四章 海賊の島 (2)
エンリルたちが海賊に囲まれる形で彼らの本拠地へと向かっている頃、王宮では……政務が滞っていた。
国王が原因不明の病に倒れ――その原因は、顧問官によれば王太子とお抱え魔術師による邪悪な呪いらしいが――王の裁決を要する事項が動かなくなってしまったのだ。
たいして重要でない事項は、集まった貴族の中で有力な領主数人が印章を捺していた。アレイア領主ゾピュロスもその一人だったが、
「……きりがないな」
彼もいい加減うんざりしていた。なまじ国王が優秀であったが為に、そしてまた近年は顧問官がすべてを牛耳っていたが為に、王宮の官吏たちは、書類を抱えて右往左往するしか能のない邪魔者に成り下がっているのだ。
(と言うよりもむしろ……)
近年登用される高級官僚のほとんどが、意図的に無能者ばかりにされていたのではあるまいか。ゾピュロスは不愉快げに眉を寄せた。優秀な者であれば、顧問官にとって害となり得るゆえに、ただ彼女の赤い目を、魔術という不可解な技を恐れ、ひたすら平身低頭しているような者ばかりを集めたのでは。
「誰にしわ寄せが行くと思っておるのだ」
やれやれとため息をつき、彼は不愉快ついでにもう一人の不愉快な顔を思い出した。
テマ総督シャフラー。本物かどうかは知らぬが、国王と居並ぶ貴族たちの前で、王太子の悪行を証言した男。顧問官の手駒。
(やらせてみようか)
そんな考えが浮かぶ。本物の総督であれば、繁雑なくせに変化のない事務仕事であれ、ものともせぬであろう。第一、証人として顧問官に用意されただけにすぎぬ男に、タダ飯を食わせてやるのも業腹だったのだし。
そんなわけで、彼は侍従にシャフラーを呼びに行かせ、自分はうんと伸びをしてさっさと自室へと足を向けてしまった。もちろん、「数字をごまかしたりしてみろ、すぐにも己が首を抱かせてやる」という脅しを言付けておくのも忘れなかったが。
途中、国王の寝室の前を通りかかった。カーテンが引かれているので、中の様子は見えない。入口の両脇に立つ衛兵に、ゾピュロスはふと思い立って訊いた。
「陛下のご様子は?」
「今は眠っておいでのようです。顧問官様が先ほど様子を見に来られました」
「顧問官が?」
ゾピュロスは眉を寄せる。それだけの仕草で、衛兵は自分が機嫌を損ねたのかと縮み上がった。実際ゾピュロスの容貌には威圧感があり、その鋭い右目は、顧問官の赤眼以上に恐ろしく感じられることもしばしばなのだ。
無愛想で不機嫌な顔のまま、彼はバサリとカーテンを分けて入室した。
中にはまだ顧問官の姿があった。国王のベッドの傍らに立ち、冷たい目で見下ろしている。カーテン前のやりとりが聞こえていたのだろう、ゾピュロスの出現にも驚いた様子はなかった。たっぷりとした長衣の袖の中で腕組みをしたまま、彼女はゆっくりこちらに近付いてくる。
「原因は分からぬのか? たしかおぬしは魔術師という事ではなかったか」
皮肉と言うにはあまりに平坦な口調でゾピュロスが言う。マティスもまた、無感動に首を振った。
「王太子と、謎の魔術師が関与しておる。私も知らぬ邪法ゆえ、治療の目処が立たぬのだ。そなたも政務のしわ寄せで難渋しておろう」
何げない風にそう言い、彼女は薄く笑った。ゾピュロスは僅かに顔をしかめる。つい先刻つぶやいた言葉を聞かれていたような、嫌な気分だ。
その表情を楽しむように眺め、マティスはささやく。
「王の印璽が使えたならば、話は早かろうに……」
(悪魔のささやきというものを実際に耳にしたのは、俺ぐらいのものであろうな)
もっとも、たいして誘惑の力はないようだが。
ゾピュロスはそんな事を考え、小さく鼻を鳴らした。無感動に「くだらん」と言い捨てた彼に、マティスは意味ありげな視線を送ってから、すっと横を通り過ぎて出て行った。カーテンが閉じると、ゾピュロスはマティスが通り過ぎた側の肩を、不潔なものを払うかのようにはたいた。
(あの女、どうやら王太子を排するだけでは足りぬらしいな)
陰の支配者になるつもりだろうか、それとも簒奪者を立てておいて、混乱を助長するつもりか。いずれにせよ、その為の道具として目を付けられるのは当然としても、利用されるのはごめんだ。
(どいつもこいつも……)
アレイア領主などという家に生まれたがばかりに、とんでもなく高額な有名税の支払いを余儀なくされて、早三十年余り。家督を継ぐのも、海の民の侵略さえなければ弟に譲っているところだったのだ。
さっさと田舎に引っ込んでのんびり暮らしたい、などと年寄り臭いことを考えつつ、彼は国王の近くに寄る。侍女が控えていたが、世話をする必要のない時は、黙って隅に立っているだけだ。
額に手を当てたが、それほど熱くはない。あるとしても微熱程度だろう。少しこけた頬にかかっている金髪を払い、ふと、ゾピュロスは手を止めた。
「…………?」
指先の妙な感触と、目の端に映った微かな染み。彼は不審げな表情になって、国王の首をそっと傾けた。屈み込んでよく見ると、小さな赤い点がぽつぽつと首筋についている。その内のひとつは、まるでたった今虫に噛まれたように新しい。
頭を動かされても、国王はうめきひとつ上げなかった。ゾピュロスは首を元の位置に戻し、今度は毛布を少しめくって不審なものがないか調べる。
その頃になると、侍女が様子に気付いて駆け寄って来た。
「どうかなさいましたか? もしや、虫でも?」
国王の世話を任されているだけに、責任も重大だ。眠っている間に国王が虫にかじられたとあっては、鞭打ちにされる。その不安げな表情を眺め、この侍女が何事かに加担している可能性はなかろうと踏むと、ゾピュロスは首を振った。
「いや、なんでもない。イスハーク殿が薬などを処方されているのか?」
「はい、朝夕おいでになりますが」
それだけ聞くと、ゾピュロスは小さくうなずいて踵を返した。
朝夕。今は昼過ぎだ、あんな新しい痕があるのはどういう事か。そもそも、イスハークはどのような処方を施しているのか。
侍医の部屋に入ると、イスハークはちょうど昼食をすませたところらしく、茶をすすっていた。相変わらず妙な匂いの立ち込めている室内に、ゾピュロスは軽く眉をひそめる。
「ここにいると鼻がおかしくなりそうだな」
「大きなお世話ですわい。わざわざ文句をつけに来られるほど暇なご身分でもなかろうものを、何用ですかな? まあ、お座りなされ」
勧められるまま、ゾピュロスはおとなしく低い椅子に座る。ひときわ長身の彼には、イスハークの診察に都合よく誂えられた椅子は、非常に居心地が悪かった。
「陛下にどのような処方を?」
突然、穏当ならざる質問で切り込まれ、イスハークは驚いて目を丸くした。
「なんじゃなんじゃ、わしに謀殺の疑いでもかけられとるんですかね。わしゃたいした事は何もやっておりませぬよ。何しろ原因が魔術と言うのでは」
台詞の割には呑気に、彼は茶をすする。それからはと気付いて、ゾピュロスの分も茶を用意した。差し出された茶碗を受け取りはしたものの、ゾピュロスは口をつけない。
「刺絡を施したか」彼は短く問う。
「まさか!」
イスハークは即答した。刺絡とは、静脈に針を刺して悪い血を抜く、という過激な療法である。そもそも病と呼べるかどうかも知れぬ患者、しかもその命は国家情勢を大きく左右するという患者に、そのような療法を施すわけがない。
「わしを誰じゃと思われとる、ゾピュロス卿。そこらの呪い師と大差ないエセ医師と一緒にせんで貰いたい!」
憤慨してイスハークは白いひげを震わせたが、発言者の方はまるで気にかけた様子がない。ただ、「やはりか」と唸ったきり、黙り込む。
「……何か陛下の御身に?」
勢いをそがれ、今度は不安げな表情になって、イスハークが問うた。ゾピュロスは口を開きかけたが、不意に、どこかであの赤眼の魔術師が聞き耳を立てているのではないかという不安に襲われた。
何しろ魔術師である。王宮内での出来事のすべてを知っていてもおかしくはない。せめて彼女の力が盗み聞きに限られることを祈りつつ、ゾピュロスは茶に指を浸して机上に文字を綴った。口では別のことを言いながら。
「いや、私の思い過ごしだろう……どうも疲れているようだ」
指先が語る。『次に診察する時、陛下の首筋に注意を』。そしてゾピュロスは、自分の首の該当場所を指して見せた。
イスハークは驚いた顔になったものの、すぐにうなずく。
「ここのところ、お忙しくていらっしゃるようですからな。処方が必要ですかな?」
「ありがたいが、遠慮する」
珍しく微苦笑を浮かべ、ゾピュロスは立ち上がった。長居は無用、怪しまれては困る。そもそも第一、雑務をシャフラーに押し付けて休むつもりだったのだ。
「侍医殿の薬は不味いことで評判だからな。失礼」
意識的に軽い口調でそう言って、彼は老医師の抗議を背中に受けながら退出した。
(化け物……こんな……)
誰かが遠くで叫んでいる。ゆらりゆらりと波に揺られる感覚を微かにおぼえながら、カゼスは聞くともなくその声を聞いていた。
夢にしては映像が一切なく、ただ暗闇の中に意識が漂っている。特定の感情が喚起されるわけでもなかった。少なくとも、今のところは。
(成功……ありえ……ッケンの………報告)
声に合わせるように、ゆらゆらと揺れる。それにともなって、意識の海の底で暗い澱がゆらめく。ゆらり。ゆらり。そして、徐々に上へとその手が伸びる。
(捕まえろ!)
突然、一点の白い光と共に切り裂くような声が響いた。
「――――!」
がば、と起き上がる。口が叫びの形に開いていたが、声は上げなかったようだ。周囲ではすやすやと寝息が聞こえる。息を止めたままぐるりを見回し、それからカゼスはゆっくりと息を吐いた。歯の根がカチカチと音を立て、初めて自分が脅えていたことに気付く。
ごくりと喉を鳴らし、カゼスはそっと起き上がった。リトルが転がったままだが、連れて行かない事にして、甲板に出る。こと人間の心理に関しては、リトルの鋭い洞察と分析はかえって害となる場合もままあるのだ。今は相談しない方が良い。
夜中だったが、甲板では何人かが不寝番で働いている。彼らの邪魔にならないように、カゼスはこそこそと船縁に寄った。
(船酔い……じゃない。関係ない。でも、悪夢だ)
黒い水面を見つめ、ため息をつく。悪夢などここ数年見なかったのに、なぜ今頃……。多分リトルならば極めて現実的な回答をくれるだろう。だがどこかで、それは違う、もっと違うところに何かがある、とささやく声がしていた。
気分が悪い。眠いのだが、何かが頭の奥で意識を揺さぶって覚醒を強いているかのように、脳はとりとめもない思考の翼を広げて休もうとしない。
ぐったりと縁にもたれかかっていると、その姿を見付けたのだろう、不寝番の誰かがこちらへやってきた。
「落ちるなよ」
短い無愛想な声で、すぐに誰だか分かる。思わずカゼスは笑いそうになった。
松明の落とす光の輪に入って来たのは、アーロンだった。万騎長までが不寝番をしているのかとカゼスは驚いたが、どうやら甲板の反対側でカワードがウィダルナやイスファンドまで巻き込んで酌み交わしていたらしい。向こうに見える人影と、ややあって耳に届いたいびきで、それと察せられた。
道理で目覚めた時に静かだったわけだ。
カゼスは小さく苦笑して、アーロンを見上げた。
「皆さんの方こそ、大丈夫なんですか。見たところあなたは素面のようですけど」
その言葉に、アーロンは眉を片方、ちょっとだけ上げた。
「自分の限度をわきまえているだけだ。カワードの奴、明日の朝には船縁にしがみついてげろげろ吐いておるだろうよ」
多少俗っぽい物言いになるのは、やはり酔っているせいだろう。カゼスが声を殺してくすくす笑っていると、アーロンは肩を竦めた。自覚はあるらしい。
「おぬしはあの水竜殿と違って、酒気につられてさまよい出て来たというのではなさそうだが、大丈夫なのか? 昼間からあまり具合が良さそうには見えぬぞ」
あの水竜殿、と言われ、カゼスは目を丸くして反対側を振り返った。なるほど確かに、彼らの囲んでいる酒杯のひとつで、白い影が泳いでいる。あきれた顔をしてから、カゼスはアーロンの質問に答えた。
「ええ、多分たいしたことはないと思います。ちょっと今は、夢見が悪くて。この揺れのせいでしょう」
嘘の理由をつけて、カゼスは目をそらすとあらぬ方を見遣った。海賊船の明かりがちらちらと見えるが、どのぐらいの距離を置いているのか、夜闇の中、肉眼ではよく分からない。波が船腹を洗う音が、妙にはっきり聞こえる。
しばらく沈黙していたが、やがて耐えられなくなって、カゼスが口を開いた。
「昼間は、少し怖かったですよ。練習とは分かっていても、真剣だから……」
相手が自分を見るのが分かり、カゼスは慌てて続けた。
「私はホラ、剣なんか持ったことのない人間ですから、怪我に対して臆病なんですよ」
アーロンは黙っている。ますますばつが悪くなって、カゼスは早口になった。
「包丁で指を切っただけでも大騒ぎしてるぐらいで……それに、実力があるって分かってはいても、あの体格差ですし」
そこまで言って、とうとう口をつぐんだ。言わなければ良かった、と後悔する。最初にこの話題を出した時に、既にアーロンは察しているのだろう。カゼスが、右目のことを案じて要らぬ心配をしていた、と。
恐る恐る、相手の顔色をうかがう。が、アーロンは何を考えているのか、じっと海面に目を落としていた。ややあって、カゼスが居心地の悪さに身じろぎすると同時に、アーロンは静かに言った。
「おぬしはそうして他人の心配ばかりしているが、自分の事はどうなのだ?」
怒られたような気がして、カゼスはぎくりと身をこわばらせる。だが、アーロンの声には苛立ちすらこもっていなかった。淡々と彼は続ける。
「おぬしの故郷でもないこの国で、己の恐れている傷を負うどころか、命を落としかねない騒乱に首を突っ込むなど……もし、おぬしが他人を案ずるほどにおぬしの身を案ずる者がいるのならば、気が狂うのではないか」
それか、髪を一本残さずむしるか。エンリルとのやりとりを思い出して、アーロンは心の中でそう付け足す。もっとも、カゼスの帰りを待って煩悶する女がいるとは、とても想像できないのだが……。
案の定、カゼスは苦笑して首を振った。が、その後の発言はアーロンの予想外だった。
「私が死んだって、誰も悲しみはしませんよ」
「………誰も?」
酔いが醒めるほど冷たい何かが、心の中に入り込んだようだった。呆然と問い返したアーロンの凝視から、カゼスは目をそらす。
「少しは悲しむだろうな、って友達はいますけどね。でも多分、誰も私を心配して捜し回ったりはしてないだろうなぁ。皆、なんだかんだ言って淡泊だし……自分の事で手一杯と言うか、お互いがそれぞれ自分の面倒を見られるだろうと思っているから……かな。家族は私の事はどうだっていいし……」
唯一カゼスの死が重大な影響をもたらすのは、リトルだけだろう。だがリトルの存在は告げていないので、それを言うわけにはいかない。第一、リトルは悲しまない。
だから、多分自分はどうだっていい存在なのだ。
そんな風に考えて黙り込んだカゼスの横顔を、アーロンはじっと見つめていた。
「俺は……」ややあって、訥々と彼はしゃべりだす。「おぬしが死ねば、大いに困るし、多分……悲しみもする。と思う」
何を言い出すのだ、とばかり、驚いた顔でカゼスが振り返った。今度はアーロンの方が目をそらす。
「こんな事を言うのはおかしい……とは、思うのだが」
アーロンは困ったように頬を掻いて、歯切れの悪い口調で続けた。酔いの助けがなければ、いつものように黙ってしまっていたかもしれない。
「おぬしは、どこか人を……和ませる力があるような気がする。だから、多分おぬしを知る大勢の者が悲しむだろう。エンリル様も落ち込むであろうな」
言われて、カゼスはエンリルの気性を思い出した。確かに、今ここで死ねば、それはまさしくエンリルの為に死んだ、という事になってしまう。直接の死因がなんであれ。
「それは困りますね」
カゼスはつぶやいたが、それが聞こえていたのかどうか、アーロンはふと振り向いてカゼスの目を真っすぐに見つめた。
「俺はおぬしの家族や友人を知らぬが、多分、彼らも俺と……俺や殿下と、同じように思うておるのではないか? それをおぬしが信じられないだけなのではないか? 彼らがおぬしの事をどうでも良いと感じているのではなく……おぬしが彼らに対してそう感じているから、たとえ彼らの内の誰かがおぬしを、……慈しんでいたとしても、おぬしが敢えて目を背けているのではないのか?」
「……………」
カゼスは絶句したまま、立ち尽くした。彼の言葉が自分に与えた衝撃の意味を理解するまで、恐ろしく時間がかかる。次第に目頭が熱くなり、やがて涙がはたはたとこぼれだすと、やっとカゼスは弱々しく首を振った。
「そんな事、信じられる筈がない……」
かすれ声の反論に、アーロンは無理強いをしなかった。「かも知れぬ」とあっさりうなずき、船縁に背を預けて暗い空を仰いだ。
「俺はおぬしの過去や身内を知るわけではないからな。だが、少なくとも、ここにいる者の多くは、おぬしを……慕っているだろう。だから、ティリスにおけるおぬしの友人が、おぬしの死を悲しまぬと言うのは、おぬしの方に誤謬がある」
カゼスは涙を拭き拭き、「分かりません」と何度も繰り返す。涙が止まるまでしばらくかかったが、カゼスはなんとか笑みを作って言った。
「でも、あなたの推測の通りだったら……私はとんでもなく馬鹿で、でも、幸せ者って事になるんでしょうね」
言ってから、少なくとも馬鹿ってところは当たっているな、と苦笑する。
「随分と観察力があるんですね」
それだけの人間観察眼があるからこそ、この若さにもかかわらず万騎長を務めていられるのかも知れない。笑みを見せたカゼスにつられたのか、アーロンも少し笑った。
「人使いの荒い姉を三人も持つと、観察力なくしてご機嫌を取るのは難しいからな」
堪えきれず、カゼスはぷはっと失笑した。わずかとは言え本心から笑うと、今までの嫌な感覚がすべて掃き清められたように、すっきりした気分になった。悪夢のかけらも残らず消え去ったようだ。
どうやらもう眠れそうです、と言い残して、カゼスはまたそろっと船室に戻って行く。甲板の上ではカワードのいびきを除けば、イスファンドとウィダルナの話し声が微かにするだけになった。
カゼスがいなくなってもアーロンは酒席には戻らず、ひとり船縁で頭を抱えていた。
「馬鹿は俺だ……何を考えているんだ」
その小さなうめきを聞いた者はいなかった。




