第60話 音色と残響
スキー合宿でウザイコーチと格闘→二度と行きたくない。
スキーが嫌いになりました。
ゾクリと、強張った背筋が震えた。
「……ッ!?」
恐怖のあまり飛び起きて無意識で左右を見渡し、そして初めて自分の部屋に居るという事実に思い至る。……ああそうだ、父さんはとうに死んだじゃないか……
「あー……随分久しぶりにこの夢見た……」
何をやっているんだ、と自分を諌めるつもりで呟いた声すらも震えていて思わず苦笑を漏らす。
父さんが死んだ日の事も矢張り忘れられない。僕の記憶力はフラッシュバックで細かいところまで思い出すように鮮明だ。雪に塗れてはしゃいでた姿も、僕を守ろうとしていた姿も、死に際のよく分からない台詞も、皆一言一句、一挙一動違わず覚えている。
……こうして虚勢を張っていない時には叫びだしたくなる程に。
「さっむ……」
どうやらソラが冷房をつけたままにしてくれたらしい。微弱でまだ暑いと思える程の微風でも今の汗でべっとりと背にくっついたシャツはあっという間に冷える。前髪も張り付いているし、一番鬱陶しいのはつけたままだった眼帯だ。
「父さん……黒の眼帯は夏にはキツイよ……」
父さんが死んだ後にエンスから渡されたこれは、実は僕へのクリスマスプレゼントだったらしい。この目が有る為あまり町には出れなかった僕の為に用意されていた、特注品の代物。弱いが守護の術が込められているらしいし、最期の贈り物だ、これを使わなくなる事はそうそうないだろう。
が、暑い。熱を吸収する黒は絶対夏には向いていない。
暑さを通り越して寒いとさえ感じる為、僕はベッドを降りてフラフラとシャワー室に移動……しようとして、水しか出ない事を思い出す。……今水のシャワーは、嫌だな。
「…………今なら、人もいないかな」
昨日までは熱もあったし行かなくてもお湯さえ用意すればどうにかなったけれど、熱も下がったっぽい今風呂に入らないのはどうかと思う。戦争などの緊急時なら兎も角、普通の生活を送ってる以上は人並みに生活したいと思うし。
時計を見れば11時過ぎ。こんな微妙な時間に大浴場使ってる人も居ないだろう。そう思って僕はクルリと踵を返し着替えを袋に詰める作業に入った。寝間着で寮を出歩くのも微妙だが、これから風呂に入ろうとするのに着替えるのも馬鹿らしい。
「この寮、地味に古いし近いうちに改装とか入んないよなぁ?」
個人部屋のシャワー室を使えなくする程の老朽化だ。実は結構ボロくて色々限界が近そうな気もする。部屋が使えなくなるとかは止めてほしい。仕事を共有スペースでなんて出来ないし。
つらつらとそんな取り留めの無い事を考えて、僕は珍しく書類が積み上がっていない部屋を後にした。
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案の定人の居ない大浴場は、想像以上に広かった。
「まぁ、中等部生の大半が入れる事前提だもんなぁ……」
いつもは幻覚で短く見せているものの、風呂に入る時ばかりは解かなければいけないクソ長い長髪を纏め上げ、プール位あるんじゃないかと思える湯を独占する。水を吸った髪が重い。本気で切りたい。……リトスとかは切った瞬間に燃やす事でどうにかしてるらしいし、僕もそうしようかな……
「こんなにどうでもいい事考える時間あるなんて、いつ以来だろ……」
「お前枯れてんな」
唐突に響いたくぐもった声にビクリと肩を揺らす。バッと後ろを振り返れば、何故かメイとソルトがドアの向こうに居た―――頭に落ち葉つけた状態で。
「は!?て、いやそうじゃない。なんでこんな時間に……」
「いや、まずお前の髪の長さがどうした!?」
おっと、ソルトは知らなかったな。まるで女の子のような長さの髪を後ろで団子状に括っているのだ、これがヅラだなんて思う訳がないだろうし、これはちゃんと説明した方が良さそうだ。
「隊長の魔力悪用されちゃたまらないから仕方なく伸ばしてるんだよ。普段幻覚で隠してるけどねー」
そう言えば聡いソルトはああ、と思いついてくれたらしい。髪は魔術の媒体としてとても優秀なものだという事を。―――五寸釘や藁人形とセットにされる位には、魔力の透過率が良いんだよ……
「で、君たちは一体何がどうなって泥と葉にまみれる羽目になったの?」
「……ソルトが訓練付き合えって言い出したから森で色々やってた、んだけどな」
「……槍が木に引っ掛かってすったもんだの結果二人とも木から墜落した……」
……それは、まぁ。ソルト、運動神経は悪く無いけど基礎が出来てないから動きハチャメチャだもんなぁ。御愁傷様です、ととばっちりに合ったメイに合掌している間に二人はさっさと汚れを落として湯船に飛び込んでくる。コラ、水飛んだぞ。
「ホント酷い目に合った……と、そうだ。リーンはもう体平気なのか?」
「お陰様で悪夢に魘されて飛び起きたら熱も下がってました。パジャマ姿で廊下うろついてたら女子に笑われた……」
「お前だから笑われるレベルで済んでたんだろうな。オレがそれやったらからかわれてる」
魘された、という所にメイが顔を顰めてきた。全く、僕の周りにはどうしてこうも過保護が多いんだ。別に悪夢程度で人は死なないぞ。一方のソルトは敢えての無視に決めたらしい。うん、こっちはこっちで気を使ってくれているようだ。
「あと気になる事がもう一つ。お前のその傷、何?」
ソルトが指差して来るのは僕の身体中に刻まれた傷跡。さり気なく訊いてくる所は、まぁ皆似たような被害にあっている所為でこの程度じゃ驚きに値しない、という事の表れだろう。腐った時代の被害者は幾らでも居る。
「ああこれ?食糧配給の時に貴族だってバレて斬られちゃった。背中とか酷いよー」
ぺったりと壁につけていた背を起こしてクルリと回転する。あんまり見せて気持ちのいいものじゃ無いけど、ここまできて隠す気も無い。
「って、斬られちゃった、じゃねえよなこの傷!?どっから見ても重傷だぞ!?」
「ひでーな。6歳でこの傷のサイズだと、右肩から左脇腹までバッサリいっただろ」
顔を顰めて冷静に指摘するメイの言う通り、革命の時の僕の身長では見事なまでに袈裟切りされてしまっていた。醜い斜の傷は今でこそ少し小さく見えるが、昔は見事にやられた物だ。
「まーね。治癒じゃ治んなくて縫う羽目になったし」
「この時代に縫うって……よく生きてたなぁ」
「え、死んだよ?」
え?とお互いに首を傾げてそれから絶叫。煩いなぁ。
「煩いなぁ、じゃねえ!!死んだって幽霊か!?お前幽霊なのか!?俺実は幽霊見えんのか!?」
む、幽霊とは失礼な。一応心臓今も動いてるぞ。あ、でもその括りで言うとソラが……あ、いや何でもない。
「生きてるよ。ただ6回心臓止まっただけで」
「ちょっと待て」
え、何かおかしな事言った?
「回数がどう考えてもおかしいだろ!!何でお前そんなに死んでんだ!?」
「任務とか魔力関係とかで結構衰弱してるからねー」
「陛下……マジでそんなにリーン扱き使ってたのか……」
いや、エンスもそれなりにだけど、一番対応が酷いのは師匠だ。
泣こうが喚こうが(いや、それが出来てたのは父さんが死ぬまでなんだけど)全く人の話を聞かず、訳の分からない修行とも呼べない代物に付き合わされた。かと思えば突然行方不明になって捜索しに行くのは僕の仕事。発信機を付けておいても変な移動の仕方をしている所為でか(風属性だったから飛んで元の場所に戻ろうとした挙句に逆に空の上で迷ってたらしい)辿りつけばもういないという有様で、そりゃもう僕が休む時間なんてなかった。
「メイ、エ―――陛下なんか目じゃないんだよ…………」
ふふふふふ、と思わず笑い出して湯船に沈む。ぶくぶくと音を立てて軽く現実逃避だ。
「お、おう?そうなのか?」
そうは言うもののそれ以上訊いてはいけないと本能的に悟ったのかそれ以上は口出しして来なかった。ソルトも不思議そうに首を傾げるだけで終わる。
「だって原因ほぼ全部師匠だもん。あの笑って地獄の最下層に突き落とした挙句骨はちゃんと拾って保存してあげますよって言い出す師匠だもん。ホントに自分のテリトリーに誰かの目玉とか内臓とか脳とかのホルマリン漬け飾って満足そうにしてる師匠だもん。陛下みたいに民草万歳豚樽貴族は国民様に血税還せって考えないから誰にでも容赦という文字すら存在してない師匠だもん」
「「……………………え?」」
二人の疑問符はポチャンと跳ねた水音に消えていった。
◆ ◆ ◆
「コレとコレ、あとコレ」
バサバサっと目の前に置かれた書類たちにエンスは目を剥いた。いや、書類に、ではない。父、シトロンが亡くなってから一月部屋に引き篭もり続けていたリーンが目の前に居る事に、だ。ウィンザーの別邸で過ごしていたという事は勿論把握していたが、シトロンが襲われた件についての処理や調査が未だ終わらず殆ど様子を見に行けなかったリーンの無表情さに、何か危うい物を感じる。
「り、リーン?大丈夫なのか?」
「それよりその書類。ふびある?」
全く持ってこちらの話を聞いてくれない様子に冷や汗が止まらない。ごっそり子供の部分が欠落してしまったような対応に嫌な予感がし続けているが、取り敢えず従っておこうと目の前に置かれた分厚い書類に目を通し―――驚愕のあまりガタン!と大きな音を立てて立ち上がった。
「な……おいリーン!?」
「‘魔導大全’と‘名前と加護の繋がり’、‘反共鳴の法則’を元にした報告書。犯人はおそらくユグドラシルきゅうしんはの中でもかげきはの人達。父さん殺して居なくなったのは僕をぼうそうさせてきょうせいてきにイケニエとしてささげるため。精神が不安定になったり死にそうになるとユグドラシルってさっさとぎしきに上げられちゃうんでしょ?」
書類に書かれている事もリーンが今口に出した事も全て今まで城の情報収集科が調べ上げた事と同じ、いやそれどころか微妙にそれよりも詳しい詳細が入っている。この二つでリーンがこの一月何をしていたのかが嫌という程理解出来た。
「今まで、ずっとこれを調べて……?」
「僕が何にも知らなかったから父さんは殺されたんでしょ?なら子供でいたらもっと人にめいわくかかるよね」
窓から差し込む光に照らされた顔色はあまり良くない。無理をしている、というのが一目瞭然だ。それなのに今この子は自分から子供で居るのを止めると宣言した。―――これは、危うい所ではなさそうだ。
「……リーン、あまり生き急ぐなよ」
「じゃあ僕が今まで通りで皆大丈夫なの?王様が僕をりようしようとしてるんでしょ?僕の事守るのだって楽じゃないんでしょ?……僕のりようかち、高いんでしょ?」
全てを悟ってしまったような蒼い目が唯々無気力さのみを湛えている。全てを諦めたような態度が全身から滲み出る。それなのに、どこか覚悟を感じさせる口調がエンスの中に響いた。乾いた口を潤そうと唾を飲み込もうとし、しかしそこで根本的にカラカラになっている事に気付く。
どうして、リーンはこんなにも冷めてしまったのだろうか。たった一月という時間が異常な程長く感じられる。人が豹変するのには時間なんて必要無いという事の表れなのか。これまで感じた事の無い緊張感がエンスを包んだところで、リーンは突然思い出したように声を上げた。
「ああ、あともう一つ。今まで誰にも言って無かったんだけどね」
右目、父さんが死んでから見えないんだ。
ヒュッ、と喉が引き攣った音を立てた。言われた事を理解出来なくて数度瞬きを繰り返す。余りにも唐突過ぎる告白にショックが大きくてエンスには何をどうすれば良いかが分からない。ただ信じたくなくて、冷えた指先を無意識で暖めようと拳を握りしめる。
「リー、ン。それは、どういう……」
「わかんない。父さんが埋葬された次の日の朝かな?起きたら右だけ見えなかった。まぁちょっときょりかんつかめなくて一週間位大変だったけど、皆ショックだったんだろうっていう一言でまとめてくれてたみたいだったから、ほっといてたの」
普通なら両目とも失うと思うんだけどな?とどこか他人事のように話すリーンに遂にエンスは耐え切れなくなった。リーンの前に駆け寄り、自分の胸程までしかない小さな体を抱き締める。しかしそれに対しリーンは無感動にエンスを抱き締め返す。嫌そうにするでもない、嬉しそうにするでもなくまるで作業のような手の回し方だ。
「何、兄様?僕が決めた事なんだよ。別に兄様が泣きそうになる意味ないでしょ?」
「…………そういう問題じゃないぞ」
「じゃあ何で?」
本当に分かっていない様子のリーンに泣きたくなる。こんな簡単な事が分からない程の子供を無理に大人の世界へと踏み入れさせてしまった自分たちに怒りが止まらない。
―――こんなにもシトロンの死が響く物なのか。愕然と受け入れたくない現実に襲われる事しか出来ない。
だからこそエンスは脳内をフル回転させて、いま一番望みのある賭けに手を出した。ゆっくりと顔を上げ、碧の瞳を蒼くぼんやりとした双眸へしっかりと合わせる。
「大人に、リーンが本当の大人になったら分かるから。だから―――」
私に、分かったら正解かどうか訊いてくれないか?
最早望みは未来にしかない。子供で在る事を止めた子供が、大人に成りきれていない子供が真に自分が人に与える影響を理解するのを待つしかないのだと悟ってしまう。だからこそ、自分という存在を御しきれていないリーンが、いつか本当に心を預けられる誰かを味方にするまでは、この悲しい現実に耐えなければと奥歯を噛み締めた。遣る瀬無さが身に染みる。
それに対しよく分かっていない様子のリーンは、それでも何かを感じてくれたのかコクンと小さく頷く。それが少しだけ幼さを感じさせる動きで、少しだけホッとした。
「ありがとう、リーン……ああ、そうだ。それと遅くなって済まないな。……シトロンさんから、預かっていた物があるんだ」
その言葉にパチクリと目を瞬いたリーンは期待に満ちたような、泣きたいような顔で立ち上がったエンスを見つめた。矢張り父親の力は偉大なようだ。安堵と共に思い出した預かり物にエンスは抱き締めていた身体から手を離して立ち上がった。
「父さんから……」
「ああ。……今のリーンには、丁度良いかもな。少し遅めのクリスマスプレゼントだ」
机の引き出しを開けて綺麗に包装された箱を取り出す。リーンの好きな緑を基調とした箱には丁寧な文字で『フォーへ』と書かれていた。それにごく僅かだが、瞳が潤んだような気がした。
「開けてみろ」
差し出されたそれをそろりと取って、ゆっくりとリーンが紐を解く。丁寧に包装紙を剥がし箱を開けるとその中にはもう一つ箱。
「……マトリョーシカ?」
「違う違う。その箱もプレゼントだよ」
期待に満ちた視線が一転。何コレ、と言わんばかりに嫌そうに顰められた顔に漸く笑えたエンスが苦笑してほら、と木製で細工の凝らされた箱の蓋を開ける。すると。
「音……」
「オルゴールって言うんだよ。まぁ正直言って、私も知らない曲なんだけどな」
開けた瞬間部屋に響く優しい音色にリーンが目を丸くする。魔力も込められているらしく鳴るたびに淡い光を出す中心の水晶と、その水晶を囲うように入れられた黒い布にリーンは手を伸ばす。黒い布を取り上げると、何やら良く分からない形をしていた。
「……ボロ布?」
「ぶはっ!だから違うって、眼帯だぞ、リーンが外に出ても目立たないようにな」
「ふぇ?」
訳が分からない、と眉を顰めたこの弟に忍び笑いをしながらエンスはするりとその手から眼帯を抜き取る。サイズの決められていないそれはいつまでも使えるようにという考えなのだろう。
器用にリーンの右目を隠して後頭部で留め、薄く微笑んで鏡を渡してやる。目元に突然の違和感を覚えたリーンは少し嫌そうだ。
「……これで、ユグドラシルでも外歩けるの?」
「ああ、ただ本当に信頼出来る人以外に右目を見せてはいけないよ」
「わかった」
捻くれてしまったのに素直な返答。ホッと息をついてエンスは再び立ち上がった。今まで裁いていた書類は少し放置だ。
「……じゃあ、久しぶりにコウ達に会いに行こうか。リーンが調べてくれた書類も検討しなければな」
きっと、彼らもこんな風にしてしまったと心の奥底で嘆くのだろうけど。そう思ったがそれは口に出さず、今まで通りにリーンを抱き上げてエンスは明るい部屋を出て行った。
部屋にリーンが仕掛けた盗聴魔術に気付かずに。
チビリーンは幼いながらに使える物は何でも使うという精神を覚えてしまっています。
何気懐きまくってたお父さんの敵討ちの為なら兄だろうが容赦なし。