五章 雌伏 (2)
取り残された暗闇の中で、カゼスはもう随分薄らいだ悪夢の残像を追いかけていた。
(あれは夢……? ただの夢? そんな筈はない。あれは記憶だ)
リトルに確かめれば分かることだ、と考え、はたとカゼスは気付いた。そう言えば、リトルはどうしたのだろう? クシュナウーズが忍び込むのを見ていたのならば、あんな事態になる前に、空中放電でもして追い払ってくれたら良かったものを。
〈リトル? リトル!〉
呼んでみたが、返事がない。もしかして、とカゼスは総督府での一件を思い出した。
カゼスが精神に強烈な衝撃を受けた場合は、リトルにもその影響が出るという。では、今回のような場合は? 復旧不可能なまでに被害を受けていたら?
ぞくり、と寒くなる。と同時に、電子音が意識に届いた。
〈チェック、オールグリーン、復旧完了〉
〈リトル! 良かった、無事だったかい〉
ほーっ、と深い安堵の息をもらす。部屋の隅から、ころころと水晶球が転がって来て、ふわりと飛び上がるとカゼスの横に潜り込んだ。
〈驚かせないでくださいよ。いったい何があったんですか? あなたが酔い潰れて運ばれて来たのは見ましたが、その後からどうも調子がおかしくなって……〉
ぶちぶちぶち。愚痴るリトルに、カゼスはイメージをまじえて精神波でその時の状況を簡潔に伝えた。言葉ではなく精神波での伝達が出来る分、悪夢の説明も簡単に済む。
〈……それで、おまえに訊こうと思ってたんだ。私のこの……悪夢は、ただの夢なのか、それとも実際にあった事なのか〉
リトルが答えるまで、しばらく間が空いた。それは、所有者に事実を伝えてその心に激しい動揺をもたらしても良いものかどうか、判断をつけかねているかのようだった。
〈私のメモリにある情報から判断する限り、それは事実です〉
ややあって、リトルは回りくどい答えを返した。
〈? どういう意味だい、それは〉
〈つまり……私自身の記憶は、その期間を含めてあちこちが欠落しているのです。後から外部情報によって得た内容では、あなたが殺されかかった時に正当防衛によって過失的に相手を殺してしまった、ということですが〉
〈やっぱり、じゃあ、あれは私がやった事なのか……?〉
カゼスは下唇を噛んだ。あの、凄惨な有り様は。
〈さあ、すべてがあなたのしわざとは言えないでしょう。過失的に、ということですから、あなたには相手を殺害する意図はなかったと判断されます。あなたの記憶に誇張があることも充分考えられますしね〉
そうであってほしい。なんとしても。
カゼスはため息をつき、それ以上つらい記憶を掘り下げるのはやめた。事実だと分かっただけで、今夜はもう充分すぎるほどの打撃を受けた。もうたくさんだ。
無理やり目を閉じると、まじないが効いたのか、意外なほどすんなりと眠りがカゼスを包み込んだ。
深い水の底を漂うような感覚だった。
(夢――?)
カゼスはぼんやりと意識する。まるで宇宙の深淵のように、星の光が優しく輝いている。だが宇宙そのものではない、水の揺らめきのようなものが時折、光を歪める。
(ここは、気持ちいい……)
ゆっくりと漂う内に、開いた傷口に光が集まって癒されて行くような。
(ああ、そうだ)
何かを、ふいに確信する。意識の奥底に眠っている何か、意識の上層には決して浮かび上がることのない何かを。
そうだったんだ……
目覚めはすっきりしており、カゼスは幸いフィオに寝起きのぬぼーっとした顔を見せずにすんだ。元気の良い少女はカゼスを起こしに来て、もう当人が着替えも済ませていることに驚いた。
「残念、もうちょっと早かったらラウシール様の寝顔が見られたのになぁ」
本気でそんな事を言うフィオに、カゼスは苦笑するしかなかった。
「見られたものじゃありませんよ。あ、それからフィオ、私には一応、カゼスって名前がありますから……」
「分かりました、カゼス様、ですね!」
「……ええ、まあ」
曖昧にカゼスはうなずく。様、もやめてほしいなぁ、と思ったのだが、どうやらそれは無理な注文のようだ。そんなカゼスにはお構いなく、フィオは何かのミルクとおぼしき飲み物を大きな水差しからコップに注ぎ、トンとテーブルに置いた。一緒に来た小さな子供が、パンをテーブルに載せようと必死で背伸びしている。
カゼスがそれを受け取って「ありがとう」と礼を言うと、子供は真っ赤に頬を上気させ、恥ずかしそうにフィオの後ろに隠れてもじもじした。
「朝ごはん、これと果物を食べておいてください。長たちはまず間違いなく昼まで起きてきやしませんから、それまでゆっくりしててください。それじゃあ」
フィオは言って、ぺこりと頭を下げる。出入り口のところでもう一度立ち止まり、「失礼します」とお辞儀する。「ぃつれえしぁーす」と小さな子供が声を揃えるのが、なんとも微笑ましい。
働き者だなぁ、とその姿を見送り、カゼスは少々後ろめたい気分になった。自分は何をしたと言うのだろう。この島に来てから、髪が青いというだけで世話をしてもらう一方ではないか。
(食べたら、昼までウロついて何か役に立てそうな事を探そう)
そんな事を考えながら、カゼスはミルクを飲んで堅いパンをかじる。まだ少し頭痛が残っていたが、適当に果物を食べるとほとんど感じなくなった。
健康的な朝食をすませると、カゼスは少し体を伸ばし、他の面々の様子を見に出ることにした。
カゼスの部屋は、アーロンとイスファンドの部屋、それにエンリルとダスターンの部屋とに挟まれていたのだが、どちらも既に起きているようだ。朝食の邪魔はしないことにして、その更に隣を覗きに行く。案の定、カワードの水牛いびきが聞こえてきた。
ちょっと中を覗くと、呆れたことにウィダルナも一緒に眠りこけていた。案外あれで、神経は図太いのかもしれない。不幸にして慣らされただけかもしれないが。
ほてほてと当てもなく歩き、カゼスは入り江とは反対側の海を見晴らす崖に出た。
「広いなー……」
当たり前の感想をもらし、カゼスは潮風に目を細めた。故郷の自宅からも海を見下ろせるが、すぐに山に遮られてしまうので、これほど広い視野で水平線が見られるのは新鮮だった。
「おーい、身投げするんじゃねーぞー」
少し離れた場所から呼ばわる声がして、カゼスは振り返った。クシュナウーズが飄々とした足取りでやって来るのが見える。
「誰が投身自殺ですか、縁起でもない」
カゼスは苦笑して言い返す。初対面であれほど嫌悪感を抱いたのに、今では不思議と彼に対して、さほどの怒りもおぼえなかった。軽薄を装った相手の声に、微妙な懸念が含まれているように感じたからかもしれない。
それが錯覚でない証拠に、クシュナウーズはカゼスまで数歩ということろで、一旦立ち止まった。
「いや、その……つまり、もう平気か?」
「人の傷口のかさぶたを剥がすようなことを言わないでください」
やや大袈裟にしかめっ面をして、カゼスは応じる。クシュナウーズは困り顔で、ぽりぽりと頭を掻いた。
「まさか、お嬢ちゃんが古傷を持ってるとは思わなかったんだよ。悪かった。なんだったら、ここから飛び降りて詫びるぜ」
「何を極端な事を。あなたをここで突き落としたって、気が晴れやしませんよ。まあ、平気と言えば嘘になりますけど……今はあまり考えないようにしているんです」
カゼスは肩を竦め、また海に目を転じた。
「なあ、お嬢ちゃん」
「そのお嬢ちゃんて呼ぶの、やめてくださいよ。馬鹿にされている気がします」
うんざりとカゼスが言うと、クシュナウーズはおどけた顔をした。
「俺ぁ別に馬鹿にしてやいねえんだが……機嫌直してくれよ。ほら」
カサ、と音がして、甘い香りがぷんと漂った。何の香りかと驚いて振り返ったカゼスの髪に、クシュナウーズが何かを挿した。
「……これは?」
視界の端に映るものは、白い花弁のようだ。香りからしても、百合に似た花のようだと見当がつく。
「柄じゃねえがよ。ゆうべの詫びにと思って、わざわざ今朝、採って来たんだ。崖っぷちにしか生えねんだぜ」
この男にも羞恥心が残っていたとは驚くばかりだったが、クシュナウーズは照れたように明後日の方を向いて、憮然とした表情を取り繕っていた。
「それはどうも。でもこれは、女性の方が似合うでしょうねぇ」
苦笑してカゼスは花を手に取り、その甘い香りを吸った。
「パッと見た時によ、お嬢ちゃんとその花がぴったり来たんだ。ああ、こいつは真っ白な奴だ、ってな。崖っぷちに一人で咲いてる、混じりっけなしの白だ、って」
クシュナウーズは相変わらず彼方の空を眺めたまま、そんな事を言う。わざわざ白い長衣を用意したのも、その為だろう。
「だからよ、まさか……どろどろした世界なんざ、縁があったとは思わなくてよ」
「……………」
カゼスは黙っていた。悪かった、ともう一度詫びたクシュナウーズの声が、風にかき乱されて飛んで行く。
「いいですよ、もう。怒ってませんから」カゼスはようやく、そう言った。「もう一度やったら、ただでは済ませませんけどね。もう、いいですから」
だからこれ以上、何も言わないでくれ――と。
クシュナウーズは「そうか」と短く言って、振り向いた。
「俺ァてっきり、お嬢ちゃんが女だと思ってたんだよ。やけに男だ男だってえからよ、こいつはなんか隠してやがるな、ってな」
「う……不自然でしたか。やっぱり」
痛い所を突かれて、カゼスは渋面になる。クシュナウーズは「演技が下手だな」と鼻で笑った。それから彼は、突然にやりとしてカゼスににじり寄った。
「まあ、押し倒すのは駄目でも、他にもいろいろと……」
その立ち直りの早さに、カゼスは呆れて目を丸くした。と同時に、実は先刻から近付いていたアーロンが、クシュナウーズの背を蹴り飛ばす。
「おわぁっ! 落ちる、落ちるっ!」
慌ててじたばたしたクシュナウーズに、殺人未遂の現行犯はごく冷ややかな目を向けただけだった。
「懲りるという事を知らん男だな、まったく」
「てめえ、いいとこだってえのに邪魔しやがって、おまけに人を殺す気か!」
クシュナウーズが叫ぶ様は、まるで毛を逆立てて怒る猫のようだ。が、
「おぬしは人でなくて獣だろうが」
しれっと言い返されて彼は絶句し、口をぱくぱくさせた。島ではここまでの毒舌家と相対することはなかったのだろう。その様子があまりに間抜けて見えたので、カゼスはとうとう笑い出してしまった。
その笑い声につられたように、アーロンは微かに笑みを浮かべてカゼスに目を向けた。
「眠れたか?」
「あ、はい、おかげさまで」
慌てて笑いを引っ込めてそう答え、カゼスは昨夜のまじないを思い出して妙に恥ずかしくなり、あたふたと言葉を続ける。
「そうだ、あの、何かご用だったのでは? わざわざここまで来られたと言うのは」
「取り立てて言うほどの用があるわけではないが……昨日の今日だからな、少しばかり懸念があって」アーロンはそう言って肩を竦める。「用と言えば、あの娘……フィオと言ったか? おぬしを探しているようだったが」
「フィオが? 何だろう、何かあったのかな。お先に失礼……っと、どの辺でした?」
慌ただしく言い、カゼスはアーロンから場所を聞き出すと、無意識に花を押し付けて走りだしていた。
呆然とそれを見送り、取り残された男二人は無言で立ち尽くす。ややあってアーロンは、手の中の花に目を落とし、首を傾げたのだった。
建物と耕作地に挟まれた小さな休閑地で、フィオが子供たちを遊ばせている。遠目にそれを認め、カゼスは足を速めた。声をかけようか、と思った矢先、島の者とおぼしき男が少女に近付いて、何やら話し始めた。
邪魔をしては悪いか、とカゼスはためらって足を止める。だが、どうも雰囲気が妙だった。何やら口論している様子だ。子供たちが険悪な空気を察知して、慌てて逃げて行くのが見えた。
どうしようか、部外者が首を突っ込んではいけないだろうな、などとあれこれ迷い、カゼスはその場で逡巡する。が、言い争いが激しくなり、男が手を上げたのを見ると、咄嗟にカゼスはリトルをつかんで投げ付けていた。
適当な目測で投擲された水晶球は、非常に不本意ながら、軌道を自力で修正して男の腕に衝突する。ぼとっと地面に落ちてただの水晶球のふりをしながら、リトルは許されるものならその表面に怒りの青筋マークをいっぱいに表示したい、と憤慨していた。
「ラウシール様!」
パッと顔を上げ、フィオは救い主を見付けたように笑みを広げる。カゼスは小走りに駆け寄ると、とりあえずリトルを拾い上げて汚れを払った。
「失礼、つい咄嗟のことで」
男とリトルの両方に対して謝罪し、カゼスは改めて男に向き直った。
「どういう理由があるにせよ、子供に手を上げるのは感心しませんね」
「ぐ……ラウシール様……こ、こいつは子供じゃねえ、もう一人前の女です! ガキだって産めるんだ、それを連れて行くなんざ、あんまりだ!」
わずかに言葉に詰まったものの、男はすぐに猛然と抗議を始めた。どういう事だ、とカゼスは眉を寄せ、フィオを見下ろす。少女は懸命な瞳で、すがるように見上げていた。
「……説明してくれますね? フィオ」
穏やかに問うと、フィオの目には微かに失望の色が浮かんだ。何も訊かずに男を撃退してくれることを望んでいたのだろう。彼女は沈黙し、それから思い切って言った。
「あたしを一緒に連れて行ってください! ラウシール様のお供をさせて欲しいんです。一所懸命働きますから……身の回りのお世話もします、必要なら何だってしますから! お願いです!」
必死になって懇願するその表情からは、どうもただのわがままとは言い切れないものが読み取れる。
〈どういう事だと思う? 多分彼女、島を出たいんじゃないかと思うんだけど〉
〈そちらの男性の発言から推察するに……フィオは初潮を迎えて既に婚姻の相手が決められているのでしょうね。人口が少ないこの島では、働き手である若者を絶やさないようにする為に、女性は出来るだけ早くから多くの子供を産むことを望まれるのでは? この島の人々は、略奪はしても、奴隷はほとんど取らないとのことですから。婚姻と言いましたが、それも必ずしも男女一人ずつで組になるのではないでしょうね〉
〈かも知れないな……しかもこの場合、彼女は決められている相手が気に入らないと見たね。まさかこの男じゃないだろうなぁ? 年が親子ほど違うぞ〉
嫌な予想を立ててしまい、カゼスは不快げな皺を眉間に刻んだ。
〈可能性はありますよ。デニスでは、力の強い男性がハーレムを形成する傾向があるようです。若い男性は地位も権力もありませんからね、失礼な言い方を許して頂けるなら、お下がりしか回ってこないと言えるでしょう〉
〈本当に失礼だな。それは〉
カゼスはますます不愉快になる。リトルに対してではない。根本的にリトルは機械なのだ、その物言いが超然としていようと、怒りを向ける理由にはならない。原因なのは、そんな物言いをされてしまう社会の在り方だ。
しかしこれも文化・文明の一形態であり、ミネルバ人の価値観で判断してはならない……そう分かってはいても、やはり胸が悪くなる。
カゼスはゆっくりと息を吐いて、フィオの期待通りの行動をしそうになる自分をなんとか鎮めた。それから出来るだけ冷静に、男を見据えて言う。
「フィオはとても聡明な子です。彼女自身が私と共に来たいと言うのなら、私は止める理由を思いつきません。この子は――」
するりと言葉がこぼれ出た。まるで、意志とは無関係のように。
「この小さな島にとどめておくべきではありません。いずれ私一人だけでなく、もっと多くの人の助けとなるでしょう。慣習の軛にこの子をつなぐべきではない……それが私の意見です。異論がおありですか」
引っ込みのつかない言葉を出してしまったな、とカゼスは内心後悔しながら、相手をじっと見つめて答えを待つ。
男は小さな唸りをもらしたが、結局何も言わず、苦々しい表情で諦めて立ち去った。睨んだり捨て台詞を吐いたりはしなかったので、不満ではあるがラウシールに対して敵愾心を抱くほどのことはなかったのだろう。
カゼスはホッと息をついて、フィオの前にしゃがんだ。
「あなたが島を出ること、ご両親は許して下さるんですか? 私達はこれから戦に出るのですから、決して安全とは言えませんよ。私を当てにしていたら、簡単に死んでしまうかもしれません。それでもいいんですか?」
フィオは大きな黒い目に涙をためて、こくりと深くうなずいた。
「ラウシール様のお世話をしたい、って言ったら、母さんは喜んでくれました。あたしは、戦ではお役に立てませんけど、お邪魔にならないようには出来ます。戦場でなければ、出来ることはいっぱいあります。だから……連れて行ってください」
言葉尻で、その目からほろりと涙の滴がこぼれる。続いて一粒、二粒。カゼスは諦めまじりの、しかし温かい苦笑を浮かべて、少女のまだ細く小さな体を抱き締めてやった。
「ええ、来てくれるのなら大歓迎ですよ。フィオがいてくれたら、私は随分助かります」
〈そりゃあそうでしょう。放っておいたら食事の用意も億劫がって飢え死にしかねないんですからね、あなたは!〉
リトルがやれやれとため息を送ってよこす。カゼスはごもっともと応じただけで、言い返さなかった。
「ほら、泣かない、泣かない。まったく、どこを見て子供じゃないなんて言うんでしょうね、あの人は」
やれやれ、とカゼスはフィオの背中を軽く叩く。途端にフィオは真っ赤になってぱっと離れ、ごしごしと目をこすった。
「あ、あたしは子供じゃありません! 一人前です、ちゃんとお役に立てます!」
その反応に、カゼスは失笑を堪えて複雑な表情になった。むきになっている時に笑われるほどみじめで腹の立つことはない、と自分の経験で分かっているからだ。
「役に立つかどうかと、子供かどうかは別ですよ。フィオ」
なんとか表情を取り繕って、カゼスはそう言った。
「子供だからこそ果たせる役割だって、たくさんあります。だから、子供である事をそんなに否定しなくていいんですよ。無理に一人前らしくしなくても、フィオは充分、えらいと思いますけどね」
その言葉を、フィオはまるで天啓を授けられたかのように神妙に聞いていた。カゼスが言葉を切ると、しばらく考えてから自信なさげに顔を上げる。
「そのままでいい、ってことですか?」
「そういうことです。自然にしていればいいんですよ。私なんかは、自然にしてると頭に苔が生えるまでぼけっとしてそうで、困るかもしれませんが」
苦笑してカゼスは頭を掻いた。まあ、苔はともかく、気が向かなければ家事さえしない独居者なのだ。マメとは到底言えない。
「カゼス様はいいんですよ!」
驚いたようにフィオは声を大きくした。
「だって、カゼス様はあたしたちには出来ないすごい事をする方なんですから、細かいことはあたしたちにやらせて下さればいいんです。もったいないですよ」
「もったいない、ですか……うーん」
カゼスは苦笑を深め、首を傾げるしかなかった。これ以上この話題を続けると、どんどん墓穴を掘り下げるだけのように思われたので、カゼスはふと思い出した風に言った。
「あ! そう言えば、何か私を探していたんじゃありませんか? アーロンが、あなたが探していたと言って呼びに来てくれたんですが」
「え? アーロン様が?」
フィオは束の間きょとんとし、それからいきなり真っ赤になった。
「やだ、そんな大事なことじゃないのに、お呼び立てするなんて……!」
「――はい?」
「あ、あたしはただ……カゼス様、髪をそのままにされるんだったら、結って差し上げたいなぁ、って言っただけで……そ、そんな事でお呼び立てするなんて、しっ、信じられませんっ! カゼス様を何だと思ってるんでしょうっ!」
拳を震わせているその態度は、どうやら……本気らしい。カゼスは呆気に取られていたが、フィオが
「アーロン様に言って来ます! 下らない事でお呼び立てしないで、って!」
などと言ってズンズン歩きだしたので、慌ててそれにすがりついて止めた。
「フィオ! いいんですよ、私は」
「でも………」
「構いませんから。それより、髪を結って貰えるんでしたら、お願いします」
ね、とカゼスが言うと、フィオは途端にころっと機嫌を直して笑った。
「はいっ。あ、でももう皆が起き出してきたみたいですから、あんまり時間はかけられませんよね。昨日みたいに緩く三つ編みにしておきます」
なんだって良かったのだが、カゼスはうなずいて草の上に座り、フィオに任せる。
髪を梳いてもらいながら、カゼスは少し早まったのではと後悔していた。
(これから毎日こうなのかなぁ……面倒臭いなぁ)
まったく、どうしようもなく不精なカゼスだった。




