四章 海賊の島 (1)
「負けた。降りる」
アーロンがうめくと、周囲で見物していた面々がわっと声を上げた。セルの盤を挟んで対峙しているカゼスは、ほっと息をついて首や肩を回す。緊張でこわばった筋肉が、張りつめた精神と共にほぐれていく。
「強いな。アーロンに勝てるのはイスハークぐらいかと思っていたが」
エンリルが感心した様子でカゼスに笑いかける。
そもそも、何もする事のない船旅の無聊を慰めるのにと、セルを用意したのが事の始まりだった。最初はアーロンがカワードに何とか手ほどきをしようとしていたのだが、勝てない事に苛立った生徒の方が代役を立てて挑戦してきたのだ。ウィダルナがアーロンに負けると、誰かアーロンに勝てる奴はいないのか、という事になり、セル熱が一気に広がったわけである。
カゼスもチェスなら好きで何度もやっていたので、ちょっとしたルールの相違にさえ気を付ければ、セルを楽しむ事もできた。余分の盤でイスファンドと対戦していたカゼスが、実は強いらしい、となって、アーロンとの対決を求められたのである。
「魔術師ゆえ、集中力が持続するのだろうな。俺はもうそろそろ限界だ」
疲れ切った表情で言い、アーロンは大きく息をついた。カゼスは曖昧な苦笑を浮かべる。なんと言っても、戦術に関して何世代も後のものを知っているのだし、リトルを相手に練習を重ねているのだから、勝利も当然と言えるだろう。喜ぶ気にはなれない。
「運が良かったんですよ。あなたは私の前に何人も相手をしていたんですし」
「では、次は万全の状態で挑むとしよう」
やれやれ、とアーロンも軽く首を回し、もうたくさんだといった風情で立ち上がった。
「カワード、少し手合わせを頼む。これ以上頭を使うと熱を出しそうだ」
「ははは、さしものアーロン卿も、やはり体を動かす方が良いか」
愉快げに笑ってカワードが立ち上がる。軽い皮肉に対し、アーロンは冷たい目を返した。
「おぬしは熱を出す心配などまったく要らぬようで結構なことだ」
「ぬかしたな。甲板を舐めさせてやる」
大袈裟に怒って見せると、カワードは剣を取って船室から出て行く。セルに飽いた者がわらわらと見物に後を追う。カゼスもいそいそと立ち上がった。
「面白そうですね。私も見に行こうかな」
「おぬしはここにいろ」
間髪を容れずアーロンが言ったので、カゼスはきょとんとなった。
「え? なんで……ですか?」
「外は日差しが強いぞ。ここ数日でおぬしは随分日焼けしている」
指さされてカゼスは、自分の鼻を掻いてみた。なるほど、焼けた皮膚がパリパリ音を立てる。紫外線避けの呪文を唱えていなかったからだ。日焼け止めクリームがあるでなし、用心を怠るとひどい目に遭いそうである。
「あー、忘れてました。大丈夫ですよ、ちゃんと術をかけておきますから。でも驚きましたね、皆さんは割と普通に日焼けしてらっしゃるから、肌の白い人間の苦しみには無縁かと思ったんですけど」
カゼスの皮膚は、ぎょっとするほど白いというのではないが、確かに色素の薄い方で、健康的な小麦色の肌などとは無縁の人生を送ってきたクチだ。
金髪のエンリルさえ、ごく普通に日焼けしているこのデニスで、なぜアーロンがこんな気遣いを見せられるのかが疑問だった。
「そうでもないのですよ」
と答えてくれたのは、イスファンドだった。
「我々は確かに太陽に親しんではおりますが、貴族の娘の中には家に閉じこもったきりの者もおり、そのような者はラウシール様と同じように肌が白いのです」
「と、いう事は……元々は、あなたたちもそんなに肌色が濃いわけじゃないんですか」
「まあ、家系にもよるがな」アーロンが答えて肩を竦める。「王宮に来た当初は、エンリル様を日に当てる時に随分と気を遣ったものだ」
へえ、とカゼスはエンリルを見る。今の活発な姿からは、色白でひ弱な子供時代など想像もできない。
「昔の話は止せ。年寄り臭い」
少しむくれて、エンリルはそれ以上昔の自分を暴露されるのを防いだ。ついでに矛先を相手に向けておこうと、言い足す。
「そなたは、いつも誰かの世話を焼いておらぬと気が済まぬようだな」
だが、エンリルがそうして幼児化してしまうと、元守役にかなう筈はなかった。
「ええ、手のかかる王太子のおかげでそのような体質になり果てました」
芝居がかったため息をついてから、アーロンは愉快げに笑って出て行く。エンリルは恨めしげな目を向けたものの、すぐに苦笑を浮かべて、やれやれと頭を振った。
カゼスが外に出た時には、既に見物人がアーロンとカワードを取り巻いて垣根を作っていた。一番外側にいると見えないので、ぺこぺこ謝りながら前に出してもらう。
恐ろしい事に真剣での手合わせだったが、練習用の木剣があるわけではないから仕方がない。それに二人とも相当な使い手だけあって、怪我をする心配はなさそうだ。
〈危険度で言えば、あなたが一人で剣を持ってふらふらしてるほうが、よほどですね〉
リトルがそう保証してくれたのだから、まあ大丈夫なのだろう。
鋼の澄んだ響きが、小気味良く続く。カワードは体格の割に動きも素早く、知らぬ者が見ると一方的にアーロンが不利だとしか思われない。
事実はそうではないと分かってはいるが、カゼスは次第にハラハラし始めた。
(右目が見えない……)
そう言われて知っている事も、不安の一因だろう。怪我をするのではないか、予想外の事故が起きはすまいか。これは、竹刀や木刀の練習試合とは違うのだ。カワードの背中がアーロンの姿を隠す度に、カゼスは心配になって首を伸ばす。
「それほど案ずることはないぞ。少々の傷など慣れているし、今はそなたもいるしな」
いつの間に来たのか、隣でエンリルが言った。意識的に軽い口調で言ってくれているのが分かったが、カゼスはそれに調子を合わせられず、曖昧にうなずく。
「ええ、分かってはいるんですけど……どうも、真剣だって言うのが怖くて」
治安局の仕事を始めてから、何度かは暴力沙汰の現場に出くわしたこともある。が、だからと言って慣れるものでもない。殴り合いの鈍い音や、鉄を含んだ血の匂い、皮膚が裂ける音、すべてが過敏な神経を逆撫でする。
「臆病者の心情なんて、理解して貰おうとは思いませんけどね」
自虐的につぶやくと、カゼスは顔をしかめた。
一瞬、何か嫌な記憶が蘇りそうな気がしたのだ。深い淵の底に澱んだ何かが、わずかな水の動きにつられてゆらりと起き上がる、そんな気配。血の匂い、生温かい空気、有機物のねっとりした感触。陽光を受けた切っ先の輝きが、やけに禍々しい。
急に吐き気をおぼえ、カゼスはよろよろと人の壁をかきわけて、船縁へと向かった。実際に嘔吐するところまではいかなかったが、胃がよじれたかと思うほど気分が悪い。潮風に当たっても、ほとんど改善はされなかった。
ふと、人がばらばらと散って行く足音に気が付いて我に返ると、誰かが側に近付いて来るのが感じられた。なんとか顔を上げて振り返ると、気遣わしげな表情でアーロンが立っている。まったく心配性だ。カゼスはつい苦笑してしまった。
「大丈夫です、ちょっと……酔ったのかも」
川で船には慣れたつもりでいたが、外海に出ると波の高さがまるで違う。多分、そのせいだ。自分にそう言い聞かせると、少し気分が良くなるようだった。
「中で横になっていたらどうだ? 頼りの魔術師がそのざまでは、もしもの時に困る」
アーロンが小首を傾げた。汗と波飛沫とで濡れた服が体に張りついているせいで、筋肉の動きが分かる。場違いにもカゼスは、相手を羨望のまなざしで見上げていた。
故郷にいる時は、どっちつかずな体格でもさほど気にならなかったのに、時代柄肉体労働の多いここに来てからというもの、戦士体格の男達には劣等感を刺激されてばかりだ。女達にはもとより既に充分すぎるほど引け目を感じている。ここの住人達にも個人差があるとは言え、今の自分ほど劣等感を抱く者はいなかろう……。
などと、自分の怠惰さという原因は無視してため息をついたカゼスに、アーロンは怪訝な顔を見せた。
「どうしたのだ? 一体」
「いえ……つくづく自分は屋内用座業型人間だなぁ、と実感しただけです。筋力ないからロクに力仕事ができないし、足腰弱いし、腹筋たるんでるし……」
自分で言ってみじめになる。その顔があまりに情けないので、アーロンはつい、声を立てて笑った。
「勘弁してくれ。これでおぬしが剣を取っても素晴らしいとくれば、我らの出る幕がないではないか。エンリル様が言われていたように、武将の仕事は武将に任せて貰いたいものだな、ラウシール殿。それに」
と、言いかけて、いきなり彼は言葉を飲み込んだ。今度はカゼスが怪訝な目を向ける。それを避けるようにアーロンは目をそらし、一人しきりに首を傾げて「あ、いや」などと言葉を濁した。しばらくそうして首をひねってから、彼は「ともかく」と続ける。
「そう何もかもを望まず、出来る時には後ろに引っ込んでおれば良い」
「もっともだな」と、いきなりカワードが割り込んできた。「大体、おぬしはひ弱で細っこくて、とても戦向きとは思えん。姫君らしく守られているのが良かろう」
「悪かったですねっ!」
カゼスはむくれて言い返す。その反応を楽しみにしていたように、カワードはげらげらと無遠慮に笑った。
「まあ、魔術の必要がない時には、な」
アーロンは曖昧にそれだけ言って、ふいと踵を返す。何となく、それ以上カゼスの側にいるのは、ばつが悪かったのだ。
(当たり前の事ではないか)
何を訝っているのか。アーロンは自分に問う。
(戦う能力のない者を守るのは武人の務め。ましてやカゼスは、我々側にはたった一人の魔術師なのだぞ? 守らねばならぬのは、自明の理で……)
だったら、なぜ自分はそう口にするのをためらったのだろう。よく分からない。
首を傾げながら、振り返らないように立ち去ろうとする。
が、ほんの数歩進んだだけで、彼はまた船縁に駆け戻ることになった。
「あれ! 船じゃありませんか?」
カゼスの声で、わっと誰もが忙しく動き出した。
瞬く間に、船縁に人が集まる。既に身を乗り出しているカワードに並び、アーロンも目を凝らして水平線の彼方を探す。
「……間違いないな。小型だが、一、二……五」
彼が唸ると、カワードは横でうきうきと拳を打ち鳴らした。
「やっと出番が回って来たな! カッシュを出てからまるで暴れる機会がなかったのだ、楽しませて貰うとするか!」
「海賊に海賊行為を仕掛けるのではないぞ、カワード」
苦笑まじりの声にたしなめられ、慌ててカワードは振り返る。
「殿下、驚かせんでくださいよ。しかし、まさか穏便に事が済まされるとお考えではありませんでしょうな? 相手は海賊ですぞ」
エンリルは、カワードが空けた場所に身を乗り出して向こうの様子を確かめながら、けろりとした顔で応じた。
「さて、どうなるかな。我々は通常の航路を進んでいるのではないのだぞ。彼らの住処へまっしぐらという、尋常ならざる航路だ」
「相手がこちらの意図を察してくれるとでも仰せですか? それはちょいと楽観的に過ぎやしませんかね。むしろ、何も知らずにふらふらしている馬鹿共の船か、身の程知らずにも海賊退治に出て来た輩かと思われるのでは? どっちにしろ、静かに殿下の話を拝聴してくれるとは思えませんがね」
カワードは口をへの字に歪めて肩を竦める。いかにも彼らしい言い草に、エンリルは小さく笑った。
「静かにして貰うために、ラウシール殿がいるのではないか。カゼス、彼らの船が声の届く所まで近付いたら、私と共に姿をよく見せてやって欲しい。それと……それ以上彼らを近付かせぬようにする事はできるか?」
「えーと……そうですね、出来なくはないと思いますが。でも、私が出て行ってエンリル様の引き立て役になればまだしも、エンリル様まで侮られることになったら、申し訳ないですねえ。私は人になめられやすい顔をしていますから」
カゼスは言って、情けなさそうに頬を掻く。が、エンリルは笑わなかった。「そうか?」と心底驚いた顔をして、意見を求めるようにカワードとアーロンを交互に見る。二人の武将も、しげしげと改めてカゼスを眺め、首を傾げた。
「言うほどではないと思うが? なあ、アーロン」
最初に『並』などという判断を下したカワードが、罪滅ぼしというわけでもなかろうが、そんな事を言う。アーロンも複雑な顔をしていたが、曖昧にうなずいた。
「まあ、威厳があるとは言えぬが、侮られるほどでもあるまい」
「そう……ですかぁ?」
容姿に関してフォローして貰ったのは生まれて初めてだったので、カゼスは力いっぱい不信の念を込めて問い返す。デニス人とは、感覚が違うのかもしれない。
「まあ、そう言われるんならそうなんでしょう……じゃ、呪文を作っておきます。出番が来たら呼んでください」
集中しやすいように、カゼスはとことこと船室の中へ戻る。その背中を見送り、カワードは首を傾げた。
「はて……最初に見た時は、もっと冴えない印象だったように思うんだが」
「おぬしもか?」
アーロンも揃って首をひねった。自分の記憶が怪しいのだろうかと口に出すのを憚っていたのだが、どうやら自分だけの錯覚ではないらしい。
「なんとなく……ここしばらくで、全体の印象が変わってきたように感じていたのだが、俺だけでないとなると、錯覚ではないのだな」
「ティリスの水が合うていたのかも知れぬな」
可笑しそうにエンリルは言い、もう一度迫り来る船団に目を向けた。
機動力にすぐれた小型の船は、二十人程度の漕手で二段の櫂を動かしている。上段の漕手は戦闘要員として、獲物に食いついた時には櫂を離して相手の船に乗り込むのだろう。船首は竜の形に彫られており、独特の形は遠目にもフローディスの名を思い出させるに充分なだけ印象的だ。
アスラーの指示で、櫂がすべてしまわれる。折られてしまうと先の航海に響くからだ。万一逃走を余儀なくされた場合はもちろんのこと。
ややあって、待ちくたびれたカゼスがのこのこと船首の方に出て来た時には、海賊船の乗員が見分けられるほどに近付いていた。
「あれが首領ですかね」
カワードが剣の鞘を軽く叩きながら言う。その視線を追い、カゼスもそれらしき人物を発見した。
先頭の船の船首に立って、槍を肩に担いでいる。短い黒髪の、比較的小柄な男だった。額に幅広の布を締めているのは、汗や波飛沫が目に入らないようにだろうか。
不思議な気配を発散させているな、とカゼスは目を凝らした。以前に見たような気が、ちらと胸をかすめる。どこか人をひきつける力のある男だ。と言っても魅力的だというものではなく、気にかかる、あるいは有無を言わせず従わせる、そんな雰囲気だが。
子供のように楽しげな表情で行く手を見ていたその男が、ふと視線をずらして――愕然となった。その目に映っているのが誰かは、考えるまでもない。
「おぬしを見付けたようだな」
アーロンが、相手に目を据えたまま言う。その手は剣の柄にかかっていた。カゼスは怯んでボロを出さないように、強いて相手を見返した。
男が何事か背後の乗員に指示を出すと、近付く船の速度が目に見えて遅くなった。エンリルは昂然と顔を上げ、相手の出方を見守っている。
やがて、ゆっくりと首領の船だけが列を離れて近付いて来た。カゼスは横に立つエンリルに、どうします、とささやく。呪文を使うか、と。
「他の船が近付いて来るようなら、使ってくれ」
小声で答え、エンリルは一歩前に出た。甲板の高さはこちらの方が高いが、海賊側は既に鉤のついた縄を用意している。引っかけて乗り移るのはお手の物なのだろう。油断はできない。あまり乗り出さないよう距離をとって止まり、エンリルは言った。
「そなたが首領か?」
男はエンリルの物言いに不審げな顔をしたが、肩を竦めただけで答えない。先に名乗れ、というところだろうか。近くで見ると、その目は晴れた夏空の色だった。どこの人間なのか特徴がはっきりしない。エンリルは少し躊躇したが、名を明かすことにした。
「私はティリスの王太子エンリルだ。そなたらに話がある」
「ほう? ティリスにはまだ王太子がいたのか」
初めて男は口をきいた。意外によく通る声質で、野卑な印象はまるで受けない。
(あれ? なんか……この声)
誰かに似てるな、とカゼスは首を傾げる。横からアーロンが剣呑な口調で詰問した。
「どういう意味だ。おぬしがティリスの民ではないにしろ、無礼は許さぬぞ」
「許さぬ、だぁ? 許さねえったって、どうする気だよ」
皮肉にそう言い、首領は傷痕のある右頬を歪めてくくっと笑う。それから眉を片方上げ、おどけた表情でエンリルを見上げた。エンリル自身は相手の言わんとするところを間違いなく察したらしく、唇を噛んで眉間に皺を寄せている。
「元王太子殿下は察しが良くていらっしゃる。俺たちの聞いたとこじゃ、ティリスの元王太子は謀反のかどで手配されているってえ事だが」
男は楽しそうな口調で言った。エンリルは苦々しく、口元を笑みに似せて歪めた。
「耳が早いことだな」
「情勢に疎くちゃ、海賊はつとまらねえよ。それがなんでこんな所にいるのか、までは知らねえが……ちょっくらごめんよ、首が痛くてかなわんぜ」
言うなり、男は縄を投げて鉤を掛け、ひょいと身軽に乗り移って来た。その素早さと大胆さに、アーロンもカワードも呆気に取られ、剣を抜くのが遅れた。
彼らがエンリルを庇って後ずさると、空いた場所に、男は堂々と乗り込んできた。攻撃の意志はないと示すように、空の両手を広げて見せる。
「紹介が遅れたな。俺はクシュナウーズ、今んところ船五隻のまとめ役だ。ま、俺としちゃ陸のゴタゴタなんざに首突っ込むのは、賢いたぁ思えねえんだが……」
と、彼は首を巡らせ、カゼスに目をとめた。
「ラウシール様がいるってんじゃ、無下にも出来ねえってんでな」
ずい、と近付く。カゼスはぎょっとなって下がろうとしたが、その時には髪をむんずとつかまれていた。
「あいたたたた! 何するんですか!」
抜けるのではと思うほど強く引っ張られ、カゼスは悲鳴を上げる。クシュナウーズの方は平然としたもので、周囲の人間が殺気立っているのも無視して、じろじろとカゼスを観察した。そして、
「ふん、かつらじゃぁねえ……てことは、」
言うなり、やおらカゼスの腕をつかんで、
「染めてるわけか!」
海に向かって投げ飛ばしたのである。水柱が上がり、ぎょっとなってエンリルたちが船縁に駆け寄った。
「カゼス!」
「貴様、何をするっ!」
アーロンとカワードが剣を抜き、クシュナウーズに迫る。が、いきなり船がグラリと揺れ、二人は体勢を崩してよろめいた。
「おっとっと……何だ?」
クシュナウーズも小さくたたらを踏み、船縁につかまる。それから下を見て、あんぐり口を開けた。その中からほとばしった叫びは、水音にかき消された。
イシルが水中から巨大な頭部をもたげ、カゼスをすくい上げてくれたのだ。水竜の頭の上で、カゼスはげほげほと咳き込んでいる。
「し……塩水が目に染みるぅ~………」
半ベソをかきながら、カゼスはもごもごと呪文を唱えた。途端に真水の球がカゼスを包み、全身を洗いつつ海へ落ちていった。なんとか目が開けられるようになると、カゼスはイシルに礼を言って、また別の呪文を唱える。
ぶるっと頭を振るだけの間に、体についた水が蒸発して消え、風に乗って船に戻って来たカゼスは、すっかり元通りになっていた。
「いきなりなんて事してくれるんですか! 私が魔術師だったから良かったものの、そうでなければ溺れて死んでますよ!」
憤然と抗議したカゼスだったが、クシュナウーズはその言葉をまともに聞いていない様子だった。呆然と口を半開きにして、穴の空くほどカゼスを見つめている。
「まさか……本当に本物のラウシールだってのか?」
ようやくそう言った声は、かすれていた。
「この小っこいお嬢ちゃんが?」
付け足された一言に、束の間状況を忘れてエンリルやカワードが失笑する。カゼスに睨まれ、エンリルは慌てて表情を取り繕った。
「クシュナウーズと言ったな。確かにカゼスは本物だ。たとえ背が低く、女に見えようとも、な。そろそろ我々の話を真面目に聞く気になったか?」
「……男? これが?」
愕然としてクシュナウーズはそれきり絶句する。カゼスは深いため息をついた。
「エンリル様、この人がまともに話を聞いてくれるまで、少なくとも三十数えるぐらいはかかりそうですよ」
「俺は十五に賭けるぞ」
すかさずカワードが言う。相手がすっかり度肝を抜かれているので、緊張して構える必要を感じなくなったのだろう。「十」とアーロンが言うと同時に、クシュナウーズが我に返って言った。
「信じられんが、本物だってんなら仕方ねえ。俺一人じゃあ決められんな、とりあえず島へ……おい、何やってんだてめえら」
硬貨をやりとりしているアーロンとカワードを見て、クシュナウーズは呆れ顔になった。
「人をダシに賭けてんじゃねえよ。呆れた連中だな」
「あなたほどじゃありませんよ」
冷ややかにカゼスが口を挟む。意外に手厳しい言葉なのは、不機嫌な証拠だ。初めてカゼスが棘のある発言をしたので、エンリル達の方まで驚いた顔をした。
「言うじゃねえか、お嬢ちゃん」
フン、とクシュナウーズは鼻を鳴らす。それから突然、愉快げに哄笑してカゼスの肩を乱暴に抱き寄せ、荒っぽくばしばしと叩いた。
「気に入ったぜ、おい! ラウシール様のふりをしようってんだ、どんな澄ました奴かと思ったがよ」
不精髭のまばらに生えた顎が額に当たり、カゼスは顔をしかめた。乱暴に振りほどき、じろりと相手を睨んで鼻を鳴らす。馴れ馴れしい。
「おいおい、怒るなよ。美人が台無しだぜ」
「虫酸が走る台詞を吐く余裕があるなら、エンリル様の話をちゃんと聞いてください」
むっとして言い返す。他人にべたべた触られるのは、鳥肌が立つほど嫌だった。悪寒がするとでも言うように、カゼスは無意識に我が身を抱き締める。
そんな態度に、クシュナウーズは大袈裟に傷ついた顔をして見せた。それから肩を竦め、エンリルを振り返る。
「聞くまでもねえよ、どうせティリスに戻るのに力を貸せってんだろう? 見返りは成功報酬として交易権ってとこか」
「随分と察しが良いのだな」エンリルは苦笑した。「それとも私が浅はかなのかな」
「人間の考える事なんざ、たいして変わりゃしねえってだけさ。とにかく、俺一人で決められる話じゃないんでね。島までご足労願いますぜ、殿下」
言うと、クシュナウーズはひょいと自分の船に飛び降りる。海の上だと言うのに、その身軽さときたら。
慌ててエンリルは船縁に駆け寄り、声を大きくして問うた。
「そなたが首領ではないのか?」
「まとめ役っつったろ? 島にゃ何人もそういうのがいて作業を分担してるのさ。それとも何かい、陸じゃお偉いさんが一人で何もかも管理して、間違いがないってのか?」
当然、言葉の後半は当てこすりである。エンリルは苦笑してただ首を振り、「案内してくれ」とだけ言って、乗り出していた身を戻した。




