五章 雌伏 (3)
午後になると長たちが全員揃って、作戦会議が始まった。戦略のことなど何も分からぬカゼスだが、一応ラウシール様がいないことには格好がつかぬというので、邪魔にならない辺りに引っ込んで成り行きを見守ろうと、既にわいわいやっている部屋にそっと入った。
目敏くそれを見付け、カワードが振り返る。
「お、ラウシール殿が来られたぞ」
「止してくださいよ。私は戦のことなんて、何も分からないんですから」
リトルなら別だが、ここで戦略や戦術の進歩を促してしまったら、この先どうなるやら分からない。すばらしい知恵を拝借するのは、どうしてもという場合に限った方が良いだろう。おとなしくカゼスは壁際に下がった。
「しかし、この手勢だけで王都を攻め落とすのは無理だ」
アーロンが言っているのが聞こえる。
「島の船は出せても五隻、それも小型の船だと言うのなら、王都の港を封鎖するなど不可能だし、アレイア領主が命ずればニーサから船団が押し寄せる……アラコシア領主は沈黙しているが、そちらも脅威には変わりない」
「だが、成功するかどうかも分からん賭けに、島の船を全部出すわけにゃいかねえ」
島の長の一人がそう渋れば、血の気が多い若い者がそれに言い返す。
「あんたはまた、そんな事を言ってっから賭けの見込みが減るんだよ」
ああだこうだと作戦を立てている途中で、どうやら話が妙な方向にずれてきたらしい。カゼスが、雰囲気がおかしいなと気付いたちょうどその時、長の一人が言った。
「船を出せ出せと言うがな、ラウシール様がいらっしゃるってんなら、船が足りなかろうがなんだろうが、勝てる筈じゃねえか」
その言葉に、いっせいに一同の視線が集まる。カゼスは驚いて目を丸くしたが、ここでうろたえては威信が崩れる、とそれ以上の反応は抑え込んだ。それから、嘲りを少々込めた苦笑を作って応じる。
「なるほど。自分達は労せずして甘い汁にありつこうと言うわけですか」
効果はてきめんだった。問題発言の主はもちろん、他にも何人かが赤面し、羞恥と屈辱の相まった表情で目をそらす。まずかったかな、とカゼスが内心舌打ちするほど険悪な沈黙があったが、じきに彼らはまた討議に戻った。
まるで動じていないふりでカゼスは壁にもたれ、軽く目を閉じて腕組みなどする。
しばらくして話がついたのか、クシュナウーズが議論の輪を離れて寄って来た。
「言い過ぎましたかねぇ」
ひそ、とカゼスが言うと、クシュナウーズは肩を竦めた。
「なに、あのぐらい言わなきゃ、島の連中は動かねえよ。元が楽天的ってえのか、苦労だとか嫌な事とかは、避けて通りたがる性質なんだ。放っといたら何もしやしねえ」
手厳しい評に、カゼスは意外そうな顔を向ける。と、クシュナウーズはにやっとした。
「働き者がやって来ると、煙たがられるのさ。うまくすりゃ、働き者がいつの間にか大将になってることもあるけどよ」
「そういうものですか」
ふうん、とカゼスは不思議そうに、もう一度島の面々を見回した。
二人がひそひそやりとりしている間に、解散になったらしくバラバラと島の者が出て行き始めた。エンリルやアーロンはまだ、地図や海図を広げてあれこれと話している。人が減ったので、カゼスはとことことテーブルに近付いて、読めもしない海図を覗き込んだ。
「どうなりました?」
誰にともなく訊くと、アーロンとエンリルが言葉を切って振り向く。カゼスと視線がぶつかると、エンリルはわずかに一瞬、緊張した気配を見せた。
(……?)
何だろう。カゼスは目をぱちくりさせたが、遅まきながら相手が昨夜のことを思い出したのだと気付くと、口の端に苦笑をのぼせた。その反応にホッとしたように、エンリルは小さくうなずく。そなた自身さえ気に留めないのであればそれで良い、そう言うように、彼は普段と変わらぬ口調で答えた。
「ああ……先に、アラコシアの州都コルキスを訪ね、領主アルデュスの意向を確認することになった」
言ってから、エンリルは自分の言葉に複雑な苦笑を浮かべる。
「確認と言うより、決定を迫ると言う方が正しいな。島の者が言うには、コルキスには自警団のような船団があるらしい。それを配下に入れられたら、ニーサの船団が来たとしてもなんとかなるだろう……とな。いずれにせよ、彼らは手勢をこれ以上貸してくれるつもりはないらしい」
「アルデュス殿は幸い、殿下とも面識がある。事情を話せば力になって下さるだろう」
アーロンが補足説明を入れる。カゼスはふんふんとうなずいて、地図を眺めた。
王都のあるティリスは、西にあるアレイア領からアラコシア領にかけて湾曲した地形に連なっており、その広大なティリス湾に向かって飛び出した岬に王宮が位置している。
この岬にある港を封鎖すれば、あとは狭い陸路を遮断するだけで補給線を断てる。だが、一見危険な位置に王都があるのは、それなりの理由があるのだ。
仮に港を封鎖しても、そこから攻め上がるにはかなり困難な険しい崖がそびえているし、それなら兵糧攻めで、と思っても、背後に当たるアレイア領が無事ならば、数日で援軍が到着して退路を断たれてしまう。
そういった戦略上の事情から、アレイアには昔から強力な船団が組織されているのだ。それが今、皮肉にもエンリル達にとっての障壁となっている。
だがもし、西のアラコシアからの船が確保出来れば、アレイアを背後から脅かしてその戦力を分断することも可能になるだろう。
「なるほど……でもあんまり派手に船を動かしたら、アラコシアはエラードとの国境だから、危なくないですか?」
シンプルな戦略でありがたいけど、などと考えながら、カゼスは指先で海岸線をなぞる。アラコシアの州都コルキスは、殆ど国境に接すると言っても良いほどの位置にある港街だ。そこから船団が大挙して東へ出て行けば、国境の守りがガラ空きなのは一目で分かる。
カゼスの指摘に、エンリルとアーロンは揃って無言のまま地図を見下ろした。
「……参ったな。いずれにせよ戦力不足か。内乱に付け込まれては元も子もない……」
苦々しくエンリルが言う。あれっ、とカゼスは目をしばたたかせた。
「もしかして……考えておられなかった、とか?」
返事は沈黙であった。カゼスも、どうとりなせば良いのか分からない。
「王都にいれば情報が入るのだがな」
うっかりしていた、とエンリルが唸る。どういう事か、とカゼスが目で問うと、エンリルはため息をついてから答えた。
「エラード側に放った密偵が、定期的に知らせを寄越すのだ。私が王都を離れた頃は、エラードには何の動きも見られず、ただ何やら寺院をやたらと建築しているとかいう事で、軍事面の増強はまったく見られなかったのだ。それで安心していたのだが……どんな変化があるか、まるで分からぬのではな」
楽観はできぬか、とエンリルは険しい目で地図を睨む。
「ゾピュロス殿……でしたっけ。アレイア領主」
カゼスが言うと、途端にエンリルもアーロンも、黙ってそばで聞いていたイスファンドやウィダルナまでがしかめっ面になった。ダスターンなど、隠そうともせず悪態をついたぐらいだ。
カゼスはきょとんとして皆を見回した。
「どうしてそんな反応をするんです? ダスターンを助けて下さったんでしょう」
「あれはイスハーク殿が手を回されたからだ」
その話をするな、とばかりの勢いでダスターンが言った。
「あの男の事など、思い出しただけで腹わたが煮えくりかえる!」
その激しい反応に、カゼスはぽかんとする。困った顔になって、それでもめげずに彼は意見を述べた。
「でも実際問題、その人がこちら側についてくれたら、何もしなくても勝てるようなものでしょう?」
「つけば、な」
渋い顔でカワードが会話に割り込んできた。聞いていたのか、とカゼスは驚いて振り向く。カワードはいつもの陽気さを残してはいたが、かなりその程度を減じていた。
「あの男は根っからの貴族だからな。自分の領地を危うくするような賭けには乗らぬだろうよ。俺やアーロンなどは、仮にエンリル様が負けても失うものは俸給ぐらいだが、あの男はそうは行かぬからなぁ」
「さりげなく同列に扱うのはやめろ」
ムッとしてアーロンが言う。もっとも、その不機嫌の大半はここにいないゾピュロスの方に向けられているのであろう。カワードもそれが分かるからか、おどけて肩を竦めた。
「おおそうだった、おぬしも貴族の坊ちゃんだったな。ド田舎の、ちまっこい領地の」
アーロンは嫌そうな顔をしただけで、言い返さない。カゼスはつい失笑し、慌てて表情を取り繕った。
「なんとか、王都の内情を探れたらいいんですけどね。国王陛下の安否も気に掛かるし、ゾピュロス殿や、その他の貴族もいるのなら……彼らがこちら側にどの程度敵対しているのかを知りたいし」
「そんな事が出来るとしたら、奇蹟か魔術だな」
苦笑しながら言い、エンリルははたと気付いてカゼスに目を向けた。
周囲の者も、カゼスをまじまじと見る。その視線に気が付いて、カゼスはやっと、自分が何を期待されているのかを悟った。
「えっ……で、でも私は、無理ですよ! だって王都には行った事がないから『跳躍』する事はできないし……魔術の『目』を使ったら一発で顧問官に見付かってしまいますし」
あたふたと言い訳し、一同ががっかりしたのを見てカゼスは首を竦めた。
その拍子に懐で飾りがチャリッと鳴り、シャフラー総督の事を思い出させる。
「私も、出来るなら総督にちゃんと会いたいんですが」
カゼスがつぶやくようにそう言うと、ダスターンが嫌悪の表情になった。
「あの豚! 陛下に讒言してエンリル様を罪人に貶めた輩など、魔物に食われるがいい」
思わずカゼスはムッとなって言い返していた。
「あなたはエンリル様に仕えているから、そんな風に思えるんです。あの人はこれまで王家に関るなど夢にも見ない人生を歩んできたんですよ、そんな人が顧問官に騙されたり脅されたりすれば、簡単にいいなりになる事ぐらい想像がつくでしょう」
「ならばその愚かしさこそ、責められるべきだ」
ダスターンが言い返す。この少年のこうした心情を察していたからこそ、エンリルは昨日、あれほど冷たい物言いをしたのだ。カゼスはきっと相手を睨みつけた。
「自分が絶対だと思う人にすべての人が従わねば不服なんですか、あなたは。すべての人間が、あなたの主君に対して命を捧げなければ不満ですか」
カゼスの口調は平静だったが、恐ろしく威圧感があった。ダスターンがたじろぐと、カゼスは苦々しい表情で言い切った。
「それでは、あなたも顧問官も変わりない」
「な………!」
さすがにダスターンは息を飲み、顔色を変える。
「なんだとっ! 私があの女狐と同じだと!?」
「彼女は……彼女たちは、自らが信ずる神を他の者にも信仰させようとするあまり、常軌を逸した行動に出たのです。あなたもある意味では狂信者でしょう」
「もう良い、止めろ」
厳しい声が口論を遮る。二人が振り返ると、エンリルが不機嫌な顔で睨んでいた。ダスターンはうろたえ、しかしカゼスは変わらず平静に、エンリルを見返した。
エンリルはカゼスの視線を真っ向から受け止めて、しばし沈黙する。それから小さくため息をついた。
「ダスターン。そなたの忠誠と熱意はよく分かっている。だが時折そなたは度を越すようだな。少し冷静になって、カゼスに言われたことを考えてみるが良い」
たしなめられ、ダスターンはカッと真っ赤になって、敬礼もそこそこに部屋を飛び出して行った。カゼスはその姿を見送り、それからエンリルに対して頭を下げる。
「出過ぎたことを申しました。殿下が波風を立てまいと骨折られたのを、無駄にしてしまいましたね」
「構わぬ。いずれダスターンとは衝突するだろうと思っていた。そなたの事ではなくとも、他の誰かの事で、な。だからそれは構わぬのだが……あまり荒っぽい方法で私を試さないでくれ」
やれやれ、とエンリルはもう一度ため息をつく。カゼスは顔を上げ、微笑した。
「私も少しは人を見る目があったようで、安心しましたよ」
「どうせアーロンに何か吹き込まれたのだろう?」
ふん、と皮肉っぽくエンリルは言い、アーロンを睨む。睨まれた当人は、心外な、とでも言うような顔をして見せた。
カゼスはちょっと笑い、それから真面目な顔に戻って言った。
「行き過ぎた忠誠心は問題になります。エンリル様に対してもそうですし……より問題なのは、私の方ですが。ラウシール信仰みたいなものが私に向けられると、エンリル様がないがしろにされる恐れもありますからね」
そして、先刻のフィオの言葉をアーロンに伝える。
「今はまだこの程度ですが……何かの折にエンリル様と私が意見を違えた場合に不都合が生じるほど、私に対して期待や忠誠心を抱かれると困るんですよ。だからもし、『ラウシール』に対して過剰な意識をもつ人がいたら、たしなめておいて下さると助かります」
「おやおや、そなたには野心がないのか? うまくすれば、ティリスを奪還した時に玉座に座るのは、そなたになっているやも知れぬぞ」
くすくす笑って、エンリルは悪戯っぽくからかう。カゼスは渋面になった。
「私はそんな器じゃありませんよ。それは、ここにいる皆さんもよくご存じでしょう」
あっさり「確かに」とうなずく者が多数。カゼスは苦笑しようとしたが、より早くアーロンがいつもの生真面目な口調で言った。
「おぬしは支配的ではないからな。エンリル様やオローセス様は、寛大だが人を支配する力をお持ちだ。だがおぬしはそうではない。むしろ、人の間にゆっくりと浸透して行くような影響力を持っている」
「…………」
カゼスは苦笑しかけた表情のままぽかんとし、それから困ったように頭を掻いた。
「過大評価ですね、それは」
「あながちそうとも言い切れぬでしょう」
イスファンドが穏やかに言う。カゼスが振り向くと、彼はにこりとした。
「現に我々は、素性も得体も知れぬあなたを同志として受け入れているではありませんか。テマのアスラー殿も、先程の少女も、皆いつの間にかあなたの影響を受けているのですし……やはりそれは、なにがしかの素質があなたに備わっているからだと思いますよ」
「褒め過ぎですよ。私なんか、元々全然パッとしない凡人なんですから」
カゼスは赤面して、慌てて首を振る。イスファンドは小さく笑った。
「そう言われると、ますますアーロン卿の援護をしたくなりますね」
「……つまり今のは、私をからかっていたんですか?」
脱力感をおぼえつつ、カゼスは上目遣いにイスファンドを睨む。
「おや、滅相もない」
イスファンドはとぼけたが、カワードがやれやれと内情を暴露した。
「まったく、上にいるのがあれだから、部下まで真面目な顔でふざけおるわ。アーロン、おぬしの分身を増やさんで貰いたいもんだな」
すると、真面目な顔の万騎長は部下と一緒に応じたのだった。
「俺はふざけてなどおらん」
「我々はいつでも真面目ですよ」
その言葉の信憑性のなさは、エンリルの笑い方で判断出来るというものだった……。
ともかくその日から、出港の準備が始まった。
結局、王太子一行と共にアラコシアのコルキスまで来るのは、クシュナウーズが率いる五隻の小型船だけという事らしい。商船一隻を襲うなら充分余裕のある戦力だが、コルキスの自警団とまともに戦える状態ではない。
自警団の目を船団で引き付けている間に、エンリルだけでも密かにアルデュスと会い、話をつけることが狙いになる。
〈やっぱり、『跳躍』できるに越したことはないよなぁ……〉
〈マーカーなしで、ですか? 私は魔術に関しては一般知識の及ぶ範囲しか理解できませんが、通常、一度その場所に訪れて『目印』をつけておかなければならないものなんでしょう? 優れた魔術師ならば、地図と写真だけで術を行使できるというデータもありますが、あなたの場合はどう考えても無理だと思いますがねぇ〉
すらすらとリトルが反論する。カゼスはもうほとんど日常の儀式と化した妄想の中で、リトルを団子と並べて串刺しにしてみたり、表面に電球のメーカー保証マークを描いたりして、憤懣を片付けてから答えた。
〈でも、ここはデニスだよ? 桁違いに力場が強いんだ。もし総督がティリス王都にいるなら……この飾りに残る微かな思念を辿って、『跳躍』が可能かもしれない〉
〈仮にそうだとしても、シザエル人が技師でも学者でもなく魔術師であるという事は、魔術を使って向こうに着いた途端に警報装置を鳴り響かせるようなものでしょうが〉
そう、問題はそこなのだ。カゼスは沈黙し、険しい表情で考え込む。
〈実はね……やって出来ないわけじゃないんだ、痕跡隠し。たまにこれを利用してせこい犯罪に手を出す奴がいるから知ってるんだけど……さすがに長距離の『跳躍』でこれをやるとなるとなぁ……危険なんだろうなぁ〉
話しているのか独り言なのか、もう分からなくなっている。カゼスはため息をついた。
あらかじめ、行先と元の地点とに交換する空間、即ち転移陣を用意しておく転移魔術と違い、『跳躍』は一方的に物や人を送り込む為、力の動きが“騒々しい”と言える。
界を渡るのでなければ、転移のように行く先の空間を全く同じ瞬間に同じ方法で『跳躍』させて交換することで、魔術的な痕跡はかなりの部分、隠すことが出来るのだ。少なくとも魔術を行使したその時すぐに、相手に気付かれるという心配は、まずない。
と言っても実際問題、きちんと力場位相の変動を調べれば、すぐにどのような魔術が行われたのかは判明してしまう。おまけに移動先の物が元いた場所に現れたりして、一目瞭然になってしまうことも多い。犯罪に利用するには労力の無駄だ。
だが、今回の場合、しばらくの間だけ顧問官に見付かりさえしなければ良いのである。まさか単身、無謀な『跳躍』をしてまで城に偵察に来るとは思うまい。顧問官が不審に思う前に用を済ませて帰れば、気付かれはしないだろう。
〈やってみる……しか、ないな〉
唇を噛んで、カゼスは人気のない場所を探して歩き始める。
〈本気ですか!? そんな事をして、無事ですむとは思えませんよ!〉
〈でも、ぐずぐずしてはいられないよ。私達が動き始めたのに気が付いたら、顧問官は国王に何をするか分からない。今の内に健康状態だけでも確かめておかないと……それに、ダスターンみたいに総督を憎んでる人は、少なくないと思うんだ。なんとかしないと、エンリル様が王都に入る時には殺されてるかもしれない〉
カゼスは無意識に、顔をしかめていた。
〈権力者同士の争いに、ごくささやかな生活を送っていた市井の人を巻き込んで死なせてしまうなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。そりゃ、彼は私達にとってなくてはならない人間だってわけじゃないだろうし、彼が稀に見る善人だとか言うわけでもないけど〉
でも、それが普通の人間なんだ――と、カゼスは自分を振り返る。何の取り柄もなく、誰の信奉者というのでもなく、とりあえず日々を送っている……そんな人間。たまたま運悪く巻き込まれ、敵方に与する結果となったからと言って、何の価値もないかのように殺してしまって良いものではないだろう。
〈私だったらそんな支配者は嫌だね〉
そう締めくくると、カゼスはぐるりを見回して人に見られていない事を確認した。
〈やれやれ、あなたは妙なところで頑固なんですから……分かりましたよ、付き合いましょう。大丈夫、周囲に人間はいませんよ〉
〈どうも〉
軽く礼を述べると、カゼスは呪文を忙しく組み立て始めた。
そしてまた、不思議な違和感を意識の片隅で自覚する。
コンナニカンタンナハズハナイノニ。
複雑な呪文を組み立てる時はいつも、何度もやり直し、訂正し、それからやっとまともに発動させられると思って解放すると失敗し……
だがそんな意識も、すぐに輝かしい力場のイメージの中に消えてしまう。手で触れられそうな、馴れ親しんだ感覚。様々な『力』が、それぞれの軌跡を描いて動き続ける場の中にいると、何もかも忘れてしまいそうになる。
半ば無意識の内に、カゼスは呪文を唱えていた。
輝く『力』がカゼスの精神に流れ込み、働きかける。握り締めた胸飾りから、微かな思念がこぼれて道を開いた。
弱く、消えてしまいそうな思いが、記憶と重なって映像や音声の渦を作る。カゼスの知らない家族の姿が現れては消え、後ろへ飛び去って行く。
やがて、その渦の底に一人の男が現れた。シャフラー総督だ。机に向かって、何やらせっせと仕事をしているらしい……
(あ、まずい、ここに出たら)
そう思ったものの、軌道の修正はいまさら出来なかった。
総督は先日までゾピュロスが使っていた部屋で、山積する繁雑な事務処理を精力的に片付けていたが、突然近くの書類の山が風もないのに舞い上がり、虚空に吸い込まれたのを見て、その場を飛びのいた。
「なっ、何だっ!?」
叫びと同時に、そこには青い髪の魔術師が立っていた。どこからやって来たとも言えない、ただ忽然とそこにいたのだ。
「あ……あ、ああ」
言葉にならないかすれ声を震わせ、総督はじりじりと後ずさる。そして足を滑らせ、床に尻餅をついた。
カゼスはしばらく、虚ろな目をして立ち尽くしていた。足元に、一拍遅れて現れたリトルが転がる。その精神波もカゼスの意識には届かない。
「わわわ……だ、誰か」
総督が助けを求めてきょろきょろすると、その動きに誘われたように、カゼスは一歩、踏み出した。そして、握り締めたままだった飾りをスッと突き出す。
「これ、を……」
視線は彼方を向いたまま、カゼスはそう言った。総督はごくりと喉を鳴らし、恐る恐る立ち上がる。そっと近付いて、突き出された手が握っている物が何なのか確かめようとした、その矢先。
シャラン、と胸飾りが落ちた。カゼスの手が力を失い、だらりと垂れる。そのままカゼスは床にくずおれてしまった。
「な……何なんだ? 一体どうして」
つぶやきながらも、総督は聞き覚えのある音、見覚えのある形にひかれて、床に目を落とす。脳がその物を認識するかしないかの内に、別の物音が彼の注意を引いた。
足音だ。革靴の底が床石を打つ規則的な音。
何の対処も出来ずに総督が凍りついている間に、足音の主が部屋に入って来た。
「どうだ、シャフラー。少しは片付いたか? 官吏どもはおぬしの腕前を絶賛しておったが、どれほどの……、」
言葉が途切れる。片方しかない目で、声の主、ゾピュロスは、固まっている総督を睨んで訝しげに眉を寄せる。そして、視線が下に移動し……固定された。
「どういう事だ、これは?」
問うでもなくつぶやくと、彼はつかつかと倒れている人物に歩み寄る。紛れもなく、床に渦巻く髪は海青色。確かめるように屈んでその髪に触れ、それから、崩れた書類や書物の山に埋もれて眠っているかのような表情を眺める。息はしているようだが……。
「シャフラー、説明しろ。この状況はどうしたことだ」
顔を上げたが、シャフラーは何も答えなかった。彼はまるい指を震わせて、床の胸飾りを拾い上げているところだった。その視線は、血痕がまだ仄かに見える銀の円盤に吸い付けられている。
「ど、どうして、どうして……そんな、どうして」
わななく唇の間から、繰り返し繰り返し、なぜ、どうして、と問いがこぼれる。
ゾピュロスはため息をつき、立ち上がると書類や巻紙の山を足で崩してカゼスを隠してから、出入り口の方に向かって呼ばわった。
「衛兵! イスハーク殿をここまでお連れしろ」




