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帝国復活  作者: 風羽洸海
第一部 ティリス内乱
2/85

一章 遭遇 (1)



 碧空の高みから風が駆け降りてくる。

 地平まで緑の草原が続き、その向こうにぼんやりと高地の山並みが霞んでいる。風が吹くと草原は歌い、さざめきを彼方まで運んで行く。波打つ草の葉が優しく頬をなぶり、羽虫が時々陽光に透ける羽を光らせて通り過ぎる。

 乾いた大気は草と日なたの匂い。深い青空を寝転がって見上げていると、天地が逆転して落ちて行きそうだ。薄い小さな雲の下に、鳥が輪を描いてゆったりと飛んでいる。

 すぐそばでもしゃもしゃと草を食んでいた鹿毛の馬が、いつまでも動かない主人の頭を鼻面で押した。

「分かった、分かってる……もう帰る時間だ、と言うのだろう?」

 青年になりかけている少年、という年頃だろうか。陽光を集めたような金髪の頭がむくりと起き上がり、褐色に日焼けした指がぐしゃぐしゃになった髪を梳く。金のサークレットをはめ、少年、エンリルは残念そうに立ち上がった。

 青褐色(あおかちいろ)の目でぐるりを見回し、はあ、とため息。まだ幼さの残るその表情には、しかし、年齢不相応に老成した雰囲気が漂っている。それは、生まれながらにして負わされた王太子という肩書のせいかも知れない。

 王宮に戻れば、また嫌な面々と顔を合わせなければならない。その代表たる顧問官を思い出し、彼は不愉快げに首を振った。

(女狐め……くそ、こんな時にまで気分を害されるとは)

 長い銀髪と、細く吊り上がった深紅の目。ちょうどエンリルが生まれた頃に海の民が侵略してきた為に、デニスは混乱し……それに乗じたああいう素性の知れぬ胡散臭い輩をのさばらせる結果となったのだ。

 眉間にしわを刻んでむっつりと立ち尽くしている主人を案じるように、馬が頭を擦り寄せてくる。

「うわっ、と、よさないか、こら」

 盛大に鼻水をなすりつけられそうになって、慌ててエンリルは飛びのく。そんな仕草をすると、突然彼は幼くなるようだった。

「仕方ない。さあ、戻るか」

 諦めのため息をつき、彼はひらりと身軽く鞍にまたがった。

 掛け声と共に、柔らかな革のブーツの踵で軽く腹を蹴る。簡素な麻の上着が、風を受けてはためいた。

(このまま何処かへ去ってしまえたなら)

 遠駆けする度に訪れる誘惑が、また胸をかすめた。が、所詮それが叶わぬ望みであることは、誰より彼自身がよく知っていた。

 緑の原を抜けると、ぽつぽつと建物が姿を見せ始める。日干し煉瓦や泥壁の建物が、やがて密集し、街になる。旧市街に入りきらなくて、市壁の外にあふれだした民家だ。エンリルは馬の速度を落とし、通行人に気を付けながら歩みを進める。

 裸足で駆けまわる子供たち。方形の家の、扉のない玄関口で座り込んで話に興じる老人たち。洗濯物を満載した籠を頭に乗せて運ぶ女。

 水汲みに行く途中なのだろうか、小さな瓶を抱えた子供がエンリルの姿を認めて、ぱっと笑顔になった。

「エンリル様! ごきげんよう」

 その声で、何人もが振り返る。エンリルは気安い笑みを返し、トッ、と馬から下りた。途端にわっと人だかりができる。

 子供たちをかき分け、一人の老人がエンリルの前に進み出て頭を下げた。

「王太子様、この間はわしごときの為にわざわざ薬を届けて下さって、ほんにありがとうございました……おかげさまで、この通りすっかり良うなりまして」

「それは良かった、イスハークも喜ぶだろう。効かなかったら侍医を辞めさせると脅しておいたからな」

 朗らかに笑ったエンリルに、老人はふしくれだった手で小さな包みを差し出した。

「こんなもんしかお礼が出来ませんで申し訳ございませんが、どうぞお納め下され」

 エンリルは怪訝そうにしながらも受け取り、しわくちゃの油紙を開いた。中には、粗末な焼き菓子がいくつか入っていた。一般家庭では祭りの時ぐらいしか作られない物だ。

 しばしそれを見つめ、ふと視線を外すと物欲しそうな子供たちの顔と出合う。エンリルは菓子を包み直すと、老人の手に返した。

「ありがとう。だがこれは、私よりもこの子らにやるが良かろう。そなたらは日々の暮らしも楽ではない中から、安くもない税を納めてくれているのだから」

「そうはおっしゃっても……あっ、こりゃ!」

 渋る暇もない。エンリルの言葉が終わるや否や、子供たちがわっと菓子の包みに飛びかかって奪い合いを始める。その様子を笑いながら見ていたエンリルは、おっと、と我に返って馬の手綱を引き寄せた。

「すまぬが、今日はあまりゆっくりしておれぬのだ。王宮に戻る途中でな。また近々、様子を見に来よう」

 子供たちが不満の声を上げる。エンリルは苦笑してそれをなだめ、馬上の人となった。立ち去りかけたところへ、女たちがあれやこれやと差し入れを押し付けてくる。決して裕福な人々ではないと言うのに、税とは無関係に食べ物や小さな装飾品などを「エンリル様に」と差し出してくれるのだ。

 エンリルは別に女ばかりに親切というのでもなかったし、稀に見る美形というわけでもない。彼女たちの好意は、それを受けるに値する行動に対するものだった。

 結局、何やかやの土産を鞍の前に抱えて帰還したエンリルは、門番の苦笑に出迎えられることになった。

 王宮の中庭に通じる門をくぐり、迎えに出てきた馬丁に土産物と馬の世話を任せ、エンリルは侍医の部屋へと足を向けた。

 王宮も民家と同様、木扉の類は殆どないが、代わりにとりどりの色鮮やかな絹のカーテンが掛けられている。すれ違う官吏や侍従たちが慌てて脇に避け、深々と頭を下げる。

 薬草庫を兼ねた診療室に着いてみると、幸いそこの主が在室していた。

 部屋の中は狭苦しくごちゃごちゃと様々な物がひしめいており、正体もよく分からない薬草の香りが、あらゆる所に染み付いている。すっかり白髪になった侍医は、エンリルが現れたのを見ると、いきなり精一杯恨めしい顔を作って見せた。

「イスハーク、何事だ、その顔は。せっかく人が良い知らせを告げに来たというに」

 さすがにエンリルもたじろぐ。イスハークはその芸術的表情を崩さず、ずいっと近寄ると前置きなしに言った。

「今度は腫れ物ですか、腰痛ですか、それともつわりですかな?」

「実はどうやらそうらしい」

 真面目を装った顔で老医師の厭味をいなし、相手ががくりとうなだれたのを見てエンリルは苦笑した。

「冗談はさておき、先日貰った腰痛の薬はよく効いたらしい。良かったな、これで当分首は安泰だぞ」

「殿下がそうおっしゃっても、安心はできませぬよ」

 いじけた風なイスハークの言葉に、エンリルは表情を改めた。

「誰かがそなたの地位を危うくするような事を?」

「ええ、ええ。会計係の方から監査が入りましてね。ごまかすのに苦労致しましたとも、本当に。ありのままを申し上げますれば、殿下はほんのひと月の間に、腰痛と風邪と下痢と痛風と腫れ物と癲癇とを患い、毎日二箇所以上は負傷されたことになるのですからな! それが、どうして今、私の目の前におわする王太子殿下は、非の打ち所なく健康でいらっしゃるのでしょうなぁ?」

 言葉の後半は、エンリルの耳には届いていなかった。途中で事情を察した病弱な王太子殿下は、耳をふさいで明後日の方を向いてしまわれたからである。

 どうせ効果はなかろうと分かってはいたらしい、イスハークは諦めた風にため息をついて、やれやれと椅子に座った。

「ご用がそれ以上おありでないのなら、どうぞご自分のお部屋にお戻り下さい。老人には殿下の活力は毒になりまする」

 疲れた声音だ。エンリルは申し訳なさそうに、ぽんと医師の背を叩いた。

「すまぬ。そなたにはいつも無理をさせて……本当に、感謝している。今の私にはしてやれる事もさほどないのだが、何としてもそなたの地位と名誉は守ろう。誓って」

「地位も名誉も構いませぬゆえ、せめて寿命を守って頂けませぬかの。それ、殿下のお帰りが遅いと、守役殿が探しに来られましたぞ」

 老人が視線で示し、エンリルは驚いて振り返った。と、廊下の向こうから黒髪の青年が急ぎ足にやって来るのが目に入る。

「アーロン!」

 無邪気な笑顔になり、エンリルは青年を呼んだ。

 青年はまだ二十五、六歳といったところで、理知的な鳶色の目をしている。全体の色彩的には、エンリルと並ぶと白と黒ほど受ける印象が違った。高地に端を発する皇帝一族のエンリルと違って、海の民の血を引いている証拠だ。体格は長身だが均整がとれており、剣を外し黙って立っていれば、学者にでも見えそうな雰囲気だった。

 その青年、アーロンは、エンリルの声に呆れ顔を見せ、次いで苦笑した。

「お帰りなさいませ、殿下。またイスハーク殿を困らせておいでですか?」

「心外だな」

 エンリルは憮然として見せたが、その場の誰の同情も得られなかった。イスハークなどは、しっしっと手を振ったほどだ。

「守役殿、いっそ殿下の首に縄でもかけておかれてはどうですかな。これ以上老いぼれを疲れさせる前に、とっとと捕まえて檻に連れ戻して下され」

「イスハーク殿、私が守役だったのは昔の話ですよ。今ではエンリル様も立派な成人なのですから」

 アーロンは生真面目に答える。イスハークは鼻を鳴らした。

「立派な成人というものは、敬老の精神を持ち合わせておるものではござらんかな? ともあれ、ここは病人怪我人の為の場所。いつまでも頑健な腕白小僧二人に占拠されていては、困りますぞ」

 腕白小僧扱いされ、アーロンは目を軽くみはった。隣でくすくす笑いを押し殺しているエンリルを見やり、ため息をつく。

「殿下のせいで私までお仲間にされてしまいましたよ。さあ、早く戻りましょう」

「私のせいか?」

 エンリルは眉を片方上げて、疑問符と皮肉を同時に示した。アーロンは真面目くさった顔で、重々しくうなずく。

「そうです。さあ」

 腕をつかまれ、エンリルはまだ笑いながらもイスハークの部屋を後にした。

 自分の部屋に向かう道すがら、エンリルはやっと真面目な顔に戻って言った。

「それで、わざわざ私を探しに来たというのは?」

「テマの街からまた討伐隊の要請が。再三の請願にもかかわらず捨て置かれるのはいかなる所存であらせられるかと、陛下に対する疑念さえ表するほどの怒りようです」

 淡々としたアーロンの答えに、エンリルは眉をひそめる。

「それで……父上は何と?」

 アーロンは首を振っただけだった。エンリルはため息をつき、憂鬱な表情になる。

「いったい父上はどうされたと言うのだろう? 昔はああではなかった。たとえ辺境の街ひとつと言えども、得体の知れぬ化け物に脅かされているとあらば、真偽はともかく放置される筈はないのだが」

 きゅ、と唇を噛む。

 もう何ヶ月も前から、テマ付近の砂漠に怪物が現れて旅人や隊商を襲うという知らせが届いている。エンリル自身、はじめは何かの間違いだろうと思った。その報告から想像される姿は、神話伝説の中に出て来るどのようなものとも似ていなかったし、しばらく知らせが絶えた時期もあったからだ。

 だが、近頃また、怪物が動き始めたらしい。軍隊か、せめて兵士の数人でもと矢の催促だ。にも関らず国王は、そんな怪物などいる筈がない、いないものに軍隊を派遣するわけにはゆかない、の一点張り。

「……よし。私が行こう」

「殿下!?」

 突然の発言に、アーロンはぎょっとする。エンリルが本気らしいと見て取ると、彼は慌ててそれを止めにかかった。

「ご自身で行かれるなど、危険すぎます。真偽の分からぬ怪物はさておくとしても、道中で御身に何かあっては一大事。お命じ下されば、俺が参ります」

 二人だけだと一人称が『私』から『俺』に戻る。守役だった頃から変わらぬ親しさの証だ。エンリルは相手が臣従者から保護者に戻っているのを感じ取り、おどけた笑みを浮かべた。

「もちろん、そなたにも同行して貰う。来るなと命じて、我が守役殿の繊細な心にヤスリをかけるほど、無情ではないつもりだが?」

 だが、皮肉の教師でもあるアーロンは動じなかった。

「なるほど、俺の目の前で危険に突っ込んで、髪の毛を一本残さずむしらせるぐらいには非情だというわけですか」

 エンリルは建前だけ申し訳なさそうな顔をして見せ、首を竦める。

「かつら職人でも探しておこう。他にも必要になりそうな者を何人か、見付けておいてくれ。私は父上の許可を頂いて来るから」

 漆黒の髪の運命を悲観してというのでもなかろうが、アーロンは深いため息をついた。

「……どうしても、思い止どまっては下さらないようですね。致し方ありません」

「頼んだぞ。王太子が動き出したとあっては、国王陛下もぼんやりとしてはおれぬであろうから。何とか……父上の注意を喚起できればよいのだがな」

 言葉尻でエンリルは表情を翳らせた。アーロンも冗談の気配を消して黙り込む。先に気を取り直し、エンリルは笑みを作って顔を上げた。

「大々的に兵を動かすわけには行かぬゆえ、視察団という名目にしておこう。怪物が手に負えなければ援軍を要請するし、仮に流言だったとしても気晴らしにはなろう。いずれにせよ少人数だ、ケルカ川を上るよりは馬の方が早い。手配を頼む」

「承知致しました。では後ほど」

 一礼し、アーロンはきびきびと別方向へ去って行く。エンリルはそれを見送り、ふとため息をついた。

 気は進まぬが、仕方がない。

 そんな風情で、彼は父親の執務室へと足を向けた。謁見も終わっている時間であるから、わざわざ着替えに戻るまでもないだろう。

 案の定、国王オローセスは簡素な執務室で文官一人を助手に黙々と政務をこなしていた。高地で紙が発明されてからというもの、重い粘土板はあっと言う間に姿を消しており、代わりに高価ではあるが簡便な紙の書類が、容赦なく机上に積み重なるようになった。便利になったのか不便になったのか、エンリルなどは首を傾げてしまう。

 ともあれ、自分も今はその紙切れを必要としているのだ。

「失礼致します、父上」

 聖紫色のカーテンをくぐって入ると、オローセスが物憂げな目を上げた。

「おお、そなたか。どうした?」

 どこかぼんやりした口調だった。その表情にも精彩はなく、惰性で日々を送っている者に特有の雰囲気が漂っている。エンリルはその徴候を無視しようと努めた。

「テマの街からの要請がしつこく、辟易しておいでだと聞きました。視察を兼ねて私が参ろうと思い、許可を頂きたく参じました次第」

「そなた自ら出向くと申すのか? 戯言に付き合う必要もなかろうに」

「戯言かどうか、確かめて参ります。真偽がどうあれ、王宮内で無聊を持て余している者には良い気晴らしとなりましょう。ついでに街道と駅伝の様子も点検出来ます」

 熱心に説くエンリルに、オローセスも反対する理由を思いつかなかったらしい。一応考えるそぶりは見せたものの、すぐにうなずいた。

「では、腕利きの者を選りすぐって行かせねばな。まずアーロンはそなたから離れぬであろうが、そなたの身に万一の事が起きぬよう」

 その場で彼は視察の命令書と身分証明となる旅券を作成し、エンリルに手渡す。受け渡しの一瞬、その表情が昔日の面影を見せた。

「いずれこのティリスを治める者として、賢明に行動するが良い。余の目が届かぬとて、はめを外すでないぞ」

 僅かな笑みだったが、エンリルには充分だった。

「肝に銘じておきます、父上。それでは失礼」

 鮮やかな笑顔を残し、彼はさっと退室した。長居してもまた気まずくなるだろうし、執務の邪魔をしてはならない。本当はもう少し話をしていたかったが。

(いつからだろう、ああなってしまわれたのは)

 書状を手に、浮かない顔で自室へと歩きだす。

 かつては母親がいない分、オローセスが国王としては前代未聞なほど愛情を注いでくれていた。母親が死んだのは、海の民の攻撃があった時だという。この民族は、かなり昔から散発的にデニス一帯を侵略しようとしてきた。一番最近の攻撃は、エンリルが生まれて間もない時で、彼自身の記憶には燃え盛る炎の印象だけが焼き付いている。

(アーロンが来る前は、どんなに忙しくても私の世話をご自身で見て下さったな)

 泣き虫だったエンリルの為に、睡眠時間を削っても遊び相手をしてくれた。執務室の机の傍らに揺り籠があるというのは、当時かなり噂になったらしい。

 エンリルの記憶にあるオローセスは、いつも溌剌として聡明で、行動力にも恵まれていた。たった今、後にしてきた抜け殻のような姿など、誰が想像しただろうか。

(まるで、あの女の台頭によって虐げられた下級官吏のような……)

 忌々しい思いに唇を噛む。と、その考えを見透かしたように冷たい声がした。

「殿下、テマの街に行かれるとか」

 行く手に、いつの間にか銀髪赤眼の顧問官が立っている。エンリルは眉を寄せ、険しい目で相手を睨みつけた。

 年は四十ほどだろうか。何しろまったく知らぬ人種なので、見当がつかない。鋭い暗赤色の目は、それを見た事がなかったティリス人にとって畏怖の対象となった。もっともエンリルのように、彼女もただの人間にすぎない事を知っている者は別だが。

「それがどうした?」

 エンリルは剣呑な声で問い返す。相手をしたい気分ではなかった。何の根拠もないが、どうしてもこの女を好きになれない。優れた直感を有する皇族の一人としては、その感情を殺してまで愛想良くする必要を認められなかった。

 相手もエンリルに好かれていないことは先刻承知で、怯みもせず言葉を続ける。

「ではお気をつけあそばせ。行く手に暗い影が見えまする」

 託宣じみた喋り方は、元々なのか演技なのか分からないが、確かに一般人を脅えさせる効果はある。そんな点も、エンリルが彼女を気に入らない理由のひとつだった。

「忠告は気に留めておく」

 昨今は王宮内にも暗い影が掃いて捨てるほどあるようだが。そんな厭味のひとつも言ってやりたくなったが、余計な言葉を交わすのも腹立たしい。彼は短く言い捨てると、その場を立ち去った。

 会話を最小限にとどめた効果は、あまり芳しくはなかった。結局エンリルはむしゃくしゃして荒々しい足取りになってしまう。

(何が『暗い影』だ、エセ予言者め! 魔術師だと言うなら、何とでも解釈できる御託宣なぞほざいていないで、それに対処して見せるがいい)

 魔術。古に失われた技だ。神聖デニス帝国と呼ばれていた黄金時代、皇帝の一族は不可思議な力を発揮し、皇族以外の者が奇蹟を行うことを禁じてしまった。それまでは、知識と修練によって、皇族のそれとは異なる奇蹟を示す魔術師なる存在があったらしいが、いまやおとぎ話でしかない。顧問官を除いては。

(皇族の力も、役立たずになりつつあるようだが……)

 ふと自分の能力に思い至り、彼は指先を軽く額に当てる。父親は、ほとんどそれらしい力を見せた事はない。血が薄まっているのだろう。エンリル自身はほとんど直感と本能だけで力を使っていたので、実際のところどの程度のものなのかは分からなかった。

(せめて父上に昔の活力を取り戻して頂けるなら、この力も役に立とうものを)

 それか、あの女をどうにか出来るなら。

 そんな事を考え、彼はため息をついた。いつの間にか足が止まっている。

 と、後ろから追いついて来た男が陽気に声をかけた。

「ご機嫌斜めのようですな、殿下」

「カワード! そなた、まだテマ視察の話は聞いておらぬのか?」

 振り返り、エンリルは笑顔になった。

 鳥の巣のような癖毛の黒髪と、まばらに生えた不精髭は、男を王宮の中で浮き立たせていた。そうでなくとも、丈も厚みもある体格で目立つと言うのに。

 大きな目に悪戯っぽい光を浮かべ、カワードは笑った。

「ついさっき、アーロンから聞き出しましたよ。あの男、私には黙って出掛けるつもりだったようですが。もちろん同行させて頂きますとも。ここのところ、我ら武将は無視して文官連中がせせこましく裏で駆け引きを繰り広げておるばかりで、こちらは体がなまって困っておりますからな。それに王宮におりますと、何かと気に食わぬ事もあります」

 遠慮なくそんな事を言い、彼は肩を竦める。アーロンはじめ他の武将たちと違って、カワードは庶民の出だった。生来の素質と育った環境に培われた性格のゆえに、どうも王宮の居心地は良くないらしい。もっとも、彼との関りが深くならざるを得ない他の者に言わせると、それはお互い様というところだが。

 余人は知らず、エンリルは裏表がなくあけすけなこの男が気に入っていた。

「昨今は魔物も人も落ち着かぬと見えるな、カワード?」

 軽い皮肉に、カワードは口をへの字に曲げた。

「ひどいおっしゃりようですな、殿下。私とて戦ばかりが恋しいわけではござらんぞ」

「そなたが恋しいのは美酒と美女だと聞いたが、今回はそのどちらとも縁がなさそうだぞ。残念だったな」

 笑ってエンリルが言う。カワードは憮然とした。

「どうせまた、あの仏頂面の万騎長がご注進に及んだのでしょう。まったく……殿下にまで誠意を疑われては、たまりませんな」

「そなたの誠意は分かっているさ。それが多少、貴族育ちの面々には分かりにくいだけの話だ。私は疑ったことはないぞ」

 そう言ってエンリルは、カワードの厚い背中をぽんと叩いた。これがアーロンならカワードも「嘘をつけ」と苦笑いしただろうが、相手は王太子殿下であらせられるので、彼は持ち前の懐疑精神を押し殺した。

 と、それを見透かしたようにエンリルは一言。

「いや、一度ぐらいはあったかも知れぬが」


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