蓮の花
その人は時効を迎えた人なのか、はたまた犯罪歴を捏造している人なのか。
針が夜十二時を打った。
「今後一年は外出するとき黒いズボンを履いて。」
おばあさんは壁の時計をじっと見据えたまま斎藤にそう指示し、ビニール袋から新品の黒いズボンを取り出す。しかし斎藤の耳には届かない。なぜなら、彼自身の唸り声でかき消されてしまっていたからである。逮捕される恐怖に怯える毎日が今終わった。殺人罪の時効がたった今成立したのである。彼はその場で崩れ落ち仰向けに寝っ転がった。何も考えられなかった。口からは唸り声しか出なかった。
ここは街の喧騒から遠く離れたコテージで、時効間近を迎えた者が一人ずつ秘密裏に集められる。彼はまだ仰向けに寝っ転がったままだ。どれくらいの時間が経過しただろう。窓の外が少しづつ明るくなってきた。脚の冷たさを感じはじめ正気を取り戻す。先ほど時効成立を待っているあいだに、いつの間にか失禁してしまっていたようである。少し痛む頭を動かし辺りを見回す。おばあさんはすでにいない。横に茶色い封筒が置いてある。まだ震える手で破り開ける。中身は役所が出した文書のようだ。真ん中にこう書かれている。
××年〇月△日午前0時迄居住地より離れる場合の服装については黒色のズボンとする
彼は濡れたデニムを脱ぎ捨て、おばあさんが置いていったズボンに履き替えた。何かに突き動かされるようにコテージから外に出たが頭は思いのほか冷静で、まずは濡れたボクサーパンツを家で洗濯しなくてはと思った。
洗濯機をまわしながら考えていたのはこれから何をしようということだった。人目をはばからずにどこへだって行ける。久しぶりに未来のことを考えている自分に気づき、唐突に嬉しくなる。罪を犯してからは未来や希望などという概念は消えてしまった。人目につかないように今を積み重ねてきた。最初のうちは警察の捜査が自分に近づいてきていないか確かめるためニュースや新聞をくまなくチェックしていたが、やがて捜査が迷宮入りしたことが判ると情報を追いかけるのをやめた。その後は一切の情報を遮断して隠居のような生活を送っていた。日雇いのバイトを点々とし生活費を稼いでいた。自分を生ける屍に仕立て上げ心身を保っていた。
自由を得た斎藤は情報を集め今の状況を理解しはじめる。巷では黒いズボンの人が注目の的になっていた。人々は興味深々に「あの人は何をしたの」と遠巻きにささやく。そして、また一方では黒いズボンは罰を免れた英雄の象徴として価値を持った。そのような状況下で当然の帰結として、承認欲求に飢えた者は何も罪を犯していないのに黒いズボンを履いた。本当に罪を犯し時効までバレずに乗り切った者なのか否かを見分けるスキル、いわば黒ズボンの真偽を見分ける力は、重要な生活スキルとなっていた。『罪と信』という小説が賞を取り、「ブラックライヤー」という曲が流行し、『決定版・白いズボンの履きこなし方』という実用書が売れ、「ほんとうにやったんだ」というドラマが大ヒットした。
斎藤も御多分に漏れず、事あるごとに自分の犯した罪の詳細を語り悦に浸っていた。ずっと身を潜めて生きてこざるをえなかった者にとって、こんなに気持ちのいいことはない。フォーマルの服が白色という社会のなかで、斎藤は堂々と黒いズボンを履き出社していた。多くの企業では黒ズボン方専用の規約が新たに追加されていた。
七月初旬の朝、斎藤は上野駅にいた。突然初老の紳士が斎藤に話しかけてきた。
「すみません、道を教えていただけますか」
黒いズボンを履いている。
「不忍池はどこでしょうか、蓮の花を撮りたくて」
斎藤は警戒した。まわりには他にもたくさんの人がいるのにも関わらず、あえて彼を選んで話しかけてきた理由はただ一つ、斎藤も黒いズボンを履いているからだろう。そうとしか考えられなかった。斎藤は掠れた声で「はい」と反射的に言ってしまったものの、そのあと言葉に詰まり動けない。紳士はその様子を見て笑ったあと、おもむろに真顔になり口元を斎藤の耳に近づけささやく。
「だいじょうぶです。あなたを池に沈めたりしませんから。」
その瞬間、斎藤は確信した。紳士は元犯罪者を装っているだけの者、通称「偽黒」であると。その理由は二つあり、一つは彼が発しているアルコール臭、もう一つは発言内容の軽薄さである。時効を迎えた「真黒」は、そのような重要なことを酒に酔ったからといって簡単に口にしない。むしろ、酔った時ほど自分自身をコントロール下に置くように一層気を引き締める。素性を明かさない哀しい癖の賜物だ。
「一緒にいきましょう。時間あるので……。」
斎藤の上野近辺の土地勘がそう言わせた。まだ何も起こっていない平穏な頃、当時付き合っていた彼女と不忍池周辺を散歩していたのである。
「悪いね~。すっかり迷ってしまって。助かります。なんかすみませんねぇ。」
「初めていらっしゃったのですか。」
「動物園には昔来たことがあるんだけど、いや広いね。神奈川から来たんだ。すっかりお上りさんで。」
話すうちに次のようなことがわかった。紳士は写真を趣味していること、昨夜は遠方から来た友人と遅くまで上野で呑んだこと、一人ホテルに泊まり翌朝有名な不忍池を写真におさめてから帰ろうと計画していたこと。そして一番重要な、朝の時間帯が蓮の花が一番きれいなこと。
一面に広がる緑色が見えてきた。池は大きな葉のあつまりで埋め尽くされ、そのなかに淡いピンク色がところどころに浮かぶ。ひとつひとつの花弁が、白から桃色のグラデーションになっており美しい。斎藤は今の今まで目の前にある光景を忘れていた。紳士はリュックから一眼レフのカメラを取り出しながら構図を決めかねていた。
「あまり咲いてないな。ほら、今年は春の雨が少なかったから。」
斎藤はふいに彼女の横顔を思い出し涙があふれそうになった、こんな「偽黒」の前で女を想って泣くなんて嘘だ。手のひらに爪を食い込ませ泣くまい泣くまいとした。泣く姿を見られたくなかった。しかし嗚咽をとめることができない。会いたい。今すぐ彼女に会いたい。しかし彼女はもうこの世にいない。彼自身の手で殺めてしまったのだ。最後にふたりで散歩したとき、斎藤が欄干に並ぶ白い鳥たちを見ているあいだ、彼女は蓮の花に見とれていた。
紳士は写真を撮り終え、斎藤を神奈川の自宅に誘った。ふたりきり部屋で冷たい水を飲みしばらく押し黙る。そして紳士は、なぜ黒いズボンを履いているのかについて語り始めた。
彼は教授を生業にしているときに一度目の犯罪の時効を迎え黒ズボンを手に入れた。そのとき師匠に懺悔しに行った。なぜ罪を犯した直後に懺悔しなかったのかといえば、そのころ彼は家庭を持っており失うのを恐れたからである。彼は師匠に黒ズボンを見せつけながら言った。
「信じてください。本当に僕は人を殺しました。信じてくれないのですか?」
「信じてない。君が人を殺せるわけないでしょう。僕になんて言ってほしいのか。慰めてほしいのか。怒ってほしいのか。」
二人はお互いに相手に対する侮辱を感じた。
「どうしても信じていただけないというのなら、証拠を御覧に入れましょうか」
「見せれるもんなら見せてみろ。」
その演技じみた挑発を聞き紳士は思わず師匠を思いっきり殴ってしまった。倒れこんだ頭部にちょうど棚の角があり、打ちどころが悪く師匠はそのまま亡くなった。紳士は逮捕された。
紳士はそこで話を中断し、グラスの水を飲み干した。
「僕は「本当にやったんだ」と振れまわる後輩「真黒」が僕のように狂気に飲み込まれる前に救い出したくて、この活動をしているんです。」
「啓蒙活動、というところでしょうか。」
「ふ、そうかもしれない。」
「でもなぜ今でも黒いズボンを?今回は時効を迎えたわけでないから僭越ながら履く資格は……。」
「どうしてだろうね。戒めとはちょっと違うかな。自分でもわからない。ただ、僕は君が猛烈に羨ましい。」
彼は自分の犯した罪を思い起こすのを恐れていた。しかしそれとは比べ物にならないくらい、師匠との懐かしい日々を忘れてしまうのを恐れていた。
斎藤は紳士の話を聞きながら、今自分がやらなければならないのは、犯罪歴や時効をまるで武勇伝のように吹聴することではなく、自分と向き合うことだと直観した。このところ他人の反応ばかりを気にしていた、。他人にとって悪のヒーローとなれば喜び、逆に信じてもらえなければむきになる。しかし、果たしてそれが何になろう。
濁っていてもいい、度切れ途切れでもいいからできるだけ鮮明にいろいろなことを思い起こしたかった。自分にとって大切なものは何だったか。譲れないものは何だったか。しかし同時に頭のどこかではいつか蓮の花を見ても何も感じなくなる日が来るとわかっていた。
紳士は斎藤を駅まで送り、ふたりは別れた。斎藤は揺れる電車のなかで今日あった出来事を思い起こしていた。外の景色がいつもと違って見えた。今までは自分の黒いズボンや周りの人ばかり見えていたが、今は違う。沿線から見える小さな商店街、川沿いを走るランナー、野球をする少年たち、そこには一人一人の大切な命があった。あたりまえのことなのにどうして気づかなかったのだろう。命を奪ってしまったことは確かに取り返しのつかないことだ。その取り返しのつかなさは今でも手の感触として残っている。しかし、そのことと自分の人生を今からどう創っていくかは別の問題であると思い至る。
あしたカメラのレンズを買ってみてもいい。紳士と連絡先を交換した際に古い型のカメラをくれたのだ。「写真始めてみなよ。レンズは自分で買って。」と言われたのだ。これを機に写真を始めてみよう。そして自分のレンズ見える風景を切り取ってみたい。
忘れろ、思い出せ、忘れろ、空想上の蓮の花びらを一枚ずつはがす。そして黒いズボンの上に薄いピンクの花弁を一枚一枚貼り付ける。思い出す、忘れる、思い出す。
「どっちでもいい。生きて。明日もいちにち生きて。」
おばあさんの声が遠くで聞こえた。
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