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帝国復活  作者: 風羽洸海
第一部 ティリス内乱
22/85

六章 謀略 (2)



 王都の賑わいは相変わらずで、戦など嘘のような気さえしてくる。

 噂話の端々に、王太子がどこかに追いやられてしまったらしい、だとか、魔物が出たらしい、だとかいった真偽の入り交じったものが姿をみせるほかは、人々の暮らしに何の変化も見られなかった。

「本っ当ーに、大丈夫なんでしょうねぇ」

 精一杯疑わしげな口調で言い、カゼスはヴァラシュを上目遣いに睨んだ。シタールのような弦楽器を肩に掛け、すっかり詩人風の姿になっているヴァラシュは、余裕たっぷりの笑みを返した。

「お任せあれ、ラウシール殿。一片の流言が百万の兵を動かす、と申しますからね。その証拠をお目に掛けまするよ。では失礼」

 悠々とヴァラシュは王宮の方へ歩きだす。その背中を見送り、カゼスは「大丈夫かなぁ」とまたつぶやいた。王都の外れまで『跳躍』し、そこからヴァラシュは単身王宮へ乗り込むと言うのである。いくら顔を知られていないとは言え、あまりにも無謀ではないか。

〈あなたが一人で行った時よりもはるかに安全でしょうよ。彼には演技の才能がありますし、人間にしては素晴らしく機転が利きますからね〉

〈どうせ私は演技が下手で機転が利かないよ〉

 ふんだ、とカゼスはいじけ、ヴァラシュに言われた通り、町中の宿屋に部屋を取りに行った。本当はリトルを預けてつなぎ役にすることも出来たのだが、盗聴器だらけの王宮に持ち込ませるのはあまり得策でない。水晶球に向かってささやくヴァラシュの姿を誰かに見られでもしたら、それこそ胡乱の輩め、となってしまう。

 それよりは外で連絡をつける方がよかろう、という事になったわけである。

 旅の薬師という触れ込みで、カゼスは街の中心地にほど近い宿をとった。もちろんヴァラシュの指定である。

〈いい機会だから、近郊の野草を調べて薬を作っておくよ。いつもいつも治癒術を使うわけにはいかないし、誰にでも使える形の物があれば便利だし〉

〈日がな一日ぶらぶらしていたんじゃ、怪しまれますしね。協力しますけど、あまり極端に医療技術を進めてはいけませんよ。分かってるでしょうね〉

 リトルに釘を刺されながら、カゼスはヴァラシュからの連絡を待つ間、そこらをぶらぶらしては薬草集めに精を出すことにした。


 一方、王宮に詩人として首尾よく入り込んだヴァラシュはと言うと。

「この艶やかな黒髪に、私の心はおろか、魂までも搦め捕られてしまったようだ……」

 詩歌を吟ずる合間、手当たり次第に女中を口説き回っていた。その一人として同じ口説き文句を使わないのだからたいしたものだが、カゼスがいたら平手で後頭部を張り倒すぐらいの事はしていただろう。

 もちろん、王宮内の情報を聞き出し、それを都合よく変形して再び流させる、といった目的があってのことである。少なくとも、建前としては。

 数日そうして状況を把握し、カゼスが聞き出したことがほぼ間違いないと確信が持てると、ヴァラシュは細工にとりかかった。すなわち、対立を深めるための不穏な噂を、密かにささやきはじめたのである。

 そんな王宮内の空気に気付きもせず、イスハークはせっせと国王の看病を続けていた。今では、時折意識がはっきりするほどに回復している。

 ラウシール殿がここにいて、もう少し手助けをしてくれればなぁ、とぼんやり思いながら薬草をゴリゴリすり潰していた時だった。

「こちらにおいででしたか、名高い宮廷侍医殿。これまた神秘の香り、叡知の集いたるところ、といった雰囲気ですな」

 おどけた口調で言い、最近人気を集めている詩人が入ってきた。軽薄な若者に対して、老医師は冷たい目を向ける。

「何ぞ用かね。ここには詩人の役に立つようなものはないぞ。媚薬もなければ、声を良くする薬があるでもない。おまえさんの役には立たぬよ」

「おやおや、これは冷たい。ところで侍医殿は、街に逗留している薬師の噂をご存じありませんかな? なかなかの腕前ということですよ。一度会いに行かれては」

 詩人、ヴァラシュはまるで堪えた様子もなく、そんな事を言う。イスハークはムッとした顔を向けた。

「おまえさんにどうこう言われる筋合いはないわい。自分の腕前は承知しておる!」

「やれやれ、ご老人は新しいものの価値を認めたがりませんね。見てもいないものを、無意味と決めてかかる。嘆かわしい」

 白々しくヴァラシュは挑発する。イスハークは簡単にそれに乗せられてしまった。真っ赤になって怒り、それほど言うなら会わせてみろ、と言ってしまったのである。

 どうせインチキの呪い師もどきで、医術の知識などいい加減なもので、雰囲気だけで高額の謝礼をふんだくる輩に違いない――と、そう思ってイスハークはヴァラシュについて行った。が、宿屋の二階でぽつぽつ訪れる客を診ている人物を目にした瞬間、彼はあんぐり口を開けて絶句してしまった。

 髪こそ黒いが、顔立ちや背格好は紛れもなく、

「ラウシール殿……」

 呆然とつぶやいたその声に、カゼスも気付いて顔を上げた。イスハークの姿に少し驚いた顔をしたものの、ちょっと会釈をして治療を続ける。

 客は軽い捻挫か何かだったらしく、足に包帯を巻いて貰うと、礼だけ言ってひょこひょこと危なっかしい足取りで出て行った。

「無償奉仕ですか、ラウシール殿」

 呆れた風情でヴァラシュが言う。カゼスは苦笑して、二人に椅子をすすめた。

「私の知っている薬草が、ここの人にもちゃんと効くのかどうか、試しているようなものですから。代金のかわりに経過を見せてくれるように言ってあるんです」

 診察用に入れて貰った余分の椅子に二人がそれぞれ腰を下ろすと、カゼスは「で」と話を続けた。

「今日はいったいどうしてイスハーク殿まで連れて来られたんです?」

 視線を向けられ、イスハークはやっと我に返った。

「そ、そうでした、なぜあなたがこちらに? それにこの詩人は? ここで何をしていらっしゃるんです」

 おろおろしているイスハークに、ヴァラシュはにっこりして見せた。

「申し遅れましたね。アラコシア領主アルデュスが子、ヴァラシュにございます。王宮には少々、腕試しに参ったようなものでして」

「腕……試し? まさか詩歌のではなかろうに、何を企んでおる」

 猜疑心まるだしの表情でイスハークはヴァラシュを睨んだ。昨今の若い者の考えることはどうも信用ならぬ、とでも言うように。

「どうやら、侍医殿の協力が必要だと思われますのでね。ラウシール殿からもお願いして頂きたく、お連れした次第でござるよ」

 ヴァラシュは相変わらずの笑顔で応じる。カゼスがことんと首を傾げ、説明を求めた。

「つまり」とヴァラシュは続けた。「ちょうど良い時に国王陛下を連れ出して頂くには、内部からの手引きが不可欠なのですよ。それに、危機に信憑性を与えるのも、私ではいささか無理がありますのでね」

「なんじゃと!?」

 イスハークが仰天して大声を上げる。慌てて二人が「シーッ」とそれを制したので、泡を食ったものの彼はそれきり絶句し、騒ぎにならずにすんだ。

 ややあってイスハークは、失った言葉を取り戻した。

「本気で言っておるのか? 陛下を連れ出す? 無茶を言うでないわ、陛下の御身はいまだ衰弱しておる、とても逃げ出すことなど出来ぬぞ。だいたい、素性の知れぬ詩人が陛下の寝室に近付ける筈もあるまい。ましてやこの老体では陛下を担ぐことも出来ぬわ」

「何も侍医殿に力仕事をして頂こうと言うのではありませぬよ。ご安心あれ」

 はなから当てにはしていない、と言うようにヴァラシュは皮肉めかして応じる。イスハークはムッとなって、「ではどうしようと言うんじゃ」と問い返した。

「もちろん、連れ出すのは別の方にやって頂きます。顧問官にとっての裏切り者、我らにとっての新しい味方となる人物に、ね」

 にんまりしたヴァラシュに、カゼスは天を仰ぎ、イスハークはあんぐり口を開けた。

「まさか、もう既に造反者を潜り込ませておるのか?」

 うろたえたイスハークに、ヴァラシュはますます楽しそうな笑みを見せる。

「そのように露見しやすい細工は致しませぬ。これから裏切らせる(・・・・・・・・・・)のですよ」

「な……なんと悪辣な」

 思わずイスハークがこぼした言葉に、ヴァラシュはその笑みを鋭利なものに変えた。

「では、殿下を陥れて裏切り者に仕立て上げた顧問官は悪辣ではないと仰せられるか。ふむ、さよう、悪辣と言うにはあまりにお粗末な企てではありますな。策とは、戦をするに損害を最小にとどめるためのもの。悪辣と言われようが、その努力を怠るようでは本物の勝利を手にすることは出来ますまい」

 思いがけず真面目な一面を発見し、カゼスは目をしばたたかせて相手を見つめた。

 確かに、力任せに勝利をもぎ取ったとしても、それで力を使い果たしてしまったのでは後が続かない。国力を疲弊させるだけの戦は避けねばならぬ。

 長期的な見通しをもった本当の策士なのだな、とカゼスは評価を改めた。が、

「もっとも、この知的な楽しみを味わえるのは僅かな人間だけというのが、頭を使わぬ武人にとっては不満となりましょうがね」

 などとヴァラシュが皮肉をとばしたので、すぐにまたがくりと脱力してしまった。

「あなたの楽しみに付き合わされる方としては、たまったものではありませんけどね」

 やれやれ、とカゼスはため息をつく。

「で、具体的には、私とイスハーク殿に何をさせようと言うんですか?」

「おや、魔術師殿は諦めが早くておいでだ」

 にっこりしてヴァラシュは言い、問うような目をイスハークに向けた。老医師は深いため息をついて、彼もまた潔く両手を軽く上げる。

 その仕草を満足げに眺め、ヴァラシュは「では」と切り出した。


 どうもここのところ、不穏な噂が飛び交っているようだ。

 シーリーンは病床の国王に付き添いながら、ふとため息をもらす。ただの気楽な話であればシーリーンも女中たちの会話に加わることが出来るのだが、ことが彼女の養父絡みとなるとそうもいかない。

 国内随一の勢力を誇るアレイア領。駿馬の産地でもあり、交通・貿易の要所を領内に抱え、国王軍に勝るとも劣らぬ戦力を有する――そんな風になったのは、海の民の襲撃による損害が最も少なかったおかげだ。

 ゾピュロスは当時まだ十六歳であり、両親と幼い弟をはじめとする親族のほとんどを亡くした。結果的に前代未聞の若さで領主となった彼は、その能力を最大限に発揮して、機に乗じた小貴族たちの反乱を防がなければならなくなり、その為に苛烈な手段をとることもままあった。

 どうにか落ち着いたと思ったら、治安の隙を突いた盗賊に襲撃されて、妻と生後間もない子とを殺された。その報復に彼は、一段と激しい討伐を行ったのだ。そうした過去があって、今現在、王宮では嫌われ者として名高い彼の外面が出来上がったわけである。

(だからって、ゾピュロス様が権力に貪欲だとは言えない筈だわ。顧問官様はともかく国王陛下まで弑し奉って玉座を手に入れようとしている、なんて)

 シーリーンは唇を噛んだ。自分が国王のそばについている事が、かえって不信を煽っているのかも知れない。しかし、離れたらそれこそ顧問官の思うつぼだ。

 もしやこの噂は、ゾピュロスに疑いを抱いた顧問官が先手を打とうと流したものではないのか。そんな気さえしてくる。

(ゾピュロス様はそんな方ではないのに)

 今はニーサの領主館にいる腹心マルドニオスならば、こんな噂は一笑に付すだろう。

「それが本当なら、私があの方の代わりに隠居したいんだがね」

 とかなんとか。だがこの王宮では誰が信ずるだろう。玉座どころか領主の椅子さえ疎んじている、などとは。

 シーリーンがもう一度ため息をついた時、ゾピュロス本人が現れた。

「どうした、ため息が多いな」

 慌ててシーリーンは表情の険を消し、何でもない風に装う。いつもは厳しいばかりのゾピュロスの右目に、少し穏やかな色が浮かんだ。

「陛下のご容態は?」

「良くも悪くも、あまり変わりは見られませんわ」

 シーリーンはそっと毛布の端を整え、心配そうな目をオローセスの顔に投げかける。寝たきりになってしまってから随分経つ。一度カゼスが来てくれた為に持ち直しはしたが、その後は一進一退といったところだ。

「イスハーク先生がおっしゃるには、お体の力を落とさないようにするのが精一杯で、根本的な治療はやはり、ラウシール様でないと難しいのではないか、と……」

「あの魔術師か」

 つぶやいて、ゾピュロスは眉を寄せた。

 確かに彼のお陰で国王は持ち直し、どうやら回復の兆しも見えてきた。しかし、敵ばかりのただ中に単身乗り込むあの無謀さは何だ。裏があるのかないのか知らぬが、何の取引もせずに帰って行った――それとも、シャフラーに形見を渡したと見せて裏切りの種を蒔いていたのか。

(あなた方お偉いさんは、どうも他人の人生を軽く見ていけませんね)

 カゼスの言葉が脳裏をよぎる。

(かも知れぬ)

 ふとゾピュロスはそんな事を思った。実際、彼自身に災いが及ぶのでなければ、こんないざこざに首を突っ込むのも不本意だった。

 平穏無事に暮らせるのならば、他人がどうでも良かった。いや、彼自身の事さえどうでも良いのだ。大事な娘に、穏やかな人生を送らせてやれさえすれば。

 彼はシーリーンの横顔を眺め、唐突に言った。

「そなたはニーサへ戻れ」

「えっ? 今、何と?」

 驚いてシーリーンが振り向く。ゾピュロスは構わずに続けた。

「近い内に情勢が変わりそうな気配だ。そなたは巻き添えを食わぬよう、ニーサへ帰るがいい。陛下の身を守るのはここの召使に任せておけ」

「嫌です」シーリーンは即答する。「顧問官様に睨まれると分かっている仕事を他の方々に押し付けて、自分だけは安全な所へ逃げ込むなど、出来ません。それに、私は……ゾピュロス様のおそばを離れたくはありません。お役に立ちたいのです」

 穏やかだが、てこでも動かぬ強い意志を秘めた口調だ。見た目のおとなしさに反して、静かで頑なな情熱がその内には満ちている。

 仮にも父であるゾピュロスは、相手のそんな気質をよく知っているため、返す言葉に窮した。彼がどう言い聞かせようかと悩んでいる間に、シーリーンの方が先に口を開く。

「噂に乗せられて、動くと思われるのですか?」

 ささやき声だったが、その内容の不穏さにゾピュロスはハッとなって周囲の気配を探った。いつぞやと同じ、聞かれているのでは、という危惧がよみがえる。

「乗せられて、と言うよりは、自ら乗って、だろうがな」

 ごく微かな、声にもならぬほどのささやきで彼は答えた。シーリーンの眉間にしわが刻まれる。彼は小声で続けた。

「だから、そなたは……」

「陛下をお守りしなければならぬ理由が、より深刻になりますね」

 あっさり台詞を遮られ、ゾピュロスはため息をついた。打つ手なしと諦め、小さくうなずく。あれこれ言い争うだけ時間が無駄だ。

「ただ、気掛かりがある。最近の噂、広まるならもっと前からでもおかしくはなかった。誰かが仕組んでいるとしか思えぬ。私と顧問官の対立を深め、漁夫の利を得んとする輩がいるのか」

「私もそれは考えておりましたわ。陛下のお具合がもっと悪い時だったら分かるのですが、今頃になってなぜ……。でも、いずれにせよ私たちにとっては」

 ひそひそと話を続けていると、突然、場違いに機嫌の良い声が割り込んだ。

「おや、ここで何をしとられるんじゃね、ゾピュロス殿。陛下にかこつけて娘御と密談ですかな? 噂になりまするぞ」

「イスハーク先生! 何をおっしゃるんですか」

 途端にシーリーンは真っ赤になり、声を大きくした。シーッ、と合図されて、慌てて彼女は口をふさぐ。イスハークは愉快そうに笑って言った。

「あとはわしがついておりますで、シーリーン殿は少しお休みなされ。そうですな、詩人が逗留しとるそうじゃから、たまには歌でも聴いて」

 からかう口調に対してシーリーンは拗ねたような顔をしたものの、文句は言わずに、ことさら急ぎ足で部屋から出て行ってしまった。

 その後ろ姿を見送り、ゾピュロスはため息をつく。

「イスハーク殿。あまり娘を刺激せんで貰いたい、なだめるのは私なのだぞ」

「おやおや」とイスハークはおどけた。「さしものゾピュロス卿にも、苦手なものがおありですかね」

 が、相手は冗談のつもりなど微塵もなかったらしい。表情の真剣さに、イスハークはそれ以上からかうのはやめ、白いひげの間からため息をもらす。

「年寄りが差し出がましいことを申しますがな、早い内にはっきりさせておやりなされよ。シーリーン殿は……」

「分かっている」

 ゾピュロスは険しい声でイスハークの言葉を遮った。隻眼で睨まれたイスハークは、やれやれといった風情で肩を竦めたのだった。

 しばらくはどちらも無言で、イスハークは国王を診察し、ゾピュロスは医師の手元を見つめていた。イスハークが匙でいつもの薬湯を国王の口に入れると、無意識のまま嚥下される。一匙一匙薬を飲ませるイスハークを見ていたゾピュロスが、ふいに言った。

「やはりあの魔術師に頼らねば、全快は見込めぬか」

「まあ、そうですなぁ」

 興味なさげに装って、イスハークはおざなりに答える。薬の椀と匙を片付け、彼はもう一度念を入れて国王の様子を見た。特に、首筋の辺りを。

 いつもはしないその動作に、ゾピュロスが眉を寄せる。

「どうした。また何か不審な……」

 言いかけた相手を「シッ」と遮り、イスハークは困惑気味の表情で頭を振った。

「どうも……もう少し回復なされても良さそうなものなんじゃが」

 独り言のように言い、イスハークは「ふむ」と考え込む。それからため息をついて、

「ラウシール殿がおわしたらのぉ……」

 などとぼやいた。もちろんこれは演技なのだが、ゾピュロスに不安を抱かせるには充分な効果があった。


 一方、シーリーンは自室に戻って仰天していた。室内に見知らぬ先客が潜んでいたのである。声を上げかけた彼女を素早く制し、青年は大貴族の娘に向ける恭しさで膝をついた。そして、声を潜めてささやく。

「アレイア領主のご息女、シーリーン殿ですね」

「尋ねるならば先に名乗るのが礼儀でしょう。そもそも女の部屋に忍び込むなど、許される行為ではありませんよ」

 険しい声で応じたシーリーンに、青年、ヴァラシュはまったく悪びれず、優雅な笑みを浮かべて見せた。

「平時でしたら、私も花と糖菓など携えて伺いたいものですが、今はそうもゆきませぬ。この口からあなたを賛美する言葉の代わりに、無粋な警告を発さねばならぬなど、不本意極まるのですが」

 やれやれといった風情で、ヴァラシュは立ち上がって肩を竦めた。それから真面目な表情になり、彼は小声で続ける。

「どうか今は、その薔薇の唇を閉ざしてお聞きください。あなたの父君と国王陛下の御身に危険が迫っているのです」

 シーリーンは息を飲み、両手で口元を覆った。まさか自分が直接この話を聞かされるとは思っていなかったのだ。しかも、今度はどうやら噂ではなく、事実らしい。

「なぜ、そのような」

「知ってしまったのは偶然からです。が、間違いなく顧問官は近々陛下を弑し、その罪をゾピュロス卿になすりつけて処刑するつもりです。できるだけ早く王宮からお逃げください。あなただけでも」

「そんな事は出来ません!」

 思わず語気を荒らげ、シーリーンは自分の声に驚いたようにびくっと竦んだ。ヴァラシュは困った顔になり、ため息をつく。

「一介の詩人風情では、ご婦人一人をお守りするのが精一杯。陛下やゾピュロス卿まで連れ出すとなれば……」

「ゾピュロス様はあなたの手など借りずとも自分の面倒は見られますわ、私と同じようにね。あなたの助けが必要なのは陛下をお連れすることだけ」

 毅然としてシーリーンが言う。その態度に感服したように、ヴァラシュは諦めまじりの笑みを見せた。

「分かりました、お手伝い致しましょう。では、歌をご所望の際はいつでもお呼び付けください。気難しいと噂のアレイア領主殿がおいでであろうとも、勇を鼓して参りましょう」

 言葉尻でおどけたヴァラシュに、シーリーンも思わず笑みをこぼす。

「気難しく見えるだけですわ。ゾピュロス様は本当はとてもお優しいんですよ」

 これには、さしものヴァラシュも返す言葉に詰まる。飲み込んだ魚が喉にひっかかってどうしたらいいのか分からない鷺、といった風情で目をしばたたかせ、それからようやく「まさか」とつぶやいた。

「ご息女には特別なのでしょうね。私にはとても、領主殿の人となりを試す度胸はありませぬよ。見付かる前に退散するとしましょう」

 足音に気付き、彼は慌てて窓の方に走って行く。窓の手前で振り返っておどけた礼をすると、ヴァラシュはひらりと窓から出て行ってしまった。

 その狼狽ぶりのおかしさに緩んだシーリーンの口元が戻る前に、外から「シーリーン、いるか」と噂の主の声がした。はい、と応じて彼女がカーテンを上げると、ゾピュロスが部屋に一歩踏み込んで、不審げに室内を見回した。

「誰かいたのか?」

 鋭い感覚が、直前まで人のいた気配をとらえたのだろう。シーリーンはカーテンを下ろして声をひそめ、答えた。

「罠の仕掛け人か、あるいは天の助けが」

 どういう事だ、と眉を寄せたゾピュロスに、シーリーンは一部始終を話して聞かせる。

「聞くからに胡散臭いな。だが顧問官が使うような性質の者とも思えぬ」

 唸ったゾピュロスにシーリーンは失笑しかけ、慌てて真面目な顔を取り繕った。あの詩人が顧問官の手先なのだとしら、案外顧問官にも冗談を解する心があるのかもしれない。

「直にお会いになって、確かめられるのが良いと思いますわ。ゾピュロス様は本当はお優しい方ですから、って安心させておきましたから、逃げ出しはしないでしょう」

 悪戯っぽく言って、堪え切れず彼女はくすくす笑いだす。いわく言い難い表情でゾピュロスは娘を見下ろし、やれやれとばかり隻眼を天に向けた。シーリーンはますますおかしそうな顔をするばかり。

「あら、いけませんでした? ゾピュロス様の一番の願いは田舎に隠居してのんびり土いじりをして暮らすことですから、とまで言っておくべきでしたか?」

「……まったく」

 ため息をついて、ゾピュロスは頭を振った。

 そう、領主の座も誰かに――可能ならばシーリーンの夫となる男に譲り、田舎に引っ込んで、ごたごたした政治からは遠ざかりたい、というのが本音なのだ。そうしてたまにシーリーンが孫と一緒に訪ねてくれたら、言うことはない。

 なぜ自分にそうした平和な生活を享受する資格がないのか。いや、ある筈だ。たまたま運悪く政情の不安な時期に当たっているだけで、間もなく、こんな駆け引きと化かし合いの毎日からは手を引ける筈だ。

 ――国王を王太子の手に返してやることさえ出来れば。

 その結論に達し、彼はうんざりした。これが最後の一仕事になってくれたら良いが。

「ともあれ、手筈を整えねばならんな。その詩人に会ってみるとしよう」

 そう言ってから、「まったく」ともう一度ぼやく。

 まったく、どうして俺はこんな家系に生まれてしまったんだ?

 口に出しはしないものの、その心情は表情にくっきりと現れている。シーリーンは慰めるように苦笑してうなずいたのだった。


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