五章 雌伏 (1)
カゼスは夢を見ていた。
暗い夢だ。ツンと冷えた空気、様々な薬品が醸成する不思議な臭気。ブーンブーンと何か機械が作動している音がする。
嫌な気配だった。悪夢になると分かっているのに、目覚められない。
ブーン……ブーン……
カタカタ、と端末を叩く音がする。ピッ、電子音が時々小さく鳴る。
ジジッ、ジジジッ……プリンターの音。サラサラと何かが流れて行く音。
視点が低くなったのか、天井は遥か彼方にあるように感じられた。人がいる。何人も、いる。何か話している。
――寒い。
と、何かが触れた感覚があった。生温かい、人間の手だ。それが、皮膚に直接触れている感覚。
(コワイ)
突然自分が、無防備な赤ん坊になった気分がした。何一つ身につけず、抗う術もなく、ただ大人たちの手の中で放り投げられているような。
(イヤダ)
執拗に体を探る手。
(違う――夢じゃない!)
現実だ、と意識した瞬間、すべての悪夢は逆回しの爆発映像のように、一点に収束していった。同時に、自分がおかれている状況が意識に飛び込む。
異様に頭が痛かった。誰かが上にのしかかり、衣服を脱がせようとしている。その手が、先刻からカゼスの体を撫で回していたのだ。
声を上げようとした瞬間、キラリ、と何かが光った。それは、相手の体の陰になっていた月光が、一瞬届いただけだったのかもしれない。だが、カゼスを竦ませるにはそれだけで充分だった。
(コロサレル!!)
引き裂くような絶叫が頭の中に響き、収束した悪夢が再び炸裂して、視界は真っ白に焼き切れた。
誰かが上から屈みこんでいた。陰になっていて、よく見えない。
まぶしい明りが真上で光っている。いつもここでは、ぼんやりする。
カシャン。ザーッ。
あれは検査の機械の音。ホロの記録。注射。痛いけど、がまん。
でも、触られるのはきらいだ。ゴム手袋をはめた手。素手の時はもっといやだ。
ひっくり返されたり、皮をつままれたり、あちこち触られるのは。
痛い。気持ち悪い。
(イヤダ!)
パン。
何かが、はじけた。しぶきが顔にかかって、こわくなった。
飛びおりる。にげなくちゃ。
冷たい。寒い。
ひたひたひた……はだしで廊下を走る音。後ろから声が追って来る。
足のうら、冷たい。息がくるしい。でも、止まれない。
暗い。どこまで行っても、暗い廊下。
(イタイ)
つかまった。髪をひっぱられて、倒れた。
上に、人がいる。ポタポタ、何か滴が落ちてくる。
(殺セ)
誰かが言った。
(殺セ、殺セ)
尖ったものが、光った。ぴかっ、って。
(イヤダ―――!!)
……そしたら、いろいろ、いろいろ降ってきた。
ぬるぬる、べちゃべちゃ、息がつまりそうな臭いの……
(コワイ。コワイヨ……)
だれか、たすけて。
「おい? どうしちまったんだ」
発作に襲われでもしたかのような反応に、カゼスにのしかかっていたクシュナウーズは不安になって、小声でささやいた。が、返事はない。
「気絶しちまったのか? ヤワな奴……」
訝りながらも、ごそごそと手を動かす。その指先が、ある筈のものを探り当てられず、困惑して止まった。
「…………?」
どういう事だ、とクシュナウーズは当初の目的を忘れ、とにかくカゼスの服を脱がせた。月光があまり届かないので、人に見付かる危険をおかして蝋燭に火をつける。火打ち石をせわしなくカチカチいわせ、ようやっとオレンジ色の炎が灯ると、彼はそれをかざしてもう一度確かめるように眺めた。
「なんてこった……」
呆然とつぶやく。と同時に、後ろの方で息を飲む気配がした。
「貴様!」
水差しを持って、アーロンが戻って来たのだ。クシュナウーズは咄嗟に飛びのき、鋭い一撃を避ける。その動作の延長で、アーロンが投げ捨てた水差しを空中で拾ったのだから、たいしたものだ。
「シィッ、静かにしろよ!」
クシュナウーズはしかめっ面で言った。ふざけるな、とアーロンは怒鳴りたくなったが、騒ぎを大きくしては確かにまずいと思い至って口をつぐんだ。ラウシール様が襲われた、などと知られては洒落にならない。
「聞かれてはまずいのは貴様の方もだろうが。どういうつもりだ!」
剣を構えたままアーロンは唸った。せっかく結んだばかりの同盟を、自らご破算にするような真似をするとは。
クシュナウーズは片手に水差し、片手に燭台を持ったまま、肩を竦めた。
「まあ、ぐだぐた言う前にお嬢ちゃん見てみな」
その言葉に、アーロンは表情をいっそう険しくしたものの、ちらと視線を走らせ――
「…………っ!」
再び息を飲んだ。愕然と立ち尽くしているアーロンに用心深く近づき、クシュナウーズは水差しをテーブルに置くと、燭台を寝台の方にかざした。
明かりに照らし出されたカゼスの体には、どちらの性を示す徴候もなかったのだ。体毛も幼い子供のように薄く、ほとんどないと言って良い。
「こんな……事が……信じられん」
アーロンは頭を振り、我知らず後ずさっていた。クシュナウーズにぶつかって我に返り、うろたえたまま、とにかく剣を鞘に収める。
だが、奥まった影に隠れているカゼスの顔を目にした途端、彼はまた怒りが込み上げるのを感じた。黙ったままカゼスに毛布をかけてやり、つかつかとクシュナウーズに近寄ると、いきなり胸倉をつかみ上げた。
「貴様、いったい何をした!?」
ささやくように、だが紛れもなく殺気を込めて詰問する。
「あぁ? 一目瞭然だろ、訊くなよ。野暮ってもんだぜ」
クシュナウーズはうそぶいたが、さすがに気になってアーロンの後ろに目をやった。その時になってようやく彼はカゼスの顔に気付き、ぎょっとする。
「な……ん、どうしたってんだ、ありゃ」
「とぼけるな!」
思わず声を大きくし、アーロンはハッとなって外の気配を窺った。幸い、誰も聞き付けた様子はない。アーロンは突き飛ばすようにクシュナウーズを離し、舌打ちした。
カゼスの顔は恐怖にひきつり、大きく見開かれた目は瞬きひとつしない――その両の目尻から涙だけが伝っていた。
まさか死んでいるのではあるまいか。
今頃になってその恐れを抱き、クシュナウーズは脈を取った。とりあえず生きてはいると分かると、ホッと息をつく。
アーロンはカゼスの涙を拭いてやり、痛ましげに頬を撫でた。凍りついたその表情は、死を眼前にしたかのよう。
「俺ぁ別に……こんな反応をされるほど、ひでえことをした覚えはねえんだが」
クシュナウーズはぽりぽりと頭を掻くと、どうやら本当にとんでもない事をしてしまったらしいと察して肩を落とし、「参ったな」とつぶやく。
しばらくアーロンはカゼスの額や頬を撫でていたが、何の変化も見られないと悟ると、クシュナウーズに言った。
「殿下を呼んで来てくれ。殿下だけだぞ」
「わあったよ」
へいへい、とクシュナウーズは肩を竦めたものの、文句は言わずに出て行く。ややあって、眠い目をこすりながらエンリルがやって来た。
「何事だ? このような夜更けに……」
「殿下なら、この状態をどうにか出来るのではないかと思うのですが」
アーロンは言い、カゼスの前からどいた。エンリルは一目見るなり眠気も吹っ飛んだらしく、真剣な表情になる。
「何があったのだ? これは……総督府で倒れた時のようなものとは違うぞ」
「この馬鹿者のせいです。カゼスを襲って怯えさせた結果がこれですよ」
苦り切った顔でアーロンが言い、エンリルは複雑な顔を向けた。
「……彼は男だぞ?」
「俺は別に、どっちだっていいんですがね。どっちでもないってのは予想外で」
ぽり、とクシュナウーズは頭を掻く。エンリルは顔をしかめた。アーロンはため息をついて、説明を求めるようなエンリルの視線に応じ、少しだけ毛布をめくる。
エンリルは唖然としたものの、すぐにまた真面目な顔に戻って、「それで」と言った。
「秘密を暴かれた恐怖からこうなった、と?」
「それは分かりません。本人に訊いてみなければ」とアーロン。
そうだな、とエンリルはうなずき、自信なさげにカゼスの額に手を当てた。
(カゼス――聞こえるか。戻って来い、もう恐れることはないから)
どうしたら良いのか分からなかったが、とにかくその思いが届くようにと祈る。瞳が薄く紫色を帯びた。
突然、エンリルの意識は真っ暗な闇の世界に取り込まれた。そこがどこなのか、彼には見当もつかなかったが、とにかく冷たくてよそよそしい、不吉な匂いのする場所だった。
(コワイヨ)
かすかなすすり泣きの声が聞こえ、エンリルは意識をそちらに向ける。青い髪の幼い子供が、裸で座り込んで泣きじゃくっていた。
近寄ると、びくりと怯えて顔を上げる。その顔に、暗赤色の液体がかかっている。エンリルは思わず怯み、立ち竦んだ。それまで気付かなかったものが、子供のまわりに散らばっていたのだ。
戦場ではおなじみの代物ではあったが、しかしこれほどひどいものは滅多に目にすることはない。しかも、その中心に座っているのが裸の子供、などとは。
――不気味だった。
内臓の飛び出した、もはや人間とは思われぬ屍が何体も転がっている。それは、ちぎれたとか切り裂かれたとかいう状態ではない。破裂した、としか考えられなかった。エンリルの足元まで血が流れて、ぬるぬると滑る。
エンリルの恐怖を感じ取ってか、子供はまた激しく泣き出した。
(タスケテ。タスケテ、コワイヨ)
これだけの死体に囲まれて、明らかにこの惨状を作り出したのはその子供自身だと言うのに、ひたすら怯えているのだ。
(コワイヨ。コロサナイデ。コロサナイデ――)
赤子のように泣き叫んでいる。にもかかわらず、エンリルの口からは、悪魔、という言葉が出かかった。それを堪えるように、彼はごくりと唾を飲んだ。
「カゼス」
そっとささやく。声がかすれたが、子供の耳には届いたようだった。びくりと震えて、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「カゼス。もう怖がらなくていい。何も怖くないから、戻って来い」
(コワクナイ……?)
「そうだ。もう怖がらなくていい」
そう言ってうなずき、彼は少しためらってから、思い切って手を差し出した。
「おいで。こっちだ」
(コワクナイノ? ホントウ?)
恐る恐る、子供が立ち上がる。よろよろと、数歩こちらに近付きかけて、死体につまずいた。ぐしゃり、と嫌な音がする。
ひっ、と子供が息を飲み、またしゃくり上げ始める。エンリルは仕方なく、何歩かさらに近付いた。あまり近付くと危険だ、と本能的に感じながらも。
「カゼス。これは……もう過ぎたことだ。すべて、遠い昔のことだ。悪い夢なのだ」
この凄惨な記憶は、現実のものだったのか、幼い日に見た悪夢の残滓なのか、それは分からない。が、エンリルはとにかくそう言った。
(ユメ……? ソウカ、コレハユメダッタンダ。ワルイユメ)
子供が顔を上げ、もう一度立ち上がる。ゆっくりと死体やその残骸が消え、子供の顔についていた赤い跡も薄れて行く。
「そうだ。もう大丈夫だから、こっちに来い」
(モウダイジョウブ)
繰り返すと、子供はゆっくり近付いて来る。徐々にその姿が薄れ、エンリルの知っているカゼスの姿に変わって行く。
(すべては、ただの悪い夢――)
つぶやきと同時に、カゼスの手がエンリルのそれをつかんだ。
何の前触れもなく意識が戻り、エンリルは体のバランスを崩してガクンとなった。咄嗟にアーロンがそれを支える。
「私は大丈夫だ。カゼスは?」
エンリルはすぐに立ち直ると、心配そうに視線をさまよわせた。いったい自分がどの方向を見ているのか、いまいち把握出来なかったのだ。
「お、気が付いたみたいだな」
クシュナウーズが言い、エンリルとアーロンも覗き込む。見開かれたままだった目がゆっくりと閉じ、それから数回、瞬きした。
一旦、眠っていたのだと自分をごまかすようにしばらく瞼を閉じてから、今度ははっきりと目覚めのそれと分かる仕草で目を開き、カゼスは顔をしかめた。
「あいたたたた……頭が痛い……なんで」
ぶつぶつ言いながら起き上がりかけ、毛布が滑り落ちてカゼスはぎょっとなった。慌てて毛布をたぐり寄せ、何があったのかとうろたえた顔できょろきょろする。
「ど、どうして、これは……いったい何があったんですか」
どうやら、かなりまずい事があったらしい。それだけは分かる。カゼスは泣き出しそうな顔になった。
「あー、つまりその……悪かったよ」
頭を掻きながら、きまり悪げにクシュナウーズがぼそぼそと謝る。意識を失う直前の記憶がよみがえり、カゼスはぶるっと身震いした。
「え……え、」
素っ頓狂な叫び声を上げかけたカゼスの口を、咄嗟にアーロンとエンリルが二人掛かりで押さえる。勢いでカゼスは、寝台の後ろの壁に頭をぶつけてしまった。
「あ、す、すまん」
慌ててアーロンは手を離し、おろおろする。エンリルも、どう接したら良いのか分からず困った顔をしていた。カゼスは頭をさすりながら、情けない顔で言った。
「もしかして……バレちゃったんですか」
「まあな」とクシュナウーズが肩を竦める。「でもま、貞操は無事だったんだから……」
「貴様は黙ってろ」
途端にアーロンがクシュナウーズを殴りつけた。カゼスは笑いたいやら笑い事ではないやらで、複雑な顔をする。エンリルはごまかすように咳払いをして、実際的な話に軌道を修正した。
「そなたがなぜそのような体なのかは、話さずとも良い。そなたが知っていようがいまいが、どのみち我々に理解出来るとは思えぬからな。ラウシールの神性という点では、この事を利用出来なくもないが……まあ、あえて吹聴する必要もあるまい。そなたにはつらい記憶のようだし」
ぎくりとカゼスは身をこわばらせる。エンリルはじっとカゼスを見つめ、軽くため息をついて頭を振った。
「そなたから聞き出そうとは思わぬが、なぜこのような状態に陥ったのか、その理由は見当がつくか? でなければ今後も同様の事態に陥る可能性があるのだぞ」
問われて、カゼスはぎゅっと目をつぶった。それから、ゆっくりと息を吐き出して、恐怖をなんとか押し殺す。
「多分……光、です」
「光? なんだそりゃ」
クシュナウーズは、俺の責任じゃなかったじゃねえか、とばかりに呆れた顔をする。
カゼスは視線を落とし、ぽつぽつと続けた。
「誰かが……私の上に覆いかぶさっていて……暗くて、誰だか分からないんですが……それは多分、大人の男性で……」
眉間を押さえ、カゼスは何かを思い出そうとするように小さく唸った。
「それから……それから、よく覚えていない……でも、多分同じ人が……やっぱり私を押さえ付けて、……何か刃物を……」
閉じたままの瞼の下から、涙がこぼれる。アーロンは、眉間を押さえているカゼスの手を取り、その回想を中断させた。
「もういい、それ以上無理に思い出すな」
見ている方がつらい――そう物語る表情だった。カゼスは何も答えず、うつむく。
「その刃物の光を覚えているのだな、おそらく」
エンリルが言い、カゼスは小さくうなずいた。クシュナウーズは変な顔をする。
「ちょっと待てよ、そりゃ確かにそういう体勢にはなったがよ、刃物なんざ振りかざしちゃいねえぜ? いくらなんでも」
「何か、外からの光や室内の物の反射が目に入ったのかも知れぬ。いずれにせよ、そもそもそなたが妙な真似をしなければ、このような事にはならなかったであろうよ」
冷ややかにエンリルは言うと、ふいと踵を返した。
「カゼス、そなたの事はこの場かぎりの秘密としよう。そなたの過去についても詮索はせぬ。だが、必ず私がそなたを助けられるとは限らぬのだ。そなたの力が必要な時に、このような状態にならぬよう、心しておけ」
はい、と小さくカゼスが答えると、エンリルはさっさと部屋から出て行ってしまった。
「なんだいありゃ。冷てえんじゃねえか?」
クシュナウーズが呆れたが、アーロンは首を振った。
「これ以上長居しても、カゼスの物思いをつらい方に向けるだけだからだ。貴様のような無神経な輩を基準にするな」
「けっ、言ってくれるぜ。ま、坊やのこたぁ、俺にゃ分からねえよ」
フンと鼻を鳴らし、クシュナウーズはもう一度カゼスに「悪かったな」と言い捨てて出て行く。それを見送り、アーロンもその場を離れかけて……ふと立ち止まった。
「ここに夜着が用意されている。着替えてから眠るといい……明かりは必要か?」
「だ、大丈夫、です……」
答えた声が震えている。アーロンは困った顔をして、もう一度寝台の方に戻って来た。
「立てるなら、自分で着替えてくれ。そうしたら、眠るまでついていてやるから」
その言葉にカゼスは驚いて顔を上げた。が、アーロンはもう背を向けて、机に寄りかかった姿勢で出入り口の方を見ている。カゼスはためらったものの、結局そろっと寝台から降りた。一歩ごとに頭がズキズキするのを堪えて衝立の方に行き、引っかけてあった夜着を身につける。
「何だかとても、頭が痛いんですが……これもクシュナウーズ殿のせいですか?」
ぼやいたカゼスに、衝立の向こうから無愛想な返事が戻ってきた。
「それは飲み過ぎだ」
「そ、そうでしたか」
そんなに飲んだかなぁ、とカゼスは恥ずかしくなって赤面した。そう言えば、飲んでいたのは覚えているが、いつの間にここまで戻って来たのか、記憶がない。
「あのー、もしかして私、あの後……寝てしまいました?」
衝立の陰から顔を出し、恐る恐る尋ねる。アーロンは振り返って、しかつめらしくうなずいた。カゼスは完全に真っ赤になって、両手で頭を抱えてしまった。
「う、うわ、うわあああっ、す、すみませんっ」
あたふたしているカゼスを眺め、アーロンは堪え切れずふきだす。カゼスは情けない顔で、笑いに震えている背中を横目に、おかしいなー、そんなに飲んだかなー、と繰り返していた。
なんとか笑いをおさめると、アーロンは立ち上がって、寝台に打ち捨てられたままの豪奢な長衣を取り、衝立に引っかけた。
「どうやら、安眠できそうだな」
くすくす笑いながら言われ、カゼスはなんとも複雑な顔をする。
アーロンに促されて、もそもそとカゼスは寝台に戻り、毛布を被った。その額に、アーロンは何のためらいもなく、軽く唇をつける。えっ、とカゼスが目を丸くしていると、アーロンは同じ場所に指先で小さく何か模様を描いて、何事か唱えた。
「何、ですか?」
おずおずとカゼスが問うと、アーロンはその頭をくしゃっと撫でて、
「悪夢払いのまじないだ。昔はよく殿下にして差し上げたものだが、まだ役に立つことがあろうとはな」
と苦笑を含んだ声で答えた。カゼスはどう反応すべきか迷って、もごもごと曖昧に礼を言う。アーロンは少し笑うと、蝋燭の火を吹き消して「おやすみ」と言い残し、自分の部屋へと戻って行った。




