五章 雌伏 (4)
誰かが呼んでいる、とカゼスはぼんやり思った。
意識は体を離れ、星の海を漂っている。ここはどこだろう、とぼんやり思った時、どこからともなく答える声がした。
(ここは意識の海。我らの記憶の深淵)
深く意識を揺さぶるような、コントラバスの音色にも似た、男の声。
(私達の……が出会う場所。時も空間も……にはない)
澄んだガラスの鐘のような、それでいて温もりのある女性の声。
(誰ですか。あなた達は誰)
問いかけても返事はない。だが瞬間的に理解する――これは自分の内側の世界なのだ、と。
もっと深く、奥底へと潜って行きたい誘惑に駆られた瞬間、いきなり浮力が働いた。
意識は否応なく押し上げられ、急速に知覚が薄っぺらいものになる。光が迫り、表面的な感覚だけが残って――
「おや、気が付いたようじゃな。こっちは心配ありませんわい」
聞き慣れない声がいきなりカゼスを現実に引き戻した。顔をしかめ、カゼスは光に馴れようと目をしばたたかせる。
すぐに体の感覚が戻って来て、カゼスはぎくりとした。
ここはどこだったか。誰が周囲にいるのだ? 確か自分は『跳躍』して王都にたどり着いた筈で……。
がばっと起き上がると、紙や羊皮紙がバサバサと体の上から落ちた。
「―――???」
カゼスは訝しげな顔になり、辺りを見回す。散乱した書類はどうやら、カゼスの『跳躍』だけが原因なのではなさそうだ。
「大丈夫ですかな? ソレス・イ・ラウシール殿」
呼ばれて顔を上げると、ダスターンの記憶にあった二人の顔が見えた。
「あなたは……確か、イスハーク殿……? それに、ゾピュロス殿ですね」
後者の方は、まず間違いない。眼帯といい、黒ずくめの衣服といい、仏頂面といい。
「おや、ご存じとは光栄じゃの。殿下はお元気ですかな?」
にこにこと老医師が話しかけたが、ゾピュロスがそれを遮った。
「呑気におしゃべりをしている場合ではない。ラウシールとか言ったな、おぬしが真実魔物であるのか否かは知らぬが、なぜ王太子の下にいる筈のおぬしがここにいる?」
厳しい物言いに、カゼスはなんとか気分をしゃきっとさせた。用心しながら立ち上がり、紙の海からリトルを救い出す。
「それは……どうやって、と訊きたいんですか? それとも、目的の方ですか?」
油断するな、と自分に言い聞かせ、カゼスは問い返して相手を真っ向から見据えた。
ゾピュロスは「両方だ」と短く答え、親指で後ろを指さす。
「あの男がああなった理由もな」
言われてよく見ると、シャフラーが床に座り込んで、胸飾りを手にブツブツ言いながら放心している。カゼスはため息をついた。やはり彼は何も知らなかったのだ。
「どうやって……というのは、魔術で、としか答えようがありませんね。どうして、というのは……彼に、形見の品を渡したかったんです」
カゼスは痛ましい表情で、シャフラーを見やる。ゾピュロスが眉を寄せて無言の催促をしたので、カゼスは説明を続けた。
「総督府が魔物の襲撃に遭った晩、彼は顧問官の手で総督府から王都まで飛ばされたんです。その現場を見ることは出来ませんでしたが、後で人数を調べていなくなったのが総督だと分かったんです。でも……いなくなる直前、彼は家族の身を案じて、彼らの部屋へ行こうと走っていたところでした」
「あの形見の持ち主、というわけですな」
イスハークがふむ、とうなずく。カゼスも小さくうなずいて、先を続けた。
「ダスターンがこの城に来た時には、彼は顧問官の手先となってエンリル様が総督府を襲わせたのだ、と吹聴していたそうですね。それで、おかしいな、と思ったんです。彼は、現にエンリル様も魔物に襲われているところを見た筈ですから、顧問官に騙されるか脅されるかしない限り、そんなデタラメを言うとは思えなくて」
「どうだかな。あ奴に犬並の頭さえあるのかどうか」
フン、とゾピュロスが鼻を鳴らす。カゼスが睨んだが、まるで効果はなかった。ゾピュロスは相変わらず無表情のまま言った。
「で、たったそれだけの為に、敵の牙城に単身乗り込んで来たというのか」
「たったそれだけ、とおっしゃいますけど」カゼスは呆れ顔になる。「総督自身にとっては一大事なんですよ。どうもあなた方お偉いさんは、他人の人生を軽く見ていけませんね」
やれやれとカゼスが言うと、イスハークがふきだした。ゾピュロスはこんな不躾な物言いをされたのが信じられないらしく、難しい顔のまま目をしばたたかせている。
「それに、もうひとつふたつ、ついでが……つまり、国王陛下のお体の具合を見ておかなくては、と思いましてね」
言いながらカゼスは、シャフラーの方に歩み寄る。
屈んで相手の顔を覗き込んだが、何の反応もない。
〈どうかな、軽い暗示にかけられていたみたいだと思うんだけど〉
〈そのようですね。特に薬物を使用された徴候はありません〉
リトルに確認してから、カゼスはそっと相手の額に手を当てた。魔術は使えないが、この程度の暗示なら、精神体でちょっと作業をすれば解ける。
指先から精神の『手』を伸ばし、そっと相手の意識の中へ入ると、すぐに混乱状態が分かった。カゼスは思考の流れをブロックしている障害物を取り除き、混乱したイメージや記憶を自然な位置に戻るよう手助けする。
『手』を引くとじきに、シャフラーの目が焦点を結んだ。そして、ボロボロと大粒の涙がこぼれだす。
「どうして……一緒に住まわせてやると、言われたのに……」
生きているのだと信じ込んで疑わなかったことが自分の罪であるかのように、彼は胸飾りを握り締めて泣き続ける。ぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼はカゼスの姿を認めると、すがりついて言った。
「ラウシール様……やっぱりあれは、あれは、夢ではなかったんですね? あの魔物は確かに……屋敷を襲って、妻を……」
「助けられなくて……」
カゼスはそれだけ言うと、シャフラーの肩を優しく撫でた。
「つまり」と、ゾピュロスが愁嘆場にうんざりした様子で口を開く。この男が誰かに同情することなどあるのだろうか、と疑うほどの冷静さだ。
「王太子がやった事になっている総督府の襲撃は、顧問官の仕業だったと言うのだな?」
「当然ですじゃろ」
イスハークが呆れた風情で答える。
「確かに殿下は不思議な力をお持ちじゃが、それで魔物を呼び出して操るなどといった事が出来るお方ではありませんわい。それよりも、ラウシール殿」
呼ばれてカゼスが顔を上げる。イスハークは真面目な表情に戻って言った。
「先程、陛下のお体がどうのとおっしゃいましたな。もしや陛下の病を治せると仰せですかな?」
「治せるかどうかは言い切れません、診てみないことには……第一、診ると言っても誰かに見付からずに国王陛下の寝室へ入るのは無理でしょう」
カゼスは困って肩を竦める。リトルだけ飛ばして診断して貰うという手もあるが。
「しかし、わざわざ確かめに来たと言うからには、何か懸念があるのだな?」
ゾピュロスが問う。カゼスは驚いて目をしばたたかせた。
「もしかして、あなた達も……気付いたんですか?」
立ち上がり、カゼスは首筋を指さす。やはりか、とイスハークとゾピュロスが顔を見合わせた。ゾピュロスはしかめっ面になって言った。
「先日、顧問官が出て行った後で陛下の様子を見舞ったのだが、首筋に見慣れぬ斑点があったのだ。刺絡を施されたのかとイスハーク殿に尋ねたが、知らぬと言うのでな」
「ゾピュロス殿からその話を聞いてから、私も診察の際に気を付けるようにしたところ、確かに針で刺したような痕が残っておるんですわい。薬もさっぱり効いてきやしませんのでな、もしや……大きな声では言えませぬが、誰ぞ……」
声をひそめたイスハークに代わって、カゼスはため息をついて言った。
「毒、ですか。まず間違いないでしょうね。もっとも、すぐには殺さないでしょうが……ただの毒物よりも始末の悪い薬かもしれません」
「なんと」イスハークは目を丸くする。
「イスハーク殿も医者ならご存じなのでは? 感覚を鈍くし、痛みを取り除く植物が何かあるでしょう。そういったものの一種で、続けて摂取していると常習性が……つまり、癖になってやめられなくなってしまうものがあるんです。正常な判断力が失われ、幻覚や幻聴があらわれ、次第に衰弱して死に至ることも」
つまるところ、麻薬である。催眠キューブの効果を上げるために使用されることが、過去にはままあったのだ。
「そうなると一刻の猶予もならんな。だが、おぬしをこのまま連れて行くわけにもゆかぬ。せめて姿を隠さなければ」
ゾピュロスは唸って出入り口の方に行き、カーテンを少し開いて衛兵に何事か命じた。それから間もなく、ぱたぱたと軽やかな足音がして、「失礼します」と一人の娘が入って来た。背が高く、泣き黒子と鹿のような優しい瞳が印象的な黒髪の娘だ。彼女はカゼスの姿に驚いて目をみはったが、感心なことに声ひとつ立てなかった。
「シーリーン、この青い髪を隠すためのマントを用意して欲しい。それから国王陛下の寝室に、他の者がおらぬかどうか見て来てくれ」
ゾピュロスに言われ、シーリーンと呼ばれた娘はすぐにまた踵を返して出て行く。
「今のは?」
カゼスが問うと、黙りこくったままのゾピュロスに代わってイスハークが答えた。
「ゾピュロス卿の養い子ですわい。しっかり者で、分別もあり、なかなか美人でもありますじゃろ。今は王都で卿の侍女のような事をしております」
カゼスは適当に「そうですか」とうなずき、心配な顔でシャフラーを見やる。まだ彼は泣いていたが、もはや完全に暗示は解けているようだった。その証拠に、小さな目の奥には不吉な光が宿っている。
「総督、無謀なことをしないでくださいよ」
カゼスはそっとささやいた。びくっとしてシャフラーは顔を上げ、潤んだ目でじっとカゼスを見つめる。
「あなたが顧問官相手に戦ったとしても、勝てません。今はとにかく……生き延びることを考えて下さい。極力顧問官には近付かないこと、それから、王都が陥落する時が来たらまず逃げること」
「逃げる……見逃して下さるのですか? 私は、私は殿下を……あなた様を陥れたのに」
シャフラーは声を詰まらせた。カゼスは小さく首を振り、答える。
「暗示にかけられていたんですし、そもそもあなたはごく普通の人じゃないですか。顧問官に単身刃向かうことを要求する方が間違ってます。もっとも、エンリル様の下には、そうは考えない人もいますから、そんな人達の鬱憤晴らしの材料にされない内に逃げることを勧めますけどね」
「…………」
呆然としたのはシャフラーだけではなかった。しばし間があってから、心底呆れ果てた顔でゾピュロスが言う。
「王太子も大概だと思っていたが、おぬしはとんでもなく甘いな。殿下の場合は民に施しをされる程度だが、おぬしはいざとなったら王太子を裏切ってさえ民の味方をしかねん。甘やかすとろくなことにならんぞ」
「甘やかすというのは、自分に反逆されるのを恐れる支配者が言う台詞ですよ。支配者でない私が甘やかすも何もありません」
苦笑してカゼスが応じると同時に、シーリーンが戻って来た。
シーリーンはカゼスを座らせると、手早く髪をきっちりまとめ、マントのフードですっぽり頭を隠してしまった。
「これなら大丈夫、見えませんわ。陛下の寝室にも、今はお世話係がいるだけです。幸い衛兵もお世話係も、顧問官様にはあまり好意的でない者ですし」
仕上がりを確認してにこりとすると、彼女はゾピュロスに向き直ってそう報告した。
わざわざこんな事にまで気を配るあたり、既に顧問官にかけられた疑いを知っているのだろう。ゾピュロスは軽くうなずくと、カゼスを外に促した。リトルをマントの内側に隠し、カゼスはおとなしくついて行く。
〈何か仕掛けられたりしてないだろうね?〉
〈仕掛けだらけですよ。先刻の部屋も盗聴器がありました。幸い作動していませんでしたが、念の為あなた方が会話している間は妨害しておきました。多分、あちこちにあるんでしょうね。監視カメラはほとんどないようですが……設置したところで始終本人が見張っている事は出来ないからでしょうけれど〉
〈そうだね。必要な時に魔術を使えばすむ話だもんな。いやな感じだね、なんか……独裁者のやりそうなことじゃないか。ただの宣教師がやることじゃないよ〉
〈かもしれません。あなた方人間は簡単に初期の目的を変更しますからね。都合のいい方にいい方に、と。他人を支配することに喜びをおぼえる人は少なくありませんしね〉
〈いやなこと言うなよ……参ったな〉
あれこれと話している内に、聖紫色のカーテンの前までたどり着いていた。イスハークが衛兵に「助手じゃ」と簡単に説明し、カゼスは誰何されることなく室内に入った。
シーリーンが交代すると言って世話係を下がらせると、カゼスはフードを取ってオローセス王の上に屈み込んだ。そっと見ると、首筋にやはり赤い斑点が残っている。瞬間的に薬剤の注入が終わるタイプの注射器なのだろう。内出血したりすることはまずないが、きわめて細いその針先が小さな赤い点を残すことはよくある。
〈採血するかい?〉
〈必要ありません、これほど衰弱している人間から一滴でも血を採ろうとは思いませんよ。あなたも治安局員なら分かるでしょう? 腕の徴候が何なのか〉
腕? と訝りながら、カゼスは寝間着の袖をまくり、ハッと息を飲んだ。皮膚に薄い紫色の染みが浮かび、花弁のように広がっている。
〈これは……そうか、百年前にはまだ禁止されていなかったんだ、発見されたばかりで……でも、この麻薬が致命的だってことを知らないとは思えない。魔術師なら……シザエル人なら、調べてみもせずに使う筈がないよ〉
〈どっちだろうと、放っておけば死ぬことに変わりはありません〉
カゼスの険しい表情を読み、不安を隠せない様子でイスハークが問う。
「どうですかな、もしや……」
「……とにかく、何とか手は尽くします」
苦し紛れにそう答え、カゼスは難しい顔のまま黙り込んだ。
(精神体での作業はどうしてもこっちの負担が大きい……一旦どこかに移してから治療すればいいんだけど、これじゃあ『跳躍』に耐えられないだろうし)
ためらいはしたものの、剥き出しにした肘にひどい床擦れが出来ているのを認め、今ここでやるしかないか、と観念してカゼスは目を閉じた。
精神の『手』を伸ばし、オローセスの体内に侵入する。物質の動きと『力』の流れが同時に意識に映り、状態を見極めるのに非常な努力を要した。
精神の手は糸になり、体の隅々まで這って行く。血液に含まれる毒物を分解し、傷んだ組織を修復し、同時にオローセスの意識にかけられた暗示のブロックを取り除いて行く。
決して簡単な作業ではなかった。作業に要するエネルギーはすべて、カゼス自身から引き出されるのだ。魔術のように『力』を利用しているのではない。
疲労のあまり、そのまま意識が拡散して自己が崩壊する恐れが出て来た頃、ようやくカゼスはすべての手を引いた。その間、客観時間にして五分ばかり。
オローセスの様子を確かめることも出来ず、カゼスは床にへたりこんでしまう。
〈危地は脱したと見て良いでしょうね。ご苦労様です〉
リトルの結果報告に返事をする気力もない。カゼスの背中を支えてくれるシーリーンの温かい気遣いが、ありがたかった。
「多分、これで命に危険はなくなったと思います。ただ、まだ回復には時間がかかりますから……今後は、顧問官を近付かせないことが重要です。また元に戻されてしまいますから、決して陛下に触れさせないようにしてください」
なんとかそう言うと、カゼスはシーリーンに弱々しく微笑みかけ、よろよろと立ち上がった。膝の力が抜けて体勢を崩したところを、ゾピュロスが腕一本で支える。
「あまり変化があるようには見えぬが」
疑わしげに彼は言ったが、イスハークが首を振った。
「脈も息もしっかりしてきましたし、あの紫の染みも消えておりますわい。驚きましたな、ラウシール殿……ご自身の生命力を注がれたんですかね?」
「まあ、そのようなものですか……ここでは魔術が使えないもので、仕方なく」
なんとか立ち直り、カゼスは自分の目であらためてオローセスの具合を見た。血色もいくぶん良くなっているし、これならまず心配はないだろう。
「本当は、ここから拉致してしまえばいいんですけどね」
カゼスは苦笑を浮かべて言う。『跳躍』になんとか耐えられる程度まで回復してはいるだろうが、今度は自分の方が二人は運べない。
「それは賢明とは言えぬな」とゾピュロスが応じた。「今のところ陛下がおわするゆえあの女も歯止めがかかっているが、拉致されたとあらば自ら玉座につきかねん。陛下を救出するという大義名分のもとに、殿下もろとも陛下を弑し奉らんとするだろう」
無感情なその口調に、カゼスはやや皮肉っぽい表情を見せる。
「かと言って、ここにこのまま放って行くのは安心出来ませんけどね」
「大丈夫ですわ」
答えたのはシーリーンだった。ゾピュロスが咎めるように目を向けたが、シーリーンはお構いなしに続ける。
「信頼できる侍女は何人も存じております。皆で交代しながら見張って、イスハーク様以外の者には手を触れさせません。それならば良いでしょう?」
「それじゃあ、お願いします」
カゼスが向けた笑みに、シーリーンもにっこりして見せた。
彼女に後を任せ、カゼスたち三人が執務室に戻ると、シャフラーが途方に暮れていた。さすがに、散乱した紙や巻物や印璽を相手にしては、彼の才能をもってしてもてこずるらしい。おまけに、その一部が失われているのでは。
「ラウシール様……あの、失礼ながら、あなた様がこちらにおいでになった際に消えてしまったものがあるようなのですが」
もごもごと言うその口調に、先程までの悲哀はない。自分の中で何事かにけりを付けたのだろう。彼はいつも通り、官僚の一人らしい態度を取り戻していた。
「ああ、それを元通りにする為にここに戻ったんですよ」
カゼスは苦笑して、「すみません」と軽く謝る。それから、ちょっと不安そうにシャフラーを見つめ、それからゾピュロスとイスハークへと視線を移した。
「できれば、イスハーク殿の治療を拝見したいところなんですが……その時間はなさそうですね」
残念そうにカゼスは言う。あまりぐずぐずしていると、顧問官に見付かる可能性が高くなる。本当はイスハークの施す治療が適切なものかどうなのか、そこに不安があったのだが、宮廷の侍医などという身分の者にそうとは言えない。
「私はこれで引き上げますけど、陛下はできるだけ休ませるようにして下さいね」
「お任せあれ。なに、伊達に侍医を務めておるのではありませんわい」
にこにことイスハークはうなずき、それからふと案じ顔になって問うた。
「やはり、殿下はこちらに攻め込まれるんでしょうなぁ」
どう答えたものか、カゼスは困って目をしばたたかせる。三人の視線にさらされ、居心地悪そうに彼は身じろぎした。
「さあ、どうなさるおつもりなのか、私には……。でも、顧問官をこのまま放っておくことはないと思いますけどね。お父上も大事ですし」
そう答えてから、カゼスはいささか白々しくゾピュロスを見上げた。
「一番手強い誰かさんが味方についてくれたら、助かるんですけど」
ゾピュロスは右目でカゼスを見下ろし、しばらく無表情のまま黙っていた。が、ややあって小さなため息をついてからつぶやくように言う。
「俺の忠誠は国王陛下のものであって、殿下や顧問官のものではない。ラームティンやクティルも同様だ。ナキサーはどうだか知らぬが」
その言葉にカゼスが目を丸くしていると、彼はぼそりと付け足した。
「今のは独り言だ」
「それは、どうも……」
カゼスは曖昧に答えた。どうもこの万騎長は気前が良いのか悪いのか、判断に苦しむ。
〈つまり、顧問官の味方はしない、って言ってくれてるんですよ! ラームティンとクティルとかいう二人も同様で、ナキサーとかいうのだけが本当の敵と見ていい、って事でしょう。中立を保証してくれたんですよ〉
〈あ、なるほど。でもなんか、理解しにくいなぁ。国王陛下の味方だってんなら、顧問官は敵なんじゃないのかなぁ。うーん〉
〈その辺はこの時代の人々の何かしら思想があるんでしょう〉
〈あるいは何か思惑があるのか、だね。ま、いいや。これだけでも収穫だろ〉
一人うんとうなずくと、カゼスは改めて笑顔になった。
「ともかく、力を貸して下さってありがとうございました。次に会う時は味方同士だといいですね。それじゃ……」
三人がそれぞれ目礼やうなずきを返す。その後カゼスは先に組み立てておいた呪文を小さく唱えた。シャフラーがもう一度礼を言おうと口を開いた瞬間、現れた時と全く逆の現象が起こった。カゼスの姿が消えて、突然、消えた書類や室内の物が降ってくる。
紙の最後の一枚がひらりと元通りの場所に収まった時には、そこに魔術師がいたのが夢であったかのように、気配すら残っていなかった。
ただ、シャフラーの手の中で、シャラン、と澄んだ響きがしたほかは。




