四章 海賊の島 (4)
クシュナウーズはふざけた気配を消し、小さくうなずいた。
「まあ、ほとんどそっちの要求通りにいったぜ」
「って事は、ティリス奪還に協力してくれる、と?」
自然と声を低くして、カゼスも真剣になる。ああ、とクシュナウーズは答えた。
「ただし、うまい具合にあの坊やがティリスの国王になったら、交易権だけでなく、島の独立自治も認めて貰う、って運びになったがね」
「独立ですか……なるほどね」
直観的に察して、カゼスは眉を片方上げた。
「ラウシール様を連れて来て株が上がったのに、結局ティリスの領土や属国にされて総督が派遣されたりしちゃ、元も子もありませんからねぇ」
「察しがいいな」
まったく悪びれずにクシュナウーズは嗤った。カゼスが呆れると、彼は肩を竦める。
「こっちだって、食ってかなきゃならねえんだ。少なくとも生きてる間は、自分が飢える心配をしなくていいように色々と策を講じにゃならんて事さ」
「まあ……別に、あなたのしている事がこちらに害にならなければ、文句は言いませんけどね。それじゃあ、すぐティリスに向かうんですか?」
「いや。とりあえず、ラウシール様と王太子さんが来たってのに、もてなしをしねえわけにゃ行かねえからな。今夜は宴を開いて騒ぐだろうぜ。で、明日は大半が酔い潰れてっだろうから、午後から作戦会議。出帆は早くても明々後日だな。準備に手間取りゃ、もっと先になるかも知れん」
指折りながらクシュナウーズが予定を並べる。という事は、最低でも四日間はラウシール様の猫を被っていなければならないわけか。カゼスは憂鬱なため息をついて、脱いだまま衝立にひっかけてあった服を片付けようと手に取った。
と、チャリンと澄んだ響きを立てて何かが落ちた。
「なんだこりゃ」
拾ったのはカゼスではなく、クシュナウーズが先だった。
「女物の胸飾りじゃねえか。どうしたんだ」
怪訝な顔で裏に表にひっくり返し、検分する。その目が細まった。
「名前が彫ってあるな。おまえのじゃねえって事は、くすねたのか?」
「馬鹿言わないでください。それは形見の品ですよ」
胸飾りを奪い返し、カゼスは初めてその裏に何か文字が彫られている事に気付いた。
「形見? おまえの知人か?」
「いえ、直接には知らない人でしたが……」
総督の妻か妾かだろう、とアーロンたちが話していた。その総督は今、王都ティリスで顧問官に味方している。何か吹き込まれたのか、脅されているのか、どちらかだろう。
「本来持つべき人に渡そうにも、その人は今のところ王都にいるので」
「敵方ってわけか」
「と言うか……多分、本人もちゃんと事情を把握しているわけではないんだと思うんです。私たちがその人の敵ではない、って事をね」
カゼスは小さく首を振り、飾りを懐にしまった。着ていた地味な長衣をたたみ、さてどうしたものか、と見回して、結局机の上に重ねて置く。
「あ、会議が終わった、って事は、エンリル様も戻られているんですね?」
ふと気付いて問うと、クシュナウーズは「ああ」とうなずいた。
「さっきまでお嬢ちゃんがいた部屋に戻ってるだろうよ。なぁおい、それより俺が気になってんのは、だな」
彼はカゼスににじり寄ると、会議の結果を話していた時よりも小声になって、ひそひそとささやいた。
「お嬢ちゃん、王太子のコレか?」
小指を立てるのがデニスでも『女』を意味するのかどうか知らないが、言葉の雰囲気と相手の態度からして、まず間違いないだろう。カゼスはカッと赤くなった。
「誰がですかっ! 変な想像しないでくださいっ!! 第一、私は男ですよ!」
「本当かぁ?」
疑われて、不覚にもカゼスはぎくりとした。動揺を悟られたかと身構えながら、剣呑な口調で問い返す。
「どういう意味です」
「いやあ、その顔でもう女を知ってんのか、と……」
「顔は関係ないでしょう!」
カゼスが怒鳴るのと同時に、クシュナウーズの顔面に真っ赤な花が咲いた。と思ったら、どうやらトマトか何かだったらしい。
「三のっ! ラウシール様に何してんのさっ!」
威勢の良い声がして、野菜カゴを抱えたフィオが現れた。子供の軍勢が少女に従って、号令一下、野菜や果物を投げ付ける態勢を整えている。
「フィオ! てめえっ!」
さすがにクシュナウーズも黙ってはおれなくなったらしく、手の甲で顔を拭って飛び出す。わあっと子供たちが散り散りに逃げ、フィオも手の届かないところへと瞬く間に姿を消した。取り残されたカゼスは目を丸くして、野生児たちの元気の良さに呆れていた。
「いやはや……」
ひとりつぶやき、軽く頭を振る。自分の幼年期とはなんたる違いか。
幸い、白い長衣に汁が飛んだ跡はなく、カゼスはちょっと室内を見回して、元の部屋に戻ることにした。
注目を浴びることを覚悟していたのだが、エンリルの報告が済んだ後だったので、ティリス人たちは三々五々思い思いの場所へ散って、ほとんど部屋に残っていなかった。
「カゼス! どうしたのだ、その格好は。見違えたな」
エンリルが気付いて声を上げ、カワードやアーロンも振り返って愕然とした。
「そこまで驚かなくてもいいじゃないですか……この服はクシュナウーズ殿が用意させたんですよ。あ、見繕ってくれたのはフィオっていう女の子ですが。ラウシール様らしい格好をしろ、ってことでしょう」
カゼスはやれやれと肩を竦める。エンリルが苦笑して答えた。
「すまぬな、手元不如意で」
「別に私は何でもいいんですけどね……いつまでぽかんと口を開けてるんですか」
照れもあって、カゼスはぶっきらぼうな口調で言い、アーロンたちを睨む。慌てて彼らは口を閉じ、ばつが悪いような顔で、目をそらした。
「ラウシール様!」
元気の良いフィオの声がなければ、随分その場は気まずくなっていたに違いない。救われたように、カゼスは振り返った。
「フィオ、無事だったんですか」
笑って言うと、フィオは得意げににっこりした。
「三のに捕まるほど間抜けじゃありませんよ。この部屋は、いつもは使わない集会部屋ですから、ちゃんとしたお部屋に案内します。あ、王太子様もこちらにいら、いらしてください。えぇっと、万騎長様……たちも」
カゼスに対する口調はいくぶん滑らかになったが、エンリルが相手だとまだ緊張するらしい。少しつっかえながらフィオは言い、手招きした。アーロンとカワードは顔を見合わせ、それからウィダルナやダスターンを振り返った。彼らの扱いはどうなるのだろう?
「どのぐらいの部屋を我々が使える?」
アーロンが問うと、フィオは小首を傾げて指折り数えた。
「十……は充分あります。ちゃんと用意の整っているのは、四部屋だけですけど」
「そうか。ならばダスターンは殿下のお部屋にお供して護衛を務めるように。殿下の隣室にカゼス、おぬしが入れ。カワードと俺とでその両側を」
「まあ、仕方ないな」
カワードがうなずき、立ち上がる。当然のように、ウィダルナとイスファンドも、それぞれの上司に従った。
それぞれの部屋には、先刻カゼスが着替えた部屋と同様の調度があり、寝台も壁に彫り込まれていた。テーブルには果物を盛ったかごが置かれている。あの時フィオがもいで来たものだろうか、と考えて、カゼスはひとりくすくす笑った。
「宴の用意が整うまで、お部屋で休んでいてください。外を散歩されるんでしたら、案内しますけど」
全員を案内して、フィオがぴょこりとお辞儀をする。一同はどうする、と視線を交わしたが、結局案内は辞退することにした。
「私はしばらく日陰に引っ込んでいますから、お気遣いなく」
カゼスが言うと、他の面々も同様のことを言い、散歩するなら勝手にぶらつくから、と付け足して部屋に引き取った。
カゼスも部屋に入り、一応は孤独を得られてほっとした。葡萄の房から一粒つまみ、口に含む。粒は小さく、冷えていなかったが、甘みは強かった。開け放しの窓から風が通り抜けて行く。岸壁に波が打ち寄せる音が遠く聞こえた。
ふと、チャリンと音がして、カゼスは胸飾りの事を思い出した。慌てて立ち上がり、どこかにぶらぶら出て行かない内にと、エンリルの部屋を訪れる。
室内では、エンリルが数日振りの新鮮な果物にかじりついていた。ダスターンは生真面目な表情で窓際に立ち、外を睨んでいる。
「どうした? 何かあったのか」
エンリルはもごもご口を動かしながら問うた。カゼスは笑いそうになるのをぐっと堪え、真面目な顔を取り繕って、胸飾りを取り出した。
「シャフラー総督のことなんですが……」
その名を出した途端、ダスターンの表情がさらに険しくなった。無理もない、彼のせいでダスターンは王都に囚われるところだったのだから。カゼスはこの話題を持ち出すタイミングとしては悪かったか、と居心地の悪さを感じながら続けた。
「多分、騙されているか、脅されているのだと思います。ですから、もしその……戦の最中に見付けたとしても、すぐに殺したりしないように……」
「難しいな、それは」
エンリルは手にした李を置き、ごく冷静にそう答える。カゼスが言いかけるのを制して、彼は青褐色の目をまっすぐに向けた。
「ダスターンの話を聞いた者は、誰もがあ奴は裏切り者だと感じている。我々を敵に売ったのか、はなからそのつもりで我らを総督府に招き入れたのか、とな。目の敵にしている者も少なくはない。その者らから話を聞き知った者も同様に思うであろうし、ましてや事情を知らぬ者が敵に情をかけるとは思えぬ」
「でも……あの人は何も知らなかった筈です。あの夜、魔物に襲撃されて彼は慌てふためいて駆け出しました。この……飾りの持ち主を探して。もし、この持ち主が死んだ事を知っていれば、脅されない限り顧問官に従うことはないでしょうし、知らなければ容易に騙される事が想像できます」
「元より、彼奴のささやかな悪事を知る者すべてを、この機に片付けるつもりだったやも知れぬぞ。今頃王都で新しい愛人と仲良くやっておるかもな」
さらりと言ってのけられた為に、その内容の恐ろしさにカゼスが気付くまで、しばしの間が必要だった。
「なん……て、事を。そんな筈は……」
カゼスは言葉に詰まり、ただ首を振る。あの慌てようは、決して計算されたものではなかった。その筈だ。
「ない、と思いたいがな。いずれにせよ、奴ひとりにかかずらってはおれぬのが実情だ。父上をお救いするのが先決、他の者の思惑に構ってはおれぬ。もし顧問官に利用されたのだとすれば、それはあの者の愚かさと運のなさが招いた結果だ」
エンリルはそう言って肩を竦め、また李に噛みついた。それから、青ざめて立っているカゼスを見上げ、眉を片方、吊り上げる。
「酷薄な、と思うか? だが致し方ないことだ。現実的に考えて切り捨てるしかないものに未練を抱いていたのでは、こちらの弱みになってしまう。もしそなたが」と、彼は口調を皮肉なものに変えた。「魔術であの者の本心を探り、騙されているのであれば真実を教えられる、と言うのであれば、ぜひそうして貰いたいがな。王宮内に味方が一人でも多くいれば有利になろう。もっとも、私にはどうすればそのような奇蹟が行えるものか見当もつかぬが」
どうしようもないことをぐだぐだ言うな、と言われたようで、カゼスは赤面する。
彼は軽く下唇を噛んで立ち尽くし、ようやく「失礼」と短く言い捨てると、部屋を出て行った。ダスターンの侮蔑的な視線が背中に刺さっているように感じながら。
屋外での宴が始まると、カゼスはクシュナウーズの言った意味が本当に理解出来た。島の男たちの騒ぐことといったら、カワードなど比べものにならない。歓迎の宴と言うよりは、とにかく理由をつけて彼ら自身が騒ぎたいだけのように見えた。
水竜のイシルがその辺の酒樽を占領していても、誰も違和感を抱いていないようだ。
はじめはカゼスの所にも、島の主だった長が挨拶に来たり、酌をしに来たりしたのだが、そのうち席が乱れ始め、じき何がなんだかという状態になってしまったのだ。
海の幸の贅をつくした肴、味はそこそこだがとにかく度数の高い酒、興に乗った者が歌うやら踊るやら。給仕をする女が大変だろうと思いきや、そうでもない。準備も宴会そのものも、男女が共に楽しんでいるようだ。
あまりの騒がしさに辟易して、カゼスは気に入ったつまみと小さな銀の水差しをくすねて、篝火の輪から少し遠ざかった。もちろん水差しの中身は酒である。この喧噪に加わる事も、とっとと部屋に退散する事も出来ないとあっては、隅っこでちびちびやるしかないではないか。もっとも、昼間の不愉快な出来事がなければ、水差しには本当に水を入れておいただろうが。
「こんな所で何をやっているのだ?」
呆れた声が降ってきて、カゼスは顔を上げた。見ると、同じく喧噪から逃れた仲間らしく、アーロンとイスファンドが立っている。
「何って、多分……あなたたちと同じでしょうね」
カゼスは答えて、小さなしゃっくりを飲み込んだ。
「飲んでいるのか?」
驚き呆れた声でアーロンが問う。「悪いですか」と言い返して、カゼスはちょっと体をずらし、座り心地の良い草の上を譲った。
都合三人は扇状に座り、大騒ぎしている面々を眺めて、それぞれ思い思いのペースで飲んだ。篝火の向こうに、カワードがクシュナウーズや島の者と一緒になって大騒ぎしているのが見える。信用出来ぬ、などと言っておいて、いい気なものだ。
「お酒を飲むと友好的になるみたいですね、あの人は」
カゼスがぼやくと、アーロンが苦笑した。
「まあ、それが長所でもあり、短所でもあるがな」
イスファンドは何も言わない。カゼスは陶器の盃を傾け、乳白色の酒をなめた。
――何をどう話したのか。いつの間にかカゼスは昼間のエンリルの態度を、べらべらとアーロンにしゃべってしまっていた。自分でも、酔いが回っているな、しゃべりすぎだな、と感じてはいるのだが、相手がアーロンだから安心してしまって、止まらない。
「あれが本心なんだとしたら、思っていたより冷たい人なのかも知れませんね」
とカゼスが締めくくると、アーロンは小さく笑いをこぼした。
「殿下にしては上出来だな、それは」
「え? どういう……意味ですか?」
目をしばたたかせてカゼスが問うと、アーロンは真面目な顔に戻って言った。
「おぬし一人が相手であれば、恐らくそのようには仰せられなんだ筈だ。出来るのならばあの不運な男をなんとかしてやりたい、が、どうする事も出来ぬ、と仰せられただろう。だがダスターンがいたのでは、弱音を吐く姿など見せられぬからな。おぬしはティリスの政治には無関係の者だから、いくらでも弱みを見せられようが、ダスターンはそうではない。王太子がおいそれと情けない姿をさらすわけにはゆかぬ」
「そういうもんですか? 私だったら、少々弱くても人間的な指導者につきますけど」
「平和な時代であればそれも良かろうがな」
さらりと言われ、カゼスはハッとなった。
「そう……ですね。つい、忘れそうになる……」
「それに、ダスターンの前でおぬしに頼るような姿勢を見せる事も出来まいよ。彼はおぬしに……言うなれば嫉妬しているからな。ダスターンに寝首をかかれぬよう、ある程度おぬしに冷たくしておく必要もある。そこまで考えられてのことだろう」
「寝首をかかれる……なんて、そんな大袈裟な」
カゼスが呆れると、アーロンは肩を竦めた。
「ダスターンのように階級意識の強い者は、つまるところ野心家でもあるからな。現在の殿下の立場は非常に弱いし、冷遇した側近に殺された王族の話は、数え切れぬほどある。用心に越したことはあるまい」
そう言って彼は、盃を干した。カゼスはうつむいて、地面と睨めっこする。
「そんな事……考えもしなかった……」
「王宮で暮らしておるのでもなければ、日常的にこのような事は考えぬよ。俺とて……おい、カゼス、大丈夫か?」
ふらふらと青い頭が揺れているので、さすがに心配になってアーロンが問うた。返事がない。イスファンドが慌てて立ち上がった。
「水を貰って来ましょう」
「すまん、頼む。うわっと」
アーロンは答え、途端にぐらついたカゼスの頭を支えた。
「おい、カゼス。気分が悪いのか?」
うー、とかなんとかいう声が聞こえたような気がしたが、空耳だったのかも知れない。
イスファンドが戻って来た時には、カゼスはアーロンにもたれかかってぐっすり眠り込んでいた。目を丸くしたイスファンドに、アーロンは憮然として言う。
「水は俺が貰おう。こいつを部屋に運ばんことにはな」
「ご愁傷様です」
かすかに苦笑して、イスファンドは水の入ったコップを渡す。篝火の向こうの騒ぎは、まだ鎮まる気配がない。
「やれやれ、酔い潰れたラウシール様を人目にさらすわけにもいかんし……」
アーロンは水を飲み干し、ため息をつく。
と、ひときわよく通る歌声が響き、驚いてアーロンとイスファンドは顔を上げた。曲は船乗りたちの好む陽気なものだったが、その声は通俗的な歌には不似合いなほど、朗々と澄んでいる。誰かと歌い手の姿を探し、アーロンは我が目を疑った。
「クシュナウーズか……?」
「驚きましたね。まさか彼が」
イスファンドも唖然としている。ややあって曲が終わると、どうやらクシュナウーズの歌が宴の取りだったらしく、片付けを始める者が出て来た。まだ飲んでいる者もいるが、大半はお開きにするようだ。
「やれやれ、助かった。長引くようだと、腕が痺れて運べなくなるところだ」
アーロンはほっとして言い、カゼスをそっと抱え上げる。お荷物の方は平和なもので、目を開けもしない。
一瞬、麦の袋のように肩に担いでやろうか、という誘惑に駆られたが、アーロンはぐっと堪えた。もし島の者の目にとまったら、ラウシール様がこんな粗略な扱いを受けるものだろうか、と疑われてしまう。
やれやれとアーロンはため息をついて、なるべく人目に触れないように、建物の方へと戻って行った。
無事にカゼスを部屋の寝台に横たえると、アーロンは軽く首や肩を回した。元来酒には強い方だが、度数の高い酒を飲んだ後でこの労働はこたえる。眠気がさしてくるのを堪え、一応カゼスの髪をほどいて高価そうな髪飾りを外してやる。潰したりして弁償しろと言われたら、とてもカゼスには払えまい。
それから帯を緩めてやろうかと思い、突然なぜか後ろめたい気持ちになって、彼は立ち尽くした。無防備に眠りこけているカゼスをしばし見下ろし、それからアーロンは、妙な気分を味わった自分を責めるように顔をしかめて頭を振った。
(男なんだぞ――)
自分に言い聞かせはするのだが、その言葉は空しく響くばかりだ。カワードも言うように、どうしてもカゼスが自分たちと同じものだとは思えなかった。かと言って、女なのかと言うと、それも違うような気がする。アーロンたちの知っているどんな人間にも似ない、そんな印象が拭い去れないのだ。
(だったら何だと言うのだ? 人ではない、と?)
まさしく『神の使い』なのか。そんな馬鹿な。
確かめるようにもう一度カゼスの方に目をやると、そんな疑いは消し飛ぶほど人間くさい顔で、すやすやと寝息を立てていた。
(馬鹿馬鹿しい)
アーロンはため息をつき、カゼスをそのまま放ったらかして、部屋から出て行った。
気を取り直して隣室を覗くと、エンリルが寝台でごろごろしていた。
「何をやっていらっしゃるんですか、殿下。飲み過ぎましたか」
わざと呆れた声を装って、アーロンは苦笑する。エンリルがベッドに入ってごろごろと寝返りばかり打つのは、たいていその日にあった何事かを気に病んでいる時だと知っているからだ。うー、とエンリルは唸って、恨めしそうな目でアーロンを見上げる。
「ダスターンはどうしたのですか」
室内を見回し、アーロンは眉を寄せた。警護をおろそかにしているのではないか、と。エンリルはその表情を読んで、心配性だなと苦笑する。
「水を汲みに行かせたのだ。彼がずっとそばにいると、息が詰まりそうなのでな」
「やはり、シャフラー総督の件ですね」
アーロンが言うと、エンリルは嫌そうな顔をした。
「そなたは人の心を読むのか?」
「カゼスから聞いたのですよ。殿下は冷たい、とかなんとか愚痴を」
アーロンが微笑すると、エンリルは拗ねた子供のような顔をして、堅い枕を抱えた。
「で、そなたはまた要らぬことまでぺらぺらとしゃべってくれたのか」
「必要と思われる事を伝えておいたまでです。今、カゼスに嫌われるのは得策とは言えぬでしょう」
肩を竦め、アーロンはエンリルの額を小突く。
「心配なさらずとも、俺は殿下の人となりをよく存じ上げております。少なくとも俺だけは、死ぬまで殿下の忠実なしもべですよ」
「忠実なしもべ、か」
フンとエンリルが馬鹿にしたように鼻を鳴らしたので、アーロンはおどけて見せた。
「守役だと言ったら怒るでしょうが」
「分かっているなら言うな」
ますますぶすくれてしまったエンリルに、アーロンは軽い口調で就寝の挨拶を述べて、外に出た。白い月光が、回廊に射し込んでいる。
ふと、しばらくすればカゼスも喉が渇いて目を覚ますのではないか、と思いついたアーロンは、水を汲んでおいてやるか、と井戸の方へ歩きだした。
水差しなら途中に厨房があった筈だから、そこで借りられるだろう。ついでに、自分も顔を洗って酔いを醒ましておこう、などと考えて。
彼の姿が回廊の向こうの暗がりに消えると、庭の方でごそりと影が動いた。
その影は周囲に誰もいないことを確かめると、滑るようにカゼスの部屋へ忍び込んで行った。




