六章 謀略 (1)
アラコシア領主アルデュスは、もはや老齢と言っても良い年齢だった。黒かった髪もすっかり白くなり、領主としての執務はもう、大半が頼もしい長男の手で行われている。
それでも彼の威信は健在で、領民はこの老人を畏れながらも慕っていた。……ので、領主の次男坊が街でぶらぶらしては女という女を口説き回っていても、時々困ったような顔をするぐらいで、誰も文句を言ったりはしない。
「……おや。あそこに見えるは旅の娘さんかな」
港の市場で中年の女相手に糖蜜のような言葉を並べていた金髪の青年は、ふと、船着き場から頼りない風情でこちらにやって来る人影を認めてつぶやいた。
長い黒髪を結いもせず風に遊ばせている、ほどほどの美人だ。中性的な雰囲気だが、彼にとってはどんなタイプであっても女性は女性。歳も美醜も問わぬのである。もちろん、若くてきれいに越したことはないが。
その人物は初めての土地で不案内であるらしく、きょろきょろしている。
「何か私でお役に立てますか。お嬢さん?」
すいっとその前に立ち、青年は必殺の微笑を浮かべた。この最初の餌にかからない女は、まずいない。が、期待は外れ、その人物はきょとんとして彼を見上げた。
「……私ですか?」
目をしばたたかせ、曖昧な口調で問い返す。その声もまた、中性的であまり娘らしさがない。青年は戸惑ったものの、動揺を面には出さず、あくまで親切丁寧に答えた。
「ええ、何かお探しのようですから。コルキスは初めてですか?」
「……はあ。あの……あなたは?」
娘はそう問うてから、はたと、まるで誰かに指摘されたかのように気が付いて言った。
「あ、ええと、生憎ですが私は『お嬢さん』じゃないんですが」
「なんだ。男か」
途端に青年は笑みを消し、ぷいっと踵を返してしまう。女に間違われた旅人、つまりカゼスは、思わず笑いをこぼした。
〈なんだ、やっぱりナンパだったのか〉
〈気付きなさいよ、そのぐらい〉
透明化して近くに浮いているリトルが呆れる。カゼスは一人、それと分からない程度に肩をすくめた。
〈仕方ないだろ、ミネルバではナンパされた事なんかなかったんだから。それにしても、なんだかデニスの人は美的感覚がおかしいんじゃないのかなぁ〉
妙に美人扱いされることがあって、戸惑ってしまう。リトルは何も答えなかった。
「さて、と」
それはさておき、とカゼスは気を取り直し、改めて周囲をぐるっと見回した。ごちゃごちゃと露店が並んで見通しが悪く、どう行けば街に出られるのかさえ分からない。カゼスはしばらくあっちこっちの路地を覗いていたが、結局諦めて誰かに道を訊くことにした。
「あの、すみません」
若い娘が暇そうに店番をしているのに気付き、カゼスはその前に近付いた。娘は物憂げな顔を上げ、「なに?」と問う。
「領主館は、どこにあるんでしょう?」
「お館様に何か用でもあるの? まあ、いいけど……何か買ってくれたら教えてあげる」
娘はそう言って、屋台に並んだものを手で示した。様々な種類の飾り紐だ。港に入ってきた商船から買ってはここで商いをしているのだろうか。
長さも幅も色々で、カゼスはデニスの文化に改めて驚かされた。リボンのようなもの、編んだ紐のようなもの、金糸や銀糸を織り込んだ豪奢なもの。
腰の小さな袋を探り、カゼスは髪を結う紐ぐらいなら買えるかな、と物色した。本来その金はエンリルが当座の経費にと預けてくれたものなので、こんな事に使って良いものかどうかは、いささか不安だったが。
(あ。これ、いい色だな)
淡い緑青色に染めた麻糸で織り、端を藍色の糸でかがった細いリボン。これなら無難だろうと判断し、カゼスは「これ、ください」と指し示す。娘は馬鹿にしたような顔をしたが、それでも領主館への道を教えてくれた。
安くて良かった、と胸を撫で下ろしながら、カゼスは礼を言ってとことこ小走りにそちらへ向かった。
混雑した港の市場を抜けると、後は比較的見通しの良い町並みで、娘が教えてくれた尖塔のある建物が行く手に見えた。カゼスは道がはっきりすると、速足になり、次いで走りだした。
門にたどり着いた時には息切れしており、門番の誰何にもろくに答えられない有り様だった。が、彼は肩で息をつきながらも言った。
「海賊が、こちらに……向かって、いるんです、それを、お知らせしようと」
「なんだと!? フローディスの連中か!」
門番もぎょっとなり、慌ててカゼスの前から槍を引く。
「わかった、とにかく中へ。すぐアルデュス様に……」
「ちょっと待て」
遮った声に驚いてカゼスが振り返ると、先刻のナンパ青年が立っていた。門番は怪訝な顔をして、青年に問いかける。
「ヴァラシュ様? 何かご不審の点でも?」
青年、ヴァラシュは、カゼスに近寄ると冷ややかな目で睨みつけた。
「船着き場から降りた時は随分とのんびりしていたくせに、何をいまさら慌てたふりをする? どさくさ紛れに館の宝物でも奪おうという手合いか?」
追及の口調は穏やかなくせに容赦なく、毒蛇のようにカゼスに巻き付いてきた。言い逃れや嘘を口にしようものなら、即座に噛みつくだろう。
「だから、演技は下手だって言ったのに」
ちぇ、とカゼスはうつむいてぼやく。その言葉の意味を質そうとして門番がカゼスの肩を掴みかけた、刹那。
強い風が巻き起こり、彼らは信じられないものを目の当たりにした。カゼスは瞬く間に高く舞い上がり、彼らの頭上を飛び越えて館の正面入口に立っていたのである。しかも次の瞬間には、その姿は消え失せていた。
「いっ……今のは、いったい」
門番が口をパクパクさせ、ヴァラシュが呆然としている間に、背後から蹄の音が近付いてきた。
「あっ、ヴァラシュ様! 大変です、フローディスの船が沖合に……!」
ヴァラシュは振り向き、顔をしかめた。少なくとも、海賊の話は本当だったらしい。
「商船が一隻、追われて港に逃げ込んで来ました。自警団が出港したので、海賊共は今のところ近付いて来る気配はありませんが……」
警備兵の話を聞いていたヴァラシュは、不意にハッとなって館の方を振り返った。それから舌打ちし、鋭く命令する。
「すぐに兵を率いてその商船を取り押さえろ! そやつらも海賊の仲間だ!」
「ど、どういうことです?」
おたおたと門番が訊く。ヴァラシュは、愚鈍な奴だと言わんばかりにため息をついた。
「先刻の輩が何者かは知らぬ。だが伝令が来るよりも早く……誰よりも早く海賊の知らせを携えてきた。あらかじめ海賊がここに現れることを知っていたからこそ、だ。そうして商船が被害者だと思い込ませ、自警団が沖合の海賊に気を取られている隙に、商船に潜んだ海賊共が先刻の奴の手引きで略奪に来る手筈だろう。分かったらとっとと行け!」
言い付けると、自身は館の方へと向かった。姿は消えたが、簡単に奴らが諦める筈はない。人なのか魔物なのかは知らぬが、まだ近くに潜んでいる筈だ、と考えて。
ヴァラシュが捜索に懸命になっている頃、アルデュスの私室には来訪者が現れていた。
姿を消したカゼスは、エンリルから教わった通りの人物がいるのを確かめると、すぐに魔術の印をその場につけ、エンリルとアーロン、クシュナウーズの三人をそこに跳躍させたのだ。王都への往復の経験から、印なしで一般人を連れて跳躍するのは無理だと悟ったので、カゼス自身が先に潜入する手筈になったわけである。
突如として室内に現れた四人に、アルデュスは愕然として声も上げられなかった。長椅子に横になってうつらうつらしていたのだが、眠気など一瞬にして吹き飛ぶ。彼は目を見開いたまましばらく息さえも止め、ややあって、夢かというように目をこすった。
「久しいな、アルデュス卿。夢ではないぞ。確かに私は王太子本人で、ここにいる」
エンリルは驚いた顔を見るのが楽しいのか、妙に機嫌よくそう挨拶する。アーロンは無言のまま畏まって礼をし、クシュナウーズはにやっとしただけだった。
「……なんと、これは……」
アルデュスはかすれ声でそう言い、それからゆっくり頭を振る。
「年寄りを驚かせるものではございませんぞ、殿下」
「すまぬな。だが私が置かれている状況を知らぬわけではあるまい? 正面から堂々と訪ねることはできなかったのだ。それで、少しばかり魔術師の助けを借りたのだよ」
エンリルは悪戯っぽく笑い、カゼスを一瞥する。アルデュスの視線を受け、カゼスはまやかしを解いて青い髪をあらわにした。
「ほう……では、この者が件の魔物というわけですな」
「テマでの一件がもうここまで知れているのか?」
エンリルは苦笑まじりに訊いた。顧問官はさぞや慌てて国内の貴族に手を回したに違いない。アルデュスは軽くうなずき、厳しい目でカゼスを品定めするように睨んだ。カゼスは曖昧にぺこりと会釈し、困ったように目をしばたたかせる。
と、そこへバタバタと騒々しい足音がして、アルデュスの息子たちが飛び込んできた。
「父上! ご無事ですか!」
おのれ賊めが、と先頭の青年が父を庇って立ち、剣を抜く。ヴァラシュは出入り口の方へ逃げられるのを阻むため、少し離れた場所で立ち止まった。
「剣を引け、シェラー! ここにおわすは王太子殿下なるぞ」
一喝され、黒髪の青年は驚いて振り返った。
「何ですって? 父上、それでは……」
「殿下は海賊と手を結ばれたわけですか。貧すれば鈍するという見本ですな」
揶揄する口調で言ったのは、ヴァラシュである。エンリルは振り向き、苦笑した。
「噂以上の明敏さだな、アラコシアのヴァラシュよ。やはりそなた、海賊船がただの囮だと見抜いたのだな」
「魔術とやらは計算に入れておりませんでしたので、まさかこのような芸当をされるとは思いませんでした」
しれっと言ってのけた次男を、アルデュスが叱り付ける。
「そなた、殿下に対して無礼であろう! 己が分をわきまえよ!」
「今のところ、私の方に分があると思いますがね、父上。何と言っても、王太子殿下は賞金首ですから」
ヴァラシュはまったく悪びれる様子がない。カゼスは「へえ」と感心した。
「ただのナンパ男かと思ったら、そうじゃなかったんだ」
うっかり口を滑らせてしまい、エンリルとクシュナウーズがふきだした。ヴァラシュは眉を寄せ、鬱陶しそうな顔をする。クシュナウーズが笑いを堪えながら訊いた。
「おい、お嬢ちゃんよ、もしかして茶にでも誘われたのかい」
「ええ、まあ。実に新鮮な経験でした」
カゼスがとぼけて応じたので、堪え切れずエンリルが声を立てて笑い出した。
「そして手が早いのも噂以上というわけか。なかなか面白い男だな、そなたは」
「男女を間違えたのはまったく久しぶりのことです。まあ、相手が魔物とあっては致し方ありますまい。失敗の数には入りませぬよ」
ヴァラシュは開き直り、小さく鼻を鳴らした。カゼスの正体を知っている三人は、複雑な表情で視線を交わす。
と、一人会話の展開についていけずにいたシェラーが、曖昧な表情のまま剣を鞘に収めてようやく口を開いた。
「……父上、ではやはり顧問官には……いえ、ともかく落ち着いて話をしましょう。茶を運ばせます。港の商船はどのように?」
弟ほど回転が速くはないが、彼もまた頭は悪くないらしい。もう次の段取りを考えている。アルデュスはエンリルを一瞥してから、軽くうなずいた。
「解放して差し上げるがよい。ただし、まだ海賊船の方は港に入れてはならぬ。商船に残っている方々も、こちらへ案内するように」
シェラーは「はい」と応じると、エンリルたちに向かって一礼して、きびきびした足取りで退室した。
アルデュスのすすめに従い、カゼスたち四人は適当にクッションを集め、車座になった。アルデュス自身も長椅子から降り、そこに加わる。
「具合がすぐれぬのではないのか? 無理をせずともよいのだぞ」
ヴァラシュに支えられて座るアルデュスを見て、エンリルは心配そうな顔になった。途端にアルデュスは皮肉っぽい目を向ける。
「そういうお言葉は、こちらにおいでになる前に考慮して頂きたかったものですな。死ぬほど驚かせておいて、いまさら遅うございましょう」
それから、ぶつぶつと独り言めかしてぼやく。
「まったく、近頃は誰も彼もが私を死に損ないの老いぼれ扱いしおるわ」
実際、強気の割に体の方が衰えているのは、はた目にも明らかだった。だがエンリルは苦笑しただけで、その点を指摘したりはしなかった。
シェラーに命じられたのだろう召使が茶を運んでくると、彼らの中央に置いて立ち去った。ヴァラシュがそれを注ぎ、全員に配る。
「さて、殿下、わざわざこの辺境の地を訪れた理由をお聞かせ願えますかな」
濃厚な香りの茶をすすってからアルデュスがやんわりと切り出し、一同は表情を改めた。ヴァラシュだけは、聞くまでもないと思っているのか、退屈そうに茶碗を揺らして遊んでいる。内容も結果も知り尽くした三文芝居を何回も見せられている観客、といった風情だ。
エンリルはそんな態度を眺め、困ったなというような微笑を浮かべた。
「だんだん自分が馬鹿に思えてきたな。ヴァラシュ、そなたはどう予想しているのだ?」
「簡単なことです。海賊と手を結ばれたということは、海からティリスを攻めるおつもりなのでしょう? ティリス湾を封鎖している間、背後からアレイア領の船団に脅かされることのないよう、アラコシアの船を貸せと仰せられるのでしょう」
ヴァラシュは言い、茶碗を置いて両のてのひらを広げた。
「しかし、それではエラードに対する警戒がおろそかになる。殿下に力を貸したいのはやまやまだが、国境の守りを崩すわけにはゆかない……と、父上は仰せになる。殿下は、エラードの情勢は今のところ安心してよい筈であるし、いずれにせよ内乱が長引けば付け込まれるであろうから、早急に決着をつける必要があるのだ、と説く……」
「ヴァラシュ! 小賢しいことを申すな、そなたは何一つ己の手を動かさず、ただ他の者を嘲りおるばかりではないか」
厳しい口調でアルデュスが叱り付ける。が、ヴァラシュは肩を竦めただけで、まるで堪えている様子はない。
「落ち着け、アルデュス。聡明な子息で喜ばしいことではないか」
エンリルはそう言ってなだめると、ヴァラシュに視線を戻した。
「実は、それに付け加えることがある。ゾピュロスは父上……国王陛下ご自身の命がない限り、実際に我々に対して攻撃の手を加えるつもりはないと見られるのだ。アラコシアの船団を総動員せずとも良いだろう」
「おや、殿下は彼と話でもされたのですか?」
揶揄するようにヴァラシュが言ったが、エンリルは真面目な顔のままうなずいた。
「私ではないが、ここのカゼスが直に彼と話をしている。つい最近のことだ。ゾピュロスもラームティンもクティルも、父上に忠誠を誓っており、顧問官の言いなりになっているわけではないとの事だ。問題はナキサーだけだが、これはそう恐れる必要もない。父上のお体も徐々に回復に向かっている筈だから、そうやすやすと王宮が顧問官の支配下に収まることはないだろう」
「なぜそこまで……」
さすがに驚いたらしく、ヴァラシュはカゼスをまじまじと見つめた。とても信じられぬといった心情がよく分かり、カゼスは苦笑しながら事の次第をかいつまんで話した。
「……というわけですから、彼らが王宮で頑張ってくれている限り陛下の身は安全ですし、ゾピュロス殿の軍と正面から戦う心配もしなくてすむ、ということです」
「しかし、顧問官の手が陛下の喉にかかっているという点では、不安が消えませぬな」
ふむ、とヴァラシュは首を傾げ、すぐに笑顔になった。今度の笑みは最初にカゼスに見せたものとはまるで違い、鋭利な刃物を内包した絹のようだ。
「カゼス殿、といわれましたな。瞬く間に王都へ行くことも可能ですか」
やや丁寧な物言いになり、ヴァラシュはカゼスに問うた。何を考えついたのだろう、とカゼスはやや不安な面持ちになり、「ええ、まあ」と応じる。
ヴァラシュは満足げにうなずくと、今度はエンリルの方に言った。
「この私めにお任せあれ、殿下。しばしの猶予さえ頂けましたら、アレイア領主と国王陛下を共に銀の盆に乗せ、御前に差し出して見せましょう。もちろん生きたままでね」
口調はおどけているが、その表情は自信に満ちている。エンリルたち四人はもちろん、父親であるアルデュスまでが唖然となった。
「随分大きく出たじゃねえか」
クシュナウーズが口笛を鳴らす。その音で我に返ったように、エンリルが目をしばたたかせた。
「その自信はどこからくるのだ? いや……それ以前に、そなたの行動を領主たるアルデュスが許すものだろうか」
「何をいまさら」
ヴァラシュは笑い、父親に向かって悪戯っぽい視線を投げる。
「殿下の話を聞くと決めた時点で、協力の意志を表明したも同然でしょう。まあ、もし父上が許さずとも、私は一向構いませんがね」
おいおい、とカゼスは思わず突っ込みそうになった。まさかこの時代にそんな台詞を聞こうとは。さすがにエンリルも呆れた風情で問うた。
「なぜそこまでして私に味方する? そなたを動かしているのは忠誠心ではなかろう」
「おや心外な」とぼけてから、ヴァラシュは肩を竦めた。「もちろん、忠誠心ですとも。殿下の側は敵が多うござるゆえ、殿下に忠誠を捧げておればおのずと私の敵も増えるというもの。そうでなくては面白くない」
不敵な笑みでそう言われたのには、カゼスも失笑してしまった。クシュナウーズが声を立てて笑いだし、「こいつはいい」などと喜ぶ。渋い顔をしているのは、アーロンとアルデュスだけ。
ややあって、苦々しくアルデュスが言った。
「その、母親譲りの気性はなんとかならぬのか」
「母上に言わせれば父上譲りなのでございましょう。ともあれ、殿下、お任せ下さいますでしょうか?」
しれっと応じて父親をいなし、ヴァラシュは話を進める。エンリルはなんとか笑いを噛み殺し、うなずいた。
「どのような奇策を思いついたのか知らぬが、試してみるが良い。何か私に提供できるものがあるか?」
「強いて申し上げますれば、魔術師殿を少々お借りしとうございます。あとは、時機が来ればまた」
にっこりしてヴァラシュは頭を下げ、礼を述べた。




