三章 逃亡 (2)
事態を説明するのは、予想以上に手間取った。水溜まりから首だけ出していたイシルは、その巨大さで人を圧倒してしまうと気が付くと、慎ましく等身大程度に小さくなってから、するっとカゼスの中へと消えた。外から見ていると、白い竜が水になってカゼスに吸い込まれたようにも思える。
それでまた一騒動になって、カゼスは化け物呼ばわりされる憂き目に遭ってしまった。発言者はカワードで、決して悪気ではなかったのだろうが、
「おぬし……たいがい化け物じみてきたな。それとも、元から化け物だったのか?」
などと言われては喜べる筈もない。カゼスはムッとなって言い返した。
「失礼ですね、化け物なのはイシルで、私じゃないでしょう!?」
「汝もたいがい失礼じゃな」
イシルが近くの水溜まりから首を出し、憮然とぼやく。
「あっ、いやその、今のは別にその、あなたを侮辱するつもりじゃなくって……」
あたふたとカゼスは言い訳する。その様子をおかしそうに眺めていたエンリルが、恐れげもなくイシルに近付いた。
「水竜殿。カゼスの話では、我々に多少のお力添えが頂けるとのこと、心強い限りです」
丁寧に言って、軽く頭を下げる。イシルは緑青の目を細めた。
「汝のことは、汝がこの世に生まれ落ちた時より知っておるよ、王太子。遠慮せんで良い。ところで、雨を止ませる前に、船倉に積まれておる葡萄酒を少々貰えんかね」
「葡萄酒? 積んでいたかな」
エンリルは首を傾げて振り返る。その視線の先にいたカワードが、ぎょっとなった。
「あ、あれは、その……総督府で押収した密輸品でして」
もごもごと口の中で言い訳しかけたものの、結局カワードは不承不承、大事な酒を諦める事にした。
「まあ、ご所望とあらば致し方ござらんな」
ため息をついたカワードに、やや呆れた風情でアーロンが言った。
「本来行くべき場所から奪われた酒も、この地で役に立てるとあらば本望であろうよ」
「かどわかされた葡萄の精を助け出したは、俺なのだがなぁ」
「おぬしに飲まれたでは、浮かばれぬわ」
「何を言うか! 美酒とはその価値が分かる者に飲まれてこそ、であろうが」
下らぬ言葉の応酬をしている二人に、イシルが口を挟む。
「酒に関しては、汝などよりよほど造詣が深いと思うがの。帝国時代のアラナ谷で作られた葡萄酒は絶品じゃった。リズラーシュで作られる白酒、それに高地の林檎酒の黄金色も懐かしいのう」
相手がこれでは勝ち目はない。カワードは深いため息をついたのだった。
「一杯やるのも結構ですが、雨の事もお忘れなく」
カゼスが釘を刺さなければ、一杯ではすまなかったかも知れない。ともあれ、イシルは杯に注がれた葡萄酒を頂戴すると、約束通りに雨を止ませてくれた。
洞窟の入口を覆う帳のように降りしきっていた雨が、次第にまばらになっていく。厚い雲が薄くなって消えて行き、陽光が濡れた大地を眩く照らしだす。
「見事ですな」
さすがに呆然と外を見やり、アスラーがつぶやいた。それからはと我に返り、慌ただしく出発の命令を下す。
じきに、光を受けてきらめく川の流れに乗って、一行を乗せた船はなめらかに走りだした。流れは速いが、水嵩も増している上にイシルが手を添えてくれているのだろう、浅瀬や岩に引っ掛かることはない。
数日振りの青空に、エンリルも船首の方へ出て来て、心地よさげに風を受けた。
「雨が好きだと思っていたが、こうして見ると青空も良いな」
嬉しそうにそんな事を言って、屈託なく笑う。カゼスは目をしばたたかせ、それからこの地の気候に思い当たって、ああ、とうなずいた。
「私の住んでいた所では、ここよりもずっと雨が多かったものですから、雨が続くと鬱陶しくて、青空の方がよほど好きになりますけどね」
もっとも、真夏を除けば、ではあるが。エンリルは興味深げな目をカゼスに向けた。
「鬱陶しいか? 雨が降ると、情緒があって良いだろう。何もかもが優しく見える。まあ確かに、ここ数日のようにあまり続くと飽きもするだろうが」
照りつける太陽と乾いた大地に挟まれていると、雨は安らぐのだろう。その心情は分からぬでもない。カゼスは微笑み、それからふと表情を翳らせた。
「その雨が、自然のものであれば、確かに心安らぐ情景でしょうが……」
「なに? どういう意味だ」
「天候を操られていたらしいんです。イシルが教えてくれました」
カゼスの答えに、エンリルの表情がこわばった。誰に、とは、訊くまでもない。しばし不快げに眉を寄せ、エンリルは唸った。
「ダスターンが気掛かりだな。無事だと良いが……」
「まさかこんな事までしてくるとは思いませんでした」
カゼスもため息をつく。列車や空間転送機のある時代ではないのだ、雨が降れば旅の道行きが難渋するのはどうしようもない。
「もし……カッシュでダスターンと合流できなければ、王都に戻るのは考えた方が良いだろうな。みすみす罠に踏み込むことになる」
エンリルは言って、軽く頭を振った。そうなって欲しくはないが、と言うように。
雨が上がると、ダスターンは駅伝を利用し、眠る間も惜しんで王都に駆け戻った。街の門をくぐり、ふと、門番の視線を感じて振り返る。だが、気に掛けている暇はない。少年はまた馬に軽く鞭を当て、一気に王宮へと進んだ。
城門の衛兵が槍を構えて誰何する。もどかしげにダスターンは手綱を引き締め、立ち止まると声を大にして告げた。
「王太子エンリル殿下の遣いである! 陛下に書状を預かって来た、通されよ!」
衛兵は目配せを交わし、槍を下げて道を空ける。その態度を不審には思ったものの、ダスターンはともかく国王に会わねばと先を急いだ。
廐番に馬を引き渡して本宮を謁見の間へと歩いていると、行く手に男が一人、待ち受けていた。ちょうど通廊の角、人目に触れにくい場所にある柱にもたれて。
男は長身・隻眼で、口髭と顎髭をたくわえている。髪も衣服も黒一色。すぐに誰かと判り、ダスターンは嫌悪の表情になった。
「ゾピュロス殿、かような場所で何をしておいでですか」
無視することも出来ないが、さりとて友好的な挨拶をしたい相手でもないので、ダスターンはムッとした顔でそう言った。呼ばれた相手は格別の感情を見せず、低い声でごく淡々と応じる。
「殿下の遣いで来たのならば、今は陛下にお目通り願わぬが得策かと思うがな」
「貴殿に指図されるいわれはない、一刻を争うのだ!」
憤然と言い返し、ダスターンは衛兵に来意を告げて聖紫色のカーテンをくぐった。
が、一歩入った途端、彼は先刻の言葉が厭味でも策略でもなく、真に忠告だったのだと悟った。もっとも、聞き入れられる筈がないと先刻承知の場合、忠告になるか厭味になるかは微妙なところだが……。
ともあれ、ダスターンは室内の顔触れに愕然と立ち尽くした。国王の両脇をかためる兵士たち、振り向いて薄笑いを浮かべた顧問官、そして、
「シャフラー総督……なぜ、ここに」
ダスターンは口の中でうめく。顧問官マティスはそれを眺め、冷笑した。
「驚いたようだな。殺した筈の者に生きておられては、さだめし狼狽するであろうよ。しかもそれが、そなたの主にとって良からぬ証人とあらば」
「馬鹿なことを! 陛下、どうぞ殿下からの書状をご覧になってください。どのような毒の言葉を彼らがお耳にささやこうとも、殿下の忠心に疑いはございませぬ!」
叫ぶように言って、ダスターンは書状を差し出した。
オローセス王は軽く眉を寄せて、何事か考えているようだった。片手で眉間から額を押さえ、憂鬱げに書状を寄越すよう手招きする。ダスターンがその手に書状を渡すと、オローセスは物憂い手つきでそれを広げ、果たして本当に読んでいるのかと疑いたくなるような表情で、視線を走らせた。
そして、口を開きかけ……何を言おうとしたのか、ふとそのまま、動きを止める。ダスターンが不審に思って眉を寄せたと同時に、オローセスは小さくうめいて机に突っ伏してしまった。
「陛下!?」
ダスターンはぎょっとして立ち上がり、駆け寄ろうとする。だが、衛兵の槍が彼の行く手を阻んだ。
「何をする!」
喚く少年を尻目にマティスがオローセスに近寄り、その頭が下敷きにしている書状を引っ張り出して一瞥した。
「やはり、邪まな術をかけておったか」
その言葉を耳にしてやっと、ダスターンは相手のもくろみに気付いた。
「何を馬鹿な! 殿下は貴様と違って怪しげな術など操られぬ、言いがかりも甚だしい!」
「そなたが気付かぬと知っての所業であろうよ。現に総督府は王太子の操る魔物に荒らされ、危うくシャフラー総督は命を奪われるところであった。何も知らぬとは言わせぬぞ」
マティスは言い、酷薄な笑みを浮かべた。
「既に陛下のお許しは頂いてある。衛兵! この者を捕らえよ!」
僅かに息を呑む間もなく、ダスターンは衛兵にぐるりを取り囲まれ、槍の穂先を突き付けられていた。
ダスターンの取った行動は、反射的なものだった。腰の短剣を抜き、槍を払いのけ、人の壁を破って走りだす。兵の幾人かが槍を投げたが、牽制であるため、ダスターンの身体に傷をつけることはなかった。
背後で騒ぎが広がるのを無視し、ダスターンは廐へ一直線に走った。
が、当然のごとく廐には見張りの兵が立てられている。
(くそ、どうする……)
逃げ場を探してきょろきょろし、彼はぎくりと身をこわばらせた。ゾピュロスがいる。罠の口が閉まる音が聞こえたように思った。が、
「こっちだ。来い」
ゾピュロスの言葉は意外なものだった。ためらっている暇はない。ダスターンは導かれるままに走りだす。
じきに二人は人目を避けて、港へ通じる裏手の門にたどり着いた。そこにいる筈の番人はおらず、イスハーク侍医が代わりに立っていた。
「イスハーク殿……! なぜ、あなたが」
「なに、こうなりそうな雰囲気があったでな。番人にはちょっとばかり金を握らせておいたわい。ゾピュロス卿が船を用意して下さったゆえ、それでカッシュまで行くが良かろうて。小さい船じゃから、見咎められることもあるまい」
事態を把握しているのかいないのか、イスハークは呑気な顔でそう言った。その言葉の内容に、ダスターンは驚いて隻眼の万騎長を振り返る。ゾピュロスは無表情のまま、淡々と応じた。
「勘違いはするな。王太子に与するつもりはない。が……顧問官も気に食わぬ。それだけだ。早く行け」
冷ややかなまなざしに、深い疑念をまじえたそれがぶつかる。ダスターンは大きな目で相手を睨みつけたが、すぐにパッと身を翻して駆けだした。門を抜けて港へと消える背中を見送り、ゾピュロスは小さく鼻を鳴らした。
「礼の一言もなし、か」
「卿は殿下の心証が悪うござりますからなぁ」
可笑しそうにイスハークが言う。くっくっと堪えきれず笑いをこぼした老人を見下ろし、ゾピュロスは肩を竦めた。
「長居は無用だ。戻るぞ、イスハーク殿」
「左様、爺いが二人で何をしておったかと疑われるは御免こうむりとうござるな」
白くなった眉を片方吊り上げ、イスハークはおどけた顔を見せてから、一人さっさと王宮の中へと戻って行く。まだ三十路を越えたばかりのゾピュロスは、老医師の背を見送ってしばしその場に残り、顔をしかめたのだった。
ダスターンを乗せた船がティリス湾の縁を滑るようにカッシュへ急いでいる頃、マティスは隠し部屋で苛々と『目』を動かしていた。空中に投影された風景が、ケルカ川の穏やかな流れを追っている。
だが、肝心の青髪の魔術師の姿は見えなかった。
(王太子の一行が無事だったということは、あの時、あれだけの力を受けていながら……あの魔術師が力を操って被害をくい止めたという事だわ。その当人の姿が見付けられないなんて、どういう事なの? 死んだ筈よ、いくらなんでも)
にも関らず、気象制御装置の作用が打ち消された、と言うことは……
(生きていると言うの? あの魔術師。それとも、まさか)
もうひとつの可能性に思い当たり、マティスは顔をしかめた。
『目』を放置したまま、彼女は転移陣に立つ。光の壁が陣の外周を巡り終えると、彼女は高地の王都エデッサの城に立っていた。
ちょうど、部屋の主が電磁ロックを解いて入って来たところだった。
部屋の隅に腕組みして立っているマティスを認め、カイロンはほんの僅かに驚いた表情を見せた。
「何かあったのか」
「それは私が訊きたいわ。何かしたんじゃないの? カイロン」
「何を、だ?」
カイロンは不審げに眉を寄せ、簡易医療キットの操作を始める。何やら薬を合成しているらしい。
それを横目で一瞥し、マティスはフンと鼻を鳴らした。それから室内に所狭しと並べられている機器を見回す。
「この中に怪しい物がまじっていたって、魔術師の私には分からないものね」
彼女の皮肉にも、カイロンは反応を見せなかった。本題以外の瑣末な言葉にかかずらっては時間の無駄だ、とでも言うかのように。
マティスは聞こえよがしのため息をつき、組んでいた腕をほどいて言った。
「気象制御装置を妨害するぐらい、あなたにはお手の物でしょうけどね。二、三日前にそんな物を作ったりした覚えはある?」
「ないな」
医療キットが吐き出した小さな薬の包みを手に取り、カイロンはあっさりと答えた。それから相変わらず平静に振り返り、問う。
「あの装置が妨害されたとすれば、惑星規模での変化が波及したか……そうでなければ強力な魔術だろう。王太子の力がおまえの予想以上に強いのではないのか?」
「皇族の能力? まさか。あの王太子はほとんど自分の能力を意識していないわ。父親だってキューブの催眠暗示にかかる程度の奴よ。あなたじゃなければ、やっぱりあの魔術師が生きているのか……」
嘲笑しておいてから、マティスはまた己の思索に埋没する。カイロンは興味なさげに医療キットのスイッチを切り、相手を見もせずに出口に向かう。
「用がそれだけなら、私は行くぞ」
その無関心な態度に、マティスはカッとなった。
「それだけ、って……あなた、耳が遠くなったの? 私は、魔術師、と言ったのよ。私たち以外の魔術師の存在を口にしたのに、『それだけなら行くぞ』?」
「いてもおかしくはあるまい。この国にもかつてはそう呼ばれた者がいたという話だ。圧制の下で根絶やしにされたかに見える何かが、年月を経て再び姿を見せるのはよくある現象だろう」
「それが青い髪の人間でも?」
さすがにこれには、カイロンも足を止めて振り返った。
「……どういう事だ?」
「さあ。総督は『ラウシール様』だとか言ってたけど、何者かは分からないわ。とにかく相当な魔術の使い手なのは確かね。街ごと破壊するほどの力をぶつけたのに、それを調整してしまったようだから」
言葉の内容に、カイロンはかすかに眉をひそめた。それは、何者とも知れぬ魔術師の事を考えてではなく、マティスのとった行動に対して、であったが。
「私たちの味方でない事だけは分かっているけど、そもそも人間かどうかも分からない、まったく予想外の代物よ。厄介な事になりそうね」
「……………」
カイロンは沈黙し、手の中で薬の包みを転がした。
(一体何者だ? 我らの知らぬこの地の何かが働いているのだろうか……?)
「分かった。私の方でも手掛かりを探してみよう」
短く言って、カイロンは部屋を出て行く。閉ざされた扉を睨み、マティスは険しい表情で立ち尽くしていた。
「裏切るなよ」
小さく、口の中でつぶやく。
我らの神に仇なす者に、災いあれ――
それがたとえ同じシザエル人であろうとも、戦う意志をなくした者に、救いはない。ザールの神を裏切る者など、シザエル人ではない。
(私の邪魔をするなよ)
もう一度、消えた後ろ姿に向かって、胸の内でささやく。
権力の味を知ったマティスにとって、カイロンは目障りな邪魔者に映った。自分に屈することもなく、協力する姿勢すら積極的には見えず、あまつさえ反抗的にも……。
(妨げとなるならば、容赦はしない)
転移陣に入り、彼女は妄想の中でカイロンの首を斬り落とす。いつしか彼女は、神の後ろ盾を得て民衆の上に立ち、彼らに進むべき道を示している己の姿を思い描いていた。