三章 逃亡 (4)
出立間際になって揉めたのが、テマの街から彼らを送って来た船の処遇だった。
もちろんカッシュ総督が用意してくれた船の方が大きく、ティリス湾から出るのならば、そちらでなければ話にならない。当然エンリルは、彼らにはテマに帰るよう指示を出した。が、予想外なことに水夫や漕手のほとんどが、ついて行くと言い出したのだ。
その原因となったのが、アスラーの発言だった。
「ラウシール様が危地にある時に、おめおめ逃げ出すような真似は出来ませぬ。幸い私は妻子も身内もおりませぬし、仕えるべき総督も、今はいささか近寄り難い場所に去られてしまい申した。それゆえ、是非ラウシール様にお供つかまつりたい」
船の指揮者がそんな事を言い出したのだ。少しばかり別れを惜しむ気持ちのあった者、あるいはこの機に手柄をという功名心や向こう見ずな冒険心に動かされた者が、次々つられて我も我もと言い出す始末。
そうなると今度は、残りの者が帰りたくとも人手が足らず、船が動かせない。
「アスラー殿、こう言ってはなんですが、危地に陥っているのはエンリル様の方で、私じゃないんですけど……。あなたがそんな事を言い出したら、帰りたい人まで帰れなくなるじゃありませんか。それに私は、あなた達の行く末にまでは、とても責任持てませんよ」
渋面になってカゼスは言ったが、あまり効果がない。エンリルは無視されてはならぬ筈の立場にありながらすっかり外野に置かれているが、面白そうにその様子を眺めている。
「エンリル様も何とか言ってくださいよ。私はそんな偉いもんじゃないんだから、ついて来られても困るんですよ」
カゼスはとうとう彼に泣きついたが、次の瞬間、それは失敗だったかと嫌な予感に襲われた。エンリルは満足げに微笑んだのだ。
「アスラー、そなたがカゼスに忠義を尽くしたい気持ちは分かった。だが、本人はああ言っており、そなたの助力は必要ないらしい。私から見る限り、必ずしもそうとは言い切れぬのではないかと感じられるがな」
彼は至極にこやかに、随行希望者の一群に向かって語りかける。
「そこで、だ。普段はカゼスの邪魔にならず、しかし必要な時にはその助けとなれる場所を、そなたらに提供しようと思う。幸い、王太子自身の親衛隊は欠員だらけで隊長さえ他と兼任している状態だ。どうだ、アスラー、親衛隊長の位を受けるか?」
「エンリル様! そんなとんでもない事を……」
ぎょっとなってカゼスは抗議する。だが、エンリルは真面目な表情になって続けた。
「むろん、この任命は正式なものではない。現在の私には何の権力もないからな。正直、海賊たちとの交渉が決裂した場合、我々の手勢だけでは心もとないのだ。短い期間の仮の身分に過ぎぬものとなるやも知れぬ。それでも良ければ、共に来て貰いたい」
真摯な言葉だった。アスラーはちらと探るような目を向けたものの、じきにひざまずいて頭を垂れた。他の者もわずかなためらいの後、それにならう。
「ラウシール様の主君は我らが主君。お許しを頂けるのであれば、一兵卒としてでも、お供致しましょうぞ」
「ありがとう」エンリルはにっこりする。「よし、そうと決まれば急いで発つぞ。ここまで追っ手が差し向けられたら、総督が板挟みになって困るからな」
は、と短い返事をして、手早くアスラーたちは準備にかかる。このまま船で港へ出て、総督の用意してくれた船に必要な荷などを移すのだ。この船と残留組の処遇については、カッシュ総督に任せるしかない。
忙しく立ち働く彼らの姿を眺め、カゼスはため息をついた。
「エンリル様……良かったんですか?」
「そなたが気に病む事ではない。確かに人手は必要なのだ。それに、」とエンリルはやや皮肉めかした顔を向けた。「そなたは彼らに対して責を負いたくないのだろう?」
図星を指され、カゼスはうっと言葉に詰まった。それからしおらしくうなだれる。
「すみません」
「何を謝る? 別にそなたの荷を肩代わりしたのではないぞ。元々私は国の民一人一人に責を負っているのだから。時に応じて都合よく省略したり棚上げしたりしてはいるが」
言葉の内容の割に屈託のない笑みを浮かべ、エンリルは楽しそうに笑った。
「さて、我らも人目につかぬよう細工をせねばな。……どうした?」
カゼスがぼけっと自分を見ているのに気付き、エンリルは目をしばたたかせる。問われてカゼスは、やや照れたように頭を掻いた。
「あ、いえ……頼もしいなぁ、と思いまして。羨ましいなぁと」
考えてみれば、王太子という身分上、生まれて以来多くの重荷を背負っている筈なのに、この軽々としたふるまいはどうだろう。どのような労苦も、彼の本質を曇らせることは出来ないのではないかとさえ思われる。
カゼスのそんな思いを察したように、エンリルは照れ隠しなのか小さく苦笑した。
「私を羨んでも仕方がないぞ。それより……ああ、そうだ、そなたいつの間に髪を染めたのだ? 出来るならば、他の者にもそのような細工を施して貰いたいのだが」
「ああ、これですか。魔術ですよ。そうか、別に今は一般人の目さえごまかせたらいいわけだから……」
ふと考え、カゼスは首を傾げて黙り込む。ややあってカゼスは、きょとんとしているエンリルに笑顔で言った。
「ところでエンリル様、お茶商人と香辛料商人、どっちがいいですか?」
「本当に、これでごまかせているのだろうな?」
甲板の上で、ばたばたと行き交う人々を眺めてアーロンが不安げに問う。カゼスはけろりとした顔で、「ええ」とうなずいた。
「エンリル様は香辛料商の若旦那にしか見えない筈ですし、他の皆さんも全員、軍関係の人間には見えませんよ。私たち自身以外にはね」
堂々と港に入り、姿を晒したまま積み荷を移したり、新たに必要な品を買ったりしているのだが、誰も彼らを見咎めない。
エンリルなどはすっかり気を良くして、誰彼かまわず話しかけてみたりなどしている。それはそれで怪しいから止した方がいい、とカゼスが忠告しなければ、近辺の人間全員に声をかけているところだ。
アーロンは落ち着かない様子で、きょろきょろした。
「しかし……俺には殿下の姿が見分けられるし、おぬしも青い髪を晒しているようにしか見えぬのだが」
「実際に見た目を変えているわけじゃないんです。見る人の意識をごまかしているだけですから、ごまかされていない人にはちゃんと実際の姿が分かるんですよ。だって、全員が分からなくなったら困るでしょう?」
「それはそうだが。どうも無防備にされている気分だ」
腰の剣を無意識にまさぐっている。カゼスはこらえきれず失笑した。
「他の人に見えているあなたの姿の方が、よほど無防備ですよ。何の武器も持っていないし、金勘定しか出来なさそうな人に見えているんですから」
「そうなのか?」
名誉を傷つけられたような顔でアーロンが問い返したので、カゼスは声を立てて笑ってしまった。アーロンも仕方なく苦笑し、軽く頭を振る。
「そう言うおぬしはどうなのだ?」
「私ですか?」
悪戯っぽく笑い、カゼスは「ご自分で確かめて下さい」と言って小さく呪文を唱えた。アーロンの感覚にも、まやかしの術をかたけのだ。
途端に目に見える世界が一変し、アーロンはぎょっとなった。自分一人だけが見知らぬ商船に放り込まれたのかと、慌ててきょろきょろする。腰に剣がある筈なのにそれすらも見えず、手で探っても触覚がない。
青ざめているアーロンの耳に、くすくすと風のささやきのような笑い声が届く。先刻までカゼスがいた場所には、見知らぬ若い娘が立っていた。聞き覚えなどまったくない声が、おかしそうに言う。
「びっくりしました? 今、私たち以外の人にはこう見えているんですよ。もちろん、声も違うし触れた感覚もごまかされています。凄いでしょう」
少しばかり得意げな口調は、カゼス自身のものを彷彿とさせる。が、にっこりした笑顔は完璧に、愛想の良い小間使いの娘に見えた。アーロンは情けない顔で――実際他人に見えるその顔はひどく頼りないのだが――まじまじとカゼスを見る。
「カゼスなんだな?」
問うた声すら自分のものとは思われない。彼は顔をしかめた。
「もういい、充分に分かったから戻してくれ。頭がおかしくなりそうだ」
降参したアーロンに対して娘がふふっと笑うと、また元通りの世界が戻ってきた。アーロンはほっと息をついて周囲を見回し、それからカゼスに向き直って肩を竦めた。
「おぬしも存外、悪乗りする性質なのだな。まさかこれほどとは」
この調子では、誰がどのようにごまかされているのやら知れたものではない。
アーロンの心中を察し、カゼスは唇を引き結んでにやけ顔になるのを堪えた。そんな相手の表情を憮然として見やり、アーロンはため息をつく。
「よりによって女に化けているとはな」
呆れた口調に対し、カゼスは笑いを消した。
「……どういう意味ですか?」
訊いた声の妙な硬さに、問われた方のアーロンは怪訝な顔をする。カゼスはもう一度、静かな怒りのこもった声で重ねて問うた。
「どういう意味で、今の言葉を? もし、『女に化けるなど恥だ』という意味合いなんだったら、男がどれほどの生き物かと問い返したいところですが」
どうやら男性優位らしいこの時代、感覚として理解させることは不可能だろう。そう思いはしたものの、やはり聞き過ごすことは出来なくて、カゼスは内心自分に呆れながら相手の答えを待つ。
なぜこんな些細な言葉につっかかるのか、カゼスは自分でも分かっていなかった。
しばしの沈黙を挟み、アーロンは目をしばたたかせて言った。
「そのような意図で言ったのではないが……実際、商船の荷揚げであれば小間使いの女も必要ではあろう。ただ、おぬしが自ら女役をするというのが、いかにも意外でな。姫だのなんだのと揶揄されて、相当頭にきていたのではないのか?」
平静に問い返され、冷水を浴びせられたようにカゼスの怒りがしぼんで消える。
言葉を発したことを責めるように、片手が口元を覆う。その指が微かに震えていた。
――女が蔑視されるのならば、『どちらでもない』者は?
その恐怖が自己防衛本能となって、敵でもない相手に牙をむいたのだ。常に周囲の者は敵だと、自分を差別する者なのだと、そう身構えていたから……それは、過去の亡霊以外の何ものでもないというのに。
アーロンの視線に耐えられず、カゼスは背を向けた。自分自身に対する嫌悪と羞恥が一気に噴き出して、みるみる真っ赤になる。
「……すみません、八つ当たりでした」
小さな声で言い、泣き出したいのをぐっと堪える。
(忘れろ、忘れてしまえ。嫌な記憶なんか掘り起こすな)
苦い記憶の数々がどっと溢れだし、カゼスは激しく頭を振ってそれらを振り払おうとした。別の事を考えて、亡霊たちを墓場へ追い返そうとする。
「どうした? 大丈夫か」
心配そうな響きがまじるアーロンの声。不意にカゼスは、何もかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。自分が性別を持たないこと、その為にどんな経験をしてきたか、どんなに世界を憎んだか、そしてそれ以上に己を憎んだか。
だが結局、何も口に出しはしなかった。どのみちアーロンにとっては他人事だ。かわりに彼は、訥々と弁解した。
「ちょっと、嫌なことを思い出して……過剰な反応をしてしまいました。すみません、本当に。ただ、『女なんか』といった見方をされるのは嫌だったんです」
話していると、少しずつ気分が落ち着いてくる。
「特に……何て言うのか、その……私は皆さんに親しみを感じていますから、その人達が何の疑いもなく女を見下しているのは、嫌で」
特にアーロンは、自分の風変わりな発言にもかなりの理解を示してくれる、貴重なデニス人なのだ。それが、差別に何の抵抗も感じなかったりしたら……。
が、その懸念はまったくの取り越し苦労だった。アーロンは目をしばたたかせ、小さく首を傾げて言った。
「あまり深く考えた事はなかったが……別に女を蔑んではおらぬぞ」それからふとおどけた気配を見せて笑う。「そんな事を言おうものなら、姉上たちに殺されかねん」
冗談に救われたように、カゼスも力なく笑った。それから結局、己の情けなさに長々とため息をつき、船縁に突っ伏して頭を抱えてしまう。アーロンは面白そうな顔でそれを眺め、厭味のない苦笑をもらして青い頭を軽く叩いた。
と、そこへエンリルが戻って来た。
「カゼス、少し手を貸して……どうしたのだ?」
「いえ、ちょっと自分が情けなくなっただけです。何かあったんですか?」
「我々に直接関係のある話ではないのだが……さっき、港の別の船に積み込み作業をしていた水夫が何人か、崩れた木箱の下敷きになったらしいのだ」
エンリルは眉を寄せて言った。大方、雇い主が無理な働かせ方をしていたせいだろうと見当がつくからだ。
「すまぬが、彼らを診てやってくれぬか?」
「え……今、ですか」
カゼスが顔をしかめたので、エンリルは驚き、不審な顔になった。二つ返事で飛んで行くものと思っていたからだ。だが、カゼスは「困ったなぁ」と頭を掻いている。
「何か出来ない理由があるのか?」
「まやかしをかけているでしょう。かなり大々的な奴ですから、まやかし以外の魔術を使おうとしたら、これが邪魔になるんですよ。つまり、まやかしを解かないと……」
どうします、とカゼスは決断を委ねるように両手を広げる。カゼス一人の髪の色を変えている程度ならば、まだなんとかなったかも知れない。だが、これだけ大勢の容姿や声、態度に至るまですべてに幻覚術をかけていると、辺り一帯に力の網がかかっているようなもので、他の術を行うのに障害となるのだ。無理にやって出来ないことはないだろうが、術が失敗したら……。
入門して間もなくの頃の自分を思い出すと、背筋が冷やりとした。小さな火傷を負うだとか、静電気の火花が散る程度ならいい。だがもし、その怪我人の方に何らかの悪影響が出たら? しかもここの力場はミネルバとは桁違いに強い。その程度の軽い現象ですまされるとは考えられなかった。
カゼスの懸念を理解したらしく、エンリルは顔をしかめて唸り、小さくため息をついた。
「アーロン、すぐに出港できるよう準備を整えておいてくれ。カゼスはとりあえず怪我人の様子を見て、それからどうするか決めて貰いたい」
「分かりました」
カゼスとアーロンが同時に答える。
エンリルの案内で、カゼスは港の少し離れた場所に停泊している商船の方へ歩いて行った。傍目には、香辛料商の若旦那とその小間使いが、であるが。
そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。まだ崩れた木箱の除去作業も終わっていないらしく、男たちが何人も、せっせと働いている。
カゼスは、光学迷彩で姿を完全に透明化しているリトルを手招きした。
〈どんな様子だい?〉
〈三人の男性が下敷きになっていますね。一人は下半身だけですんでいますが、残る二人は完全に埋まっていますし、しかも片方は子供のようです。木箱の重量からして、無事とは思えませんね。思い切った外科処置をしたとしても、この時代では助かるかどうか〉
それだけ聞けば充分だった。カゼスは立ち止まり、エンリルにささやく。
「先に、船を出してください。私は後から追いかけます。急いで!」
エンリルは問い返さず、小さくうなずくと踵を返して走りだした。カゼスは人目につかない建物の陰に隠れ、エンリルたちを乗せた船が慌ただしく帆を張って出て行くのを見送る。その動きは苛々するほどのろかった。
〈イシル、聞こえますか?〉
どこにいるのか分からないが、水竜に向かって話しかける。と、すぐに応答があった。
〈何用かな?〉
〈あの船を急いで港の外に出して貰えませんか? エンリル様たちの乗った船を〉
〈それは構わぬが、汝は如何にして行くつもりか? ここには水域に通じる穴がないゆえ、汝を運ぶことは儂にも出来ぬぞ〉
〈飛んで行くんですよ! いいから、早くしてください〉
苛立ったカゼスの言葉に、イシルは呆れた気配を送ってよこした。
〈まったく、せっかちな……〉
ぶつぶつ言いながらも、イシルの気配が遠ざかって行く。と見る間に、エンリルたちを乗せた船は、あまり目立たない程度に、だが素早く、港の外へと滑り出した。
「そろそろいいか」
つぶやくと、まやかしの呪文を消去する。網のように覆いかぶさっていた力が消えると、カゼス自身も何やらホッと解放された気分で息をついた。
「おっと、それどころじゃないや」
慌てて彼は建物の陰から出て、人だかりのしている方へ駆け寄った。
「すみません、ちょっとどいてください」
人垣を押し分けようとすると、不満の唸りを上げて男が振り返った。そして、うわっ、と叫びを上げてとびすさる。その反応に驚いた人が次々に顔を向け、連鎖的にその場をとびのいて、カゼスの前に道を空けてくれた。
過剰な反応に傷ついている暇はない。カゼスはこれ幸いと、開いた扉をくぐるようにして現場に出た。
突然現れた謎の人物に対するざわめきが広がる。だがカゼスは頓着せず、木箱の山に手をのばした。呪文が、ほとんど自動的にと言えるほどの勢いで構築される。カゼスは意識せぬ間にそれを唱えていた。
大の男が二人掛かりで持ち上げていた木箱が、ふわりと重力を失ったように浮かび上がる。それも、一度にすべてが。
ざわめきはどよめきに変わり、人垣が外側へ一気に広がった。その為に出来た広々した場所に、木箱は整然と積み重なって行く。
あらわになった犠牲者の姿に、カゼスは眉をひそめた。鮮血が倒れ伏した体の下に広がり、手足の骨折が素人目にもわかる。ひどい重傷であることは明らかだ。リトルが指摘したように一人はまだ十代になるかならぬかといった少年で、幸いと言うべきか、気を失っている。
カゼスはまず、一番ひどいと見えるその少年に近付いた。治癒の呪文が速やかに意識の中で形作られる。その自然な速さは、生まれる、と言っても良いほど。カゼスは少年の傍らに片膝をつき、そっと呪文を唱えた。
『力』が自分を媒体として少年に流れ込み、作用する様が目に見えるように感じられた。精巧に縒り合わされた様々な力の糸が、少年の体を包み込み、そこに目覚ましい変化をもたらす。折れた骨の組織は集まって元の形へとつながり合い、ちぎれた器官は細胞の手を伸ばしてあるべき状態に戻って行く。切り裂かれた皮膚を通って内部に侵入した異物や、隙を狙う雑菌までが取り除かれて。
その変化は、何も感じ取れぬ者の目には瞬く間だった。
わき上がった喚声に驚いて少年が目を開いた時には、カゼスは他の二人の治療をも終えていた。目をぱちくりさせて自分の手を眺めている少年に、カゼスは優しく声をかける。
「もう大丈夫ですよ。でもしばらくは体を休めて下さいね」
周囲で、奇蹟だ、という叫びが次々に上がる。放っておけばどんな騒ぎになるか知れたものではないが、鎮めている暇はなかった。仕方なく、カゼスは急いで少年にささやく。
「あまり無理な事をしちゃいけませんよ。いつも都合よく助けの手が現れるとは限らないんですからね」
少年が呆然と小さくうなずいたのを確かめ、カゼスは使い慣れた呪文を唱えた。
途端に、人垣を押し分けるようにして強い風が吹き込み、カゼスの体を持ち上げる。ためらうように気掛かりな視線をもう一度地上に投げて、カゼスはそのまま上空へと飛び去った。もうちょっと地味に出来なかったものか、と反省しながら。
港の人間の視界に入らなくなるまで飛んでから、カゼスはエンリルたちの船を見付けてその甲板にふわりと降り立った。
ここでも驚いた人々の騒ぎがひとしきりあって、ようやく船室で茶を飲めるようになった時には、カゼスはすっかり疲れきっていた。
「あーもー、いちいち……」
うんざりした風情でそうぼやいたカゼスに、エンリルは苦笑するしかない。
「騒ぐなと言う方が無理だろう。癒しの技を行うことの出来る者など、今では言い伝えにしか残っておらぬのだ。その言い伝えすら耳にした事のない者がほとんどときては、そなたが騒動の元となるのも致し方あるまい」
「そうは言っても、あまり騒がれると困るんですよ。私はあまりこの国に……と言うか、ここの文明の発達に大きな影響を与えてはいけないから、魔術を大々的に広めたりするわけにはいかないんです。で、そうすると今のところ魔術による治療を行えるのは、私ぐらいのもの、となってしまうでしょう。そうしたら、怪我人や病人が殺到しかねないし……そりゃ、苦しんでいる人は助けたいのが人情ですけど、そうやって半端じゃない人数を助けると、その影響もかなりのものになると思うんですよね」
死ぬ筈の者が生きのびるだけでも、その後に影響は出るだろう。それだけではない、聖人が現れて助けてくれるという発想が定着したら、実際的な医学の発達に支障をきたす恐れも大きい。
考え込むカゼスを見やり、エンリルはやや辛辣な笑みを浮かべた。
「そう案じることもなかろう。私がこのまま嵐にでも遭って死んでしまえば、そなたも公の場に出ることはなくなるぞ」
「縁起でもない」
ぼやいたのはカゼスではない。先刻からエンリルの傍らに控えているアーロンだ。
はたと気付いて、カゼスは顔を上げた。
「そう言えば、甲板の方でカワードがイシルを巻き込んで酒盛りをしそうな気配でしたよ。あなたは行かないんですか?」
途端にアーロンは渋面になった。
「あ奴と一緒にするな。カッシュ総督に疑いをかけるわけではないが、この船には素性の知れぬ者も乗っているのだからな。第一、船乗りとは馬が合わん」
「ああ、なるほど」
カゼスは相手を眺めてうなずく。確かに、貴族育ちの学者肌青年は、海の男たちの中には入り込みにくいだろう。喧噪よりも静寂を好むような人間にとっては、水夫たちの酒盛りなど地獄に等しい。そこにカワードが加わっているのではなおさらのこと。
まさかあり得まいが、この中に顧問官側の密偵などが潜んでいる可能性も、全くのゼロとは言い切れないのだ。アーロンがエンリルの傍らに控えているのも当然の用心だろう。しかし、海賊たちの姿を見付けるまでこの調子では、疲れ果ててしまうのではないか。
カゼスはそんな危惧を抱き、少し首を傾げた。
「でも、ずっと張り詰めているわけにもいかないでしょう。少し休んだらどうですか?」
「おぬしの方こそ、休まずともよいのか?」
反問され、カゼスはきょとんとして目をしばたたかせた。アーロンは至って真面目な顔付きで続ける。
「魔術の事は分からぬが、怪我人を治療し、風に乗ってここまで追って来たとなれば、疲労も並大抵ではなかろうに」
「あれ……そうですね。なんで平気なんだろう」
言われてやっと、自分が目眩も起こさず平気で話していることに気付く。テマ総督府での状態を考えると、あれだけの術を使った後ならまた気絶してもおかしくはないのだが。
「少しは慣れたのかな? うん、今は平気です。大丈夫。多分」
半ば自分に言い聞かせるかのように、カゼスは何度もうなずいた。いまひとつ釈然としないながら、アーロンとエンリルも、「それなら良いが」とつぶやく。
「まあ、慣れたと言うならば歓迎すべきだな」エンリルは言った。「なにしろ、いつそなたの力が必要になるや知れぬ。ことに相手が海賊とくれば」
「あんまり当てにしないで下さいよ……」
情けない顔になってカゼスは苦笑した。それから表情を改めて、言葉をつなぐ。
「力でごり押しするのは簡単で手っ取り早く見えますけど、後が怖いですからね。力が消えた時に元の木阿弥になるようでは、何の意味もありませんから。その場限りのごまかしならそれでもいいのかも知れませんが、エンリル様には、少なくとも二百年はもつ国を造って頂かなくてはならないんですから、ね」
「その話は、せめてティリスからあの女狐を追い出してからにしてくれ」
エンリルは薮蛇だとばかりに首を振った。「そうですね」とカゼスも同意し、軽くうなずく。先を見つめるのも大切だが、今は一歩一歩を着実に進めるしかない。
「千里の道も一歩から、ですね」
「名言だな。覚えておこう」
エンリルが言い、カゼスは慌てて「私が作ったんじゃありませんよ」と言い訳する。が、誰の作であろうと、この際あまり関係はなかった。
〈あなたがミネルバに帰って審問会に召喚される日が楽しみだったらないですね。しっかり記録はとっておきますからね〉
容赦ないリトルの言葉に、カゼスはただ深いため息をついたのだった。




