牲になるだけだ。仮にシザエル人を見殺しにするはめになったとしても、それは仕方がない。
(覚悟は、しておかなくちゃ)
王宮を見やる目が、自然と険しくなった。無血開城など望むべくもない。総督府での時とは違う、人間同士による血なまぐさい光景が繰り広げられるだろう。
(でも、本当に、どうしようもないことなのか……?)
緑の草の上に座り込み、カゼスは膝を抱えて答えの出ない問いを繰り返していた。