六章 謀略 (3)
王宮の内部で裏切りの画策がなされている頃、街ではカゼスが目的にかなう人々を見付けていた。ティリス湾沿いに街道を西へと向かう隊商だ。本拠地はニーサ、つまりアレイアの州都だという。
たまたまその一員の病を診てやったところから、カゼスは彼らに噂の種を植え付けることに成功した。すなわち、彼らの庇護者であるアレイア領主が、顧問官に命を狙われている、というものである。
民間の情報機関があるわけではないこの時代では、隊商や旅芸人のもたらす噂に信頼が置かれていた。彼ら自身がニーサに着くよりも早く、この不穏な噂は人から人へと伝わって行くだろう。
「カゼス様、あたし達、こんなにのんびりしてていいんですか?」
『跳躍』で助手として連れてきたフィオが、落ち着かない様子で茶をすする。カゼスは茶碗におかわりを注ぎながら、「ええ」と答えた。
「大丈夫ですよ。あ、そうだ」
ふと、机の上に出しっ放しにしていた麻の巾着に目を留める。カゼスはその中をひっかきまわして、いつぞやコルキスで道案内料に買ったリボンを取り出すと、皺になっていないのを確かめてから「はい」とフィオに差し出した。
「渡そうと思って忘れてました。前にコルキスで買ったんです」
「え……でも、これ、カゼス様の髪には……今はいいですけど、元の色は」
戸惑ってそんなことを言うフィオに、カゼスはつい口元をほころばせる。
「私じゃなくて、あなたの髪に結んだらどうかと思ったんです」
今度は本当に驚いて、フィオは目を丸くした。
「そんな、勿体ないです! あたしなんかに……こんなきれいなリボン」
真っ赤になって言い、少女はカゼスの手にリボンを押し返す。カゼスが何か言うより早く、フィオは言葉を続けた。
「その色は大人っぽいですし、あたしは髪、結ぶほど長くありませんから……あ、もしカゼス様が使われないんだったら、エンリル様にあげたらいいんじゃないですか? いつも結わずにサークレットだけなんですし」
ね、と言われ、カゼスは曖昧な表情になった。言われてみれば冬の青空のような淡くくすんだ緑青色は、フィオにはあまり似合いそうにない。しかしエンリルが髪を結うというのも、やはり似合わないような気がするのだ。
「この色、地味ですしねぇ……」
ただでさえエンリルは、王太子という身分にしては装飾過少な格好をしがちなのだ。あの豪華な金髪を結んでしまうと、ますます地味になってしまうのは想像に難くない。
困った顔をしているカゼスに、フィオは「あ」と思いついて助け舟を出した。
「それが駄目だったら、アーロン様にあげたらいいですよ。いつもきちんと結んでるから使うだろうし、その色も似合うんじゃないかなぁ?……あっ、似合うと思います」
敬語をほとんど抜かしてしまい、慌ててフィオは言い直す。カゼスはおどけてわざと驚いた顔をし、フィオがごまかすように照れ笑いを浮かべると、くすくす笑いだした。
と同時に、窓からスッと水晶球が飛び込んできた。もちろん透明化しているので、机の上で形が見えるようになってからそれと気付いたわけだが。
〈ご苦労さま。どうだった?〉
〈無事に噂が届いたようですね、見事にはまりました。ニーサからカッシュに向けて騎馬の一団が進軍を開始しましたよ。カッシュを包囲するか攻め落とすかは分かりませんが、到着するまであと二日といったところでしょう。これで王宮のシザエル人を騙せたら言うことはないんですけどね〉
〈騙されてくれなきゃ困るよ〉
わずかな間とはいえ精神波での会話で生じる空白をごまかすために、カゼスはリトルの表面に軽く手を置いて目を閉じていた。フィオが不安げな声をかける。
「何かあったんですか?」
「ヴァラシュ殿の計画が順調に運んでいることが分かっただけですよ、心配いりません」
カゼスはすぐににっこりし、茶碗に残っていた茶を飲み干した。
「明日か明後日あたり、ちょっと忙しくなるかもしれません。いつでも出立できるように、準備だけはしておいてください」
「あ、は、はい……でも、どうしてですか?」
「そろそろ新月だからですよ」
カゼスはそう答えたが、フィオは何がなんだか分からず目をしばたたかせて首を傾げる。が、それ以上の説明はない。仕方なく彼女は茶碗を片付け、早くも混沌の兆しを見せ始めている室内の整理にとりかかった。
月の無い夜は、王宮でさえ闇に呑まれてしまう。夜通し松明の炎が燃えているのは城壁の門と本宮の出入り口や国王の寝室ぐらいのもので、時折見回りの兵が松明を持ってうろつく他は、人影など滅多に見られない。
夜行性の動物が走り回る足音が、庭園の茂みから茂みへと移っていく。
建物の中ではところどころで蝋燭が灯されているが、それも夜更けにはほとんど消えてしまう。やがて、どの部屋からも寝息だけが聞き取られるだけになった頃、息を殺し足を忍ばせて動き出した影があった。
国王の寝室の前には二人の不寝番が立っていた。一人が、闇の向こうに人の影を見付けて誰何する。
「何者だ! 姿を見せろ!」
もう一方も警戒して、相棒と並んで槍を構える。が、光の輪の中に出てきたのはシーリーンだった。夜更けに徘徊する貴族の娘に、衛兵は面食らって槍を下ろす。
「シーリーン殿? いったい何をしておいでです、このような夜更けに」
ガウンを羽織ったシーリーンは、申し訳なさそうに二人の顔色をうかがって答えた。
「なかなか寝付けなくて、そぞろ歩きでも、と思ったのですけれど……途中でつまずいて蝋燭を落としてしまいましたの。火が消えてしまって何も見えず、すっかり迷ってしまって。どちらか、松明を持って部屋までついて来ては下さらないかしら」
二人の衛兵は顔を見合わせた。一方が決めかねている間に、他方が笑顔で進み出る。
「もちろん、喜んで。足元が危のうございますからな、お送りいたしましょう」
遅れを取った方が、やられた、と顔をしかめる。シーリーンは微笑んで礼を言い、自室の方に足を向けた。先手を打った衛兵はご機嫌だったが、それもシーリーンの後から廊下の角を曲がるまでだった。
寝室前に残っている衛兵の視界から消えた途端、暗がりに潜んでいたヴァラシュが、にやけた衛兵に当て身をくらわせたのだ。
妙な物音に気付いた居残りの衛兵も、確かめようと足を踏み出した途端、背後から頭に一撃をくらって昏倒する。その体が倒れるのを支え、ゾピュロスは呆れ顔になった。
「いいぞ、来い」
ささやくと、去ったばかりのシーリーンがヴァラシュと共に戻って来る。三人は衛兵を室内に放り込み、急いで国王の運び出しにかかった。
普段着の上に羽織ったガウンをシーリーンが脱ぎ、国王に被せる。万一誰かが見かけたとしても、ごまかせるように。
ゾピュロスが国王を背に担ぎ、ヴァラシュが行く手の人影を確かめて先導した。
ひっそりと寝静まった王宮の中を、慎重にしかし急ぎ足で抜け、通用門を目指す。そこならば門番の数も少なく、また廐に寄るにも都合が良い。
だが、たどり着くことはできなかった。月がない筈の上空に突然パァッと明るい光が現れ、彼らの姿を照らし出したのだ。
「とうとう本性を現したな、賊めが!」
鋭い声が響き、ハッとなって振り返ると、本宮の方からひときわ明るい光を纏ってマティスがやってくるところだった。真紅の瞳でゾピュロスを睨みつけ、彼女は続ける。
「ゾピュロス卿よ、陛下の身柄を拉致し、王太子の反乱に乗じてティリスの玉座を奪い取るつもりか!」
それは貴様だろう、とつぶやく声がして、ゾピュロスは自分が内心の言葉を口にしたのかと思った。が、言ったのは彼ではなくヴァラシュの方だった。
「彼奴を捕らえ陛下をお救いするのだ! かかれ!」
マティスの号令と同時に、潜んでいた兵がわっと飛び出してくる。ゾピュロスはやむなく国王を地面に横たえ、剣を抜いた。
シーリーンと国王を背後に庇い、一番手を斬り伏せる。続いて、その陰にいた者を。
冴えた剣さばきに、兵たちは相手の風評と地位とを思い出して怯む。自分たちが捕らえようとしているのは、ただの賊ではない。次期騎兵団長とも言われ、領内の反乱には苛烈で容赦ない制裁を下したというアレイア領主なのだ。
怖じけづいた兵に、マティスの叱咤が飛んだ。
「逃がすな! カッシュの軍勢が来る前に討ち取るのだ! 逆賊の首を取った者には恩賞と昇進を約束しようぞ」
餌につられた者が、いっせいにかかって来る。ヴァラシュは「やれやれ」とおどけた風情で、つと片手を挙げた。
「俗物共が。麗しい女性にまで金貨の夢しか見られぬとは、情けない限りだな。雷よ、我が敵を打ち払え!」
凛と声を張り上げた途端、彼らの周囲に光の壁が生じ、次の瞬間それは雷撃となって近付く者を薙ぎ倒した。
兵士はもちろんシーリーンとゾピュロスまでもが、驚愕の声を上げた。
だが、誰よりも驚いたのはマティスだった。ヴァラシュが使ったのは、魔術ではなかったからだ。それが分かったから、彼女は愕然と立ち竦んでしまった。
「早く! 今のうちに」
ヴァラシュはささやき、何か訊きたそうな二人を急き立てて廐の方へ走って行く。無事だった兵士はそれを追うべきか否か、躊躇して右往左往した。
マティスが我に返る間もなく、ヴァラシュが再び命じて雷撃を放つ。障害のなくなった庭園を駆け抜け、彼らは国王を連れて闇の中へと消え去ってしまった。
混乱した庭園で、マティスは呆然と逃亡者たちを飲み込んだ闇を凝視していた。
(本当に……本当に我らを、ザールの神を裏切ったのか、カイロン)
詩人の声に反応して強烈な放電を実行した、水晶球のような物。あれはいったい何だと言うのだ? 魔術でないことだけは確かだが、あんな機械は聞いたことさえない。
(どっちにしろ私には分からないのだけど)
じわじわと怒りが込み上げ、彼女は唇を噛んだ。
あれが何であったにしろ、カイロンが作ったのかどうかなど自分には判断がつけられないのだ。機械のことはさっぱり分からない。彼が何かもっともらしい言い訳を考えていたら、自分にはどうすることもできないだろう。
(だけど、あの男の仕業でない筈がない!)
すぐにも高地に行き、問い詰めてやりたい思いに駆られる。しかし、もしあの詩人に妙な機器を渡してこの王宮に忍び込ませたのがカイロンであれば、マティスが早晩やって来ることは承知の上。準備万端ぬかりはなかろう。返り討ちに遇うのが関の山だ。
(許せない。許さんぞ、カイロン!)
他の二人に裏切りを告げ、カイロンに制裁を下さねば。
そこまで考え、ふとマティスの胸に疑惑が頭をもたげた。
――もし、カイロンでなかったとすれば?
しばらくエラードのエリアンには連絡をとっていない。だが、生体工学者のエリアンは同じ技術畑のカイロンと気が合い、関係をもっていたのだ。結託していない証拠がどこにある? カイロンではなく、エリアンの仕業かもしれないではないか。
いまのところザール教の国教化に成功し、順調な展開を見せているのはエリアンのいるエラードだけだ。彼女は他の三人に対する優位を確固たるものにしたがっているかも知れない。いや、そうに違いない。
アルハンにいるキースは同じ魔術師だが、うだつの上がらぬ男だ。だが、何を考えているのか分からぬ節がある。もし、消極的で自信のない態度の裏で、自分が首位に立つことを考えているのだとすれば……
(あの魔術師も、キースが仕立てたものかもしれない)
髪を染めさせて魔術を教え込めば、どこの馬の骨だろうと民衆から恐れられ敬われる魔術師が出来上がるのだ。彼が手駒を使ってマティスの仕事を邪魔しようとしているのだとしても、何ら不思議はない。
(おのれ、どいつもこいつも)
私がティリスの支配権を得ることを恐れているのだ。私が誰よりも優れた神の代弁者として君臨することが、気に食わぬのだ。
何の根拠もないまま、疑惑が確信へと変わって行く。そうだ、奴らは私を妬んでいるのだ――妬み、私を消し去るつもりでいるのだ、私が成功を収める前に。
(誰にも、私の邪魔をさせてなるものか。たとえザールの信徒であろうとも、私が神に近付く階を昇るのを邪魔する奴は、断じて許さぬ!)
握り締めた拳の内側で、爪がてのひらに食い込んでいた。
星空を切り取る黒い方形の影が、今は化け物じみて見える。
かろうじて王宮を逃れた三人は、蹄の音が響くのを気にしながら街の外へと急いでいた。リトルが淡い光を行く手に投射してくれているお陰で、迷う心配はない。市街を囲む城壁の門は当然閉ざされていたが、ヴァラシュが先に話をつけていたらしく、門番が通用門を開けてくれた。
まだ人の住む区域は続いているものの、壁の外に出るとゾピュロスもシーリーンもほっと息をついた。
「どうにか逃げおおせたようだな。しかし顧問官め、気になる事を言っていたな……カッシュの軍勢がどうとか」
ぼそ、とゾピュロスがつぶやく。聞こえないふりをしたヴァラシュに、今度ははっきり呼びかけて問うた。
「貴公が魔術を使うとはな。それとも、ラウシール殿には詩歌の才もあったのか」
「ラウシールとは、昨今巷で噂の魔物だか救い主だかのことですか?」
ヴァラシュはそらとぼけ、澄ました笑顔を作って見せた。
「私はただの旅芸人ですよ。各地を放浪しておりますと、なにかと珍しい物が見付かるのです。この水晶球も、たまたま手に入れられた物のひとつでしてね」
もちろんゾピュロスもシーリーンも、その言葉を信じたわけではなかったが、それ以上追及するのはとりあえずやめておいた。口論に発展して、声を張り上げるはめになりそうな気がしたので。
ヴァラシュはそんな二人の表情を眺めて苦笑し、ふいに馬の足を止めた。
「これより先はお二方だけでも安全かと存じまする。私にはまだ少々、こちらでやらねばならぬ事がありますのでね。またいずれ、お目にかかりましょう」
そうして、名も告げぬまま馬首を巡らせると闇の中へと戻って行った。
取り残された二人がしばし呆然としていると、どうやら追っ手がかかったらしい、「あっちだ」などという声と蹄の音が、見当違いの方へ消えて行くのが聞こえた。
「急ぎましょう、ゾピュロス様。彼が時間を稼いでくれている間に」
シーリーンがささやき、ゾピュロスも小さくうなずいて再び馬を進めた。
逃亡者の姿が街を離れ、遠く丘の向こうへと呑み込まれた頃、ヴァラシュも撹乱するのをやめて逃げる準備にかかっていた。
馬を捨てて靴を脱ぎ、足音を忍ばせて予定の場所へと走る。
まったく、こんな格好で走り回るなど、柄ではないのだがなぁ、とか何とかぶつぶつ口の中でぼやきながら。亭主に見付かった間男のようではないか、などと言う辺り、発想が偏っている。
何度か、建物の陰から出た途端に兵士と鉢合わせしそうになったが、リトルの確かな先導で幸い気付かれることもなく、無事に切り抜けられた。さすがに走り回って息が荒くなってきた頃、ようやく彼はカゼスと合流した。
「無事でしたか、良かった」
ホッとしてカゼスは言い、ヴァラシュを招き寄せる。カゼスとフィオは昼のうちに宿を引き払って門をくぐり、外で待機していたのだ。
〈私は今日ほど自分が安っぽく思えた時はありません。何が悲しゅうて『雷よ、我が敵を打ち払え』なんて言われなきゃならないんですか、たかが空中放電に。私は魔術の小道具ではないんですよ! 私の本来の能力は、こんなくだらない演出効果の為にあるのではないんですよっ! それなのに、それなのに、あああああ〉
ぐちぐち泣き言を並べながら、リトルがカゼスの手に収まる。
「それのお陰で助かりましたよ、ラウシール殿。ひとつ私にも頂けませんかね」
聞こえていた筈はないが、駄目押しのようにヴァラシュがそんな事を言う。カゼスは苦笑し、首を振るしかなかった。
「生憎ですが、余分のはないんです」
〈あってたまるもんですか! いったい、私に開発資金と時間と労力がいくらかけられていると思ってるんですっ!〉
リトルが憤慨したが、カゼスはそんな言い分とはまったく別の次元で、本当に余分なんかあったらたまらないよな、などと考えていた。
「まあ、ともかく計画はうまく運んだんですね。それじゃ、私たちもエンリル様のところに戻りましょう」
「左様、長居は危険ですからね。殿下には安眠を妨げて申し訳ないが、これだけ働いたのだから勘弁して頂きましょう」
ヴァラシュもにこりとする。カゼスはうなずくと、フィオとヴァラシュを身近に寄せ、小さく呪文を唱えた。
彼らの周囲を光の壁が一巡し、フッと消える。その瞬間にはもう、中にいた三人の姿は消え失せていた。
次に彼らが現れたのはエンリルの寝室だった。カゼスが王都に滞在している間、エンリルたちもただぼんやりコルキスで待っていたわけではない。だから、移動した先に直接戻れるようにと、カゼスは『跳躍』の印をつけた石をエンリルに預けておいたのだ。
「おのれ曲者!」
ダスターンの怒鳴り声がして、カゼスは反射的に首をそむけて危うく刃をかわす。体の下で、エンリルのうめき声がした。
「も、申し訳ありませんっ、殿下!」
さすがに慌ててカゼスはその場からとびのく。三人の下敷きにされてしまったエンリルは、しばらく潰された姿勢のまま身動きさえできなかった。
「カ……ゼス、そなた、こうなると分かっていて、石を預けたのか」
恨めしげな声で言い、ようやっと顔を上げる。フィオはさっきから必死でぺこぺこ謝っており、ヴァラシュでさえいささか面目なさそうな風情だ。
「と、とんでもない!」カゼスは激しく首を振った。「ただ移動先にお持ち頂ければ、と思って……まさか本当に肌身離さずお持ちだとは露知らず」
あたふたと言い訳をしながら、カゼスはエンリルの具合を確かめる。幸い、ひどく捻ったり、変に重圧がかかって傷めたりしたところはないようだ。
ダスターンの叫びで、アーロンとカワードまでが部屋にバタバタと駆け込んで来た。
「カゼス!? なんだこれは、いったいどうしたのだ」
カワードがあんぐり口を開ける。ダスターンはいまいましげに唸り、剣を収めた。
「殿下はお疲れだ。早々に引き取られよ、ラウシール殿」
あからさまに不機嫌に言われ、ごもっともとばかりカゼスはフィオを連れてそそくさ退散する。ヴァラシュは苦い顔のダスターンを軽く嘲るような顔でちらと眺めて薄く嗤うと、エンリルに大仰な礼をした。
「詳しい報告はまた明日。ただ、陛下は無事に連れ出され、カッシュへと向かっております、とだけ申し上げておきましょう」
「まことか? ご苦労であった、追って恩賞の沙汰を下すが、ともあれ今夜はぐっすりと休むが良い」
途端にエンリルは輝くばかりの笑顔になる。見事に主君の機嫌を取ったヴァラシュは、わざと得意がって見せるようにダスターンを一瞥し、悠々と部屋を辞したのだった。決してことさらエンリルの寵を得ようと考えているのではなく、単に自分以外の男が歯がみして悔しがる姿を見たいという、それだけなのだが。
先に部屋から出たカゼスは、初めての建物の中をアーロンに先導してもらっていた。とりあえず退室したはいいが、右も左も分からず立ち往生している内にアーロンとカワードも出て来た、という次第である。
「ここがおぬしの部屋だ。フィオは隣の小部屋が空いているからそこを使うといい」
アーロンは言い、フィオがぺこりと一礼して部屋に駆け込むと、小さなあくびを噛み殺した。カゼスは苦笑して「すみません」と謝り、おやすみを言いかけてふと思い出した。
「あ、そうだ。これ、貰ってください」
ごそごそとリボンを取り出したカゼスに、アーロンはきょとんとなった。
「……俺に?」
「コルキスで案内料に買わされたんですけど、私の髪にはちょっと合わないでしょう。それで、あなたなら使うかと思って」
たらい回しにされた事実は伏せておく。特に誰かに上げようと思って買ったものではなかったので、押し付けるのは気が引けたのだ。
差し出されたリボンを受け取り、まだ夢でも見ているような気がするのか、アーロンは複雑な表情で首を傾げた。
「いいのか?」
「と言うより、貰って頂けると助かります」
カゼスは慌てて手を振り、弁解を始めた。押し付けておいて礼を言われると、まるで詐欺でも働いたような気分になってしまう。
「本当のところ、その、どうしようか困っていたんで。あ、その、邪魔だったらいいんです……って言うのはつまりその、無理に引き取って下さらなくても、って事なんですけど、あ、でも、だからってそのリボンが邪魔でしかないような物、ってわけじゃなくて」
しどろもどろになってどんどん墓穴を掘り下げて行くカゼスに、アーロンは「いや」と微苦笑した。もはや自分でも何を言っているのか分からなくなっていたカゼスは、救われたようにホッと息をつく。
「ありがたく使わせて貰おう。おやすみ」
温かい苦笑を浮かべたままアーロンは言って、軽くカゼスの頭をぽんと叩くと、背を向けて歩み去った。その姿が廊下の向こうの暗がりに消えるまで見送り、カゼスは少し茫然として頭に手をやる。
いい歳をして、ロクな説明も出来ずしどろもどろにまくしたててしまったからか、またしても子供扱いされてしまったからなのか。とにかく妙に恥ずかしくて、カゼスはしばらくほうけたように立ち尽くしていた。




